💖36)─1─皇室・日本赤十字社・障害者スポーツ。パラアスリートや弱者に寄り添う天皇家。〜No.151No.152No.153No.154 

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 皇道とは、多様性と調和で、弱者も障害者・身障者も一人の人間と認め、見捨てず、見放さず、何度でも繰り返し寄り添う事である。
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 2018年1月16日 オリパラ Back To 1964「障害者スポーツを照らす陛下 原点は皇太子時代のパラ
 半世紀前に「東京パラリンピック」があった(3)
 東京パラリンピックの貴賓席で入場行進に応える皇太子夫妻(日本障がい者スポーツ協会提供)
 1964年の東京パラリンピックを語るうえで忘れてはならないのは皇室の果たした役割だ。なかでも皇太子夫妻だった天皇、皇后両陛下は大会前から強い関心を寄せられ、結果として、まだ黎明(れいめい)期だった日本の障害者スポーツを後押しした。
 パラ出場の卓球選手に勝負挑まれる
 まず下の表をみていただきたい。東京パラリンピックを訪れた主な皇族の一覧である。会期は直後に開かれた国内大会と合わせて7日間。そのうち皇太子夫妻の出席は開会式、閉会式を含めて6日間に及んだ。大会の名誉総裁だったとはいえ異例の頻度といえる。
 天皇、皇后両陛下に長く仕えた元侍従長の渡辺允は手記のなかで、こんなエピソードを紹介している。
 17年10月に開いたねむの木の運動会で声援を送る宮城まり子さん
 「五輪と一緒ダメなの?」 宮城まり子さんが語るパラ
 インタビューに答える宮城まり子さん
 宮城まり子さん、盟友はパラ生みの親 ともに障害学ぶ
 「両殿下(筆者注、皇太子夫妻)は、この競技を是非当時の天皇皇后両陛下に、もしそれがかなわぬのであれば皇后陛下御一行にでもご覧になっていただく可能性がないだろうかと宮内庁長官に相談され、その結果、開催4日目の午後には、両殿下のご案内で香淳皇后がアーチェリーと車いすバスケットを観戦なさっています」(『若き日の両陛下と東京パラリンピック文芸春秋2013年2月号)
 1962年、ストーク・マンデビル大会の出場選手と談笑する皇太子(日本障がい者スポーツ協会提供)
 64年東京パラリンピックの入場行進。貴賓席前を第1陣の英国チームが通過(日本障がい者スポーツ協会提供)
 アーチェリーを観戦する香淳皇后(奥の中央)と皇太子夫妻(日本障がい者スポーツ協会提供)
 当時の天皇、皇后両陛下はともに30歳。障害者スポーツのことをできるだけ多くの人に知ってほしいという、若い情熱が伝わってくる。香淳皇后の出席は当初予定されておらず、大会関係者の間でも驚きをもって受け止められたという。
 天皇、皇后両陛下は障害者スポーツについて見聞きするだけにとどまらず、生身の障害者のことを知ろうとされていた。テニスと並んで卓球を得意としていた陛下は、パラリンピックの卓球選手と面会するたびに勝負を挑まれたという。
 東京パラリンピックの運営を担った「国際身体障害者スポーツ大会運営委員会」の会長、葛西嘉資(後に厚生事務次官)は皇太子時代の姿を明かす。「選手がなかなか強くて、(中略)皇太子さまが勝たれたのは、コーナーをお上手にパッパッとねらわれるんです。(筆者注、車いすを固定してプレーする選手にとっては)いちばん、つらいところですからね。しかしそれでも苦戦をされたように、わたしは拝見しました」(『時の素顔』週刊朝日1964年10月23日号)
 障害の有無にとらわれず、車いすの選手とまっすぐ向き合おうとされている陛下の姿勢がうかがえる。それは子供の教育でも一貫していた。厚生省の職員だった井手精一郎は、東宮御所でこんな場面を目撃した。
