💖2)─4─日本人の美徳と悪徳。~No.5 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本人は、いい事もするが、悪い事もする。
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 日本人には、いい日本人が2割、悪い日本人が3割、毒にも薬にもならない傍観者で同調圧力に流されるダメな日本人が5割。
 悪い日本人とダメな日本人にとって日本人の美徳は、迷惑で、邪魔で、煩わしく、鬱陶しいだけである。
 傍観者で同調圧力に流される日本人は、いい事よりも悪い事をする方が多く、そのためイジメ・意地悪・嫌がらせが絶えず最悪相手を自殺か自暴自棄の殺人まで追い込む。
 子供社会では、イジメ・意地悪・嫌がらによる子供の自殺が絶えない。
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 日本は世界で信用されている、日本人は世界で愛されている、はウソである。
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 ブックバン Book Bang
 『世界が憧れた日本人の生き方』
 著者 天野瀬捺 [著]
 出版社 ディスカヴァー・トゥエンティワン
 ISBN 9784799320242
 発売日 2016/12/27
 価格 1,100円(税込)
 外国人たちの目から見た、日本人ならではの美徳と生き方
 レビューメディアジーン lifehacker [レビュー] (日本史/倫理学・道徳)
 外国人たちの目から見た、日本人ならではの美徳と生き方
 [レビュアー] 印南敦史(作家、書評家)
 {本書は、私たちの住む日本という国が、古代から膨大な時間をかけてじっくりと培われた、本当の意味で人間らしく、健康的で平和で、かつ満ち足りた理想的な社会であったということを示すものです。(「はじめに──日本が本当の豊かさを取り戻すために」より)}
 こう記すのは、『世界が憧れた日本人の生き方 日本を見初めた外国人36人の言葉』(天野瀬捺著、ディスカヴァー携書)の著者。禅寺に生まれ、禅の教えを体感しながら育ったという人物。しかし外国での豊富な生活経験を持つ祖父母に影響され、成人後は自らも海外に出ることを決意したのだそうです。その結果、ヨーロッパ、オセアニア、米国、カナダと、20年近くにわたって海外に住み続けてきたのだといいます。
 そんななかで実感したのは、日本人にとっては常識であるような礼節や、人に迷惑をかけないマナー(約束や時間を守る)、品格、基本的な生活習慣(体にいいものを食べる)といったことにまったく関心を示さない人が、海外には少なからずいるということ。
 そして異文化に長く身を置いた経験があったからこそ、日本の長所を強く、身をもって実感することができたというのです。つまり本書の軸になっているのは、そうした経験。シーボルトからアインシュタインまで、16世紀以降に日本を訪れた外国人たちの記録のなかから、現代人にも通用する「生き方のヒント」を抜き出したものです。
 きょうは第5章「自然とともに生きる」から、日本に魅了された2人の外国人に注目してみたいと思います。
 精神的に自然と通じ合う
 {自然の美しさに対する独特の感応、すなわちその自然環境とのある種の精神的合意は、日本人の精神の際立った特徴である。
 パーシヴァル・ローウェル天文学者/世界漫遊家)
 1883年、アメリカより来日
 (90ページより)}
  パーシヴァルはボストンのインテリ一家、大富豪の息子として生まれた人物。実弟ハーバード大学学長であり、彼もハーバード大學で物理学や数学を修めたものの、火星に大きな関心を持ったことから、やがて天文学者に転じたのだそうです。
 日本には1883年から1893年までの間に計5回訪れており、日本の風俗の調査と、専門である天文学の研究を行うことに。来日の動機が日本と東洋への強い関心だったことはいうまでもありませんが、知り合いを尋ねるという目的もあったようです。その知り合いとは、のちに東京大学で動物学教授を務めることになるエドワード・モース。ふたりは旧知の仲だったようで、エドワードが来日した際、彼の大学での講義を聞くために、パーシヴァルは日本を訪れたということです。
 1889年には、秘境の地であった能登半島の調査のために来日。その帰路、長野の時又(ときまた)へ船で到着した人々の様子を次のように表現しています。
 {「ここでは、親切な村人たちが、総出で船の陸上げ作業を手伝ってくれ、その中の幾人かは、われわれの前を小走りに歩いて、宿屋まで案内をしてくれた」(92ページより)}
 彼はこのとき、天竜川の川下りや御嶽山の登山など、日本の自然とアクティブに接したのだといいます。そして最後に来日したときには6インチの望遠鏡を携えていたほど、日本に天文台を建てようと真剣に考えていたといわれていたそうです。
