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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本人は、死を覚悟した武士ではなく死を恐怖する庶民(百姓や町人)の子孫である。
戦争神経症は、職業軍人である武士ではなく志願兵か強制徴兵された庶民に起きやすかった。
庶民である日本人には武士道や士道は無関係であり、武士・サムライの「死ぬ事と見つけたり」という精神主義を持っていなかったし、座禅的精神修業は無意味であり理解不能であった。
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NHK
【独自入手】太平洋戦争で精神疾患 元日本兵の追跡調査資料
2021年8月19日 19時06分
太平洋戦争などで精神疾患となった元日本兵100人余りについて、戦後、追跡調査した資料をNHKが独自に入手しました。資料には症状の原因となった戦場での過酷な体験や戦後も差別を受けた実態が記されています。
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NHK クローズアップ現代
2021年8月19日(木)
シリーズ 終わらない戦争② 封印された心の傷 “戦争神経症”兵士の追跡調査
先の大戦中、存在すら隠された精神疾患発症の日本兵たち。彼らはその後どう生きたのか。戦後、密かに行われていた追跡調査が初めて開示された。調査をしたのは目黒克己医師(当時30)。元兵士たちの症状や暮らしの追跡から見えてきたのは、病に苦しみ続け孤独に生きる者、困窮に喘ぐ者など壮絶な「戦後」だった。番組では、元兵士の遺族らを独自に取材。戦場の狂気は兵士の心をどう蝕み、人生をどう変えたのか。知らなかった家族の受け止めは。いまも終わらない「兵士たちの戦後史」に迫る。
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2021/08/19 NHK総合 【クローズアップ現代+】
シリーズ・終わらない戦争・封印された心の傷“戦争神経症”兵士の追跡調査
過酷な経験はどれほど人の心をむしばむのか。
歩行が困難になったり、激しいけいれんに襲われる日本兵の映像を紹介。
戦地でのストレスなどが原因で発症する戦争神経症と呼ばれた精神疾患。
日本陸軍はこうした精神疾患兵士のための専門施設国府台陸軍病院を設け、治療研究にあたった。
戦線拡大に伴い、患者は増加。
昭和20年までに入院した人だけでも1万を超えた。
実際の患者数ははるかに多いとみられているが、戦争神経症を皇軍の恥とした日本軍。
戦時中はその存在を否定しその結果、兵士たちの実態は戦後も長らく社会から見えないものになっていった。
兵士たちに戦地で何があったのか、戦後をどのように生きたのか。
ことし元兵士たちを追跡調査した極秘資料が初めて開示された。
精神科医・目黒克己は戦時中の精神疾患兵士のカルテをもとに書面や対面で104人の 追跡調査を実施。
調査の過程では戦場での残虐行為も浮かび上がってきた。
当時の上司からは一切、口外してはならないと命じられた。
開示された資料をもとに元兵士の遺族たちを取材。
見えてきたのは心をむしばまれたまま亡くなった元兵士たちの晩年の姿。
初めてその苦悩を知ることになった遺族たちの葛藤。
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YAHOO!JAPANニュース
「ワシは人殺しだ…」戦争体験者が流した涙、その理由とは
2020/8/31(月) 11:48配信
戦場に、敵はいなかった。そこにいたのは、人だった。第二次世界大戦を兵士として体験した男性が、思わずこぼしたある涙について、描いた漫画があります。Twitterにアップされたのは、1枚の作品。1700近くリツイートされるなど拡散し、「言葉にならない」などとコメントが寄せられています。【BuzzFeed Japan / 籏智 広太】
【写真】「戦争神経症」に関する元日本兵のカルテ
小さい頃、祖父の友人が酔っ払ったときのことだった。
「おったのは、人やったわ…」
