🌏50)─1─明治新政府・大日本帝国・国民国家の骨組みは長州藩の「尊皇攘夷」であった。~No.171No.172No.173 ⑯ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 明治の専横的藩閥政治体制は、大雑把に、4割が長州、2割が薩摩、残りの4割が土佐・肥後の討幕派、公家、旧幕府と佐幕派、そして庶民からできていた。
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 2021年9月17日号 週刊朝日司馬遼太郎もうひとつの幕末史 講演録再録
 (1989年12月3日 山口市民会館ホール 山口県文書館開館30周年記念事業 原題=歴史の中の防長2州)
 戦国から幕末の『防長二州』
 幕末の勝利者は『薩長土肥』だが、討幕の主役は長州だろう。司馬さんは戦国から幕末までの長州の特異性を語る。明治国家にさきがけ、すでに国民国家が成立していたという。
  *  
 私がはじめて山口県を訪れたのは昭和30年代のはじめごろだと思います。長州というところは、風土として、お行儀のいいところですね。
 ……
 今日は山口県の方々に、自分たちの風土を思い出していただきたいと思います。長州の原形を考えていきたいのですが、まず長州人の顔の話からしましょう。
 長洲人には整った顔が多いと昔から言われています。
 美男美女が多いという。これは外国人が見てもそうだったんです。
 明治初期、御雇(おやとい)外国人にチェンバレンという人がいました。東京帝大の文学部、言語学の教授でした。朝鮮語を学び、アイヌ語を研究もし、日本語がどこから来たかということも研究した人です。チェンバレンは日本人の顔には2つあるといっております。
 薩摩タイプと長州タイプだと。薩摩人はお芋さんみたいだけど、長州はノーブルで整った顔をしていると言っています。
 長洲人は教養が高いが現実把握にやや欠ける
 チェンバレンが日本に来たころは薩長の天下で、東京で偉い人といえば薩摩人と長洲人でした。薩長の顔ばかり見ていたものだから、2つのタイプがあると思ったのかもしれません。日本人のルーツを考え、南方系と北方系、あるいは渡来系のちがいを言いたかったのかもしれません。
 明治維新を起こしたのは、その薩摩と長州、それと土佐でした。ほかの藩にも優秀な個人はいましたが、この3藩は面として、グループとして優秀でした。時勢に敏感で、危機感覚に優れていたといいましょうか。もっとも3藩とも非常に性格が違ったグループではあります。たとえば西郷隆盛明治維新の代表的な顔です。長州の顔は高杉晋作でしたが、維新寸前に亡くなった。そのため薩摩の顔が維新の顔になった。
 西郷さんはいまの社会に生まれていれば、とても山口高校には入学できませんな。西郷という人は、型どおりにはできていない。
 これは薩摩全体の風でもあります。侍に勉強させると屁理屈ばかり言って弱くなるというのが、戦国末期からの薩摩の方針でした。
 ところが長州はよく藩士に勉強させる藩でした。幕末もそれ以前もそうでして、庶民もよく勉強しました。農民に至るまでレベルの高い土地柄だったのです。しかし人間というのは難しいですね。勉強したからといって、ものがわかるわけではありません。
 長洲人は教養が高いのに、現実把握に欠けるところがありました。この点ではずいぶん薩摩がすぐれていた。そのため長州はずいぶん痛い目にあっています。これは長州の場合、自分たちが身につけていた教養が邪魔したからだと思われます。当時の教養とは、朱子学です。道学ともいい、人に道を教えます。黒といえば黒、白といえば白、グレーの世界はないと教える。しかし現実は白黒で割り切れるものではありません。すべての人の価値観はグレーともいえます。
 長洲人は攘夷、攘夷で燃え上がりました。長洲人は論理的でありすぎるところがありますから、全藩が攘夷で沸騰した。ここまでは朱子学イデオロギーの世界ですね。
 ところがイギリス以下4ヵ国の艦隊と下関で戦いまして、これで長州の攘夷は終わりました。