 「ストーク・マンデビル(筆者注、パラリンピック)に出場した卓球の選手が皇太子殿下(同、天皇陛下)のご子息(現、皇太子殿下)と卓球をしたのですが、車いすの選手に対していい加減なことをやったら悪いと思ったのか、皇太子殿下が浩宮殿下に、しっかり相手をしなさいと言われていました」(『スポーツ歴史の検証』笹川スポーツ財団
障害のある人はかわいそうだ、守らなければならない――。そんなふうに思われていた時代に、天皇、皇后両陛下は鍛えた能力に限界がないことを身をもって感じられていたのかもしれない。
 東京パラリンピックに続いて開かれた国内大会でのあいさつには、そんな陛下の思いがにじんでいる。「この大会が皆さん自身にも、その友人にも必ず大きな自信、勇気、希望を与えることを信じます。同時に我が国ではなお不十分といわれる障害者に対する理解を深め、関心を強めるのに良い機会と思います」(『東京パラリンピック大会報告書』国際身体障害者スポーツ競技会)
 「国内でも毎年、開いてほしい」
 天皇、皇后両陛下が障害者スポーツに関心を持ち、常に気にかけておられるという事実は、それに関わる人々を勇気づけ、広く国内の関心を集めてきた。むろん両陛下に特段の権限があるはずはなく、そもそも国政への関与は憲法で禁じられている。だが重要な局面では結果として、何らかの影響を及ぼすことがあった。
 たとえば62年8月、まだ東京パラリンピックの開催が正式に決まる前のことだ。皇太子夫妻だった天皇、皇后両陛下はロンドンのパラリンピック(当時の呼称はストーク・マンデビル)に日本人として初めて出場した選手を東宮御所に招かれた。大会の様子に耳を傾けた後、「2年後の東京大会は、ぜひ開催してもらいたい」(『東京パラリンピック大会報告書』)と希望を述べられたという。
 当時は、国立別府病院整形外科医長の中村裕らが東京パラリンピックの開催に向けて政官界に働きかけるなど奔走していた。選手との面会の席には中村も同席しており、皇太子の言葉は大きな励ましになったと思われる。
 東京パラリンピックの後に開かれた国内大会で、皇太子夫妻はグランドに降りて選手たちを激励した(日本障がい者スポーツ協会提供)
 また今でこそ国民体育大会(国体)の後に同じ場所で全国障害者スポーツ大会が開かれているが、その端緒をつくったのも皇太子時代の陛下といわれる。
 東京パラリンピックの終了後、陛下は大会の役職員をねぎらったうえで次のように話された。「このような大会を国内でも毎年行ってもらいたいと思いますし、皆さまもこれから身体障害者の福祉向上のためさらにいっそう努力されることを希望します」
 これを受けてパラリンピック運営委員会の会長を務める葛西は「国内大会は今後毎年国体の後を追いかけて開催するようにいたしたいと思っております。今後とも、私どもは皇太子殿下のご趣旨にそいたてまつるよう身障者福祉のため最善を尽くすことをお誓いいたします」と答えたという(『東京パラリンピック大会報告書』)。
 そうした経緯もあって65年11月には岐阜国体の後、同県で「第1回全国身体障害者スポーツ大会」が開かれた。「『3~4年前から準備している国体で、1年をきった段階でそんなことを言われてもとても無理だ』と断られたところを、なんとか進めました」(『スポーツ歴史の検証』)と厚生省職員だった井手は振り返る。
 東京パラリンピックの衝撃は全国身体障害者スポーツ大会(2001年から全国障害者スポーツ大会と改称)に受け継がれ、日本の障害者スポーツの発展を後押ししてきた。皇太子時代の陛下が74年11月に茨城県の第10回大会に出席された際のあいさつには、ある種の達成感が表れている。
 「顧みますと、この10年今もって私の脳裏を去らないのは、岐阜県で開かれた第1回大会の光景であります。秋空の下、大勢の観衆の前を力強く入場する選手の姿がまことに印象的でありました。それから10年、(中略)身体障害者に対する理解と関心には、まだ不十分な面がありますが、今日までの間にずい分と大きく変わったことと思います。発足当時は、選手のほとんどが施設からの参加者でありましたが、回を追うごとに社会人の参加者が増えてまいりました。10年前、日本で開かれたパラリンピックの際、外国選手の多くが社会人であったことを思い合わせると、この間の我が国の歩みを感じるものであります」(『創立20年史』日本身体障害者スポーツ協会)