この漫画を描いたのは、趣味で日常漫画を描き、Twitterにアップしているというこぐれさん(@kogure38)。このエピソードは小さい頃の記憶ですが、「たまたま祖父の写真を見て、思い出した」ことだったといいます。
祖父の小学校の先輩だったという友人。大正の終わりごろの生まれで、よく家に飲みに来ては、「ずっと噂話をしながら笑っているような人」でした。
そんな人が、思わず流した涙は、小さかったこぐれさんに強烈な印象を残しました。
「大人の男性があんな風に泣くのを当時初めてみたこともあり、鮮烈に残っている記憶です。戦争体験は祖父くらいの年になっても決して風化することがないんだなと思いました」
多くの日本兵が苦しんだ「戦時PTSD」
南太平洋の戦場を行進する日本軍(1942年1月撮影)
戦争が終わっても、長年にわたり、祖父の友人のなかに潜んでいた「人を殺してしまった」というトラウマーー。
こうした「戦時PTSD」(心的外傷後ストレス障害)に悩まされていた元兵士たちは少なくありません。
敗戦直後までに入退院した日本陸軍の兵士約2万9200人のうち、その半分にあたる約1万450人が、さまざまな精神疾患に苦しんだという研究結果もあるほどです。
原因には、敵だけではなく民間人、時には子どもを殺してしまったという加害の体験や、悲惨な戦場の記憶があるとみられています(当時のカルテによる)。
1964年に施行された戦傷病者特別援護法に基づく共同通信のまとめによると、最多の1978年度には、1107人の元日本軍関係者が精神疾患の治療をしていました。終戦から30年以上経っていたにも、かかわらず。
「忘れてはいけないこと」
漫画には「祖父は戦争の話を絶対にしなかった」とも記されています。
「祖父自身は戦争の話はしてくれませんでしたが、一度だけ現地で久々にお腹いっぱい食べた食事がとても美味しかった、というような話をしていました。どんな環境でもお腹が空くのが不思議だったというような話でした」
そのうえで、こぐれさんはこう語りました。
「私のように戦争を知らない世代は、実際に体験した人に比べてそれがどんなものなのかを実感することは難しい。でも、実際に涙を流していたあの人の記憶は、忘れてはいけないことのひとつだと思っています」
「あの一瞬以外にもどれだけのものを抱えてるんだろうと……本当に恐ろしいです。わたしはもう戦争を知らない世代ですが、二度とあんな涙を見たくないと思う反面、あんな涙を流した人がいることを忘れてはいけないと思いました」
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好書好日
「戦争とトラウマ」書評 傷病兵士の還送の難
評者: 保阪正康 / 朝⽇新聞掲載:2018年03月04日
アジア・太平洋戦争期に軍部の関心を集めた戦争神経症。恐怖を言語化することが憚られた社会で、患者はどのような処遇を受けたのか。様々な医療アーカイブズや医師への聞き取りから、…
戦争とトラウマ 不可視化された日本兵の戦争神経症 [著]中村江里
戦争神経症に対する研究は、現在も充分(じゅうぶん)に行われていない。戦後の精神医学界でも無視されたテーマであった。本書は、この分野にひそむ問題を整理し、戦争の悲劇は時空を超えて存在すると訴えている。
戦時下では「戦争神経症の存在は注意深く国民の目から隠されていた」。精神疾患による皇軍兵士の抗命や逃亡、命令拒否などが、伝染病の如(ごと)く軍内に広まるのを恐れていたためだ。精神疾患の兵は、差別され排除された。
本書はデータを引用して詳細な分析を試みている。精神疾患の診察にあたった国府台(こうのだい)陸軍病院の、1937年12月から45年11月までの入院患者8002人の発病地は中国大陸が多く、次いで国内、「満州」で、太平洋・東南アジア地域からの患者は10%に満たない。患者移送(還送)の難しさや途中の戦死も多いためだ。
従来の研究は戦場と銃後が中心だったが、その間の還送の研究が必要だと著者は説く。注目すべき視点だ。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「戦争神経症」の解説
戦争神経症 せんそうしんけいしょう
