💖6)─3─ドイツ軍と戦う蜂起部隊イェジキの子供を陰で助けていたワルシャワの日本大使館。~No.27 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本陸軍・シベリア派遣軍の輸送船は、子供たちを救った人道の船。
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 2021年2月号 正論「先人に倣う
 親日の種をまいたポーランド人孤児
 坂本龍太朗
 2020年8月、ポーランドの首都ワルシャワでは76年前に起きたワルシャワ蜂起の慰霊祭が執り行われた。その1ヶ月後、同じ蜂起に関連した別の慰霊祭がワルシャワ北部にあるカンピノスの森で開かれた。その慰霊祭には『正論』令和元年11月号『語り継がれる日本への愛』で紹介した『ポーランド・シベリア孤児記念小学校』の子供たちが参列していた。簡単におさらいしておくと、『ポーランド・シベリア孤児』とは1920年代にシベリアに出兵していた日本軍によって救出された約800人のポーランド孤児たちのことで、2020年はこの救出劇から100周年となった。慰霊祭に小学校の子供たちが参列した理由、それは日本から帰国を果たした後、第二次世界大戦勃発に伴い多くの孤児たちが祖国防衛のために立ち上がり、ワルシャワ蜂起にも参戦していたためである。愛国心の大切さは日本から教わった。孤児たちがそう語っていたことからも分かるように、戦場において彼らを精神的に支えていたのは第二のふるさとともいえる日本の存在であった。その歴史は今でもポーランド人の間で語り継がれ、日本との絆を強くし続けている。
 今回はその歴史を紐解きたく、両国関係に大きな影響を与えたある人物を紹介したい。その男の名はイェジ・ストゥシャウコフスキ(1901~91)。彼はシベリアで救出された孤児の一人だった。無事に、帰国した彼はポーランド各地で精力的に日本について広め続けた。戦後は自身が日本で受けた温かいもてなしを苦境にあるポーランドの子供たちにほどこし、今では『1,000人の父』と称されている人物である。
 12歳で孤児に
 イェジはキエフ郊外のスウタノヴィツに生まれた。父方、母方の祖父ともに1863年の1月蜂起でロシア帝国の支配に立ち上がり、シベリアに連行されている。刑期を終えてもポーランドには戻れず、ウクライナで帰国の機会をうかがっていた。そのためイェジの両親はウクライナで生まれ、結婚後も農業を営みながらイェジを含む5人の子供を育てていた。
 悲劇が家族を襲ったのは1914年。父がポーランド人であるという理由だけでボルシェヴィキ(後に共産党へとつながるレーニンが率いた左派の一派)に射殺されたのだ。ロシア革命後の混乱でロシア領内にいたポーランド人のうち、15~20万人の命が失われたと言われている。大黒柱を失った一家は財産を失い、ウクライナ南部のヘルソンへ強制移住させられた。
 移住後、兄弟や母がチフスに感染、イェジはキエフの叔父に引き取られた。その道中、イェジも感染し、一命をとりとめたが、看病していた叔母は亡くなってしまう。その後、イェジは、家族の元へ戻ろうと決意し、ヘルソンに向かうが、到着数日前に家族全員がポーランドに帰国したことを知る。
 身寄りを失ったイェジは12歳で、ポーランド救済委員会に保護された。ポーランド救済委員会とは1919年9月16日にシベリアにいたポーランド人孤児たちを救済するために設置された組織だ。英米仏など主要国からの支援を断られ、最後に扉をたたいた日本の支援で救出されたのだった。
 ポーランド孤児は東京・渋谷にある孤児養護施設『福田会』で療養し、手厚いもてなしを受けた。子供たちの多くは皮膚病など様々な病気を抱え、靴を履いていた子供も少なかった。イェジも日本赤十字看護婦らによる手厚い看護を受け回復した。
 帰国後のイェジ