 出場選手のなかに交じっていた戦傷者
 東京パラリンピックに対する皇室のかかわりについて、日本財団パラリンピックサポートセンター理事長の小倉和夫は「第2次世界大戦との関係もあるのではないか」と指摘する。天皇の名のもとで戦い、敗れてからまだ19年。日本には戦地や内地での戦闘、空襲で傷を負った人々がたくさんいた。
 出場選手にも戦傷者が交じっていた。国立別府病院整形外科医長の中村裕による外国選手のアンケート調査では、回答した193人のうち27人にのぼった(『中村裕伝』水上勉井深大ら編)。小倉によれば、日本選手には少なくとも2、3人はいた。東京パラリンピックは結果的に、そうした戦争の傷を癒やした可能性がある。
 最後に天皇、皇后両陛下の障害者スポーツに対する思い入れを示すエピソードで、この回を締めくくりたい。76年6月に皇太子夫妻として英国を訪れた際、障害者の治療の拠点でありパラリンピック発祥の地でもあるストーク・マンデビルに足を延ばされた。そこでパラリンピックを提唱した医師のルードイッヒ・グットマンと再会し、東京大会への支援に改めて礼を述べられたという。
 元侍従長の渡辺允は当時をこう回想している。「この時まで、ストーク・マンデビルは女王陛下のご訪問をいただいていませんでしたが、後日、両陛下のご視察によって英国女王の初のストーク・マンデビルご訪問への道が開かれたという(筆者注、グットマン)博士からの感謝の伝言が葛西さんの元に届けられました」(『若き日の両陛下と東京パラリンピック』)
 (敬称略、次回に続く)
 (オリパラ編集長 高橋圭介)」
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 近代天皇家は、明治から今日の令和に至るまで、国家・国民・民族の模範になるべく率先して国際貢献(平和貢献・人道貢献)、自然保護・動物保護、その他を行ってきた。
 が、それを否定し潰そうとする反天皇反民族反日的日本人達が、明治から今日の令和に至るまで日本国内に存在する。
 天皇・皇室は、強い者や富裕者・上級民ではなく、むしろ弱い者や貧困者・困窮者・下級民に寄り添ってきた。
 命を捨てても天皇・皇族・皇室を護ろうとした勤皇・尊皇の民族派(非マルクス主義者)は、下級武士、貧しい庶民(百姓や町人)、偏見と差別される賤民・部落民・異能の民・異形の民・芸能の民・その他の身分が低い下層民に多かった。
 日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇と皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
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 2021年8月22日 YAHOO!JAPANニュース 産経新聞「皇室、パラ支える人たちにも寄り添われ 陛下、開会ご宣言へ
 前回東京パラリンピックで、日本赤十字社の通訳奉仕団として活動した際の写真を前に、当時を振り返る吉田紗栄子さん=横浜市(緒方優子撮影)
 天皇陛下は24日、東京パラリンピックの名誉総裁として開会を宣言される。皇室と障害者スポーツの関わりは深く、上皇ご夫妻が前回東京パラ(昭和39年)の開催実現を後押しするなど、その黎明(れいめい)期から見守られてきた。選手だけでなく、競技環境を支える人々にも向けられてきたまなざしは、今大会の関係者にも力を与えている。
■福祉の人材輩出
 「若い工夫と暖かい心のゆきわたった大会になりますよう祈っております」