戦時の軍隊内,特に前線の戦闘部隊で起る神経症。ヒステリー反応が過半を占める。戦争神経症に対しては,心理的に破綻をきたしやすい兵士のタイプを考えるよりも,どのような状況がどの程度持続したら心理的な破綻が起るのかという発想に基づいて,休暇の与え方や部隊の交代などを工夫することが大切とされている。戦場において起る急性戦闘反応 (食欲不振,不眠,錯乱,失神など) のほかに,一般生活に戻ってから起る遅発性の反応 (悪夢,無感動など) もある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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日刊サイゾー
隠蔽された日本兵の精神障害【1】
なぜ“復員”できなかったのか? 戦中も戦後も精神科病院に隔離…PTSDになった日本兵の末路
2020/01/08 12:12
文=須藤輝
社会 歴史 医療 戦争 PTSD 第二次世界大戦 精神病院
2 018年8月に放送されたNHKのETV特集『隠されたトラウマ~精神障害兵士8000人の記録~』は視聴者に大きな衝撃を与え、何度かアンコール放送された。
――戦中、多数の日本兵が「戦争神経症」を発症し、軍の病院に“収容”されていた――。昨年、NHKのドキュメンタリー番組がその実態に迫り、大きな話題となったが、なぜこの事実は長らく明るみに出なかったのか? 精神を病んだ兵士が戦中・戦後に置かれた境遇を見ていくと、背後に巨大な問題があった。
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2018年8月に放送されたNHKのETV特集『隠されたトラウマ~精神障害兵士8000人の記録~』は視聴者に大きな衝撃を与え、何度かアンコール放送された。
2018年8月、NHKでドキュメンタリー番組『隠されたトラウマ~精神障害兵士8000人の記録~』が放送された。日中戦争~太平洋戦争期に、精神障害を負った兵士が送られた国府台陸軍病院(千葉県市川市)に保管されていた8002人の病床日誌(カルテ)を分析し、日本兵の戦時トラウマを明らかにしたことで反響を呼んだ。
同番組に協力・出演した歴史学者・中村江里氏の著書『戦争とトラウマ 不可視化された日本兵の戦争神経症』(吉川弘文館)によれば、戦争と精神障害の問題は、第一次世界大戦の欧米諸国における「シェル(砲弾)ショック」「戦争神経症」から広く知られるようになったという。その後、ベトナム戦争帰還兵の自殺やアルコール中毒などの増加が社会問題化したことで、「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」という診断名が誕生した。一方、日本で「PTSD」や「トラウマ」という言葉が流布し始めたのは、95年の阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件がきっかけだといわれている。
日本で戦争神経症は長きにわたり“見えない問題”として扱われたわけだが、第1次大戦後の陸軍はシェルショックの存在を認識していた。しかし、特に満州事変以降、天皇の軍隊に心を病むような脆弱な兵士はいるはずがないという“皇軍”意識の高まりもあり、陸軍は「日本軍に精神障害兵士は一人もいない」としたのだ。一方で日中戦争が始まった直後の1937年秋、精神障害兵士の専門治療機関として国府台陸軍病院を開設し、秘密裏に戦争神経症の研究を続けた。
国府台病院には37年12月~45年11月に1万人を超える兵士が入院し、その中には現在でいうPTSDに該当する患者もいた。だが、「当時はそのような考え方はなく、個人の弱さが原因になっていると考えられていた」と中村氏は番組内で発言。また、手足のけいれんを起こすヒステリーの症状も多く見られたが、「軍医たちは、ヒステリーのネガティブなイメージを避けるために、あえて『臓躁病』という言葉を使った」(中村氏)という。
かくして日本兵の戦争神経症は隠蔽され、終戦後、国府台病院のカルテも陸軍から焼却命令が出ていた。しかし、ある軍医が密かに持ち出したカルテをドラム缶に入れて庭に埋めたことで、焼却を免れた。そのカルテには、過酷な戦場で心をむしばまれていく兵士たちの姿が記録されている。
例えば日中戦争でもっとも多くの日本兵が精神障害を発症したのは、中国・河北省だった。同地では広大な地域を占領統治するには兵力不足だった日本軍と、山間部の村々を拠点に勢力を拡大する中国共産党の八路軍との緊張関係が継続。中国兵は民間人(農民)と同じ服装で、中には少年兵もいた。これを日本兵は討伐しなければならなかったのだ。