 イェジは翌年ポーランドに帰国し、家族との再会を果たす。帰国後、イェジのように身寄りを見つけることができたポーランド孤児は30%程度であった。当時、祖国独立に伴い、国外にいた数多くのポーランド人が帰国、国内は混乱状態に陥っていた。祖国ポーランドには孤児たちを全面的に受け入れる余裕はなく、イェジたちは同国北部にあるヴェイヘローヴォの施設に収容され、共同生活を送ることになった。
 ヴェイヘローヴォで子供たちの教育において中心的な役割を担ったのは救済委員会副会長のヤクブキェーヴィチ(1892~1953)だった。ここでも日本の歴史や文化が教えられ、徳育の精神も教育に取り込まれた。子供たちもまた、スポーツのクラスで使っていたヨットの一つを貞明皇后陛下の諱(いみな)である『さだこ』と名付けたり、裁縫の授業で手縫いの浴衣を作るなど、日本を常に身近に感じていた。
 ヴェイヘローヴォで中等教育まで受けたイェジは、1928年にワルシャワ大学心理学部に入学。その2年後に極東青年会を設立し、自ら会長に就任した。青年会は日本を深く知り、ポーランド国内に広めていくことを活動の主眼に置いていた。
 青年会が発行した雑誌『極東の叫び』には日本の歴史、文化、武士道に加え、日本語のレッスンコラムも組まれ、ポーランド全土に配布された。第25号(1923年)には『極東青年会はポーランドと日本を繋げる社会的な役割を担っていきたい。そのためポーランド国内で日本の情報を広く発信していく(著者訳)』と青年会がいかに日本を伝える活動を重視していたかが分かる記述がある。
 イェジ率いる極東青年会は日本大使館などから支援金などもあって活動の範囲を広げていった。ポーランド各地で日本映画上映会や日本に関する本の読み聞かせ、『日本の夕べ』『桜の国の夜』といった日本関連イベントの主催、図書館や学校への900種類を超える日本関連の本や記事の配布、ラジオなどを通して日本を紹介し、ポーランド親日へと導いていった。
 1940年には日本再訪が計画された。しかしその夢は1939年にドイツによるポーランド侵攻で灰燼と化した。 
 日本大使館との関係
 イェジは学生時代から未成年のための裁判所や、特別支援学校で働きながら、かつての自分と同じような境遇にある子供たちのための孤児院も運営した。ただ、表向き孤児院を運営しつつ、裏では祖国防衛に備え、孤児院に武器弾薬などを集め、1929年10月に『特別蜂起部隊イェジキ』を結成した。ちなみにイェジキとは『イェジの子供たち』という意味で、極東青年会のメンバーに加え、多くの孤児たちが加わった。
 部隊の秘密拠点だった孤児院に何度かドイツ兵が押し入ったことがあった。彼らは子供たちに銃口を向け、孤児院の捜索を始めるが、孤児院のベルがなると見慣れない服を着た紳士が現れた。常日頃から孤児院を支援していた日本大使館の職員だった。大使館職員はドイツ兵らに孤児院が子供たち、スタッフとも日本国の庇護下にあって、一切の手出しを許さないと伝え、ドイツ兵を追い出した。おちろん、あらかじめイェジと日本国大使館が事前に打ち合わせをしていたようだ。
 戦時下にあって孤児院の環境が悪化したときもイェジに手を差し伸べたのは日本だった。ナチス・ドイツワルシャワを占領、日本大使館に閉鎖要請が下ると、イェジは大使館から一つの鍵をい託された。それは大使館内の倉庫の鍵で、その中には子供たちが生きながらえるれるだけの食料が保管されていた。また、イェジは日本大使館の職員を通して、ロンドンのポーランド亡命政府と連絡を取ることができた。
 イェジはドイツ占領下のワルシャワにあって常に捜索対象リストの上位に入っていた。イェジを追い詰めようと周囲のスタッフは次々にナチスに逮捕された。イェジの恋人、バルバラユダヤ人の子供をかくまった罪でドイツ軍に子供たちと共に孤児院の隣で公開処刑されている。孤児院内では占領下で禁止されていたポーランドの歴史、地理、文化などの教育を行っていたこともあり、多くのスタッフも路上で射殺された。中にはアウシュビッツに送られた者もいた。
 しかし、側近が次々と逮捕、拷問、処刑されも誰一人イェジの居場所を口にする者はいなかった。孤児院内では逮捕者が出るたびに別のスタッフが代わって子供たちに愛国教育を施し続けた。愛国心を育む大切さを日本から教わったとイェジは言う。戦時においてもその意志は孤児院内で共通の認識として変わることはなかった。
