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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本軍人には多様な人間がいて、戦場で、人殺しの悪い事・戦争犯罪をした軍人もいれば、人助けの善い事・人道事業・人道貢献をした軍人もいた。
善い事をする日本人は2割、悪い事をする日本人は3割、悪い事をしないが善い事もしない日本人は5割。
同調圧力・場の空気を、嫌い影響されない日本人が2割、好んで仕掛ける日本人が3割、恐れて従う日本人は5割。
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共産主義は血を好み、人を虐殺しても、人を助けた事がない。
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2021年2月号 正論「先人に倣う
『革命難民』救出の裏に情報将校
三浦小太郎
令和2(2020)年は、アメリカ赤十字社と、日本の『船舶王』の異名を持った元神戸市長、勝田銀次郎、勝田の貨物船『陽明丸』を指揮する茅原基治、そして本稿で触れる日本の軍事諜報員によって、ロシア革命直後に遭難していた子供たちが救出されるという作戦が行われてから、ちょうど100年という節目だった。
この事件の全貌は『陽明丸と800人の子供たち』(北室南苑編著 並木書房)、そしてDVD〔陽明丸 奇跡の大航海〕(NPO法人 人道の船 陽明丸顕彰会 映画製作委員会)に詳しく描かれている。ぜひご覧いただきたい。ここではまず、事実関係を簡単に紹介する。
ロシア革命で孤立した子供たち
1017年、10月革命とソ連邦の成立、その後の『戦時共産主義体制』によってロシア全土に飢餓が拡大する。ボルシェヴィキ政権の相次ぐ失政、特に農村に対する強制的な穀物挑発(というより収奪)という誤った経済政策によって引き起こされたものだった。ペトログラードにも飢餓が迫り、市民たちは、子供たちだけでも、食料があるはずの農村地域に疎開させようと考え、1918年5月から6月にかけて、5歳から15歳の少年少女総勢895人が南ウラル地方に到着した。
しかし、不幸にも同地は激しい内戦に見舞われることになる。
第一次世界大戦下、ロシア臨時政府は数万人のチェコスロバキア軍兵士を捕虜としていた。『反ドイツ』『反ハンガリー』意識が強い彼らは、ロシア軍に協力して戦っていた。
ソ連が1918年3月、ドイツとブレスト・リトフスクで講和条約を結ぶと、チェコ軍は自分たちが嫌悪してきたドイツやハンガリーに引き渡されることを恐れ、海路でフランスにわたるべくまずウラジオストクに向かっていた。
ところがその最中、ウラル地方でチェコとハンガリーの捕虜同士で口論が起き、一人のハンガリー人が殺害される事件が起きてしまう。ソ連の軍事指導者、トロッキーは強権的な処置を取り、チェコ軍に武装引き渡しと赤軍への編入、抵抗するものは収容所行きという過酷な命令を下した。だがそれを 拒否したチェコ軍が同地で反ソ戦争に決起したのである。これを支援する白軍(反革命のロシア軍)や、様々な諸国が干渉し、鉄道も停止、同地に疎開していた子供たちは孤立してしまったのだった。
米国赤十字社の尽力
子供たちを引率(いんそつ)していた教師も、またペトログラードに残された両親も、事態を打開しようと懸命に努力する。だが、内戦下の混乱でほとんど身動きが取れない。
次第に食料が枯渇し、子供たちは現地の農村で働いたり、教会で施しを受けるなどして何とか飢えをしのいでいたが、もちろんそれだけでは充分ではなく、やむなく畑で盗みを働いた子供もいた。しかし、子供たちの団結力は強かった。食料が手に入れば、子供たちは必ず皆で分け合い、独り占めするような子供はほとんどいなかったという。
同年7月、ウラル山脈東部のエカテリンブルクに幽閉されていたロシア皇帝、ニコライ二世とその一家が、ソ連政府の命令で銃殺される。白軍が皇帝を救出することを恐れたソ連政府の虐殺だった。
確かに革命下において、ルイ16世もチャールズ1世も処刑されているが、彼らは形式的とは言え裁判を経ていた。ニコライ二世は完全にテロの犠牲となったのである。
緊迫する情勢下、多数の子供たちが孤立しているという情報が国際的にも伝わり、秋ごろから米国赤十字社の支援が開始された。
救護隊長は、聖路加病院の初代院長だったルドルフ・トイスラー、現場指揮にあたったのは米赤十字社にいたライリー・H・アレンという救護隊員だった。
彼らの支援がなければ、子供たちはこの冬に飢えと寒さで全滅したかもしれない。アレンは子供たちを保護し、翌1919年8月に鉄道でウラジオストクに輸送することができた。
日本の『船舶王』の英断