ある兵士のカルテには、「六人ばかりの支那人を殺したが その中 十二歳の子供を突き殺し可哀想だなと思ったこと いつまでも頭にこびりつき 病変の起こる前には何だかそれが出て来る様な感がする」と記されていた。地方の農村から徴兵された若者が中国に連れて行かれ、突然「人を殺せ」と命令されるのだから、そのストレスは計り知れない。
41年に太平洋戦争が始まると、国府台病院へ送られる兵士の数も急増。日本軍の拠点だったガダルカナル島では、空襲によるシェルショックに見舞われる兵士が多発し、63万人が送られたフィリピンでは多くの兵士がマラリアの感染から精神疾患を併発した。
中国でも山西省で八路軍がゲリラ戦を展開し、日本軍は劣勢に立たされていた。いつ襲われるかもしれない恐怖と夜通し歩き続ける行軍に日本兵は追い詰められ、自ら小銃を口にくわえ、引き金を引く者も。また、ある補充兵のカルテには、「次第に幻視幻聴 著明になり〈中略〉突然『聖徳太子が掃除をしろと言われた』と言い掃除を始めることあり」と、現在でいう統合失調症の症状も見られた。
戦闘行動による恐怖や不安、消耗が戦争神経症を発症させたが、それ以外に、日本兵に特有の発症の仕方がある。『日本帝国陸軍と精神障害兵士』(不二出版)の編著者で、国府台陸軍病院のカルテを30年にわたり研究してきた埼玉大学名誉教授・清水寛氏によれば、それは「日本軍の訓練や上官からの私的制裁」であり、カルテにもその証拠が数多く記録されているという。さらにカルテには、本来なら徴兵を免除されるはずの知的障害者約500人の記録も残されていた。清水氏は番組内でこう述べている。
「戦争が長期化、激化し、戦局が悪化していく中で大量の兵員を強制的に召集し、半数近くを中国大陸の戦場へ送り込んだ。軍隊での過酷な兵業に就く中でさまざまな身体的な疾病や精神的な障害も併発した」
病院にいる戦傷病者に恩給が支給される法律
終戦後も、精神障害兵士の多くが国立の療養所で生活を続けることになり、引き取り手のいない精神障害兵士は“未復員”と呼ばれた。85年まで約1000人が精神病の治療を必要とし、その半数以上が入院していた。戦後50年を経た95年に至っても253人が入院し、191人が入院外で療養。18年現在、6人が治療を続け、うち3人は入院中である。
なぜ、彼らは復員(軍務を解かれ帰郷すること)できなかったのか? 『隠されたトラウマ』にも出演し、ソーシャルワーカーとして国立武蔵療養所(現・国立精神・神経医療研究センター/東京都小平市)に26年間勤めた日本社会事業大学大学院教授の古屋龍太氏は、こう話す。
「国立武蔵療養所は日中戦争の激化を背景に、40年12月に開設されました(当時は傷痍軍人武蔵療養所。戦後、日本軍の解体に伴い改称)。入院患者の大多数は国府台陸軍病院からの転送患者で、40~45年に953名の患者が収容され、もっとも入院者数が多かったのは44年12月の417名。彼らの8割近くが精神分裂病(統合失調症)と診断されていました。私が入職した82年には、約50人の未復員の方々が入院されていました」
古屋氏を含む武蔵療養所の職員は、彼らの診療に当たる一方で、症状の軽い患者の社会復帰活動も積極的に行っていた。
「当時、小平にも新興住宅ができていたので、郷里には帰れなくとも、アパートで単身生活をしていただくために、今でいうアウトリーチ(療養所からアパートへの訪問)やデイケア(日中は療養所で過ごしてもらう)という形で支援をしていました」(古屋氏、以下同)
しかし、やはり彼らを“復員”させることは非常に困難だった。その原因のひとつが、家族・親族からの反対である。
「未復員の方々は軍人として、戦傷病者特別援護法という法律に基づいて入院しており、軍人恩給が支給されます。病院内にいる限り、入院されているご本人はそのお金をほとんど使う機会もありませんから、ご家族に管理していただきます。しかし退院すれば、恩給はご本人の大切な生活費になります。残念なことですが、入院中の恩給がすべて家族によって消費されてしまい、ご本人の退院時には預金残高がゼロということもありました」
精神疾患の未復員は故郷から拒絶された
また、未復員の人たちは、故郷では“英霊”扱いになっているケースもあるという。要するに、「勇敢に戦って死んだことになっているのに、実は東京で精神科病院に入れられていたことが今さら周りに知られては困る」と、故郷の家族・親族から拒絶されてしまうのだ。