 特別蜂起部隊イェジキは全国で1万5,000人の兵力を擁し、各地でドイツ軍への抵抗を続けた。部隊による鉄道輸送関係の破壊活動は122回に上り、その活動は戦闘機の破壊やドイツ車両の襲撃、地下出版までにわたる。部隊には17歳以上でなければ入隊できなかったが、それより若い子供たちの志願も多かった。イェジは成人していない子供たちを戦場に連れていくことを拒んだが、それにも関わらず多くの子供たちが自発的に同行した。それだけイェジが慕われ、彼らの多くが肉親らを目の前で殺され、ドイツ軍への復讐心に燃えていたのだった。
 現在、ワルシャワの旧市街地には『子供兵の像』が建っている。そこには子供連れの親がよく訪れ、自由とは戦いとの犠牲の上にあると子供たちに伝えている場となっている。
 イェジキ部隊はポーランド独立のために戦い続けた部隊であった。イェジは孤児院で日本の勇敢な軍人の話を聞かせ、特に強調したのが、日本人の勇気や祖国への忠誠心だった。
 全体主義との戦い
 ユダヤ人をかくまったことが知られれば家族全員処刑されると状況下で、イェジはユダヤ人の救出でも知られている。自分達は日本によって命を救われた。その命で、同じ境遇にある人たちを救いたい。そんなイェジの想いが実際の行動となった。ユダヤ強制移住地域ゲットーの壁に穴を開け、閉じ込められていたユダヤ人達を何度も救い出した。イェジキ部隊に救われたユダヤ人の数は約800人にも上る。
 ワルシャワ蜂起ではイェジを含む550名の部隊員が旧市街地防衛戦に参戦し、20日間で66名の犠牲を出す。その後、連合軍がワルシャワ北部のカンピノスの森に投下した武器や弾薬を回収し、旧市街に戻る作戦を引き受け、イェジは125人の隊員と共に森に入る。しかし武器は回収できたものの、圧倒的なドイツ軍に包囲された。イェジは16歳以下の者と家族のある男性を部隊から離脱させ、熾烈なゲリラ戦に入る。しかし離脱したはずの子供たちの中には、共に戦いたいとあえて部隊に戻り、その多くがイェジの目の前で散っていった。
 ゲリラ戦が始まって約1ヵ月後、生き残った隊員と共にイェジは森を出る。しかしそこでドイツ軍に囲まれ、多くがその場で射殺されたが、イェジは国内軍特別蜂起部隊イェジキ中尉と書いてある身分証を持っていたため、ドイツ軍に連行される。その後の尋問や軍事裁判の過程で、警備の目を盗み逃走し一命をとりとめた。
 1945年、イェジキ部隊が1,200人の戦死者を出した戦争が終結した。しかし、イェジの戦いは終わらなかった。ロンドン亡命政権の傘下にあった国内軍の幹部が次々と共産党政権によって逮捕されていったのである。幹部でなくとも国内軍に参加し、ポーランド独立のために戦った者は戦後、仕事で昇進できなかったり、突然クビになったりと社会で冷遇され続けた。イェジも1945年8月1日に逮捕され、死刑宣告を受けた。しかし、イェジを慕う多くの人たちの協力や、刑務所内でも態度が良く、更生の余地があるということで奇跡的に釈放された。
 建国の精神という遺産
 1959年、イェジはワルシャワで初めて戦後復興が始まったムラヌフ区の区長に就任した。ロンドン亡命政権はイェジをワルシャワの市長に据える意向だったのだが、共産党が政権を取ったことで、イェジは区長にしかなれなかった。
 戦後、ポーランドは大変荒れていた。そのためイェジが任されたムラヌフ区では強盗や喧嘩は日常茶飯事でアルコール中毒患者や荒れた子供たちであふれていた。そんな状況下でもイェジは奮闘した。
 管理しているムラヌフ区に7つの児童館などを設置し、子供たちが安全にいられる環境を作った。荒れた子供たちを土木工事などに積極的に雇い、社会の中での居場所を与えた。地区の緑化計画では子供たちに植樹させ、それぞれの木を子供たちに管理させた。
 区内にはあっという間に約2万本の木が植えられ、荒れ放題だったムラヌフ区はワルシャワの復興模範地区として何度も表彰された。戦後13年で区の人口は2万人にまで膨れ上がった。イェジによる、このムラヌフ区開発もまた、日本で学んだ『若い世代に対しての思いやり』『日本人の勤勉さと責任感』『強い意志の持ち方』などを具現化したものだった。
