🏯66)67)68)─1─ムラ社会の山争い・水争い。百姓の子供は将来の為に寺子屋で公的訴訟関係文書を学んだ。音読みの素読。~No.125No.126No.127No.128No.129No.130 * ⑧ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 百姓は、農作物を作るだけの無学文盲の愚鈍でもなければ、命じられた年貢を納め搾取されるだけの虐げられた愚民でもなかった。
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 寺子屋は、読み書き算盤を教えた。
 読み書きは、意味や内容は教えず先ず文字と文章を教えた。
 教える方法は、素読(そどく)である。
 文章を声を張り上げて音読する事であった。
 子供によっては、音読する事で気分が高揚しリズムに合わせて声を出していた。
 日本の読書とは、素読であった。
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 百姓は、里山の水や木を守る為に殺し合いをするほどに戦っていた。
 だが、隠し持っている刀や鉄砲は使わなかった。
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 2017年8月20日 朝日新聞・書評「『江戸・明治 百姓たちの山争い裁判』渡辺尚志著 評・市田
 生活の糧を懸けた人間ドラマ
 山野の境界をめぐって争った百姓たちの歴史を、江戸時代の裁判を中心に解説する本書は、人間ドラマの魅力に満ちている。知略を尽くして闘う姿は『百姓』のイメージを一変させた。
 江戸時代の人口の約8割は百姓だという。多くの日本人の祖先が、武士に隷属するだけの物言わぬ民ではなく、したたかに生きてきたことが分かるのだ。
 現代も土地の境界線をめぐるトラブルはたえないが、本書によると、江戸時代の山野の利用・所有権は村にとって死活問題、建築資材、燃料、食料を山野から得ており、その価値は現代と比較にならないほど大きい。
 裁判という紛争解決が定着する前の、中世から江戸初期のやり方がすさまじい。神仏の意思を問うとして、双方の村の代表が熱湯に手を入れたり、焼けた鉄棒を触ったりした結果、ヤケドの程度が軽い方が勝ちという過酷なものだった。
 武士が裁く裁判では立ち会う弁護士がいないため、村役人らは訴状にもとづき自ら権利を主張する。将来に備えて村の子どもに寺子屋で訴訟関係文書を学ばせる。地元で解決できない争いが江戸の幕府評定所に持ち込まれたら、多額の旅費などの負担に耐える。評定所で強硬に示談を迫る幕府役人に抗弁して入牢を命じられることもあった。著者が全国各地の古文書を読み解いて紹介する、山争いにかける百姓たちの意気込みには鬼気迫るものがある。
 さらに、大名にとっても、他領の村との山争いによる境界変更は領地の増減につながる重要問題だった。百姓とタッグを組んだ武士が百姓に扮して裁判で主張することもあり、裁判劇の興趣が尽きない。
 著者は、百姓たちが山争いによって確保した山野の自然と長い間共生してきたゆえ、『日本列島の約7割におよぶ森林』保護が成されたと結ぶ。本書の引用史料はすべて現代語訳。百姓たちの知恵の深さをわかりやすく堪能できる一冊だ」
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 藤井聡「心理学者の戸田正直氏が提唱したアージ理論というのがあります。人間の感情や認識構造がどのような進化の過程で作られてきたかを明らかにするもので、それによると、もともと人間の感情は何百、何千万年もの間、サバンナや山をかけめぐる中で形成されてきたんだと。つまり、我々の心は現代社会ではなく、野性のルールにチューニングされているんですね。その野性の最大のルールが『いま・ここ』を生き延びること。目の前の事象に対して合理的な判断をするように僕たちの心は作られている。だから数千万年ものプロセスで培った心理メカニズムを、そのまま何の注意もせず、たった数百年の間にできた近代政治に適用すると大火傷を負うんです」
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 9月15日号 週刊朝日「週刊図書館 『江戸・明治 百姓たちの山争い裁判』渡辺尚之
 土地の権利を巡る争いは今に始まった話ではない。特に江戸時代の百姓は生活の山への依存度は高く、利用権を巡り度々衝突し、訴訟が起きた。
 彼らは裁判に臨む姿勢は我々の想像を超える。大きな訴訟が起きると訴状や返答書が次々に書き写され、寺子屋の教科書となり、子供の頃から訴訟対策を学ぶ者もいたほどだ。
 境界争いは領地に直結するため、武士も無縁ではなかった。伊予国土佐国の国境争いは、幕府の評定所に持ち込まれたが、土佐側が出廷すべき庄屋の代わりに弁の立つ武士が百姓と偽装して派遣。もはや、武士同士の全面戦争の様相だ。
 とはいえ、山争い裁判は、単なる争い合いではない。山をどのように利用してきたか正当性を問う場であった。先人が必死に守ってきた山野とどう共生していくかを考えさせる一冊」(栗下直也)
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 無知蒙昧では、家財産や田畑どころか自分の命や家族の命さえ遠慮容赦なく奪い去る日本の自然災害多発地帯で百姓は生き残れなかった。
 百姓は、御上の理不尽な命令と知りながら従順に従い、約束違反の重税と知りながら文句一つ言わず年貢を納める、そんな「やわ」な存在ではなかった。
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 サムライ・武士は、一所懸命として領地を守ったが、所詮は鉢植えの盆栽に過ぎなかった。
 領地とは、俸禄として主君から一時期与えられたに過ぎず、主君の機嫌一つで召し上げられた。
 大名も、幕府から統治の委任状を得て領国を支配したが、幕府の命で領地替えさせられたり、最悪は領地を取り上げられ改易・お家取り潰しを命じられる事もあった。
 幕府は、京の朝廷、天皇から征夷大将軍職・将軍職を与えられて日本国の統治者となり、天皇にその職を剥奪されると賊軍として討伐された。
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 百姓は、先祖代々、その土地に根を張って生きてきた。
 百姓は、幕府や大名は年貢を通じ実体的つながりを持っていたが、土地を通じて精神的に天皇・皇室とつながっていた。
 その証拠が、庶民のお伊勢参り・御陰参りである。
 日本民族日本人の心理は、鎮守の杜・自然の風情を求め、自然の息吹きに抱かれる事で穏やかになり癒やされる。
 その象徴が、伊勢神宮の杜であり五十鈴川の清流である。
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 日本の百姓は、中華(中国・朝鮮)や西洋などの農民・農夫とは違っていた。
 日本の小作人も、大陸の農奴・家奴などの奴隷とも違っていた。
 日本で、キリスト教の絶対価値観一神教信者が増えなかったのはその為である。
 教条主義原理主義的観念論の中華儒教・正統派儒教が、朝鮮を完全支配しても、日本に根付かなかったのもこの為である。
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 そこでは、マルクス主義階級闘争史観は無縁であった。
 百姓や小作人にとって、共産主義的人民解放史観はクソの役にも立たない代物であった。
 日本で、架空的妄想的理想的現実離れした地に足がついていない机上の共産主義が嫌われたのはその為である。
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 日本は、さむらい・武士の国ではなく百姓の国であった。
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 戦後、日本から泥臭い百姓が消えた。
 現代日本で重視されるのは、現場・現地ではなく後方の会議室・事務所の机である。
 つまり、教養で洗練された高学歴出身の知的エリートが支配している。


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