しかし、1920年3月から5月にかけて、極東ハバロフスクにあるニコラエスク港で日本軍や居留日本人、ロシア市民がソ連軍によって虐殺されるという尼港(にこう)事件が発生する。
この事件を含め、ソ連のパルチザンや赤軍によってテロルや虐殺行為が引き起こされた。これらは決して偶発的なものでもなければ、『内戦』という非常時の行為でもなかった。明確にレーニンの指令によるものだった。
レーニンはロシア革命に伴う内戦や外国の干渉などがまだ起きていなかった1917年12月の段階で、すでにテロルの実行部隊、チェー・カー(秘密警察)を編成し、18年2月には『社会主義の祖国は危機に瀕す』という文書の中で明確にこう述べているのだ。
『敵の手先、投機者、盗人、よたれ者、反革命のアジテーター、ドイツのスパイは、その場で処刑される』
この言葉には当時政権内からも『あまりに残酷だ』という反論があった。しかしレーニンはこう言い放った。
『君は、最も残酷な革命的テロルなくして、我々が勝利できると、本当に信じているのかね』(リチャード・パイプス『ロシア革命史』成文社より)
アレンは状況が危機的になったと判断し、子供たちを船で脱出させ、海路でペトログラードに送り届けることを決意する。だが、いくら助けを求め、協力を呼び掛けてもいい返事が得られない。アメリカ政府も、船会社も、すべて船舶の貸出を拒否するのだった。
確かに孤立し窮状が深まる子供たちを救出するといっても、子供たちは法的にはもともと『ソ連国民』である。彼らを外国人組織の力で脱出させることは、ソ連国内の法に照らせば『拉致事件』となり、ソ連から批判されるのは目に見えていた。外交問題となることだってあり得る。それを恐れた関係者は救いの手を差し伸べることに二の足を踏んだのだった。
事実、ソ連政府はこの子供たちの保護を『帝国主義アメリカ』の組織が不当に拘留しているなどと発表していたのである。事態が悪化するなかでアレンは『子供たちを赤軍に引き渡すわけにはいかない、直接両親のもとに送らねばならない』と焦りを深め、アメリカ赤十字社の責任で救出策を講じることができないか、と考えるようになる。
その時、日本で尽力していたトイスラー博士から、神戸にある『船舶王』、勝田銀次郎が所有する貨物船『陽明丸』が、この役目を引き受けてくれることを快諾した──との連絡が入ったのである。
『陽明丸』の航海
勝田銀次郎は明治6年、愛媛県松山市に生まれる。偶然出会った東京英和学校(後の青山学院)の本多庸一校長に感銘を受けて同校で学び、キリスト教や欧米の合理主義を学んだ。……子供たちの救出のために、彼は今の金額で数千万円に及ぶ巨費を投じて、貨物運搬ために作られていた陽明丸の内部を改造し、客室や医務室、シャワーなどを突貫工事で整備したのだ。
1920年7月9日。茅原基治船長率いる陽明丸がウラジオストクに入港する。
『船の煙突には赤十字旗、船側にはアメリカン・レッドクロスと大書し、メインマストに米国機と赤十字旗、船尾には日章旗』が威風堂々と掲げられ、あくまでも赤十字社の人道事業であると強調されていた。
『子供たちは、その船の到着を心から待ちわびていました。まるで、自分たちを救い出すために、おとぎの国からやってきた魔法の船のように思えたのです。子供たちは、陽明丸を観て歓声を挙げました』
祖父母がこの陽明丸で救出されたオルガ・モルキナ氏の言葉である。
7月13日、ウラジオストクを出発した陽明丸には子供たち780人(男子428人、女子352人)が乗っていた。子供たちの数は残念ながら病死や行方不明になったものや、現地の住民に引き取られた者もおり、疎開時から減っていたが、米国赤十字社スタッフが17人、教師など子供たちの世話のために雇用されたロシア人85人、戦争捕虜78人、そして日本人船員が約60人と、手厚いサポートのなかで多くの子供たちが救出されたのだった。
陽明丸は7月15日に北海道室蘭に到着する。ここでここで子供たちは一時下船し、住民の温かい歓迎を受けた。子供たちはこの日に市民からもらった絵葉書などの贈り物を生涯も持ち続け、子供や孫もそれを引き継いでくれていた。
8月1日にはサンフランシスコを経て28日にはニューヨークに到着した陽明丸の子供たちは、ここでいくつかの問題に出くわした。アメリカにはロシア革命を歓迎するロシア人、反革命のロシア人、容共、反共と様々な立場のロシア人が住んでおり、『ソ連に帰るな』『一刻も早くソ連に帰れ』と様々な政治的に干渉する言葉が子供たちに吹き込まれてしまって、子供たちに動揺が生まれたのだった。
予期せぬ出来事に米国赤十字社は帰港先を、ロシアではなくフランスにし、そこで家族と再会させようと提案するが、今度は子供たちを引率していたロシア人たちが激しく反発し大混乱となった。最終的にはアレンは双方をなだめ、結局、中立国フィンランドに向かい、その後現地で子供たちをソ連側の家族のもとに送るという結論に至る。