 昭和39年4月、東京の日本赤十字社本社で行われたパラリンピックの「通訳奉仕団」結成式。皇太子妃だった上皇后さまは、各国のパラ選手らを支援するために集まった有志の若者らに、激励の言葉をかけられた。団員約160人は期間中、通訳だけでなく食事や買い物など日常的な介助に従事。その後、日本の福祉を担う人材も輩出した。
 その一人、吉田紗栄子さん(78)は、選手村にスロープが設置される様子を間近に見て、バリアフリー建築の道に進んだ。「大会は日本のバリアフリー、障害者福祉の大きな転機になった」と振り返る。
 奉仕団はその後「赤十字語学奉仕団」と名を変え、活動を継続。新型コロナウイルス禍の今大会では選手らとの交流は限られるが、インターネット上で東京近郊のバリアフリー情報の提供などに取り組む。吉田さんは「前回パラの経験は生涯の宝。今回の大会が今の若い人たちにとっても、何かのきっかけになれば」と話す。
■「裏方」にも光
 上皇ご夫妻は、障害者スポーツを支える技術者らにも寄り添われてきた。
 リオデジャネイロ大会を翌年に控えた平成27年12月、ご夫妻は千葉市車いすメーカー「オーエックスエンジニアリング」の工場で、競技用車いすの製造工程をご覧に。説明に当たった技術者に「選手のためにいいものを作ってください」とエールを送られた。同社の石井勝之社長(41)は「光の当たらない裏方にも、しっかりと目を向けていただいていると感じた」。
 同社はアトランタ大会以降、競技用車いすで122個のメダル獲得に貢献。今大会でも車いすテニスの国枝慎吾選手ら19人に製品を提供しており、石井社長は「世界の大舞台でどこまで通用するのか。競技用車いすを通じ、アスリートとともに限界にチャレンジしていく」と意気込む。
■ご自身で体験も
 今回名誉総裁を務める陛下は、趣味のジョギングを通じ、より身近に障害者スポーツに親しまれてきた。
 ご即位前年の平成30年6月。陛下はお住まいのある赤坂御用地で、リオ大会女子マラソン視覚障害)銀メダリストの道下(みちした)美里選手の伴走を務められた。前年の園遊会で道下さんが提案したのに対し、陛下が「(パラ競技について)理解するいい機会」とご快諾。伴走用のロープでつながる道下さんに「左にカーブします」などと伝えながら、約20分間伴走された。
 その後、伴走者の研修会などを行う「日本ブラインドマラソン協会」には大きな反響があったという。原田清生(すがお)事務局長(61)は「伴走者に対する理解も広まったのではないか」。コロナ禍では研修会の開催が難しい状況が続くが、協会では感染対策を講じながら、ランナーが安全に走る環境の確保に努めている。
 ある宮内庁OBは「上皇ご夫妻は障害者スポーツの『育ての親』ともいえる。今の陛下はそのなさりようを間近に見てこられた」と説明。「競技者だけでなく、支える人をどう育てるか。皇室はそうした関係者の地道な活動にも目を向けられている」と話している。(緒方優子、橋本昌宗)
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 【皇室と障害者スポーツ】 上皇ご夫妻は前回東京パラリンピック(昭和39年)の実現を強く願い、開催に向けて尽力する関係者を支えられた。大会名誉総裁を務めた上皇さまが大会終了後「このような大会が国内でも毎年行えれば」と口にされたことをきっかけに、40年から全国身体障害者スポーツ大会(現全国障害者スポーツ大会)が始まり、リハビリの一環とされていた障害者スポーツは国内でも浸透。上皇ご夫妻は同大会へのご臨席を続け、平成2年に天皇陛下に引き継がれた。長年にわたり普及を願われてきた経緯も踏まえ、30年からは車いすテニスなど障害者スポーツ4大会に天皇杯皇后杯が贈られるようになった。」
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 8月23日13時32分 JIJI.COM 「時事ドットコムニュース>社会>障スポ、上皇さまが礎築く 64年パラ後、国内大会提案―組織委…
 障スポ、上皇さまが礎築く 64年パラ後、国内大会提案―組織委理事「意識変化を」