 外国は強い、攘夷と言ってる場合じゃないんだと、大転換した。朱子学的なイデオロギーで凝り固まっていたら、この転換はありえません。ほどほどに朱子学を学んだよさでした。薩摩に比べればやはり頭でっかちではありましたが。
 しかしどうして、そんなに長洲人は勉強が好きで、農民に至るまで民度が高かったのでしょう。
 もともと中国地方は先進地域でした。4、5世紀に鉄の国内生産が始まります。鉄が国産化され、木製だった鍬(くわ)が鉄製になります。実りが多くなる。鉄は農業革命を起こしたんですね。その鉄は中国地方の山中、出雲や広島県の三次(みよし)地方などで生産されました。鉄の生産があると、その付近はまたたくまに水田が広がります。人口が増えて社会の密度が濃くなり、人間の知能が発達します。
 岡山県広島県の東部は古代では、吉備(きび)国と呼ばれていました。古代では、出雲、大和、それに吉備国に力がありました。大和に対抗する一大勢力でしたが、奈良朝時代には衰え、ローカルな存在になってしまいます。しかし人材はそこに残りました。伝統があり、民度の高い中国地方を毛利氏は従えたわけです。
 中国地方というのは、11ヵ国ありました。いまで言えば、島根、鳥取、山口、広島。岡山。毛利氏の領土は、しれに兵庫県まで入ります。
 豊臣秀吉織田信長の代官として、中国攻めに向かいます。毛利征伐ですね。その最前線は兵庫県でした。毛利の本拠は広島です。兵庫県ですったもんだやっているうちに、毛利の本隊は岡山まで進出する。そして両軍がにらみあっているうちに、本能寺の変がおこります。和議を結んで、秀吉は岡山から『大返し』をします。山城(京都府)の山崎へ向かい、明智光秀と決戦して勝つのはご存じのとおりですが、このとき秀吉がしくりに言った言葉が、『中国者の律儀』でした。
 中国者は口に出したら実行するし、だまさないという。毛利元就だって、岡山の宇喜多直家だって、実に陰険な権謀術策もやってはいます。しかし、中国者というのは概して、うそはつかないらしいよいう印象が戦国時代にはあったようですね。
 その言葉は秀吉の死後に証明されることになります。毛利元就の領地は、中国地方の大部分を占めていました。元就の死後に秀吉の勢力下に入り、なおも大勢力であり続けた。豊臣恩顧の大名たちが次々と離反するなか、関ケ原の戦いを迎えます。
 毛利は西軍につきました。しかし総帥の毛利輝元は経験もなく、家康と天下の取り合いをする能力はありません。大軍を擁しつつも、軍配は石田三成にあずけました。
 三成にとって毛利の存在は大きかった。三成の領土は琵琶湖の周辺で、19万石ほどしかありません。
 対する徳川家康は255万石は持っている。たとえ家康が一回ぐらい負けたとしても、家康と一緒にやっていればそのうち恩賞をもらえると考える人がいても当然です。19万石ではそうはいかない。しかし、あの毛利が応援するという。毛利という大資本が後ろ盾になってくれることで、三成の振り出す小切手が信用された。あれだけの大きな戦いになりました。
 しかし、石田三成に味方したものの、関ケ原の毛利勢は一兵も、一発も鉄砲も撃ちませんでした。
 毛利軍を率いてきたのは、吉川広家という人でした。この人は賢い人でしたから、けっして石田の天下にはならない、なっても弱い天下だと思っていました。
 ……
 さて、本家の毛利家は大変なことになりました。広大な領土を取り上げられ、防長2州に押し込められることになりました。しかし、旧領地の侍たちはみな山口を目指しました。給料が下がるかもしれないし、もしかしたらもらえないかもしれない。もらえなくてもいいという人もいて、その人たちは百姓になりました。とにかく本家についてきた。
 律義の本領ですね。山野を開拓し、海を干拓し、少ない石高を増やし続けた。そういう人々が幕末の長州藩をつくったのです。
 幕末の長州には、奇兵隊という組織がありました。これは近代的な軍隊です。百姓、町人が志願して兵隊になる、志願兵制度をとっていました。