「当時は精神疾患自体に対する偏見が現在の比ではなく、ハンセン病や結核以上に忌み嫌われる存在だったんです。この国では戦後一貫して、国策として精神障害者は精神科病院に長期隔離収容すべきという方針が示されていました。80年代前半はまだ精神衛生法の時代だったため、自傷他害の疑いがあり精神鑑定によって入院させられる措置入院か、家族など保護者の同意に基づいて入院させる同意入院の2つの入院形態しかありませんでした」
“同意入院”といっても、そこに本人の同意はない。すなわち、患者の100%が強制入院だったのだ。この法律の観点から見ると、戦傷病者は措置入院ではなく同意入院であり、家族が「入院させておいてくれ」と言えば、本人が退院したくてもできないことが多かった。
「しかし、84年に宇都宮病院事件という、精神科病院の職員による患者のリンチ殺人が発覚します。この事件が国連の人権委員会でも討議され、日本の精神科医療は国際的な批判を浴びました。これを受けて厚生省(当時)も法改正に着手せざるを得なくなり、87年に施行された精神保健法の下、初めて任意入院という、本人の同意(インフォームド・コンセント)に基づく入院制度ができました」
任意入院制度ができたことで、精神科病院の了承を得られれば任意退院も可能になった。だが、戦特法下にある戦傷病者に関しては、また別の事情が絡んでくる。それは、「戦争=国家の責任で精神疾患を発症した患者を途中で放り出すとは何事だ」という批判だ。事実、古屋氏によれば、厚生省に対してそういった訴えを起こす家族・親族もいたという。
「確かに、入院している限り未復員の方々は最低限のケアは受けられます。ただ、病院の中で暮らさせることが国の責任をまっとうすることなのか。むしろ、退院できる方は地域で暮らし、そのための支援を受けるのが当たり前でしょう。しかし、日本で精神障害者を地域や在宅でケアをするという具体的な施策が打ち出されたのは00年で、国が本格的に退院促進・地域移行に動き出したのは03年以降。それから15年以上たちますが、残念ながら目立った成果はありません」
海外派遣後に自殺も……自衛隊のメンタルヘルス
NHKで放送された『隠されたトラウマ』を通して、確かに日本の精神障害兵士に注目が集まった。それ自体は好ましいことではあるが、「やはり遅すぎた」というのが古屋氏の率直な感想だ。
「未復員の方々は、国家に人生を壊されたばかりか、日本の精神科医療政策の中で、残された人生の時間までも奪われた。しかも、残念ながらそのほとんどが亡くなってしまった段階で、ようやく日の目を見たわけです。さらに言えば、彼らと同様に超長期入院を強いられている精神障害者の方は、現在も数多くいます。11年以降の統計では精神科病棟で亡くなる方が年間2万人を超えており、1日に50人以上の方が入院中に亡くなっているという現実は何も変わっていない」
この国の実態として、一度入ったらほぼ出られない精神科病院もいまだに多い。
「退院できる方はたくさんいます。ソーシャルワーカーという福祉職から見れば、問題は患者さんの病状ではなく、むしろ患者さんが地域で暮らせる環境を整えられないことです。医療制度的にも問題があって、要は精神科以外の診療科だと入院期間が長くなるほど診療報酬の点数が減り、病院としては赤字になるのに、精神科の場合は病床さえ埋まっていれば最低限の経営ができてしまう。長期間ベッドを埋めてくれる患者さんが固定資産化している状況です」
精神科病院は経営的にうまみのある患者を手放そうとしないし、家族も「入院させておいてくれ」と言い、地域で支援する体制も不十分。その間、精神障害者は社会から隔離され続ける。このような事態は、ほかの先進国からすると考えられないと古屋氏は指摘する。
「『隠されたトラウマ』でも思わず言ってしまいましたが、日本だからこういうことが起きているんです。例えばアメリカでPTSDの問題に注目が集まったのは、国民がベトナム帰還兵のケアに懸命に取り組んだから。一方、日本は臭いものにふたをするという体質で、なによりも、精神障害者の方々それぞれに人権があるということに非常に鈍感ですよね」
ことは戦傷病者だけの問題だけでなく、日本の精神科医療全体の問題でもある。それを踏まえた上で、ようやく日の目を見た日本兵のトラウマの記録から得られる教訓はあるのか?
