🏯77)78)79)─1─百姓一揆は武装蜂起ではなく、大名による武力鎮圧もなかった。〜No.147No.148No.149No.150No.151No.152 * ⑨ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 260年の江戸時代、全国で約3,000件の百姓一揆が起きていた。
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 日本には一揆や打ち壊しなどの騒動が起きても、中国や西洋などのような革命・争乱・暴動は起きなかった。
 何故か、それは無益な、無駄な、無意味な「人殺し」を嫌ったからである。
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 百姓は、一揆を起こすにあたって死を覚悟していた。
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 江戸時代は、過酷なブラック社会であり、自己決定と自己責任として「甘え」や「言い訳」は一切許されなかった。
 自己決定と自己責任とは、結果が良くも悪くも、命を捨てても、家族を犠牲にしても、自分の責任を取らねばならない、と言う事である。
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 江戸時代は、260年1日として変わらなかったと言うのはウソであり、前例主義や事なかれ主義が支配していたが、時の将軍や実権を持った老中そして西洋の海外事情で目まぐるしい変化を繰り返していた。
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 徳川幕府は、官軍との戦いで敗れる前に、すでに関東で起きた大規模な百姓一揆で弱体化していた。
 徳川幕府が瓦解して消滅したのは、百姓から見捨てられたからである。
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 2019年10月10日号 週刊文春出口治明のゼロから学ぶ『日本史』講義 
 [近世篇]
 一揆(百姓武装蜂起)の幻想
 白土三平さんに『カムイ伝』という大ベストセラー漫画があります。
 カムイ伝といえば、百姓一揆のシーンが印象的です。江戸時代の百姓一揆が、ひどい領主に対して、竹槍と筵旗(むしろばた)を押し立てた農民の大武装蜂起として描かれています。
 私たちの百姓一揆のイメージも、それに近いのではないでしょうか。
 しかし実際の百姓一揆は、そういうものではなかったようです。
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 江戸時代においても諍(いさか)いがあれば、まず裁判に訴えました。裁判には『吟味筋(ぎんみすじ)』と『出入筋(でいりすじ)』という2つの形式がありました。
 吟味筋は殺人や強盗など刑事事件を裁くもので、出入筋というのは、主に民事裁判を指します。地方(藩領)の場合は領主に、幕領、国境をまたぐ案件は幕府に訴えます。
 出入筋は、さらに金公事(かねくじ)、要するに借金争いと、それ以外の本公事(ほんくじ)という土地争いなどに分かれます。
 金公事については、当事者間で内済、いまでいう和解を進めていて、村役人や有力者が扱人(あつかいにん)と呼ばれる第三者になり、双方の話を聞いて和解させるようにしていました。
 本公事の土地争いなどは、当事者間ではなかなか決着が着きませんから、役所が裁くことになります。
 そのときは訴状を紙に書きます。これを目安と呼びました。民の声を聞くための目安箱というのは、もともと訴状を放り込んだものです。
 しかもこの訴状は、個人ではなく村単位になるので、名主がちゃんとハンコを押しています。幕府に訴えるときには、領主が添文をしました。
 幕府や江戸在中の領主に訴えるためには、江戸や大坂まで出向かないとなりません。そこで裁判に来た人たちの公事宿(くじやど)が置かれます。公事宿は幕府公認でした。訴願(そがん)文書の代筆や、領主と百姓の間を取り持つ役割があったのです。
 そこには公事師(くじし)がいました。これは幕府の役人ではない。いまの弁護士のような存在です。
 19世紀前半前半の大阪では、公用文書の筆耕料が当時の米1.5キロ相当で、百姓が気安く依頼できる値段でした。ですから百姓の請願が多く、1850年に河内国(大坂)の代官へ1ヵ月半の間に146件の訴願が出され、そのうち大坂町奉行所への公訴(こうそ)が11件という記録が残されているそうです(井上勝生『開国と幕末改革』)。
 江戸時代の紛争解決は基本的にはこういう書類で争うシステムでした。では暴力的にみえる百姓一揆は実際にはどうだったのか。
 一揆でなく強訴
 これについては保阪智さんが『百姓一揆とその作法』という本で詳しく紹介しています。