 こんな軍隊は、会津藩ではありえません。会津藩の殿様は美濃から来て、百姓を統治している。藩がどうなろうが、それは殿様の問題であり、百姓の問題ではない。会津藩だけではなく、どこの藩でもそうでした。仙台藩で似たような庶民の軍隊がありましたが、奇兵隊のように藩の主力軍になるということはありませんでした。
 要するに、藩の運命は自分の運命だと考える百姓は誰もおりません。私は百姓の子孫ですから、その感覚はよくわかるのです。これが幕藩体制というものでした。
 ところが長州藩は違ったのです。
 幕府が長州征伐をしようとして、四方の国境から攻めてくる。四境を守ろうと、庶民が志願してきた。そして戦えば常に、侍たちよりも強かった。
 侍と農民が作った意識
 奇兵隊から国民国家
 自分たちは江戸時代を百姓で過ごしたけれど、もともとは萩で威張っているご家中と、先祖は同じようなものだった。安芸にいたとき、あるいは石見(いわみ)にいたときは、自分たちは彼らより上だったかもしれない。運命により自分たちは百姓になり、彼らは萩のご家中になったんだ。そういうことでしょうね。戦国時代に侍という階級があったわけではなく、当時の侍は農民の大いなる者でしたからね。
 一方、萩の侍たちにも似た認識がありました。長州の百姓は自分たちの祖先と同じなのだと。
 そうでなければ伊藤俊輔(博文)のような人は成立しないのです。
 伊藤俊輔のお父さんは農民でしたが、やがて田畑をなくしました。田畑を持たない農民は、江戸時代では立っている場所がない。田畑だけが百姓としての存在のすべてでした。
 結局、お父さんは萩に出てきて、知り合いの侍に頼んで、奉公することになります。幼い伊藤俊輔は手習いに通うようになった。それが松下村塾でした。松下村塾吉田松陰のときから政治学校のようになりましたが、その前からあった塾で、もともとはただの手習い学校でした。
 ……
 来原良蔵という人がいました。のちに江戸屋敷切腹してしまうのですが。この来原良蔵が俊輔を気に入り、扶養家族にしようとした。長州にしかな制度で、『育(はぐみ)』といわれる制度でした。
 来原良蔵は中クラスのちゃんとした藩士です。俊輔も、来原の『育』になると来原の家族として遇され、お侍になる。藩士の格好をして、よその藩に行くときは、『長州藩伊藤俊輔』と名乗ることができます。若き日の伊藤俊輔は松陰の手紙を持ち、肥後藩士の宮部鼎蔵を訪ねたりしています。宮部は当代一流の名士であり、『育』にならなければ、とても会うことはできませんでした。長州にはこんな抜け道があったのです。
 長州は不思議な所ですね。侍と百姓が問題意識をともにしていたと思えるぐらいです。EC(欧州共同体)がどうなのか、東欧はどうなるのかと、そういうことをわがことのように思えるのが知性というものでしょう。長州藩の、日本の未来を、ペリー来襲の意味を、侍も百姓も考えていた。……
 明治維新以前に、すでに『長州』という国民国家が出現していたのです。
 奇兵隊ができていた。さらに藩の政治は内閣制をとっていました。多くの藩では家老が、それも門閥家老が藩内政治をとりしきるのですが、長州は違いました。有能な人が首相となり、大臣になる。もちろんそういった名称はありませんでしたが、とにかく責任内閣をつくっていた。さらに藩主はアクションをしませんでした。毛利の殿様は政治行為をしない、象徴だった。こう考えていくと、長州という藩は今でいうと『法人』のようになっていました。
 法によって人格をもつのが『法人』ですね。私個人は『法人』ではなく、ただの『自然人』です。さきほど伊藤俊輔が肥後に行った話をしましたが、彼はあいさつすうときに、『毛利大膳大夫(だいぜんのだいぶ)家来伊藤俊輔』とは言わずに、『長州藩伊藤俊輔』だったと思います。本来は『家来』と言うほうが正式なんですよ。赤穂浪士の討ち入りを思ってください。『浅野内匠頭家来大石内蔵助』でしょう。
 桂小五郎木戸孝允)は京都にいて駐在外交官といった仕事をしていましたが、彼も『家来』とは言わなかったと思います。むしろ新選組のほうが『会津中将御預新選組』などと古風に言っていました。
 だいたい藩という言葉が定着するのは、滑稽なことに明治以後です。維新が始まり、『廃藩置県』までの間にやかましく使われてようやく定着した。