10月6日、フィンランドのヘルシンキ港に到着。この海上には機雷が多かったが茅原船長の見事な航海指揮によって乗り切り、同じフィンランドのコイビスト港に移動し、陽明丸の航海は終わった。子供たちは、何人か犠牲(病死、事故死)が航海中出たものの、多くが無事家族のもとに帰ることができたのである。
男たちのその後
アレンはその後、ハワイでジャーナリストとして活躍、真珠湾攻撃の号外記事も執筆している。しかし、彼は自分の新聞では、記者たちに絶対『ジャップ』という言葉を書かせなかった。当時は日系記者ですらその言葉を使おうとしたのだが、彼は断固その姿勢を貫いた。1966年、82歳で世を去った。
勝田銀次郎は経営につまずいて財産を失ったものの、その人格を評価されて神戸市長を二期務めた。大戦後、昭和27年に79歳でこの世を去った。
茅原基治は昭和17年、57歳で亡くなったが、50歳を迎えた年、記念として、この航海記録をガリ版刷りの小冊子にして、友人や先輩に年賀状代わりに送っている。『陽明丸と800人の子供たち』にはその全文が掲載されているが、何ら自分を誇ることもなく、随所にユーモアを感じさせる品位ある文章である。この冊子は次の言葉で結ばれている。
『この可憐な小児たちが、その後幸福な日を送っているかどうかは、一切不明で知りようがないが、「陽明丸」は先年、宮城県金華山の海岸で、濃霧のために暗礁に乗り上げて沈没した』
この人道事業は、スターリン体制下で全く封殺され、両親も子供たち自身を守り通した。敵国であるアメリカや日本に助けられたということをソ連国内で公言することは収容所送りの対象となりかねなかったのだ。この事業が公的に口にされるようになるのはペレストロイカ末期、ソ連崩壊以後のことである。
なぜか日本でもこの話は、明るみに出ることなく、数十年が過ぎていった。
この事実が歴史からよみがえったのは、2009年、書家で篆刻(てんこく)家の北室南苑氏がサンクトペテルブルクで展覧会を開催した際、偶然、陽明丸の少年たちの子孫であるオルガ・モルキナ氏が訪れ、『約90年前に自分たちの祖先を救ってくれた「ヨウメイマル」の「カヤハラ」船長を探してほしい』と資料を渡されたことに端を発している。
オルガ氏はそれまでにも何人もの日本人に依頼していた。だが、いずれも、『そんな過去のことは難しい』と断られ続けていたのだ。
はじめは当惑した北室氏は、その後2年以上に及ぶ時間をかけて、報道機関や善意の協力者たちの助けを得ながら、ついに『陽明丸茅原基治船長』を突き止め、茅原氏がたった一冊残していた氏の小冊子を図書館から見つけ出したのである。
『第五の男』
情報統制されたソ連ならともかく、なぜ日本でこうした出来事が長く公にならなかったのだろう。この疑問に対して、前著の後半部『陽明丸大航海』を執筆した一柳鵺氏は興味深い論を、本書並びに、DVD〔陽明丸 奇跡の大航海〕にて展開している。
少なくとも筆者は氏の結論に100%共感している。いくつかの論点を、筆者の解釈も交えながら述べておきたい。
一柳氏は、この陽明丸の救援活動には、日本、特にシベリア派遣軍が大きく関与していたと考えている。いかに人道事業とはいえ、陽明丸があまりにも絶妙のタイミングで救援を申し出、このような大事業を茅原基治が迷うことなく引き受けたのはいかにも不自然である。
またわずか1ヵ月の工事で貨物船を客船に変えるほどの改造に対し、監督官庁が直ちに認可することも普通はあり得ない。すくなくともここには一定の『上からの関与』があったとしか考えられない。
そして一柳氏は、シベリア派遣軍高級幹部、石坂善治郎中将こそがこの事業に関係していたのではないかと述べている。石坂善次郎は1871年生まれ、陸軍軍医総監、森鷗外の上司でもある石坂惟寬の養子となった。日露戦争に出征、戦後もロシアに駐在、1917年1月から18年4月まで、ロシア大使館付武官として、10月革命とソ連誕生の現場に居合わせ、その報告書を送っている。
ここで石坂善治郎は、同地の混乱や飢餓の状況などをまざまざと見たはずである。199年2月から21年3月までは、ハルピン特務機関長を務めた。当時のシベリア派遣軍の中枢にいた人物である。しかも、この石坂善治郎は、茅原船長の従兄叔父にあたる親族だったのである。
石坂惟寬は軍人であるとともに人道的医師であり、赤十字にも深く共感しており、石坂善治郎はその影響を強く受けていた。救援活動を行っていたトイスラー博士、そして彼を引き継ぐアレンの献身的な努力にも共感していたはずである。かつ、ロシア革命の現場を知り、前任地ペトログラードからこの地にたどり着いた子供たちへの愛着や同情もあったはずだ。
同時に、尼港事件以後緊迫する現地で、日本軍と赤軍の激突が生じ、万が一にも子供に犠牲が及べば、現地の日本軍の名誉や国益にも大きな損失が起きると判断した。