 日本での旅生活のなかで、パーシヴァルは日本人の気質を次のように観察しています。
 {「われわれが自分たちのやり方で、自分たちの視点から直観的に見る事柄を、彼らは彼らの視点から全く正反対の立場で直観的に眺めるのだ。(中略)順序を逆にするということは、表現様式から始まり、さらに深く彼らの思想の奥底にまでわたっている」(92ページより)}
 つまりパーシヴァルは、日本人の世界観がある面において西洋人のそれと反対であることを、コミュニケーションのなかから見てとったというわけです。
 また、「個々の人間の知性の差の大きいのに慣れたわれわれにとって、日本における大衆の芸術愛更新には驚かされるものがある」という言葉に表れているとおり、大衆への文化の浸透度合いにもパーシヴァルは目を見張っていたといいます。平凡なお茶屋の娘が礼儀作法の手本であり、労働者たちが仕事の合間に将棋を指す姿を見るにつけ、日本の文化が少数の人々のためのものではなく、一般大衆の共通の財産であることを観察したいたわけです。
 このように、筋金入りの実証主義者であったというパーシヴァルは、当時の日本人の姿に、自分たちと逆の世界の存在を強く感じていたということです。(90ページより)
 自然の循環のなかに生きる
 {農民の仕事はとても大変なのに彼らは自然と格闘しているようには見えません。彼らは、むしろ、成長しては滅びることを繰り返して永遠に再生し続ける自然界の一員であり、そしてまたこの循環のあらゆる過程を美しいものとして味わうことができる優れた感受性を持っている人たちなのです。
 キャサリン・サンソム(外交官夫人)
 1928年、イギリスより来日
 (102ページより)}
 イングランド・ヨークシャーの風光明媚な渓谷地帯で、大自然に囲まれながら育ったというキャサリン・サンソム。地元で有名な存在だった父親の影響を受け、自然に対する愛情や豊かな情緒を身につけたのだそうです。つまり、そんな彼女が日本の自然と人々のあり方に感銘を受けたのは、ある意味で必然だったのかもしれないと著者は推測しています。
 成熟した英国婦人であったキャサリンは、つねに落ち着いた優しいまなざしで、昭和初期の東京の街と人々の暮らしを見つめ、ていねいに記録したといいます。同時に父親としての立場からも、日本の衣食住や家庭、子ども、教育について観察し、あるときは高貴な女性の視点で女性の社会的地位、百貨店、車校、伝統などについても目を配ったそうです。
 とりわけ日本の自然と人々に対する観察は深く、日本人の最大の特徴を、「自然と交わり、自然を芸術的に味わう感性にある」と見定めたのだといいます。キャサリンが目撃したのは、じっと座って何時間も同じ景色を眺めるという、日本人特有の習慣。その姿を、「日本人は自然と見つめることで精神の大事な糧を得ている」と考えたという点が印象的です。
 そして、自然に対するそのような姿勢こそが、「落ち着いた心」という日本人らしい精神性の基礎になっていると見たわけです。そのうえでキャサリンが導き出したのは、「日本人は自然を愛するだけでなく、私たちとは違って、今でも自然の中に生きています」という洞察。
 そして、日本に来て彼女が驚いたことのひとつが、「富士山の魔法」というエピソードです。イギリスへの帰国休暇を終えカナダ経由で1月の日本に帰ってくる途上、真冬の航海がとても辛かったこともあり、長旅の疲れとともにキャサリンは陰鬱な気分に。ところが窓越しに日本の海岸線が見えてくると、彼女はどうしても富士山を見たくなってしまったというのです。
 {寒さを堪えて甲板に出て、それがあるはずの方向に目をこらしていたキャサリンは、層雲の上に富士山が見えたその瞬間、「心臓が止まってしまいました」という。彼女にとって富士山は、「まるで天から垂れ下がっているよう」に軽やかで美しく、まさに天国に近づくように感じたというわけである。(104ページより)}
 富士山の美しさに心を打たれたことで、キャサリンの気分は回復し、波止場に着いた時には陽気になっていたのだとか。しかも満面に笑みを湛えた日本の人々のおもてなしに迎えられ、気分はさらによくなったのだといいます。日本の自然と日本人の細やかな心づかいが、彼女の日本人に対する印象に好影響を与えたのでしょう。(102ページより)
 昨今はテレビをつければ、日本人の素晴らしさをクローズアップした番組を目にする機会が増えました。しかし本書で紹介されている人々の言葉からは、それら以上に大きな説得力を感じることができるはずです。
 「今年は、どんなことをして、どんな年にしようか?」と考えることの多い時期です。改めて自らのルーツを再確認するという意味でも、このタイミングで読んでおきたい1冊だといえるでしょう。
 (印南敦史)
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 日本とポーランドにはこんなに熱い絆があった! 歴史に学ぶ日本人の美徳