 幕末のころはまだ、『藩』はモダンな、トレンディーな言葉でした。あまり幕末の人は使わなかった。
 しかし長州では使っていました。『藩』という法人のもと、筋目の桂小五郎も、そうでない伊藤俊輔も、奇兵隊も『長州藩士』になります。長州藩士ということに興奮する。奇兵隊の隊員が越後長岡で戦死したとしても、『公』のために死んだのであり、『自然人』の毛利大膳大夫のために死んだわけではない。こうして全員のグループが一体となり、上下がなくなっています。
 薩摩は違います。薩摩は長州のような国民国家ではなく、階級社会でした。薩摩の士族1万数千人が田原坂その他で死ぬことにより、ようやく侍の時代が終わった。それぐらい薩摩では侍と農民との間に、隔絶した上下がありました。
 防長2州という小さな単位ながら国民国家を成立させていた長州の特異性をお話ししてきました。幕府との戦いを通じて、その国民国家はできあがっていった。それ以前はただの大名とさほど変わりません。吉田松陰一人が出るに及んで、長洲人は火がついたように叫び始め、急速に一体化した。
 すでに明治が長州で始まっていたのです。」
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 ウィキペディア
 文久元年2月3日(1861年3月14日) ロシア軍艦対馬占領事件は、幕末にロシア帝国の軍艦が対馬芋崎を占拠し、兵舎・工場・練兵場などを建設して半年余にわたって滞留した事件。ポサドニック号事件とも呼ばれる。
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 百科事典マイペディア「ロシア軍艦対馬占領事件」の解説
 ロシア軍艦対馬占領事件
 対馬事件とも。1861年2月からロシア軍艦ポサドニック号が対馬占領を企て滞泊した事件。英国の対馬占領の野心を牽制(けんせい)するため船体修理を口実に対馬浅茅(あそう)湾に停泊したポサドニック号は3月芋崎(いもざき)に兵舎を建設,付近の永久租借権を要求。対馬藩や島民は激烈に抵抗し,幕府も外国奉行小栗忠順を派遣して撤退を求めたがロシア艦は動かず,英公使オールコックの協力申し出により英艦2隻が派遣され威嚇,8月ようやく退去した。
 出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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・薩英戦争:文久3年旧暦7月2日–4日(1963年8月15日–17日)。
・下関戦争(四国艦隊下関砲撃事件):文久3(1863)年と同4(1864)年。
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 長州と薩摩の攘夷は、初期は吉田松陰水戸藩と同じ「先攘夷」であったが、薩英戦争と下関戦争に敗北してからは幕府が目指した「後攘夷」に変更し、日本を軍国主義国家へと暴走させた。
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 明治維新・近代化の目的は、大国・ロシアの侵略から小国・日本を武力で守る事を最優先課題とした、近代的天皇制度統一国家の新設、挙国一致で対外戦争ができる中央集権体制への変更、強力な軍隊を作る為の財政改革、兵士を増やす為に世襲制武士層から国民皆兵への変更、全ての国民を徴兵する為に四民平等という身分制度の廃止、強靭な兵士を育成する為の近代教育、その他である。
 つまり、大陸侵略戦争(積極的自衛戦争)ができる近代的軍国主義国家の建設であった。
 ロシアとの絶望的祖国防衛戦争に勝つ為には、手段・方法など選んでいる余裕はなく、兵力を集める為には四民平等として根刮ぎ動員した。
 日本列島・日本国に住む日本国籍を持つ全ての日本人・アイヌ人・琉球人を日本国民として否応もなしに強制徴兵し、身分・出自・家柄も関係なく士族や庶民だけでなく偏見と差別された賤民(非人・穢多)や部落民(山の民・川の民・海の民)さえも戦える男子を全て狩り出して戦場に送った。