さらに言えば、当時日米関係は決して良好ではなかった。特にシベリア出兵をめぐっては路線が対立していたからだ。この救援活動に日本軍が直接関与するやり方で助け出すよりも、あくまで民間人や赤十字社の救援活動という形で子供たちを救出したほうが、アメリカや赤十字社も受け入れやすいはずだった。
そして救援後も、日本軍の関与は秘密裡にした方が、子供たちや両親に至るまで安全が守られるだろう。『敵国の軍に助けられた』という話が流れてしまってはソ連政府にとっては面白いはずがなく、その矛先は家族にも及び、粛清の対象にだってなりかねない。
石坂善治郎はそう考え、親族の茅原船長に連絡、また勝田銀次郎に相談しさらには監督官庁にも陽明丸改造の許可を直ちに出すことを命じたのではないか。こう考えれば、この事業が当時殆(ほとん)ど公表されなかった理由もつじつまの合う話だと理解できるのである。
一柳氏のブログ『人道の船 陽明丸 特務係の日誌』にある『米露を出し抜いた日本陸軍特務機関長』では書簡集など新資料の発掘などを発信しつつ、さらに詳細緻密な解説をしている。
石坂善治郎も、茅原基治も、勝田銀次郎も、そしてアレンも、己の功をほとんど語ることなく生涯を終えた。国益及び外交関係にとっても、また子供たちの身の安全のためにもそのほうが正しいと判断したからだろう。
石坂善治郎は職務として徹頭徹尾、日本の国益のために行動した。しかし、それは民族を超えた人道精神と何ら矛盾するものではなかった。特に、ロシア革命が起きたのち、日本国内では共産主義に対して、幻想を抱く風潮が蔓延したと言われがちだが、当時の軍人はこうした風潮に踊らされることなく、目のあたりにした光景から共産主義の持つ恐怖政治の体質を直ちに見抜いたうえで即座に行動に移した点、さらには当時の国際情勢や共産主義の本質を踏まえながら的を射た適格な判断対象を講じていることは、もっと公正に評価されて良い。
また、従来の歴史観では、シベリア出兵は失策とされ、日本軍人は侵略や反共の意図のみで行動したとみなす傾向があった。
しかし、ペトログラードで、いやロシア全土で民衆が飢えているというのに、共産主義のドグマから農村を収奪し続け、抵抗する者だけではなく、自分たちが『反革命』とみなした存在には自国民であれ、容赦なくテロを働き、尼港事件での日本人虐殺のみならず、海外で無謀な革命運動を煽動したソ連体制の指導者たちと、その後のスターリン体制を観る時、ロシア革命への『干渉』に対してはまた別の解釈も成立するように思われる。
共産主義という悲劇
前述したDVDでは、ちょうど子供たちがウラジオストクを旅立った1920年、北室南苑氏の祖父が軍人としてシベリアに向かったこと、祖父が人格見識共に優れた人物だったことが明らかにされている。万感の思いを込めてロシアに続く海を眺める北室氏に姿に感動を呼ぶ。
特に日本国はシベリアにおける居留民保護という現実を抱えていた。これも諜報員としてシベリアで活動した日本陸軍の軍人、石光真清は、その回顧録『城下の人』四部差右作の『誰のために』(中央文庫)で、シベリア居留民たちが現地のロシア人と連帯して日本人義勇軍を結成したことを描いている。ロシア人の側が、むしろ日本軍の保護による地域の平和を求め、それに日本人も応じたのだ。
しかし、石光はこうした案に消極的で、一時は義勇軍の解散をも提案した。日本軍が本当に彼らを守るために行動するという確信が持てなかったのだ。居留民たちは一度ロシア人と約束した以上裏切るわけにはいかないと提案を拒否、最後は極寒の戦場で赤軍と闘い崩壊した。
石光は深い後悔と懺悔(ざんげ)の言葉を記し、日本を含む連合軍が、権益擁護や外交上の計算ばかりではなく、もっと地域の平和維持のために力を尽くすべきことを訴えている。
私たちはこの陽明丸という人道事業と共に、ロシアに誕生した共産主義革命がいかに多くの惨劇を人類にもたらしたか、そして今もまた中国や北朝鮮ではその体制が存続していることを再認識すべきではないか、と思う。
今も中国、チベット、ウイグル、モンゴル、そして北朝鮮においては、共産党独裁体制下で多くの人々が、特に罪もない子供たちが、同じく生命の危機や共産主義体制の洗脳による精神破壊の危機に陥っているのである。
私たちの優れた先人は、ロシア革命勃発の段階でその残酷な正体を見抜き、犠牲者たちを救済する人道事業を実践した。国益を護る諜報活動や軍事活動は、普遍的な人道精神と何ら矛盾するものではなかった。……陽明丸によって子供たちを救った先人たちに学ぶべきは、この精神に他ならない。
この陽明丸による人道事業は、NPO法人『人道の船 陽明丸顕彰会』(石川県能美市)により、顕彰活動や文化交流が行われている。」