 2021年05月25日
 歴史
 東欧の大国・ポーランド共和国キュリー夫人や首都ワルシャワはなじみ深くとも、日本とポーランドを近しい国としてイメージする人は少ないのではないでしょうか。しかし、世界40か国以上を取材で訪れてきたノンフィクション作家・河添恵子さんは、ポーランドは世界一の親日国であり、ポーランドとの歴史を知ることは日本人としての誇りの再認識に繋がるといいます。
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 日本とポーランドの急接近
〈河添〉
 両民族が急接近するきっかけは、日露戦争でした。当時、ポーランド志士(愛国者)らは不屈の精神で国の再起を目指しており、政治犯として極東シベリアへ流刑にされる者も多かったのですが、独立に向けた地下活動を行っていました。「日本の勝利は、ポーランドが独立する千載一遇のチャンス」と考えた独立活動家らが日本政府ヘの接触を試みたのです。
 その一人が、1918年の独立回復時に初代元首となったユゼフ・ピウスツキです。彼は「日本軍のためのポーランド人の軍隊を召募する」とまで提案し、日本と協定を結び同盟関係になる使命を背負って訪日したとされます。
 しかも、日露戦争で早々に投降して愛媛県松山市の収容所などに送られた中には、「ロシア軍兵士」として半強制的に徴兵されたポーランド人兵も多かったのです。彼らは、日本の勝利をまるで自国の勝利のごとく狂喜乱舞しました。この時期、日本で捕虜生活を送った数千人のポーランド人の日本への好印象が、ポーランドにおいての親日感情の原点となっています。
 日本赤十字から派遣された看護師の献身的な働きはもちろんのこと、市民から〝おもてなし〟を受けるなど癒やされたのです。
 開国そして近代化に着手して僅か40年余りの日本が、ポーランド人の宿敵で強大なロシア帝国との戦いに挑み、しかも大勝利という結果は彼らに強いインパクトを与え、日本関連書物の出版ラッシュとなりました。
 ポーランドを代表する作家でジャーナリストのボレスワフ・プルス氏(1847~1912年)の論文の一部をご紹介しましょう。日本で譬えるところ、夏目漱石のような著名な作家であるプルス氏は、日本人の国民性について次のように記述しています。
 {「日本人の魂の奥深くにある特質は、個人の尊厳といった偉大なる感覚であり……その尊厳の柱となっているのは勇気である。それは、あえて強調する必要もないが、先の大戦で日本人が頻繁に証明したものである。……死をものともしない点において、日本人を超える国は存在しない。そしてそれが彼らの本当の強さを形作っている。……日本人のその他の偉大なる美徳として、自己抑制が挙げられる。自らの怒りや悲しみ、喜びを制御できない者は、日本では野蛮人と見なされる。……日本人は常に礼儀正しい微笑で会話をする。しかし、たとえ拷問されたり殺されたりしても、秘密を明かさないだろう。
 同様に素晴らしいのは彼らの社会的美徳であり、その中で最も優れているのは愛国心である。日本人の愛国心は外国人への憎しみや軽蔑に根ざしたものではなく、己に属するすべてのものに対する愛情に基づいている。軍のために何人かの者がその命を犠牲にして任務を遂行する必要が生じた場合、何人かではなく、何千人もの者が自らその任務に志願するだろう……尊敬されたいと思うなら、皆、彼らを手本として努力しなければならない」}
 さらにプルス氏は「日本人の勇気、名誉、個人の尊厳、自己犠牲の精神、忠実性は、ポーランド人が模倣すべき気質である」とも記しています。
 また、逆に日本人でポーランド人の特性について詳細を語った大尉がいます。1919年からワルシャワにて活動し、1921年より日本公使館付き武官となった山脇正隆大尉です。山脇大尉は、早期からポーランドとの国交を強化すべきだと主張しました。その理由を3つ語っています。
 1つ目は、日本社会の中で人気のある国であること。2つ目は、ポーランド人は背骨の真っ直ぐな、まっ正直な人間であったこと。3つ目は、長期にわたる抑圧に耐え抜いて言語や文化を護り抜いたこと。そして日本と同様、両親を敬う人たちで、家族のあり方と教育が基礎になっているということでした。
 1世紀以上にわたる〝日ポの絆〟
〈河添〉
 その後も、日本とポーランドの絆は続きます。1914年からの第一次世界大戦、1917年のロシア革命に続き、1919年にコミンテルン共産主義インターナショナル)が結成され、シベリアの各地で反革命軍が赤軍と交戦、血で血を洗う内戦となりました。
 その内戦により、シベリア在住のポーランド人も少なからず戦死し、ポーランドからの難民も餓死、病死、自殺、凍死、虐殺など次々と命を落としていったのです。