 イェジキ部隊がゲリラ戦を繰り広げたカンピノスの森には1957年に慰霊碑が建てられたが、当時簡易的なものに過ぎなかった。現在ある『十字慰霊碑』の設置許可は1984年まで待たなければならなかった。というのも、共産党政権は国内軍の活躍をできるだけ隠そうとしてきたからである。
 イェジは1983年にはポーランドせシベリア孤児の歴史を調査しているジャーナリスト、松本照男氏の協力もあって再来日を果たす。日本赤十字社などを訪問し、救われたポーランド孤児を代表して感謝を述べた。
 イェジは1991年5月に亡くなった。現在、ワルシャワから約30キロ離れたレシノ市にはイェジ・ストゥシャウコフスキ記念特別支援学校があり、クシシトフ・ラドコフスキ校長は武道に関する著書があるほどの親日家である。ワルシャワにはイェジ通りも設置されている。
 それだけでイェジがポーランドに遺したものは大きい。イェジが世話をしていた子供たちが大人になり、『特別蜂起部隊イェジキ記念協会』を創立。イェジの想いを伝え続けている。彼らが例外なく親日であることはイェジの精神が今でも生きている証である。
 イェジキ部隊が戦いを繰り広げたワルシャワ北部カンピノスの森にあるイェジキ慰霊碑の前では、毎年9月の第一日曜日に慰霊祭が執り行われている。2020年には初めて駐ポーランド日本国大使館から川田司特命全権大使(当時)が参加し、ポーランド国旗と同列に日の丸が掲げられた。
 普段、日本についてポーランドでは『桜の国』と形容されるが、関係者の方々は式辞で口々に『日本皇国(Empire of Japan)』という言葉をつかってイェジを救った日本への感謝を述べ、参列者たちの涙を誘った。最後にイェジキ慰霊碑に書かれた文言を紹介して締めくりたい。
 《ポーランドよ。……》
 シベリア孤児の救出という日本の先人達のほどこしを生涯忘れず、胸に刻んでポーランドの国づくりにつなげようと懸命に格闘したイェジ。極東青年会、イェジキ部隊という彼らの蒔(ま)いた〝種〟は、歴史とともに大きく育ち、今日のポーランド人の日本観の礎(いしずえ)となっているだけでなく、ドイツやソ連という全体主義と格闘しながら故国を再興しようというポーランドの誇り、精神の土台でもあるのだ。」
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 イェジィ・フィツォフスキ(Jerzy Ficowski、1924年9月4日 - 2006年5月9日)は、ポーランドの詩人・作家・翻訳者。熱心なカトリック教徒であるが、ポーランドのマイノリティ、とりわけユダヤとジプシー(ロマ)の文化に造詣が深い。
 経歴
 ワルシャワ生まれ。第二次世界大戦中、ドイツの占領下にあったポーランドで、国内軍(Armia Krajowa, 略称AK)のメンバーとしてワルシャワ蜂起に参戦する。戦後、ワルシャワ大学で哲学と社会学を学ぶ。
 1948年に最初の詩集『ブリキの兵士』(Ołowiani żołnierze)を出版。詩作の傍ら、ジプシーの生活する森のキャンプをたびたび訪れ、1948年から50年にかけてジプシーの集団とともに放浪の旅に出る。1953年に、これまで収集した資料と情報をもとにポーランドに住むジプシーの歴史・民俗学の研究書『ポーランドのジプシー』(Cyganie polscy)を出版。フィツォフスキはフェデリコ・ガルシーア・ロルカの専門家でもあり、ロルカの『ジプシー歌集』の翻訳を手掛けている。
 フィツォフスキはユダヤの文化や民間伝承の収集・記録・研究にも大きな業績を残している。とくに、ポーランドユダヤ系作家ブルーノ・シュルツの研究はフィツォフスキのライフワークであり、1967年に出版されたシュルツの評伝『大いなる異端の領域』(Regiony wielkiej herezji)は各国語に翻訳されている。
 1977年、ポーランドPENクラブ賞を受賞。2006年5月9日、ワルシャワで死去。