 それが、日露戦争であった。
 だが、朝鮮人日本国籍を持っていても日本軍兵士・皇軍兵士にしない為に徴兵しなかった。
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 明治維新とは国家の軍国主義化で、ロシアとの戦争に勝つ為に、260年間平和に生きてきた日本人を戦争が出来る好戦民族に改造する事であった。
 日本民族は、尚武の民族ではない。
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 DIAMOND online
 【山口県】頭脳明晰で弁が立つ 無類の負けず嫌い
 都道府県データ:Vol.45
 岩中祥史:出版プロデューサー
 2011.1.27 0:01
 270年近く続いた江戸幕府をひっくり返し、近代日本の扉を開いた明治維新。それを推進したのは薩長土肥とされているが、一番の中心は長州=山口県だという強い思いが、山口県人の頭にはある。幕末の「八月一八日の政変」以来、ことごとく長州に敵対してきた会津福島県)の人々に対し、「許すまじ」という姿勢を今なお崩さないのも、それと深くかかわっていそうだ。無類の負けず嫌いと言っていい。
 その山口県は本州の西の端にあり、トンネルをくぐれば九州、海を越えればそこはもう韓国である。だが、そんな辺境の地にあったからこそ、人々の信望が厚かった藩主・毛利氏の下、長州人は一致団結して事に当たった。
 吉田松陰伊藤博文桂小五郎高杉晋作など、維新回天を推進した人物も数多く輩出しているから、長州こそ日本で最優秀の藩であった、いや県であるという誇りを失わずにいるのが山口県人である。
 もともと中国地方全域を支配していた毛利氏に仕えていた人々が多いだけに、発想の幅も行動力も想像以上にスケールが大きい。それに見合った使命感・責任感もあるから、一国の大事も喜んで引き受ける。事実、これまで山口県からは総理大臣が8人も出ている。薩摩(鹿児島県)の3人、土佐(高知県)の2人、肥前(佐賀・長崎県)の1人に比べれば、その差は歴然。しかも、そうした思いが一般人にも息づいている。
 ただ、それが時として、他県出身者に対し高飛車な言動として表れることもある。教育熱心な県民性の影響だろう、頭脳明晰な人が多い。弁も立つから、山口県人と議論して勝つのは難しそうだ。
 また、そのエネルギーがビジネスに向かうと、ユニクロ柳井正やゼンリンの原田康、古くは鮎川義介(日産)、久原房之助(日立)、藤田伝三郎(藤田組=現DOWAホールディングス)等といったビッグカンパニーの創業者を生み出す。
 誇り高い山口県人に対しては、それを常に認める姿勢を見せることが大事になってくる。それを忘れてしまったときのしっぺ返しが怖いことも覚悟したい。
山口県データ◆県庁所在地:山口市/県知事:二井関成/人口:144万6874人(H22年)/面積:6114平方キロメートル/農業産出額:654億円(H19年)/県の木:アカマツ/県の花:夏みかんの花/県の鳥:ナベヅル
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 株式会社光文社
 女性自身TOP > ライフ > 暮らし > 郷土意識の強い県民性…大河で注目の「山口県トリビア5」
 記事投稿日:2015/02/07 12:00 最終更新日:2015/02/07 12:00
 「山口県の県民性は、歴史の重さなのか、ほかの県よりも郷土意識がすごく強い。血縁、先輩後輩のつながりを非常に大切にしますね。本をただせば、毛利元就の三矢の教えからきていると思われますが、世話好きで、仲間意識が強いのが特徴でもあります」
 こう語るのは、県民性研究の第一人者、ナンバーワン戦略研究所の矢野新一さん。吉田松陰をはじめ、明治維新の原動力となった幕末の志士たちが誕生した地、山口県。今年の大河ドラマ『花燃ゆ』の舞台が長州藩とあって、今年最も注目されている場所の1つだ。
 そこで、矢野さんの協力のもと、今年話題の“山口県の素顔”をトリビア形式で探ってみることにした!