 東京パラリンピックの開会式に出席された上皇ご夫妻。当時皇太子だった上皇さまは大会の名誉総裁を務めた=1964年11月、東京・代々木
 リオデジャネイロパラリンピック視覚障害者女子マラソン銀メダリスト、道下美里選手(左)の伴走をされる天皇陛下=2018年6月、東京都港区の赤坂御用地宮内庁提供)
 天皇陛下が名誉総裁を務められる24日開幕の東京パラリンピック。歴史をひもとけば57年前、当時皇太子だった上皇さまが名誉総裁を務めた1964年の東京大会が、日本の障害者スポーツの夜明けとも言える転換点だった。
パラリンピックへの思い 【リメンバー1964】
 東京五輪パラリンピック組織委の理事で、障害者スポーツの歴史に詳しい日比野暢子・桐蔭横浜大教授(スポーツ政策学)は、64年大会を「関係者の意識を変えた大会」と位置付ける。
 64年11月8日に開幕した大会は、第1部の国際大会、第2部の国内大会で計7日間行われた。上皇さまは国内大会の開会式で「わが国ではなお不十分といわれる身体障害者に対する正しい理解を深め、関心を強めるため非常に良い機会であると思います」とあいさつ。大会後、関係者をねぎらった場で「このような大会を国内でも毎年行ってもらいたい」と述べた。
 これを契機に、翌65年から全国身体障害者スポーツ大会(現・全国障害者スポーツ大会)が毎年、全国各地で開かれるようになり、上皇ご夫妻はほぼ毎回出席。平成の初めに当時皇太子だった天皇陛下が引き継ぎ、令和になって秋篠宮ご夫妻が継承した。
 上皇さまは退位前最後の記者会見(2018年12月)で「障害者自身がスポーツを楽しみ、それを見る人も楽しむスポーツとなることを願ってきました。パラリンピックをはじめ、国内で毎年行われる全国障害者スポーツ大会を、皆が楽しんでいることを感慨深く思います」と語った。
 上皇さまの障害者への思いは天皇陛下にも継承されている。陛下は18年6月、赤坂御用地で、視覚障害者女子マラソンの道下美里選手(44)の伴走を行った。
 リオデジャネイロ大会銀メダリストで、今大会にも出場する道下選手は、17年秋の園遊会に招かれた際、陛下に一緒に走ることを提案。陛下がパラリンピック競技について「私自身も理解するいい機会」と快諾し実現した。陛下は書物や動画を見て事前に準備し、約2.3キロにわたり声を掛けながら道下選手をリードした。
 日比野教授は「皇室の支えもあり、障害者に対する国民の意識は変わってきている。今大会が、さらに広く国民のその意識を変化させるものになってほしい」と期待を寄せている。」
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 8月25日 YAHOO!JAPANニュース 日テレNEWS24「東京パラリンピック上皇ご夫妻の夢(下)~思い受け継ぐ天皇陛下
 8月24日、天皇陛下の開会宣言と共に、東京パラリンピックが開幕しました。遡ること57年前、1964年の東京でもパラリンピックが行われています。「障害者スポーツ」がまだ一般的でなかった時代、大会の実現に向けては当時の皇太子夫妻―─今の上皇ご夫妻のひとかたならぬ尽力がありました。そしてこの大会を機に、日本の障害者をとりまく環境は大きく変わっていきます。(日本テレビ報道局・社会デスク兼皇室担当 森 浩一)
 ※冒頭の動画は、「パラ陸上・道下美里選手の“伴走”をする天皇陛下」(2018年6月 赤坂御用地
■1964年東京パラリンピックに寄せられた「希望」
 1964年11月8日 東京パラリンピック開会式 (写真:毎日新聞社/アフロ)
 1964年11月8日、第2回パラリンピック東京大会は、21か国378人が参加し開幕しました。日本選手団の団長は「日本の障害者スポーツの父」と呼ばれた中村裕医師。上皇さまは名誉総裁として開会式に臨み、「全世界の身体障害者の人々の上に希望と幸福がもたらされることを念願してやみません」と挨拶されました。