 それによると、いわゆる私たちが想像する、武器をもって蜂起する一揆は、1600年代の10件を最多とし、1630年代に3件(このなかに、島原・天草一揆も含まれます)を数えるのを最後に途絶えます。
 かわりに18世紀にはいると、同じ領内にある村々が協力しあって示威(じい)行動をする。『強訴(ごうそ)』が増えました。いまのデモのように大勢で奉行所や城下に押し寄せるわけです。
 彼らは鉄砲を持ち出すことがあっても法螺貝(ほらがい)などと同様に『鳴り物』として使うだけで、竹槍を持っていても、それで人を殺したのは江戸時代の3,000件以上の一揆の中で2件だけだったそうです。
 鎌や鋤(すき)なども、自分が百姓であることを示す『身分標識』として携行していたと考えられています。
 一揆の象徴のように思われた筵旗も、実際に使われた例はごくわずかにあるだけで、村の印やスローガンを書いた旗も、木綿や紙のものがほとんどでした。
 1825年に信州で激しい打ちこわしが起きたとの記録には逆に『百姓騒動の作法に外れている』と評されているぐらい、実は暴力行為は少なかったのです。
 幕府重臣への直訴(じきそ)
 地元の領主に要求が通らない場合、幕府に直接訴え出ることも行われていました。いわば現代の裁判の『上訴(じょうそ)』のようなものですね。
 江戸城中から駕籠に乗って帰る老中や奉行など幕府重臣たちへの直訴(駕籠訴)は、厳しく処罰されるイメージがありますが、以外にも許容されていました。
 19世紀の公事宿の記録には、『城から下がる駕籠にお願いがございますと声をかける』という駕籠訴(かごそ)のマニュアルや、その後の処分についても、『牢に入れられることもあるがそれだけだ』などという記載が残されています。
 幕府の重臣に庶民が駕籠訴したというだけでは、『直訴はマナー違反やで』というだけで、厳罰の対象にはなりませんでした。
 なぜ武装蜂起が姿を消したかといえば、4代将軍家綱の頃から社会は安定して、『幕府や領主は民を愛して労(いたわ)る政治をやるで』という『仁政イデオロギー』が強くなったので、百姓も実力行使をせずに、『現場でこういう不正義がござうます。仁政を掲げる領主や幕府が悪事を糾(ただ)してください』と願い出るほうが有効だと考えられたのですね。
 ただ、あまりにも大規模なデモ(強訴)を行った場合、デモの首謀者は死罪になる場合がありました。
 領主も建前上は仁政を掲げているので『そうか、仕方がない』と百姓の要求を聞いてやる。しかし交換条件として煽ったリーダーは殺すで、ということです。
 一揆のリーダーもそれは覚悟していたようです。『よし、俺は村の人たちのために犠牲になるで』という意識があったのでしょう。
 死罪になった場合の子供の養育費や義民として顕彰することを保証している一揆もありました。一揆の規約に、犠牲者の家族は『片時も路頭に迷わせない』などと書いてあるのです。
 暴力的な一揆になると、島原・天草一揆のように参加者は皆殺しに遭いますから、それに比べれば、リーダーが殺されても、コストは低いと考えられたのかもしれません。
 幕末の『世直し』一揆
 こうした一揆も、19世紀の半ばに入ると過激化していきます。
 幕府が百姓の生活を支えきれず、仁政の建前が綻(ほころ)びを見せると、一揆の作法も廃(すた)れ、『口で言うてもあかんから』と実力行使い向かうようになるのです。
 1836年(天保7年)に初めて『世直し』を主張する一揆が現れました。幕府の混乱による生活の苦しさについて、示威的な行動で幕府や領主に改善を迫ったものです。
 1866年(慶応2年)には、埼玉県の秩父地方を中心とした『武州世直し一揆』が起きました。高騰した米の安売りを求めて武蔵国だけでなく、上野(群馬)、相模(神奈川)など10万人規模に膨れ上がった一揆の参加者が、豪農や村役人の屋敷など400軒以上の打ちこわしを行った大規模なものでした。幕末の治安悪化と不安のなかで、一揆は暴徒と同一視されるようになります。
 それでも、江戸時代全体としては基本的には書類を交わす裁判が主体であって、一揆に為ても『暴動』のイメージとはだいぶ異なるようです。」
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 1600年代、幕府は大名統制と大名取り潰しの大義名分に百姓一揆を利用しようとした。
 その代表例が、武装蜂起の島原・天草一揆であった。
 大名は、改易の言い掛かりになりかねない百姓一揆を恐れた。
 悪賢い百姓は、大名の弱みを悪用して要求をのませようとした。
 その為、現地在住の代官の多くは、家老・勘定方・郡奉行らの無理難題の重税圧力からムラ人・百姓を守っていた。
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 日本民族日本人は、日常起きていた事を、中国風の正史ではなく、多くの人が記録・メモ・日記等で書き記していた。
 その為に、日本は朝鮮とは違って古文書の宝庫である。