【1】首相輩出8人は全国最多!
 「薩長土肥で明治政府を作った。そのなかでも長州藩がいちばん功績があった。そして首相の輩出人数が最も多いということからも、山口県人は“日本の政治は山口が引っ張ってきた”という自負がありますね」(矢野さん・以下同)
 初代内閣総理大臣伊藤博文(光市)をはじめ、山県有朋萩市)。通算在職日数の最長記録(2千886日)を持つ、桂太郎萩市)。寺内正毅山口市)、田中義一萩市)、岸信介田布施町)。ノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作田布施町)、そして現在の安倍晋三長門市)まで計8人を輩出。
【2】主要官庁のエリート官僚を量産している!
 「以前、私どもが独自調査した“エリート官僚輩出率”というものがあります。『政官要覧』(平成21年秋号)から中央省庁の課長以上の出身地を調べ、各都道府県の人口10万人当たりで何人いるかを割り出したデータです。その結果、全国第1位は東京でしたが、第2位がなんと山口県でした」
【3】県民性は保守的で頑固。プライドが高い!
 「すごく保守的。その理由は、米と塩と紙の三白政策(生産を奨励する政策)というのがあって、昔から豊かな生活を送っていたから、物事を変えることを望まないんです。頑固で、白黒つけたがるのも特徴。山口県の人は男女ともに“まあまあ”というのが嫌い。はっきりと決着をつけたいという性格の人が多いですね」
【4】ガードレールが黄色なのには理由があった!
 県内には、約1,200キロにおよぶガードレールが設置されているが、その大部分が白ではなく黄色。その理由は、’63年の山口国体の開催の折、景観整備の一環として、特産で県花でもある“夏みかん”の色に統一したためだ。現在も引き継がれ、県民からもよく目立つ色として好評だとか。ここにも“わが道を行く”山口らしさが出ているかも。
【5】東京そっくりの地名がいっぱいある!
 「周南市内(旧徳山市)には、有楽町、銀座、自由が丘、新宿といった、東京の地名がいくつもある。市役所に聞いたところ、昔、徳山市ができて住民から希望の地名を聞いたとき東京の地名を挙げる人が多かった。それが採用されて、今でも残っているんです。中央への憧れ、上昇志向を感じますね」
 山口県民は、郷土意識が強く、義理人情にも厚いが保守的で頑固。そして政治が好きでエリート官僚も多く輩出。薩長土肥なんて遠い昔の話と思いがちだが、じつは今でもニッポンを牛耳っているのかもしれない。
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 PRESIDENT Oniline
 なぜ、山口は官僚輩出率が高いのか?
 PRESIDENT 2012年3月5日号
 江藤 誌惠 ライター
 苦手なあの人との距離を縮めたいと考えるなら、ぜひ、この法則を試してほしい。「出身地のDNA」を読み解けば、コミュニケーション上手になること間違いなし。これで、仕事も出世も恋愛も思いのままだ!