 1964年11月7日 東京パラリンピック レセプションパーティー(写真:毎日新聞社/アフロ)
 また開会に先立ち、上皇后さまも日本赤十字社の通訳ボランティアの結成式に出席し、「参加される多くの方たちが、自分たちのうちにひそむ、新たな可能性に喜びを持たれ、明るい希望を未来に託される上に、この大会が、何かの役割を果たせますよう望んでおります」と述べられています。
 お二人が共に使われたのは「希望」という言葉でした。外国人選手は、多くが社会に出て自立した生活を送りながら競技生活を行っていました。そのいきいきとした姿は日本人を驚かせます。
 当時中村医師に誘われ車いすバスケットボールを始め、東京パラリンピックをスタンドから観戦した上野茂さん(故人)は、その時の様子を6年前こう話してくれました。「そりゃ、僕らから見たらもう驚くことばかりです。表情なんかも外国選手は社会人だから明るい。日本の選手は病院にいるから外国と比べたら暗い感じ。外国の選手はいつもにこやかで身振り手振りでキャーキャーやっていました」。外国人選手の姿は、日本の障害者にも文字通り「希望」を与えたようです。
上皇さまの思いで誕生「全国障害者スポーツ大会」
 第3回全国身体障害者スポーツ大会(1967年 埼玉)
 7日間の期間中、5日間会場に通い、外国のパラアスリート達の快活な姿に触れた上皇さまは、大会終了後、大会関係者を前に「このような大会を国内でも毎年行ってもらいたい」と希望されました。これを受け、翌年から国体の後に「全国身体障害者スポーツ大会」──のちの「全国障害者スポーツ大会」が開催されるようになります。ご夫妻は、皇太子時代ほぼ毎年この大会に足を運び、障害者アスリートたちと交流し支援を続けてこられました。
 1975年 上皇ご夫妻と中村裕医師 (提供・社会福祉法人 太陽の家)
 一方、中村裕医師も翌1965年、就労やスポーツを通じて障害者の自立を支援していく場として「太陽の家」を設立しました。理念は「No Charity,but a Chance!(保護より機会を)」。やがて大企業が出資し、障害者が健常者とともに働く工場やオフィスも施設内に作られます。上皇ご夫妻は、折に触れて「太陽の家」や関連施設を訪れ、障害者の自立への道を見守ってこられました。
■“真のスポーツ”として──上皇さまの夢
 1998年3月 長野パラリンピック(写真:毎日新聞社/アフロ)
 1998年長野冬季五輪の後に行われた長野パラリンピックでは、競技会場で自然と生まれた「ウェーブ」に上皇后さまが参加された姿が大きな話題になりました。その直前、上皇さまが「今日,障害者への関心が高まり、福祉も充実し、障害者スポーツも盛んになってきていることに深い感慨を覚えます」と語られた通り、障害者を巡る環境は1964年ごろとは大きく変わっていました。
 2016年リオパラリンピック後の誕生日の文書回答で、上皇后さまは「健常者、障害者を問わず、優れた運動選手が会心の瞬間に見せる姿の美しさには胸を打つものがあり、そうした写真の幾つも切り抜いて持っている」と明かした上で、1964年の東京パラリンピック直後に上皇さまが願われた“夢”が実現したと喜ばれました。
 「陛下は、リハビリテーションとしてのスポーツの重要性は勿論のことながら、パラリンピックがより深く社会との接点を持つためには、障害者スポーツが、健常者のスポーツと同様、真にスポーツとして、する人と共に観る人をも引きつけるものとして育ってほしいとの願いを関係者に述べられました。今回のリオパラリンピックは、そうした夢の実現であったように思います」
■再び東京へ・・・思いを受け継ぐ天皇陛下
 日本車いすバスケットボール選手権大会(2017年5月)
 そしてこの夏、57年の時を経て、パラリンピックは再び東京に戻ってきました。160を超える国と地域など約4400人が参加、22競技539種目が行われるという規模です。