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 在シアトル日本国総領事館
 山田総領事(2017.6~2020.7)の見聞禄
 2018/12/21
 東京、シアトル経由でポーランドに帰ったシベリアのポーランド孤児の話
 (左から) テレサ・インディク・デイヴィス名誉領事、マーサ・ゴルンビックさん、
パウェル・クルンパさん(ポーランド・ホーム・アソシエーション代表)、
 私、アンナ・ドマラツカさん(シベリア孤児の娘)
 11月10日、私は二世ベテランホールでベテランズ・デイの記念行事に出席した後、ポーランド文化会館で行われた記念式典に出席しました。100年前のこの日(時差を考えるとヨーロッパではもう11月11日でしたが)、第一次世界大戦が終了し、同日、ポーランドが123年ぶりに独立を回復したのです。私がポーランド人の式典に招待されたのは、約100年前にシアトルで起こったポーランド人にまつわる出来事に日本が深くかかわっていたからです。
 ポーランド人は1795年に国土をプロシアとロシアに分割・併合されましたが、その後も独立の回復を目指して何度も蜂起しました。そのため、ポーランドに対するロシアの弾圧は厳しく、多くの政治犯や鉄道建設に徴用された労働者などがシベリアに送られ、過酷な条件の中で強制労働をさせられました。その子孫もあわせ、当時のウラジオストクやシベリア極東には約4~5万人のポーランド人が暮らしていたといいます。
 1917年にロシア革命が発生すると、赤軍と白軍の間で内戦が勃発します。混乱の中で、ロシア各地に住んでいたポーランド人達も難民となって極東に流れ込み、その数は15万~20万人に達したと言われています。混乱の中で、多くのポーランド人が命を落とし、多くの孤児が発生しました。第一次世界大戦の終了とともにポーランドは独立を回復したので、ウラジオストクでは、孤児たちをポーランドに送り届けようとポーランド救済委員会が発足します。しかし、ロシア経由のルートは内戦のため危険で通ることができません。委員長のアンナ・ビエルキエヴィチ女史は最初、ほかの国々に救済を訴えましたがうまくいかず、最後に東京に乗り込み、外務省に窮状を訴えました。外務省から連絡を受けた日本赤十字社が中心となり、仏教団体なども支援して、大規模な難民救済活動であるポーランド孤児の保護が行われたのです。
 1920年と22年の2回にわたり、陸軍の船で計765人の孤児がウラジオストクから敦賀港に着きました。第一陣の375名の孤児たちは、東京の施設に送られました。そこですっかり元気を回復した孤児たちは、8回に分けて日本の船で横浜からシアトルに渡り、米国を横断してポーランドに帰りました。第二陣の孤児たち390人は大阪に滞在し、スエズ運河経由の航路を取りました。このようにして765人の孤児が無事にポーランドに戻ることができたのです。シアトルのポーランド文化会館には、ポーランドへの帰途、シアトルに到着した孤児たちの大きな記念写真が掲げられており、日本語、ポーランド語、英語の三か国語で説明があります。
 これらの孤児たちは、青年になっても相互の連絡を絶やさず、「極東青年会」という互助組織を立ち上げました。1938年当時の記録では、会員数は434名だったそうです。会の発起人であったイエジ・ストシャウコフスキ氏は、第二次世界大戦が始まりポーランドが再びドイツとソ連に分割されると、ドイツ軍に占領されたワルシャワで発生した孤児たちのために孤児院を立ち上げました。同時に、「特別蜂起部隊イエジキ」を組織して、孤児院の子供たちもあわせてポーランド全体で数千人がこの地下組織に加わりドイツ軍に抵抗したということです。ちなみに、彼は共産主義体制下のポーランドを生き抜き、自由な社会になった1991年に亡くなります。ほかにも、シベリア孤児の中には、レジスタンス運動で逮捕されてアウシュビッツに収容され、そこから生還した人もいます。シベリア孤児の多くは、何という波乱に富んだ人生を生きたのでしょう!