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2020年11月20日 朝日新聞デジタル「800人の子ども救った日本船 国境越えた「4人の男」
編集委員・副島英樹
ロシア革命後の1920年、混乱に巻き込まれた約800人のロシアの子どもたちを救い出し、3カ月かけて故郷に送り届けた日本船があった。ロシア極東から米国を経由し、二つの大洋を越えて航海した「陽明丸」。その大航海を果たして今秋でちょうど100年になる。日米ロによる国際人道協力に光を当て、時を超えて語り継ぐ試みが続けられている。(編集委員・副島英樹)
陽明丸
神戸の船会社が大正時代に運航した貨物船。米国赤十字の要請を受けて改造客船に模様替えされた後、ロシア革命下の混乱に巻き込まれた子どもたちを1920年7~10月、極東ウラジオストクから太平洋と大西洋を横断して故郷サンクトペテルブルク近くの港まで運んだ。
「この驚くべき歴史を詳しく知って頂き、尊いヒューマニズムの先例として、日ロ間の大使の活動でも生かしてほしい」
金沢市内で10月19日に開かれた日ロ交流の会合で、日露戦争のロシア人捕虜の歴史調査に尽力してきたミハイル・セルゲーエフ在新潟ロシア総領事は、そうつづられた一通の手紙を受け取った。
手渡したのは、石川県能美市の篆刻(てんこく)家、北室南苑(なんえん)さん(73)。祖父母が陽明丸に乗っていたロシア人のオルガ・モルキナさん(66)から託されたものだった。
2009年9月、ロシアの古都サンクトペテルブルクで個展を開いていた北室さんを、モルキナさんが訪ねてきた。「カヤハラ船長の子孫を捜しています。子ども難民の子孫を代表してお礼を述べたいのです」。ロシア国内や米国で様々な史料にあたってきたが、カヤハラ船長の消息だけはつかめないという。祖父母の友人が保管していた制服姿の写真が、唯一の手がかりだった。
北室さんは2年近く、海運業界や図書館、古書店を巡った。そして、大正末期発行の分厚い船員名簿の中に「茅原(かやはら)基治(もとじ)」を発見した。親族が岡山県笠岡市で墓を守っていることが分かり、11年10月に墓参が実現した。モルキナさんは花束とロシア国旗を捧げ、こう語りかけた。「茅原船長の魂は、ロシア難民の子孫の心の中に永遠に生きています」
モルキナさんは「『ウラルの子供たち』子孫の会」の代表として、北室さんは13年に設立したNPO法人「人道の船 陽明丸顕彰会」の理事長として、調査・研究や民間交流を重ねている。二人の出会いが、長く埋もれていた歴史に光を当てることになった。
ロシア革命で混乱
ロシア革命で赤軍と白軍などの内戦が激化した1918年。当時の首都ペトログラード(現サンクトペテルブルク)から、5~15歳ほどの子ども895人が南ウラル地方に集団疎開し、米国赤十字シベリア救護隊の支援で19年に極東ウラジオストクまで避難した。」
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ウィキペディア
石坂 善次郎(1871年9月17日(明治4年8月3日) - 1949年(昭和24年)2月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・山本。
経歴
兵庫県出身。山本庄五郎の二男として生まれ、陸軍軍医総監・石坂惟寛の養嗣子となる(本籍・岡山県)。陸軍幼年学校を経て、1890年7月、陸軍士官学校(1期)を卒業し、翌年3月、砲兵少尉に任官し近衛砲兵連隊付となる。1895年11月、陸軍砲工学校を卒業。さらに、1900年12月、陸軍大学校(14期)を卒業した。
参謀本部出仕、参謀本部員、ウラジオストク駐在、大本営付などを経て、1904年3月、第2軍諜報参謀として日露戦争に出征した。戦後、ロシア差遣、オデッサ駐在となった。1909年11月、野砲兵第5連隊長となり、次に第5師団参謀長を務めた。第一次世界大戦ではロシア大本営付となり観戦武官としてロシア軍に従軍した。
1916年8月、陸軍少将に昇進。翌年1月から1918年4月までロシア大使館付武官を務めた。野戦重砲兵第1旅団長を経て、シベリア出兵では浦塩派遣軍司令部付となり、1919年2月から1921年3月までハルピン特務機関長を務める。1920年8月、陸軍中将に進級。1921年4月から由良要塞司令官を務めた後、翌年8月に待命となる。1924年3月、予備役に編入された。その後、遊就館長を務めた。
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石光 真清(眞清)(いしみつ まきよ、慶応4年8月30日(1868年10月15日) - 昭和17年(1942年)5月15日)は、日本陸軍の軍人(最終階級陸軍少佐)、諜報活動家。明治から大正にかけてシベリア、満州での諜報活動に従事した。
概要
