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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
JAPAN・FIRE(消防士)の11人は、政府や消防署の上司からの渡米禁止命令を無視し、解雇・懲戒免職を覚悟して、アメリカ飛び、ニューヨークのグランド・ゼロに降りたって活動した。
アメリカは、悲惨な現場で共に働いてくれたJAPAN・FIRE、11人への恩返しとして、東日本大震災でアメリカ軍に対して「トモダチ作戦」を命じ被災者に対する救援活動を行った。
日米の協力関係は、日米安保条約による日米同盟があっての事である。
これこそが、ギブアンドテークであり、ウインウインの関係であり、相互依存・相互補完の共生関係である。
が、日本と中国共産党政府・韓国・ロシアとの間にはそうした相互扶助の信頼関係は存在しない。
もし日米安保がなければ、アメリカは如何に人道ためと言っても国益にならなければ日本を見捨てて助けなかった。
国と国・人と人の関係で、友好国と同盟国とでは温度差が違う。
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2021年9月19日号 サンデー毎日「9.11事件から20年
グランド・ゼロで私が見たもの」
▶日本人消防士11人がテロ直後、NYへ飛んだ
▶現場からの帰り、市民が駆け寄りハグを求めた
▶我々が9・11事件で再確認した決意
米ニューヨークの世界貿易センタービルに旅客機2機が激突、2,600人以上が死亡した。そのうち343人は同市消防局、60人は警察の所属人員だった(9・11委員会公式報告書による)。テロから25日後、日本から『爆心地』に入り、活動した消防士の一人が語る。
志澤公一
──どんな経緯でニューヨークに向かったのですか。
志澤公一 事件の3カ月前、『世界警察消防競技大会』に参加するため米インディアナポリスに行きました。2年に1度、世界各国の警察官や消防士が集まり、技を競う大会です。私は日本チームの一員として消防競技に参加し、優勝しました。その時、我がことのように喜んでくれたのが、ニューヨーク市消防局16分署に所属する消防士のディビッド・ロドリゲスでした。数年来の付き合いでした。
2001年9月11日の事件のすぐ後、彼の安否確認のメールを送りかしたが、返事は来ませんでした。16分署は(ニューヨーク市中心部の)マンハッタンにあり、世界貿易センタービルの所轄署です。事件に巻き込まれたのではないかと心配していたところ、たしか3週間後にメールが届いたんです。『仲間の消防士が8人亡くなった』とあり、『Please belp us(助けてくれ)』と書いてありました。それを読んで動かない消防士はいません。
──米国政府は国際テロ組織アルカイダの犯行と断定し、対テロ戦争を宣言しました。厳戒態勢の中、入国するのは難しかったのではないですか。
志澤 国際的NGO(非政府機関)や自衛隊が救援隊を派遣すると申し出ましたが、米国政府は断ったそうです。政府がノーと言う状況の中、横浜市消防局は『行ってこい』と言える立場ではありませんでした。『行くことは許さない』と強く止められました。私の娘は当時5歳と2歳。私が何をしようとしているのか分からなかったでしょう。妻は『もしあなたに何があったら』と心配しましたが、最後は『その正義感があなたなのよね』と賛同してくれました。
──現地に赴いた消防士はどんなメンバーでしたか。
志澤 世界大会に出場したメンバーを中心に、趣旨に賛同した東京、埼玉、大阪、愛知など全国の消防士11人です。皆、上司の反対を振り切っての米国行きでした。『私たちにしかできない』『助けを求める人を見捨てるわけにはいかない』という思いだけでした。
ニューヨークのケネディ国際空港は閉鎖したままでした。ニューアーク国際空港(ニュージャージー州)行の飛行機に乗りました。10月5日だったと思います。救助活動に必要な破壊工作機などを持ち込んでいたので、空港で随分と調べられました。被災現場に入るためのIDカード(身分証)を発行してもらう手はずでしたが、デイビッドに連絡すると『無理になった』。
IDカードがなくて活動できるのか不安に思いつつ、ホテルに向かう道中、街には人影が見えず、音もしませんでした。要所要所に小銃を手にした兵隊が立っていました。戦時下というムードでした。
沖縄戦を戦った牧師が説得した
翌朝、16分署で夜勤明けのデイビッドと再会できました。酒好きで人一倍陽気な普段の彼とは大違いで、目の下のくまが目立っていました。私は『IDカードはなくても、おれたちにできることをやらしてほしい。炊き出しでも荷物運びでもいい』と訴えました。でも『無理だ』と一言。現場は連邦政府が所轄することになり、地元の消防署が口を挟めないというのです。
その時、私たちのやり取りをデイビッドの同僚、ミッキー・クロスが聞いていました。軍隊時代に死地をくぐり抜けてきた『伝説の消防士』です。彼が割り込んできて『おれがグランド・ゼロ(爆心地)に連れて行ってやろう』と言うのです。
16分署の消防士は勤務が終わっても帰宅せず、車で仮眠を取ると、非番の者も現場に戻っていました。勤務が終わったばかりのミッキーは私たちを車3台に乗せ、被災現場に向かいました。誰もが知る伝説の消防士が率いているからか、検問はそれほど厳しくなく、私たちはグランド・ゼロに入れました。
倒壊した世界貿易センターの北棟と南棟だけでなく、周囲のビルも崩れ落ちていました。穴から噴き出す黒煙はプラスチックが燃える臭いがし、穴の中に炎が見えました。