 名誉総裁の天皇陛下は、皇太子時代、「全国障害者スポーツ大会」に毎年出席されてきました。2018年の記者会見では、皇后さま、愛子さまと共に車いすバスケットボール選手権大会を観戦したことなどについて、「障害のある方が日頃からのたゆまぬ努力の成果を出すべく一生懸命に競技に取り組む姿には,私のみならず,雅子も愛子も,深い感銘を受けました」と振り返られています。
 さらに陛下は「障害者を始め,子どもや高齢者など、いわゆる社会的に弱い立場にある人々が、周りの人たちの支援も受けながら、社会の中で能力を発揮し、活躍できるような環境がつくりだされていくことが一層求められている時代だと改めて感じています」と長年取り組んでいるSDGs(持続可能な開発目標)の考え方も踏まえた思いを明かされました。
■陛下自らパラ選手の「伴走も」
 パラスポーツそのものへの理解も深められています。2018年6月、陛下はリオパラリンピック視覚障害ラソンの銀メダリスト道下美里選手の「伴走」を赤坂御用地内で務められました。園遊会で道下選手から「ご一緒する機会があれば」と声をかけられ、陛下は「選手の人たちがどのように競技に臨んでいるのか理解するいい機会」と喜んで受けられたといいます。「伴走の方がどのように選手をリードされているのかということも分かって、大変いい経験になった」と振り返られています。
 今回の東京パラリンピック、コロナ禍がなければ、陛下は57年前にご両親がそうしたように、実際に会場に足を運ばれたかっただろうと思います。ご一家はテレビでパラアスリートたちの活躍を熱心に応援されることでしょう。大変厳しい環境の中で行われる今大会ではありますが、どのような「夢」が実現されるのか見守りたいと思います。(終)」
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 8月28日 MicrosoftNews JBpress「天皇家を米メディアが賞賛、半世紀超えるパラアスリート支援に
 高濱
 © JBpress 提供 東京パラリンピックの開会を宣言される天皇陛下(8月24日、写真:AP/アフロ)
 アスリートの重症化案じられた天皇
 東京パラリンピックが8月24日、天皇陛下の開会宣言で開幕した。
 感染力の強い新型コロナウイルス・デルタ株の勢いは衰えず、日本国内の新規感染者減少は見えてこない。
 非常事態宣言は開催地・東京を含む21都道府県に拡大、「まん延防止等重点措置」が適用された自治体は12県になった。
 そうした中で東京パラリンピックが始まった。
 天皇陛下が「呼吸機能の弱いアスリートや基礎疾患を抱えるアスリートの重症化のリスク」を心配される(国際パラリンピック委員会IPO=幹部へのご挨拶)中でのパラリンピックの開催強行だった。
 世界はどう見たか。
 意外なこと(?)に、海外メディアは、五輪の時とは異なり、好感を持って開幕の模様を報じた。
 全米地方紙が掲載するAP通信の特派員はこう報じた。
 「五輪の時と同じく無観客の開会式だったが、パラリンピック開催に反対するデモは少人数で、開催にこぎつけた安堵感とパラリンピック・アスリートへの歓迎ムードにあふれていた」
 東京五輪報道では、最初から最後までケチばかりつけていた韓国メディアは別として、米メディアは総じて五輪が無事閉幕したことを安堵し、「日本は本当によくやった」というジョー・バイデン大統領のコメントで締めくくった。
 御多分に漏れず、一部メディアは五輪が終わった後も国際オリンピック委員会IOC)の傲慢さを批判していた。
 ところがパラリンピック報道姿勢は、一変してどこまでもポジティブだ。
 米有力紙、ニューヨーク・タイムズのモトコ・リッチ東京支局長*1は開会式の前触れ記事でこう書いている。
 「天皇陛下(His Majesty the Emperor of Japan, Naruhito)が東京パラリンピックの開会を宣言する。日本の皇室にはこれまで長きにわたりパラリンピックを支持・支援してきた歴史がある」