 自己顕示欲が強い、政治好きの保守派
 山口県民気質
 明治初期の官僚は、当然のことながら「薩長土肥」出身者で占められていたが、なかでも長州の人間が多かった。官僚は歌舞伎役者やタレントのように、父親が官僚だと息子も官僚になる確率が高い(外務官僚に東京出身者が多いのもそのため)。
 山口男は議論好きで、総理大臣が8人も出た地域だけに政治好きも多い。金には細かくないが、体裁を気にするかっこつけしい。そのうえ、負けず嫌いで見栄っ張り。郷土意識も強く、先輩・後輩のつながりも大事にするのも大きな特徴。
 「薩摩の大提灯、長州の小提灯」という言葉があるが、これは薩長が江戸入りしたとき、薩摩は大きな提灯を先頭にして歩いたが、長州は全員が小さな提灯を持って歩いたという話。自己顕示欲が強いことの表れである。
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 山口県民――『義』を損なえばたちまち不機嫌になる。前時代的な武士気質
 PRESIDENT PLUS 2013年5月15日号
 北海道から沖縄までタテに細長いニッポン。気候も違えば人々の性格も違い、価値観はもちろん、相性さえも変わる。脈々と形成され、遺伝する出身県DNA。ここでは、47都道府県民それぞれの性格を大解剖。
 長州藩を前身とする、プライドの高い、山口県
 山口県民の脳内をチェック!
 明治維新で活躍した長州藩を前身とする山口県。今日の日本の建国に貢献した自負と、これまで8人の総理大臣を輩出したことから、プライドが非常に高いのが特徴。また、米、塩、紙の三白で豊かだったこともあり、保守的な性格に。武士的体質で「年上に従う」のはあたり前。「男尊女卑」の前時代的気風も多少残っている。負けず嫌いで見栄っ張り。カネにはおおまかでも借金は嫌い。頑固で好き嫌いもはっきりしている。安易に妥協することがなく、自己中心的なので、ペースに合わせて付き合うのが大切。「義」を大切にするので、他県人のちょっとしたふるまいに、突如不機嫌になることがあるので態度、言動に要注意。
●良評
 ・義理人情に厚い、人たらし(東京・男)
 ・男らしく、正義感のある人が多い(千葉・女)
●悪評
 ・人柄が悪く、急に切れて怖い(山形・女)
 ・自分が偉いので、他人の話は聞かない(佐賀・男)
上司――野心家で独善的な男上司。ストレートな女上司
●男上司
 常に野心を持ち体裁にこだわるタイプが多い。独善的で、部下の意見は聞かないところもある。形式主義で上下の秩序が乱れるのを嫌う傾向も。そのわりに、新しいものでも受け入れる。実力で評価するので、業績を上げる努力を怠らないこと。メンツをつぶさず、常に立てておけば、機嫌がよい。
●女上司
 何事も心に留めておけない性格だから気が強く、ときに怖さも感じるが気にしないこと。ストレートなものの言い方をするので、最初は面食らうが、情に厚く気配りもできるので安心を。姉御肌で度量が広く、部下の面倒見もよいから、仕事に限らずマメに相談すると、意外とかわいがってくれるようになる。
部下――自己主張の激しい男部下。向上心の高い女部下
●男部下
 口先ばかりで行動が伴わない。ただし、何事も中途半端にすることはなく、まあいいかと安易に妥協もしないので案外仕事はこなせるほう。情にも厚く年上への礼儀をわきまえているので、決して上司に反発することはない。自己主張の激しさをライバルとの競争心に向けてやれば、さらに頑張るタイプだ。
●女部下
 サッパリとした性格で、社交性に富み活発、行動半径も広い。苦労をいとわずテキパキと仕事をこなす。向上心もあり、ミスをしても落ち込まない。おおらかで小さいことにも悩まず持続力もあるのが特徴。考え方も生活もすべてに堅実。家族想いの人が多いので、ときに家族の話を聞いてあげると◎。
取引先――義を大切にして付き合う山口の顧客
 山口の顧客は保守的な性格から、人間関係重視型が多い。最初はうまくいかなくても、時間をかけて信用を得ること。一度信頼されれば、別の顧客を紹介してくれるほど情に厚く、義を重んじるタイプが多い。ただし、こちらも義をもって付き合わないと、知らず知らずのうちにプライドを傷つけ、恨みを買うことも。メンツをつぶさないように充分に注意して対応することが大切。盆暮れの挨拶も欠かさずにすることが望ましい。
●営業ポイント
 1..信用を得るまでは、足繁く訪問
 2. 義をもって、義を制す
3.担当者は一定させよ
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 長州の眼の前にある国境の国・対馬は、古代から幾度も中国・朝鮮に侵略され虐殺・強奪・強制連行されるという甚大な被害を被り、幕末には短期間であったがロシア海軍が不法上陸して居座り軍事用租借を要求しロシア領になる危険があった。