「教訓を得ようとするならば、まず自衛隊員のメンタルヘルスの状況をきちんと統計で出すこと。例えば15年の政府答弁で、海外派遣された自衛官のうち54名が帰国後に自殺していたことが明らかになりました。その主たる原因はPTSDやうつ病だと思うのですが、情報が開示されない以上、検証すらできません。だから、とにかく事実を隠さないでほしい。統合失調症は約100人にひとりが発症しますし、うつ病なども含む精神障害は現在も増え続けています。それが『自衛隊の中にはひとりもいません』などということはあり得ないでしょう」
現在も政府による公文書の改ざんや隠蔽がたびたび疑われるこの国にとって、情報の開示はもっともハードルが高いように思える。しかし、それができなければ、同じ過ちを繰り返しかねない。(月刊サイゾー9月号『新・戦争論』より)
最終更新:2020/01/08 12:12
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日経ビジネス
飢餓、自殺強要、私的制裁--戦闘どころではなかった旧日本軍
2019.8.14
森 永輔
日経ビジネス シニアエディター
映画「この世界の片隅に」(2016年公開)が8月3日、NHKによって地上波放送で初めて放映された。こうの史代さんのマンガを原作とする劇場版アニメだ。主人公は、すずさん。絵を描くのが好きな18歳の女性だ。広島から呉に嫁ぎ、戦争の時代を生きる(関連記事「『この世界の片隅に』は、一次資料の塊だ」)。アジア・太平洋戦争中の、普通の人の暮らしを淡々と描いたことが共感を呼んだ。
一方、アジア・太平洋戦争中の、戦地における兵士の実態を、数字に基づき客観的に描写したのが、吉田裕・一橋大学大学院特任教授の著書『日本軍兵士』だ。「戦闘」の場面はほとんど登場しない。描くのは、重い荷物を背負っての行軍、食料不足による栄養失調、私的制裁という暴力、兵士の逃亡・自殺・奔敵、戦争神経症に苦しむ様子--。同書の記述からは、軍が兵士をヒトとして遇そうとした跡を感じることはできない。加えて、第1次世界大戦から主流となった「総力戦」*を戦う態勢ができていなかった事実が随所に垣間見られる。
:軍隊だけでなく、国の総力を挙げて行う戦争。軍需物資を生産する産業力やそれを支える財政力、兵士の動員を支えるコミュニティーの力などが問われる
なぜ、このような戦い方をしたのか。終戦記念日 を迎えたのを機に考える。吉田特任教授に話を聞いた。
(聞き手 森 永輔)
吉田さんはご著書『日本軍兵士』の中で衝撃的な数字を紹介しています。
支那駐屯歩兵第一連隊の部隊史を見てみよう 。(中略)日中戦争以降の全戦没者は、「戦没者名簿」によれば、2625人である。このうち(中略)1944年以降の戦没者は、敗戦後の死者も含めて戦死者=533人、戦病死者=1475人、合計2008人である。(後略)(支那駐屯歩兵第一連隊史)(出所:『日本軍兵士』)
この部隊の戦没者のうち約76%が終戦前の約1年間に集中しています。しかも、その73%が「戦病死者」。つまり「戦闘」ではなく、戦地における日々の生活の中で亡くなった。敗戦色が濃厚になるにつれ、兵士たちは戦闘どころではなく、生きることに必死だった様子がうかがわれます。
戦病死の中には、「餓死」が大きなウエイトを占めていました。
日中戦争以降の軍人・軍属の戦没者数はすでに述べたように約230万人だが、餓死に関する藤原彰の先駆的研究は、このうち栄養失調による餓死者と、栄養失調に伴う体力の消耗の結果、マラリアなどに感染して病死した広義の餓死者の合計は、140万人(全体の61%)に達すると推定している*。(『餓死した英霊たち』)(出所:『日本軍兵士』)
:諸説あり
飢餓が激しくなると、食糧を求めて、日本軍兵士が日本軍兵士を襲う事態まで発生しました。
飢餓がさらに深刻になると、食糧強奪のための殺害、あるいは、人肉食のための殺害まで横行するようになった。(中略)元陸軍軍医中尉の山田淳一は、日本軍の第1の敵は米軍、第2の敵はフィリピン人のゲリラ部隊、そして第3の敵は「われわれが『ジャパンゲリラ』と呼んだ日本兵の一群だった」として、その第3の敵について次のように説明している。
彼等は戦局がますます不利となり、食料がいよいよ窮乏を告げるに及んで、戦意を喪失して厭戦的となり守地を離脱していったのである。しかも、自らは食料収集の体力を未だ残しながらも、労せずして友軍他部隊の食料の窃盗、横領、強奪を敢えてし、遂には殺人強盗、甚だしきに至っては屍肉さえも食らうに至った不逞、非人道的な一部の日本兵だった。(前掲、『比島派遣一軍医の奮戦記』)(出所:『日本軍兵士』)
負傷兵は自殺を強要される
この後の質問の前提にある日本軍兵士の悲惨な事態を読者の皆さんと共有するため、もう少し、引用を続けます。
兵士たちは飢餓に苦しむだけでなく、自殺を強要されたり、命令によって殺害されたりすることもありました。以下に説明する行為は「処置」 と呼ばれました。