──突然現れた志澤さんたちに現場の人たちはどう反応しましたか。
志澤 私たちが来ていた消防士の活動服の背中に『JAPAN FIRE』と書いてあったので、日本の消防士と分かったようでした。彼らは歓迎してくれました。極端な人手不足に陥っているといい、瓦礫の下にいる市民や仲間を助けようとしていました。でも消防局の現場責任者は『IDカードを持たない外国人に作業させるわけにはいかない』と私たちが活動することを許可しません。午前中に現場に入ったのに何もできないまま、時間が過ぎました。その時、たまたま被災者に祈りを捧げていた牧師が私たちに気付き、こう言いました。
『自分は沖縄戦を戦い、日本人に銃口を向けたことがある。そんな人間の住む国を助けたいのか』
大きくうなずくと、牧師は現場責任者に向かい、何やら指示を出しました。牧師は消防局の元幹部で、かつて現場責任者の上司だったというのです。どんなやり取りがあったのか分かりませんが、午後4時半すぎになって、現場責任者が交代するまでの間、救助活動をする許可が出ました。
テロから1カ月 近くたち、生存者はもういません。私たちは瓦礫を取り除き、2チームに分かれて遺体を探索しました。ちぎれた指、髪の毛が残った頭皮、頭蓋骨の破片を一つ一つ収集し、後でDNA鑑定ができるように記録しました。消防士の酸素ボンベやロープも発見しました。仲間が埋まっているのかと思うと、いたたまれませんでした。
約束の時間が過ぎ、皆の所に戻ると、大きな拍手が起きました。作業員の一人は、瓦礫で十字架を作ってプレゼントしてくれました。活動できたのは数時間でしたが、『自分たちにやれることはやった』という思いでした。
──米国の消防士も喜んでくれたのですね。
志澤 見放されていると感じていたようです。帰路は送ってもらうわけにもいかず、歩いて大通りを目指すと、街を歩いていた人が駆け寄ってきてハグし、『助けに来てくれてありがとう』と次々に礼を言うのです。夕方のニュース番組が私たちの活動を取り上げたそうです。その後、乗ったタクシーの運転手からも『あなたたちを知っている。ありがとう』と言われました。
3・11トモダチ作戦のきっかけ
──上司の反対を押し切っての渡米でした。帰国後どうなりました?
志澤 今だから話せませんが、クビを覚悟して渡米しました。ところが、私たちの活動が米国でも好意的に報道されたことで、周囲も理解してくれました。横浜市の高秀秀信市長からねぎらいの電話をいただいたほどです。やるべきことをやったのだと改めて思いました。
──10年後の2011年9月11日、米国のジョン・ルース駐日大使は東京の公邸で、9・11事件から10年の追悼行事を開いた際、現地入りした日本の消防士に言及したそうです。大使は『あなた方はグランド・ゼロの瓦礫の中、仲間と肩を寄せ、我々と連帯しました。その姿とあなた方がそこにおたことは、決して忘れられることはありません』と賛辞を贈りました。13年に就任したキャロライン・ケネディ大使も志澤さんたちに言及したそうですね。
志澤 ケネディ大使から直接聞いたわけではないのですが、日米の消防士が集まる式典で、『トモダチ作戦』(米軍による東日本大震災後の救助活動)は私たちの活動がきっかけだったと口にされたそうです。出席した消防の幹部から『お前たちの名前が出たので驚いた』と聞きました。
──ニューヨークで活動したことで、志澤さんにどんあ変化がありましたか。
志澤 『自分たちにできることがある』と気付いたのは大きかったですね。現場の人手が足りないことをニューヨークで嫌というほど実感しました。だから9・11事件の3年後、非番の仲間を集めて災害ボランティアとして新潟県中越地震の被災地に入りました。私たちプロは『何が必要か』『何をすべきか』が瞬時に分かります。東日本震災の被災地はもちろん、先日の熱海市で土石流災害が起きた後も現場でサポートしました。今はこのような活動に賛同する全国各地の消防士によるボランティア団体があります。困っている人がいたら最善をつくして助ける。自分たちにしかできないことをする。9・11事件で再確認したことです。(肩書は当時)
構成/ライター・角山祥道」
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杉原千畝は、東京・外務省からの再三にわたる日本通過ビザ発給不許可指示に従わず、天皇の御稜威に基づく人道貢献としてポーランド・ユダヤ人難民への通過ビザを発給したが、戦後、公務員の職務として政府・本省・上司の命令に従わなかった事が怠慢(生意気)とされ、勇気ある世界的人道貢献は考慮されず人員整理を口実に解雇され外務省から追放された。
それが、日本独自の永田町(政)・霞が関(官)における減点優位・内向きの「内輪の論理」であった。
日本陸軍の親ポーランド派と東條英機や松岡洋右ら満州派は、政府や外務省の不満をよそに杉原ビザを無効にする事は天皇・国家・民族の名誉・体面に関わるとして、ナチス・ドイツの外圧や国内の親ドイツ派・反ユダヤ派・右翼・右派らの圧力を無視し、親ユダヤ・反ヒトラーの昭和天皇の希望を叶えるべく、逃げてきた数万人のポーランド・ユダヤ人難民を敦賀・神戸・横浜や満州・上海などで陰ながら便宜を図り助けた。
戦後、親ドイツの政府方針に逆らった、ポーランド・ユダヤ人難民を助けた親ポーランド派や親ユダヤ派は処分された。
靖国神社には、八紘一宇の精神に基づく歴史的な人道貢献が存在する。
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昔の日本人は、現代の日本人とは違って自分だけの利益・金儲けという損得勘定で動く事を恥として嫌い、自己犠牲的に「情けは人の為ならず」と固く信じて他人に尽くした。