 日本の民族主義国粋主義軍国主義国家主義、古典的近代右翼・右派を生み出したのは、周辺諸国の日本侵略による国家存亡の危機で発狂的暴走をした長州とその周辺であった。それが外敵を打つという「尊皇攘夷」であった。
 長州藩で「尊皇攘夷」思想が過激化し爆発したのには正当な理由があったが、現代日本の歴史は拝外思想であると否定的である。
 歴史的事実として、日本は被害者であって加害者ではない。
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 長州藩は、他藩とは違って、武士と百姓が藩を守る為に共に戦う挙国一致藩であった。
 歴史的事実として、藩の為・主君の為に戦うのは武士だけで、領民であった百姓や町人は藩や主君を見捨てて逃げた。
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 薩摩藩西郷隆盛大久保利通黒田清隆東郷平八郎らは下級武士で、長州藩吉田松陰乃木希典らは下級武士で山県有朋足軽伊藤博文小作人からの養子で、星亨は庶民であった。
 彼らには地方の片田舎での血縁や地縁はあっても、中央・中枢・都市での血縁や世襲制には無縁であった。
 明治の底力は、豊かな江戸・京・大坂などの中央・都市ではなく、貧しい地方の片田舎にこそ存在し、地方から日本は変わり先進国・近代国家、世界の五大国にまで発展・成長したが、1990年頃のバブル崩壊とともに地方の片田舎は限界集落となって活力・底力は日本から消えた。
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 現代の日本と昔の日本は違う。
 昔の日本でも江戸後期・幕末・明治の日本と現代の日本とは別世界のように違う。
 江戸後期・幕末・明治の日本と現代の日本とは途絶して繋がっていない。
 当時の日本人と現代の日本人は安全なる別人のような日本人である。
 現代の日本人には当時の日本人が理解できない。
 何故、現代の日本人が当時の日本人が理解できないかと言えば、現代の日本人が自分を武士・サムライにたとえ武士道精神を極めようとするからである。
 当時の日本人は、下級武士や庶民など身分低い出身で、天皇の下での四民平等をスローガンとして、武士などの世襲制支配層を没落させたからである。
 西郷隆盛大久保利通らは下級武士で、山県有朋足軽で、伊藤博文小作人であった。
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 明治初期の日本の総人口は、人生50年時代で若者多く老人が少ない約3,000万人で、当時の日本人を世界から見れば年齢は若くそして知識・教養・技術など多方面で拙く幼かった。
 当時の日本人の唯一の武器は、未成熟・未経験で世間知らずで恐い物知らず・恐れ知らずの無鉄砲・無茶、好奇心と探究心が旺盛で新しい物好きで、日本はおろか世界でナンバーワンとオンリーワンでなければ納得できない「熱き血潮の若さ」であった。
 人生100年時代の老人が多く若者が少ない現代の日本(総人口約1億2,000万人)には、その全てが失われている。
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 日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
 町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などの陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
 町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
 百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
 百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
 合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
 百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
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