 独立100周年記念行事では、ポーランド名誉領事のテレサ・インディク・デイヴィスさんが孤児のエピソードに触れた挨拶をしました。私も挨拶するよう求められ、ポーランドに勤務していた(1999年~2001年)ことを含めて自己紹介し、ポーランド孤児を巡る昔のエピソードや、1996年に神戸の震災孤児たちをポーランドが温かく受け入れてくれ、年老いたシベリア孤児の方々が子供の時の経験を話してくれたことなどを紹介しました。スピーチが終わると、私がスピーチの中で触れたポーランドで歌われる誕生日の歌「Sto Lat(100歳の意味)」を誰ともなく歌いだし、約200人のお客さんたちの大合唱になりました。会場にはシベリア孤児を父に持つアンナ・ドマラツカさんも来ており、お目に掛かることができました。彼女は既に日本で孤児ゆかりの土地を訪問したことがあるそうで、来年には父親の足跡を訪ねて、ハルビンウラジオストク敦賀、東京というルートで旅行する計画を立てているそうです。
 11月15日には、ベナロヤ・ホールでポーランド人のピアニスト、ヤヌシュ・オレイニチャクさんによる、ポーランド独立100周年記念のショパンのコンサートが行われ、家内と息子の3人で聴きに行きました。オレイニチャクさんは、11月に入ってから日本の複数の都市でコンサートを行い(私もですが、日本人は本当にショパンが好きですよね!)、14日の晩はニューヨークのカーネギーホールで弾いていたということです。オレイニチャクさんは、映画「戦場のピアニスト」でピアノの演奏を担当したピアニストで、この映画は私と家内の出会いのきっかけになった映画ですので、特別の思いがあります。オレイニチャクさんは、演奏プログラムを変更し、ポーランド魂を表現する曲のオンパレードとなりました。ユダヤ人のピアニスト、ヴワジスワフ・シュピルマンさんがドイツ軍に占領されていたワルシャワの隠れ家の廃墟でドイツ人将校に見つかったとき、自身がピアニストであることを証明するために弾いたノクターンNo.20遺作から始まり、第一部の最後には軍隊ポロネーズ、第2部の最後には英雄ポロネーズです。そして、アンコールの最後は革命エチュードで締めました。私にとっては、久しぶりに音楽で感動する幸せなひと時でした。
 (写真提供:アダム・ビエラフスキさん、ウィキメディア・コモンズ)
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ポーランド孤児・「桜咲く国」がつないだ765人の命
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 大正期のポーランド戦争孤児や昭和前期のポーランドユダヤ人難民達にとって、戦前日本の国旗「日章旗・日の丸」は憧れの星であり、軍旗・自衛隊旗旭日旗」は希望の光であり、国歌「君が代」は生きる勇気を与えてくれる響きであった。
 左翼・左派・ネットサハ、護憲派人権派、反自衛隊派、反戦平和団体そして反天皇反日的日本人達は、それを否定している。
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 現代の日本と昔の日本は別の国のように違う。
 特に、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者は、歴史上の日本人とは別人のような日本人である。
 彼らは、日本を世界に知らせて親日や知日を増やすのではなく、その逆に反日嫌日を国内外で増やしている。
 その象徴が、現代日本歴史教育における日本軍のシベリア出兵評価である。
 シベリア出兵を正しく評価でいない現代日本人には、歴史力・伝統力・文化力・宗教力はない、絶無である。
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 現代の日本人は、自分が信じたい時代劇を好むが、自分に都合が悪い歴史事実が嫌いである。
 その傾向は高学歴知的エリートに多い。
 日本の外務省・駐外日本大使館は、昔と現代とでは違う。
 昔の日本の外務省・駐外日本大使館は、現代の外務省・駐外日本大使館と違って国家を代表して、守らなければならない名誉・体面、誇りを知っていたし、その為に命を捨ててでも行動していた。
 ただし、幣原喜重郎ら一部のエリート外交官は国際協調重視で日本に犠牲を強いていた。
 優れていた外交官は、A級戦犯達であった。
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 ポーランドユダヤ人難民達が、ヒトラーナチス・ドイツからリトアニアに逃げ、首都カウナスにある日本領事に助けを求めたのは偶然ではなく助けてくれるという確信があったからである。
 彼らは、日本天皇・軍国日本・日本軍(日本軍部・日本陸軍)なら見捨てるのではなく救ってくれるという思い込みがあったからである。
 ポーランドユダヤ人難民達は、さ迷いながら何時の間にかカウナスに辿り着いたのではなく、ハッキリと駐カウナス日本領事を目指したのである。
 つまり、ポーランドユダヤ人難民達は、きっと「日本の天皇なら、軍国日本なら、日本陸軍なら自分達を窮地から救ってくれる」と、昭和天皇に「一縷の望み」を託し、日本国に「希望の星」を見ていたのである。
 が、現代日本の反天皇反日的日本人達はポーランドユダヤ人難民の淡い期待を否定している。
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 ポーランドや北欧や中東が親日なのは、現代日本護憲派人権派反戦平和団体が護る戦争を禁止している平和憲法日本国憲法)が理由ではなく、戦争を行っていた戦前の日本軍の振る舞いからである。