「情けは人の為ならず」の本当の意味を、昔の日本人は知っていたが、現代の日本人は知らない。
人は平等・公平といっても、好かれる人は助けられ、嫌われる人は助けてもらえない。
好かれて助けて貰える人間になる為には、人に言えない努力や苦労を重ねなければならない。
つまり、人に好かれて助けて貰うのは人間の権利ではない。
ただし、誠意や親切心が伴わない機械的なマルクス主義的生活サービスは金で自由に買える。
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1990年、湾岸戦争。日本国(保守自民党政権)は、平和憲法に従い、イラクに侵略されたくクウェートを救援する目的で組織された多国籍軍への自衛隊参加を拒否し、戦場に向かい他国の若者に130億ドル(約1兆5,000億円)を軍資金として提供した。
他国の若者が戦闘で負傷し戦死している時、日本の若者達は遊び呆けていた。
その結果、日本は世界から「日本はカネを出すが血も汗も流さない」と厳しく非難された。
日本が主張する平和と自由はその程度でしかない事と、日本人がドス黒いエゴの塊である事が、世界中に知れわたった。
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自衛隊派遣に猛反対し、日本人の若者の命を守る為に他国の若者の命を買うべきだと主張したのは、マルクス主義者・共産主義者、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者、護憲派・反自衛隊派、反米派・反安保派・反米軍基地派、反天皇反民族反日的日本人、反戦平和市民団体、その他であった。
現代の日本人は、人の命は金で買える事を知った。
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世界で、日本国は信用されている、日本人は愛されている、はウソである。
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日本人は、不言実行・有言実行の民であって、有言不実行を嫌う。
日本民族の歴史において、総論賛成・各論反対はあり得ず、総論賛成であれば各論賛成、各論反対であれば総論反対ではっきりしていた。
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現代の日本人は昔の日本人のような武士・サムライや百姓ではなく、その子孫でもない。
つまり、現代の日本人は昔の日本人とは別人のような日本人である。
同調圧力、自粛警察、マスク警察、そしてSNSで匿名でイジメ・嫌がらせを繰り返す卑怯者も日本人ではない。
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日本軍部・日本陸軍は、シベリア出兵でも、日中戦争でも人道貢献を行っていた。
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昔の日本人は、戦場で敵兵士を殺す戦争犯罪を行ったが、同時に、被災した戦場で敵国の被災者を助けるという人道貢献も行った。
それが、靖国神社の心・志・気概であった。
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日本民族は甚大な被害をもたらす同時多発的に頻発する複合災害多発地帯である日本列島に数万年前の石器時代・縄文時代から生きてきただけに、戦争と災害を別物とし、敵兵士と被災者とはをけ、敵兵士は殺したが被災者や弱者(女性や子供、老人、障害者、負傷者・病人、他)は敵国人であっても助けた。
日本には、中国や朝鮮の様に「川に落ちた犬は叩く」という非情な原則はなかった。
何故か、それは、日本民族が数千年前の生時代・古墳時代から天皇家・皇室の日本中心神話、高天原神話、八紘一宇、皇道主義、御稜威、大御心を大切に信奉してきたからであって、約100年前に外圧で強制されて明治に受け入れた「薄っぺら」な世界的な普遍的なキリスト教のボランティア精神からではない。
が、マルクス主義者、共産主義者、左翼・左派・ネットサハ、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者、そして反天皇反民族反日本的日本人は否定している。
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日本人と中国人・朝鮮人・韓国人とは、正反対といっていいほどに違う。
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昔の日本人にとって、昨日の敵は今日の友であり、今日の敵は明日の友であった。
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真の友・親友と言えるのは、死ぬ恐れがある絶望的な状況であっても、困っている友人を見捨てず助ける為に死を覚悟して死地に飛び込み、生還を目指した共に戦う戦友の事である。
友・友人、親友、戦友の証明は、言葉ではなく行動であり、高額の支援金ではなく共に瓦礫を取り除く人の存在であった。
日本人にとってのそうした友・友人、親友、戦友とは、同盟国のアメリカ人や友好国のイギリス人・インド人・オーストラリア人そして台湾人などであった。
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