明治元年(1868年)、熊本市に生れる。少年時代を神風連の乱や西南戦争などの動乱の中に過ごし、陸軍幼年学校に入る。陸軍中尉で日清戦争に参加して台湾に遠征、ロシア研究の必要を痛感して帰国、明治32年(1899年)に特別任務を帯びてシベリアに渡る。
日露戦争後は東京世田谷の三等郵便局長を務めたりしたが、大正6年(1917年)に起きたロシア革命の後、再びシベリアに渡り諜報活動に従事する。
帰国後は、夫人の死や負債等、失意の日を送り、昭和17年(1942年)に76歳で没した[1]。没後に石光真人が編み完成させたのが手記(遺稿)四部作『城下の人』『曠野の花』『望郷の歌』『誰のために』である。この四部作のうち、『城下の人』『曠野の花』が1958年に毎日出版文化賞を受賞し、また伝記作家の小島直記、評論家の呉智英など、多の識者が自伝の名作と評価している。
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世界は総論賛成・各論反対で、生きるか死ぬかの瀬戸際にあるロシア人避難学童やユダヤ人難民の絶望的状況に同情するが、「火中の栗を拾う」ような自己犠牲を伴う救済を嫌い、死の危険がある現場に飛び込んで彼らを助けようとしなかった。
ボランティアとは、命の危険がない安全地帯で行う自己満足的奉仕活動であり、命の危険がある危険地帯で命や生活を犠牲にする覚悟の上での決死行為ではない。
ボランティアと決死隊とは違うのである。
世界には、ユダヤ人やアフリカ人そして日本人に対する偏見、宗教的人種差別が支配的であった。
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日本民族には、本音と建て前があった。
昔の日本人は、本音として、シベリア出兵時のロシア人避難学童・ポーランド戦争孤児及びロシア・ユダヤ人難民や白系ロシア人難民などの救出、日中戦争時のポーランド・ユダヤ人難民の保護を行った。
その全てに、軍部特に陸軍が深く関与していた。
現代の日本人は、本音より建て前を優先する。
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日本民族は、「泣く子と地頭には勝てぬ」である。
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日本陸軍は、シベリアの激戦地からロシア人避難学童を助け助けたが、国際世論の非難を恐れて表立って行動せず、裏方に徹して支援した。
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NPO法人にも、役に立つ善意のNPO法人があれば、役に立たない害悪だけのNPO法人がある。
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軍国日本には、職業軍人として現役兵・予備役兵・後備役はいたが、民間人による義勇兵はいなかった。
職業分離の原則から、軍隊は民間人が徴兵されて正規な階級兵士にならないければ無階級の非戦闘員として差別し作戦行動の邪魔者とし軍事施設から排除した。
民間の国土防衛隊も同様である。
金銭契約で軍属になった者は準戦闘員として扱った。
本土決戦の為の根刮ぎ動員では、民間の義勇隊や国土防衛隊は正規軍の補助として扱われた。
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シベリア出兵時に行われたロシア人避難学童救出劇は、靖国神社の心・志、死中に活を求める的に死地に飛び込む特攻精神であった。
十中八九の死に一二の生を見出す、という死の覚悟であった。
日章旗(日の丸)は希望の星であり、旭日旗(軍旗)は生きる光であり、国歌(君が代)は慰めと癒しと勇気の源泉であった。
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軍国日本、軍部、陸軍が自己犠牲で行った人道貢献・人道事業は、戦後、世界正義による「戦争犯罪」として切り捨てられ、世界平和の為として歴史の闇に葬られ忘れられた。
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戦前の日本は、キリスト教諸国も社会主義諸国・共産主義諸国もできないような事を行っていた。
それが、天皇の御稜威・大御心であり、靖国神社の心・志・気概であった。
そして、その象徴が昭和天皇(裕仁皇太子)であった。
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日本人漁民は、二次遭難として溺死する危険性があっても同じ海で生きる仲間として、幾度も嵐で遭難したロシア船から数多くのロシア人船員を助け出し、犠牲となったロシア人船員を丁重に弔い、引き上げた遺品を全て家族の元に送った。