 想像を絶する悲惨な環境の中で、両親と生き別れ、死に別れ、死の淵を彷徨っていたポーランド人孤児たち(計765人)を救出したのが他ならぬ日本でした。孤児たちは東京や大阪で一時を過ごしましたが、飢餓状態、虱だらけだった子供たちを日本人が献身的にケアし、心身共に生まれ変わったかのような状態にして、ポーランドまで送り返したのです。
 天皇陛下が2002年にポーランドを訪問された際、存命だった3名が両陛下と日本大使館で交流の時間を持っています。孤児たちは帰国後も「日本への感謝の念を忘れない」が合言葉だったようで、「日本から受けた親切を宝物として生きてきました」「日本はまるで天国のようなところでした」などと溢れる涙で語ったそうです。この時のお話は、当時の兵藤長雄大使が書籍『善意の架け橋?ポーランド魂とやまと心』に残しています。
 「命のビザ」で約6,000人のユダヤ人他を助けた杉原千畝リトアニア共和国カウナス日本領事館領事代理の秘書2人も、ポーランド人でした。インテリジェンス全般に長けたポーランド軍の一部が、日本陸軍に暗号解読技術を高める指導も行ったのです。
 小野寺信・ストックホルム駐在武官にヤルタ密約を知らせたのも、ロンドンに置かれたポーランド亡命政府の情報士官ミハール・リビコフスキー氏が手配した人物でした。「世界で最も危険な密偵」と、ゲシュタポから命を狙われていたリビコフスキー氏を、リスクを冒してまで守り通した小野寺武官。二人の関係は生涯続きました。
 (後略)
 (本記事は月刊『致知』2019年7月号 連載「意見・判断」から一部抜粋・編集したものです)
 【著者紹介】
河添恵子(かわそえ・けいこ)
 昭和38年千葉県生まれ。名古屋市立女子短期大学卒業後、61年北京外国語学院、62年遼寧師範大学(大連)へ留学。平成6年に作家活動を始め、学校教育、世界が日本をどう見ているか、移民問題などをテーマに40か国以上を取材し、情報発信を続ける。『産経新聞』や『正論』『WiLL』『週刊文春』『新潮45』『テーミス』などに執筆。『トランプが中国の夢を終わらせる─プーチンとの最強タッグが創生する新秩序』(ワニブックス)『世界はこれほど日本が好き』(祥伝社)など著書多数。
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 庶民にとって、領主が誰であったも関係ない。
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 戦国時代は、悲惨で、酷たらしい地獄であった。
 武士・サムライが、百姓を嫌い差別し「生かさず殺さず」の支配を続けたのには理由があり、戦国の気風が残っていた江戸時代初期に斬り捨て御免が横行していたには理由があった。
 日本は、誰も助けてくれないブラック社会であった。
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 日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
 町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などの陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
 町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
 百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
 百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
 合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
 百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
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 武将は、足軽・雑兵、小者・人夫・下男による乱取りを黙認していた。
 乱取りで捕まった女子供は、各地の奴隷市で日本人商人に買われ、日本人商人は宣教師を通じて白人キリスト教徒の奴隷商人に売って金儲けをしていた。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人は、奴隷として買った日本人を世界中に輸出して金儲けしていた。
 日本人奴隷を生み出していたのは、乱取りを行った百姓達であった。
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 現代日本人は、潔くカッコイイ武士・サムライの子孫ではなく、乱取りをし日本人を奴隷として売って大金を稼いでいた庶民の子孫である。
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