🌈79)80)─1─日本家族の原型は中世の核家族であった。~No.136No.137No.138No.139 ⑯ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2021年8月21日 朝日新聞「読書
 『中世は核家族だったのか 民衆の暮らしと生き方』
 西谷正浩〈著〉 吉川弘文館
 疫病や災害が夫婦の結合強めた
 評・戸邊秀明
 核家族と中世。奇妙な組み合わせに感じるのは、中世の特徴を家(いえ)制度の成立と見る通説が前提にあるからだ。平等な分割相続が、家名や家産を長男が独占する単独相続へと変わり、特に女子は排除された。この傾向は、貴族や武士の間で南北朝時代を画期に進み、戦国時代で民衆へ達する。
 だがこの説明では、大半の時期で抜け落ちてしまう。史料の欠落を打開するため、著者は歴史人口学や気候学、集落遺跡の発掘・復原(ふくげん)等の最新の知見を、社会経済史の蓄積と融合させる。すると、成人した子供はみな生家を出て夫婦で独立した世帯を営むという『核家族規範』が浮かびあがる。
 きっかけは、古代末期の疫病や自然災害の多発だった。崩壊した共同体から放り出された民衆は、夫婦間の結合を分業で強めて危機を乗り切る。鎌倉時代の有力農民である名主(みょうしゅ)層でも、非親族を含めた複数の世帯を抱えながら、住宅から食事・家計まで別々で、決して大家族ではない。名主の地位も不安定で、小百姓と身分差はなかった。
 ところが中世末期、地侍(じざむらい)になった有力農民が、系譜や由緒を創って身分上昇を狙う。武家に倣(なら)って家の永続を図り、やがて世襲制の庄屋となる。ただし親子2世帯同居の直系家族が、全階層で一般化するのは近世も後半。中世の家族形態は、それほど長く持続した。
 本書の明快さは、家族の変貌を、農業経営や村落の身分秩序の長期的な変化と結びつけ、中世社会の全体に有機的に位置づけた点にある。実家を出ながら結婚まで母親の世話になる『母懸(ははがかり)』の若い男性の存在など、犯罪や裁判の荘園文書から村の意外な慣習を引き出す史料捌(さば)きも興味深い。
 生存戦略として培われた家族の形。この『中世人の貴重な体験』は、核家族の規範さえ動揺し、当時と同じく『家筋(いえすじ)』に無関心な『祖先なき者』となった私たちにとり、未来を占う想像力の幅を広げてくれる。」
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 中世・近世を生きた日本人は、中世型核家族を生きる為に「神仏排除の儒教」ではなく「神仏混合の仏教」を選び、取り入れた儒教朱子学儒教(正統派儒教)ではなく論語儒教諸派儒教)であった。
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 核家族という家族形態は、古代から一般的であったのが中世で完成し、江戸時代の近世後半に大家族が普及するまで続き、明治の近代化で消えたが、個人を尊重する現代で復活した。
 つまり、日本の家庭とは核家族が主流で、「家族だから面倒を見る」はあり得なかった。
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中世は核家族だったのか (歴史文化ライブラリー 524)
核家族の解体と単家族の誕生
「一人で生きる」が当たり前になる社会
「ただ一人」生きる思想 ――ヨーロッパ思想の源流から (ちくま新書)
ひとりで生きる 大人の流儀9
斎藤一人 明るい未来の作り方
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 一つの屋根の下で数世代が同居するという大家族生活は、江戸後期から昭和時代までの短期間に出現した特殊な現象であった。
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 徳川幕府は、子供を多く生んで育てる子宝夫婦と老親の面倒を見る親孝行を称賛して報奨金を与えた。
 貧しい家庭では、必要な食い扶持・食べ物・食糧を確保する為に、胎児の流産、乳幼児を殺し、増えた子供を人買いに売り飛ばす、そして病気や老衰で動けない・働けなくなった老親は口減らしとして「うば捨て山」に捨てた。
 江戸時代までの日本は、命を命と思わない残酷なブラック社会で、その冷酷・非情が各地に陰険・陰湿な因襲として伝わっている。
 その証拠が、水子供養、怨霊・怨讐・お化け・幽霊・妖怪・物の怪などの百物語である。
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 頻発する自然災害・疫病・飢餓そして絶える事がない戦乱の時代には人の移動が激しく、その為に重視されたのは変更不能な生家・出自などによる血筋=貴種で、実力・能力・才能で変更可能な身分・地位・階級は重要ではなかった。
 つまり、自然災害・疫病・飢餓、戦乱の地獄世界では、名前ばかりの個人的な身分・地位・階級は役に立たず、生き残るには非親族の地縁共同体(忠誠心)か家の血縁共同体(家族愛)の集団主義的団結しかなかった。
 多くの面で、日本と中国・朝鮮とは違っていた。
 中国・朝鮮は、公・忠より私・孝を優先する一族・家族中心の宗族主義であった。
 日本は、在来の神々と渡来の仏を敬い、個人の私・孝より集団の公・忠を優先していた。
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 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
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 柏木由紀子「主人(坂本九)を亡くしてから切に感じたのは、『誰もが明日は何が起こるからわからない』というこよです。私もそうですが、私以外にも大切な人を突然亡くしてしまった人が大勢います。だからこそ、『今が大切』だと痛感します。それを教えてくれたのは主人です。一日一日を大切にいきたい、と思い、笑顔になれるようになりました」
 神永昭夫「まずはしっかり受け止めろ。それから動け」
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 日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
 日本民族の伝統文化の特性は、換骨奪胎(かんこつだったい)ではなく接木変異(つぎきへんい)である。
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 御立尚資「ある禅僧の方のところに伺(うかが)ったとき、座って心を無にするなどという難しいことではなく、まず周囲の音と匂いに意識を向け、自分もその一部だと感じたうえで、裸足で苔のうえを歩けばいいといわれました。私も黙って前後左右上下に意識を向けながら、しばらく足を動かしてみたんです。これがびっくりするほど心地よい。身体にも心にも、そして情報が溢(あふ)れている頭にも、です」
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 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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 日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
 日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
 日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
 日本民族の「情緒的情感的な文系的現実思考」はここで洗練された。
 死への恐怖。
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 日本の本音。日本列島の裏の顔は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、疫病神、死神が日本を支配していた。
 地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして信仰宗教(普遍宗教)は無力であった。
 日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
 生への渇望。
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 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして信仰宗教は無力で役に立たない。
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 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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 松井孝治「有史以来、多くの自然災害に貴重な人命や収穫(経済)を犠牲にしてきた我が国社会は、その苦難の歴史の中で、過ぎたる利己を排し、利他を重んずる価値観を育ててきた。
 『稼ぎができて半人前、務めができて半人前、両方合わせて一人前』とは、稼ぎに厳しいことで知られる大坂商人の戒めである。阪神淡路大震災や東日本震災・大津波の悲劇にもかかわらず、助け合いと復興に一丸となって取り組んできた我々の精神を再認識し、今こそ、それを磨き上げるべき時である。
 日本の伝統文化の奥行の深さのみならず、日本人の勤勉、規律の高さ、自然への畏敬の念と共生観念、他者へのおもいやりや『場』への敬意など、他者とともにある日本人の生き方を見つめなおす必要がある。……しかし、イノベーションを進め、勤勉な応用と創意工夫で、産業や経済を発展させ、人々の生活の利便の増進、そして多様な芸術文化の融合や発展に寄与し、利他と自利の精神で共存共栄を図る、そんな国柄を国内社会でも国際社会でも実現することを新たな国是として、国民一人ひとりが他者のために何ができるかを考え、行動する共同体を作るべきではないか。」
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