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日本人は、ロシア人に助けられた事は一度もない。
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大正(1918)年7月~9月 シベリア出兵が発表されるや、商社や投機家はコメが兵糧として買われると予想して買い占めにはし言った為に米価は高騰した。
富山県魚津の貧しい家庭の主婦達は、コメの廉売を要求して米屋・富豪・警察署などを襲撃した。
米騒動は全国に波及し、貧困層の地方の農民や都市の労働者などが各地で富裕層に対して民衆暴動を起こした。
政府は、暴動鎮圧の為に軍隊を派遣した。
寺内内閣は、暴動の責任を取って総辞職した。
日本国内は第一次世界大戦(1914年7月~1918年11月)とシベリア出兵(1918~22年)までの戦争特需で、商社は金儲けの為に民需を後回しにして軍需を優先した。
産業界・船舶業界・造船業界は戦時体制として、軍部との関係を強め、軍人の無茶な要求に唯々諾々と従い、軍隊の仕事を受注する事で大儲けしていた。
日本的な持ちつ持たれつの「魚心あれば水心あり」や「損して得(とく)をとれ」であった。
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最高学府である帝国大学でマルクス主義が流行り、学業優秀な学生ほどマルクス主義を熱心に学び、卒業後は革新官僚となって政治権力を握り政府・官公庁を動かしていた。
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現代日本の高学歴知的エリートの中に、レーニン信奉やレーニン崇拝という隠れマルクス主義者・隠れ共産主義者が数多く存在する。
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昔の日本人は現代の日本人とは違い、そして中国人や朝鮮人とも違い、命の危険や損をを承知で人類史的人道貢献を繰り返していた。
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日本民族は、有言実行・不言実行で、契約書がない口約束でも、自分が不利になると分かっていても守っていた。
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日本人共産主義テロリストは、キリスト教系朝鮮人テロリスト同様に昭和天皇と皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
日本政府は、1925年に治安維持法を制定し、特高警察(特高)を強化して、皇室廃絶・国家転覆・民族否定という暴力的人民革命を目指す共産主義者弾圧に乗り出した。
軍部は、軍隊内に蔓延し始めた共産主義細胞を撲滅する為に憲兵を動員した。
現代の歴史教育は、治安維持法を反人権の悪法とし、特高警察と憲兵隊を非人道的犯罪集団と決めつけている。
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ロシア革命は、共産主義者が公的暴力機関である軍隊と警察・秘密警察・秘密情報部を掌握し、大学などで革命幹部を大量に量産し、報道機関を使って人民を煽動して成功した。
共産主義者は、ロシア皇帝家族を惨殺し、ロシア正教などの宗教施設を破壊し、皇帝資産・民族資産(個人資産)・教会資産を人民搾取資産としてユダヤ系国際金融資本に売って私腹を肥やした。
一部のユダヤ系国際金融資本や国際軍需産業は、隠れてロシア革命を支援していた。
戦争や革命は、他国の資本家にとって大金を稼ぐ好機であった。
共産主義の大義を受け入れず、拒否する者や従わない者は反革命分子として家族諸共にその場で惨殺するか地獄の強制収容所に送り込んで殺した。
共産主義とは、人民の正義に対する「従属の生か拒絶の死」の二者択一しかなかった。
共産主義者が去った後には、死体の山と血の湖ができた。
ソ連・コミンテルン、中国共産党は、日本への浸透を深めていった。
特に、帝国大学などでマルクス主義教育が行われた。
戦前の日本は、特高や憲兵を使ってマルクス主義の社会主義ではなく共産主義を弾圧した。
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同じ金持ちでも、現代の富裕層と昔のお大尽とは違う。
現代の富裕層は、貧富の格差が広がり社会のブラック化が深刻化しても気にはしない。
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日本民族は、見られているからやるのではなく、見られてんなくてもやるのである。