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 日本統治の原型は仁徳天皇にあり、世の中が平和になり、法秩序が守られて治安がよくなり、生活する事が安定・安全・安心すると神代の生活に憧れた。
 江戸時代の日本人が、抱いた「神の国」像であった。
 それが悪意をもって言われる、天皇ファシズム・皇室原理主義である。
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 戦後教育として、子供たちに教えられた歴史教育キリスト教隣人愛史観とマルクス主義階級闘争史観という偏向・偏狭な原理主義イデオロギーによって歪曲、捏造、改竄されたウソであった。
 キリスト教隣人愛史観とマルクス主義階級闘争史観とは、反天皇反日史観である。
 それ故に、日本人が奴隷として海外に売られた歴史的事実が抹消されている。
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 百姓一揆とは、政治権力である幕府・大名・武士の御政道に対する異議申し立てある以上、最高刑は磔獄門=死刑であるから、首謀者は命を捨てる覚悟必要であった。
 同時に、訴えられた大名は百姓一揆に負けると、最悪、領地没収の改易を命じられた。
 後で、大名・武士に都合のいい判決をした事が露見すると、裁定に携わった老中・若年寄・郡奉行・大目付は処罰され、将軍=御上の上意で役職を取り上げられ隠居させられた。
 大名ではない郡奉行・大目付などの旗本で悪質と判断されたら、切腹か遠島を命じられ、家禄は没収、家は断絶、家族は追放させられた。
 武士の役職は多忙であり、責任は死と隣り合わせであった。
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 江戸時代の百姓は、マルクス主義共産主義が認定すような搾取され虐げられた惨めで哀れな人民・労働者ではなかった。
 当時の日本には、幕府・大名の政治権力、仏教の宗教権威、天皇の御威光=御上の権威の3つが存在していた。
 身分が低く貧しい百姓は、ムラの鎮守の杜(もり)=氏神神社を参拝することで天皇の御威光=御上の権威を心の支えとして、現実の幕府・大名の政治権力、仏教の宗教権威と対峙していた。
 氏神祖先神神社の参拝は信仰ではない。
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 氏神祖先神神社には、教祖、経典・聖典、布教をおこなう教団もなかった。
 氏神祖先神神社の祭祀は、天皇が一子相伝として執り行う皇室祭祀・宮中祭祀に繋がっていた。
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 政治権力と宗教権威は、対立し、時には流血事件を起こす事があった。
 政治権力と宗教権威は、天皇の御威光=御上の権威に叛旗を翻(ひるがえ)す事はなく、「触らぬ神に祟りなし」として、欲得の俗世・俗事から遠ざけていた。
 政治権力と宗教権威は強欲塗れで穢れた不浄であり、天皇の御威光=御上の権威は清浄な穢れなき神聖不可侵であった。
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 江戸時代。各藩は、毎年、領内を数多くの大名が参勤交代として行き来していた為に、世間の評判を恐れて百姓一揆を穏便に解決する事に腐心していた。
 百姓は年貢を納める唯一の納税者であり、農業は町人やサムライが隣近所を見ながら見様見真似でできるという軽い・安易な作業ではなかった為に、熟練した百姓の数を減らさない為に農耕地を個人所有として自由な売買を禁止し、領外に流出ないように領内に縛りつけた。
 幕府・大名は、年貢を増やす為に荒れ地の開墾や河川湿地や沼での干拓を行い、足りない百姓を他藩からの流民や町人・サムライを積極的に入植させた。
 江戸初期の農地は約1,200万石であったが、幕末期では約3,000万石に増えた。
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 凶作や悪政で生きていけないと判断した百姓は、家や農地を捨てて江戸・京・大坂など都市の貧困地域・非人部落に逃げ込んでいた。
 幕府・大名・武士にとって、百姓が流出して数が減ると年貢も減り、財政難に陥った。 非人部落の住人数は、何かの理由で地方から流れ込む流民達によって常に増減していた。
 凶作では、被災地から、食べ物を求めて逃げた被災者は助かり、逃げずに留まった被災者の多くが餓死した。
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 レーニン共産主義者は、ウクライナ各地のクラークを人民・民衆の敵として農地や私有資産を暴力を用いて没収し、逆らう者は反革命分子として虐殺し、無力な数百万人を餓死させた。
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百姓一揆 (岩波新書)