(前略)戦闘に敗れ戦線が急速に崩壊したときなどに、捕虜になるのを防止するため、自力で後退することのできない多数の傷病兵を軍医や衛生兵などが殺害する、あるいは彼らに自殺を促すことが常態化していったのである。
その最初の事例は、ガダルカナル島の戦いだろう。(中略)撤収作戦を実施して撤収は成功する。しかし、このとき、動くことのできない傷病兵の殺害が行われた。(中略)
(中略)視察するため、ブーゲンビル島エレベンタ泊地に到着していた参謀次長が、東京あて発信した報告電の一節に、次のような箇所がある。
当初より「ガ」島上陸総兵力の約30%は収容可能見込にして特別のものを除きては、ほとんど全部撤収しある状況なり
(中略)
単独歩行不可能者は各隊とも最後まで現陣地に残置し、射撃可能者は射撃を以て敵を拒止し、敵至近距離に進撃せば自決する如く各人昇コウ錠[強い毒性を持つ殺菌剤]2錠宛を分配す
これが撤収にあたっての患者処置の鉄則だったのである。
(『ガダルカナル作戦の考察(1)』)
つまり、すでに、7割の兵士が戦死・戦病死(その多くは餓死)し、3割の兵士が生存しているが、そのうち身動きのできない傷病兵は昇コウ錠で自殺させた上で、単独歩行の可能な者だけを撤退させる方針である。(出所:『日本軍兵士』)
第1次大戦時に修正できなかった精神主義
食糧が不足し餓死と背中合わせ。戦闘で負傷すれば、自殺を強要される。こうした“踏んだり蹴ったり”の環境では、戦闘どころではありません。戦争はもちろんしないに越したことはありません。しかし、仮にしなければならないとするなら、兵士をヒトとして遇し、十分な食糧と休息を与えるべきだったのではないでしょうか。
なぜ、アジア・太平洋戦争では、そんな態勢が作れなかったのでしょう。日清・日露というそれ以前の戦争では、兵士をヒトとして遇していたのでしょうか。
吉田 裕(よしだ・ゆたか)
一橋大学大学院特任教授
専門は日本近現代軍事史、日本近現代政治史。1954年生まれ。1977年に東京教育大学を卒業、1983年に一橋大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。一橋大学社会学部助手、助教授を経て、96年から教授。主な著書に『昭和天皇の終戦史』『日本人の戦争観』『アジア・太平洋戦争』など(写真:加藤 康、以下同)。
吉田:アジア・太平洋戦争の時ほど極端ではありませんが、日本軍に独特の精神主義が存在していました。典型は、歩兵による白兵突撃です。銃の先に銃剣を付け突撃し攻撃路を開く、というやり方。その背景には、「精神力で敵を圧倒する」という精神主義がありました。
日露戦争後、こうした考え方が軍内に広まっていきます。例えば、陸軍は歩兵操典などの典範令(教則本)を大改正して、ドイツ製の翻訳から、独自のものに改めました。内容的には、日本古来の伝統、精神を重視するものにした。例えば夜襲を重視しています。
日露戦争当時の軍は、日露戦争は白兵突撃によって勝ったと認識していたのですか。司馬遼太郎さんが同戦争を描いた小説『坂の上の雲』の影響かもしれませんが、「二〇三高地の戦いにおける白兵戦は愚かな作戦だった」という印象を持っていました。乃木希典・第三軍司令官は、効果が小さいにもかかわらず、犠牲の多い、白兵突撃を繰り返した、と。
吉田:事実はともかく、「白兵戦によって勝った」「日本精神によって勝った」という“神話”を作ってしまったのです。
本来なら、その後に起きた第1次世界大戦を研究する中で、こうした精神主義を修正すべきでした。しかし、それができなかった。
例えば、歩兵による白兵突撃主義を取ったのは、日本軍だけではありません。欧州諸国の軍も同様でした。派手な軍服を着て、横一列に並んで突撃していったのです。しかし、第1次世界大戦を戦う中で挫折した。機関銃と戦車の登場が契機でした。
日本軍は、第1次世界大戦中の欧州の状況を詳しく研究しました。しかし、研究するのと参加するのとでは話が違います。欧州戦に参加しなかった日本軍は、第1次世界大戦をリアリティーをもって感じることができなかったのでしょう。
部下による反抗恐れ私的制裁を容認
兵士たちは餓死や処置を覚悟しなければならないだけでなく、私的制裁にも苦しめられました。私的制裁を苦にして、逃亡、奔敵(敵側に逃亡すること)、自殺に至る兵士が多数いました。
初年兵教育係りの助手を命じられたある陸軍上等兵による、初年兵への執拗な私的制裁によって、彼の班に属する初年兵28人のほとんどが「全治数日間を要する顔面打撲傷」を負った。このため、私的制裁を恐れた初年兵の一人が、自傷による離隊を決意して自分自身に向けて小銃を発砲したところ、弾丸がそれて他の初年兵に命中し、その初年兵が死亡する事件が起こった。(『陸軍軍法会議判例類集1』)(出所:『日本軍兵士』)
なんとも悲惨な話です。なぜ、私的制裁を取り締まることができなかったのでしょう。
吉田:当時は、徹底的にいじめ、痛めつけることで、強い兵士をつくることができると考えられていました。この考えから抜け出すことができなかったのです。