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昔の日本人は、人道貢献・善因・善行をひけらかさして自慢せず、隠し、人に知られないようにした。
皆に分かって貰わなくとも、分かる人だけ分かればいい。
言わなくても、見せなくても、誰かが見ててくれる。
が、世界は日本を見ていなかったし、見ようともしなかった、そして日本を分かろうとしなかった。
日本は、世界で孤立していた。
日本は信用されていなかったし、日本人は愛されていなかった。
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現代日本人は、中国共産党がチベット・ウイグル・モンゴル・少数民族に対して行っている「人道に対する犯罪」であるジェノサイドを非難せず、沈黙し、他人事として助けようとはしない。
日本国内に、中国共産党に忖度する親中国派・媚中派が蔓延っている。
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日本民族は、お人好し・お節介が強く、難儀をし困っている女性や子供、病人や怪我人などの弱者を見ると見捨てられず、「やむにやまれぬ」思いから「損を承知」で救いの手を差し伸べた。
が、日本の善意は国際社会で理解されず、後でしっぺ返しを食らい大損する事が多かった。
だが、日本民族は結果的に「善因悪果」であっても、それが自分の人生・定めなら「やむなし」と甘受して生きてきた。
日本民族の信条は、「義を見てせざるは勇無きなり」であった。
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誰かが見ていてくれる、と自分に言い聞かせ自分を慰めて生きていた。
「天知る、地知る、我知る、子知る」(『後漢書楊震伝』)で、他人の評価・世間の評判を気にせず、自分が正しいと念う信念・志に従い、自分の心を偽らず、祖先神に恥じない生き方を貫いた。
が、子知るの現代日本人は、祖先を罪悪人だったとする自虐史観の歴史教育を子供たちに行っている。
それが、靖国神社問題である。
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現代の日本人と昔の日本人は別人のような日本人で、昔の日本人が素晴らしかったからといって現代の日本人も素晴らしいとは限らない。
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昔の日本人は、現代の日本人のように他人から誉めて貰い励まして貰いたいおだてて貰いたい、という甘えた気持ちはなかった。
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現代日本人を象徴する事件は、イラン・イラク戦争勃発時、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者、護憲派・人権派、労働組合、反戦平和団体、左翼・左派などが戦場となったテヘランに取り残された邦人を救出する民間の特別機や自衛隊機を派遣する事に平和憲法の原則から猛反対した事である。
つまり、救出機派遣に猛反対した日本人は、憲法に従い「国家は戦場となった国・地域に取り残された日本人を助けてはならない」と主張したのである。
彼らは言う「国家は国民を助けず、見捨てる」と。
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昔の日本人は、武器を持って戦う相手が兵士だろうが女性や子供でも戦場で殺したが、武器を持たず抗戦の意識のない敵国人は助けて安全地帯へ逃がした。
それが、子供や女性であればなおさらであった。
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ソ連軍・ロシア人共産主義者は、逃げ惑う日本人避難民を虐殺し、日本人女性は強姦した後に惨殺した。
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ロシアは、戦前の日本に子供達が助けられたにもかかわず感謝せず、不法占拠した北方領土4島を日本に返還する事を拒絶している。
しょせん、ロシア人とはそうした恩知らずの人間である。
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日本人の金持ちと言っても金の使い方からして、昔のお大尽様と現代の富裕層は別人である。
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