 ゆえに、彼らは表面のみを取り繕う心卑しき現代日本人を信用していない。
 親日の彼らは、戦争を行っていた戦前の日本から多くの事を学んだ。
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 戦前の日本は、絶望的な戦時中にも関わらず、同盟国ナチス・ドイツからの外圧を無視して、ポーランド人を助け、ポーランドユダヤ人をホロコーストから守っていた。
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 軍国日本がポーランド人戦争孤児を助けたのは、天皇の御稜威・大御心と靖国神社の心・志・精神・気概からである。
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 ポーランドの子供達は、現代日本護憲派人権派よりも、数倍も優秀で勇気があり勇敢で、全体主義侵略者から祖国を守る自己犠牲精神の「愛国心」を日本から学んだ。
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 現代の歴史教育では、シベリア出兵は夥しい犠牲を出して失敗に終わり、世界から日本の領土拡張の戦争であったと激しく非難された、と教えられている。
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 現代日本は、平和な時代であっても「我関せず」として、中国共産党チベットウイグル・モンゴルなどで行っている人道に対する罪「ジェノサイド」から目を逸らし、中国共産党からの外圧を恐れて彼らを助けようとはしない。
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 ポーランドレジスタンス「イェジキ」は、日本大使館の職員を通してロンドンのポーランド亡命政府と連絡を取る事ができた。
 日本陸軍は、ポーランド軍人将校からソ連などの情報を集めていた。
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 軍国日本、軍部、陸軍は、戦争を始めるという悪い事(戦争犯罪)を行ったが、勝利に関係ないのに戦闘中でも困っている非戦闘員を助けるという善い事(人道貢献)も行った。
 ソ連コミンテルン中国共産党など共産主義勢力は、人民の正義で虐殺を繰り返したが人の命を助けるという善い事など一つも行わなかった。
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 軍部、陸軍は、対ソ戦略からドイツではなくポーランドを重視していた。
 陸軍内には多くの派が存在し、多数派が支那派で、次にポーランド派、その次にドイツ派であった。
 その中でも、親ユダヤ派が主流で、ユダヤ陰謀論を信じる反ユダヤ派は極少数であった。
 反ユダヤ派が、後にヒトラーを信奉する親ドイツ派の中核となる。
 最大の親ユダヤ派は、昭和天皇であった。
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 ドイツは、ヒトラー、ナチ党以来の根強い親中国反天皇反日本である。
 ポーランドは、反ソ連・反ロシア、反ドイツで親日・知日そして親天皇である。
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 戦時中。日本国は、日独伊三国同盟があっても、ナチス・ドイツホロコーストからポーランドユダヤ人難民を守り、ワルシャワでドイツ軍に攻撃されているポーランドレジスタンスを助けていた。
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 明治の激動を生きた江戸時代の日本人同様に、大正時代の激動を生きた明治時代の日本人も偉大であった。
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 国際社会も現代日本も、戦前の日本、軍国日本、日本軍部・日本陸軍がおこなった人類史的人道貢献を認めず、歴史の闇に葬っている。
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 人道貢献をする日本人は2割、戦争犯罪をする日本人は3割、人道貢献も戦争犯罪も行わず上官の命令を同調人形のように盲目的に従う日本人は5割。
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 昔の日本人と現代の日本人は別人のような日本人である。
 昔の日本人は、自分の命より大事な物がある事を知っていたし、その大事な物の為ならば自己犠牲として命を捨てた。
 現代の日本人には、その命を捨てるほどの価値のある物を持っていない、というより命の方がが大事として捨てた。
 現代の日本人は、人権・人道を口先にするが実際の人道貢献などはしない。
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 現代日本の人権や人道活動は、中身のない、表面だけを飾る薄汚れた金メッキにすぎない。
 現代日本は、中国共産党チベットウイグル・モンゴル・少数民族へのジェノサイドや香港民主派弾圧に対して厳しい抗議の声をあげない。
 つまり、現代日本人には、「知ったか振り」で歴史を論じ、全てを知る裁定者として「正義の名」で昔の日本を糾弾する資格はない。
 特に、中国共産党に忖度して機嫌を取る親中国派・媚中派にそれが言える。
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