加えて、私的制裁が古参兵にとってガス抜きの役割を果たしていたことが挙げられます。兵士たちは劣悪な待遇の下に置かれています。この鬱屈とした激情が上官に向かって爆発すると、軍としては困る。実際、上官に逆らう対上官犯 は戦争が進むにつれて増えていきました。これを、単に規制するだけでは、火に油を注ぐことになりかねません。そこで、「下」に向けて発散するのを容認する傾向がありました。
鬱屈とした激情を、「下」だけでなく「外」に向かって発散するのを容認する面もありました。
そうした教育の戦場における総仕上げが、「刺突」訓練だった。初年兵や戦場経験を持たない補充兵などに、中国人の農民や捕虜を小銃に装着した銃剣で突き殺させる訓練である。
藤田茂は、1938年末から39年にかけて、騎兵第二八連隊長として、連隊の将校全員に、「兵を戦場に慣れしむるためには殺人が早い方法である。すなわち度胸試しである。これには俘虜(捕虜のこと)を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるから、なるべく早くこの機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない」、「これには銃殺より刺殺が効果的である」と訓示したと回想している。(『侵略の証言』)(出所:『日本軍兵士』)
軍刑法に私的制裁の禁止条項なし
軍法会議は機能していなかったのですか。
吉田:陸軍や海軍の刑法には、私的制裁を禁止する条項がありませんでした。
陸軍刑法に「陵虐の罪」の規定があります。しかし、これは、兵士を裸にして木にくくりつけるなど非常に極端な行為を対象にするもので、日常的に起こる私的制裁を対象にするものではありませんでした。
取り締まるとすれば、一般の刑法の「暴行及び傷害の罪等」を適用する。
確かに、初年兵28人に「全治数日間を要する顔面打撲傷」を与えた陸軍上等兵は刑法の傷害罪で懲役6カ月の有罪判決を受けています。この事件は初年兵の一人が自傷を試みたことによって発覚しました。
かつて見た、「ア・フュー・グッドメン」という映画を思い出しました。トム・クルーズ氏が主演で、軍に勤める法務官。海軍の基地で、ジャック・ニコルソン氏演じる司令官が「コードR」(規律を乱す者への暴力的制裁)を命じて、若い兵士を死に至らしめる。法務官が法廷で大ばくちを打って、司令官を有罪に持ち込む、というストーリーです。この「コードR」に相当するものが、当時の日本の軍刑法には存在しなかったのですね。
吉田:軍法会議に関する研究は実は進んでいないのです。法務省が資料を保管し、公開してこなかったのが一因です。今は、国立公文書館に移管されたようですが。二・二六事件をめぐる軍法会議の資料が閲覧できるようになったのは敗戦後50年もたってからのことです。これから新たな研究が出てくるかもしれません。
(後編に続く。8月15日公開予定)
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庶民にとって、領主が誰であったも関係ない。
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戦国時代は、悲惨で、酷たらしい地獄であった。
武士・サムライが、百姓を嫌い差別し「生かさず殺さず」の支配を続けたのには理由があり、戦国の気風が残っていた江戸時代初期に斬り捨て御免が横行していたには理由があった。
日本は、誰も助けてくれないブラック社会であった。
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日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などの陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
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武将は、足軽・雑兵、小者・人夫・下男による乱取りを黙認していた。
乱取りで捕まった女子供は、各地の奴隷市で日本人商人に買われ、日本人商人は宣教師を通じて白人キリスト教徒の奴隷商人に売って金儲けをしていた。
中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人は、奴隷として買った日本人を世界中に輸出して金儲けしていた。
日本人奴隷を生み出していたのは、乱取りを行った百姓達であった。
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現代日本人は、潔くカッコイイ武士・サムライの子孫ではなく、乱取りをし日本人を奴隷として売って大金を稼いでいた庶民の子孫である。
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