 「天皇の両親である上皇上皇后は、皇太子、皇太子妃だった時から1964年の東京パラリンピックを実現させることを主要な活動の一つと考え、開催を実現させた」
 「日本の皇族について詳しいポートランド州立大学のケネス・ルオフ教授はこう指摘している」
 『当時の皇太子・皇太子妃のパラリンピック支援は身障者に対する日本人の意識・態度を徐々に変える出発点となった。今は信じられないかもしれないが、当時の日本では身障者は公の場には出さない、隠しておく存在だった』
 『皇族は日本社会に大きな影響力を持っている。皇太子は、身障者は健常者と同じようにスポーツを楽しむべきだし、社会復帰のためのリハビリとしてだけでなく、スポーツそのものをエンジョイするためのものだと主張した』
 『1964年以降、皇太子夫妻は記者たちを同行させて身障者のいる病院や施設を定期的に訪問し、身障者に対する世間の関心を喚起してきた』
 *1=リッチ氏(52)は東京生まれ、母親は日本人、父親は米国人。小学校4年生の時に帰米。イエール大学を経て英ケンブリッジ大学を卒業、ファイナンシャル・タイムズ、ウォールストリート・ジャーナルを経て2003年から現職。
 64年東京パラ実現が夢だった上皇上皇后
 リッチ記者の記事の行間には、天皇陛下の東京パラリンピック開会宣言が、国際イベントでの「名誉総裁」が行うありきたりの儀礼的な宣言ではない、というニュアンスがにじみ出ていた。
 (https://the-japan-news.com/news/article/0007707994
 天皇陛下は、8月24日、国際パラリンピック委員会(IPC)のアンドルー・パーソンズ会長らと面会された際には、パラリンピックに対する皇族の継続的な支持・支援を強調され、英語でこう述べられた。
 「障害者スポーツの発展に強い関心を持ち、1964年の東京パラリンピックを温かくも守られた上皇上皇后からいろいろと話を伺った」
 「パラリンピックは私たちが一人ひとりの個性のかけがえのなさ、尊さ(Irreplaceability and preciousness of individuality)に改めて思いをいたす機会となる」
 「これを機会に、障害がある人もない人も、お互いを尊重し合い、思いやること(Respecting and caring for one another)を、これまで以上に大切にしながら共に生きていく社会づくりが進んでいくことを願う」
 日本では、天皇陛下のご挨拶は意外にあっさり報じられた。だが海外メディアは日本の天皇の英語での生の声として強い感銘を受けたようだ。
 皇太子ご夫妻に競技を紹介した日本人医師
 一体なぜ皇族は障害者のスポーツにこれほど関心を抱いているのか。
 日本テレビの皇室担当記者、森浩一氏によると、当時、皇太子、皇太子妃と障害者スポーツを結び付けたのは故中村裕・整形外科医だったという。
 同氏は、1960年、英ストーク・マンデビル病院国立脊椎損傷者センターに留学し、車椅子の障害者たちがスポーツを通じて社会復帰していく姿に衝撃を受けた。
 同氏は、その年にローマで開かれた「障害者国際競技大会」を参観、1962年には英国で開かれた障害者スポーツ大会に2人を連れて参加した。
 その話を耳にした皇太子妃が皇太子とも相談され、中村氏を招いて実情を聴取し、東京パラリンピック開催構想が浮上したという。
 参考:東京パラリンピック上皇ご夫妻の夢(上)|日テレNEWS24 (https://www.news24.jp/articles/2021/08/25/07928910.html
 天皇陛下のIPC幹部への発言を読んだ元米外交官H氏はその意義をこう指摘する。
 「天皇が2世代にわたってパラリンピックに関わり合いを持っていることが目に見える形で世界に伝えられたことは、日本のイメージアップになること間違いない」
 「今や、世界中の人たちは遅まきながら、障害者に真摯な同情と理解を示すことをポジティブに受け止め、それが世界の良識になっている」
 「そのことを半世紀にわたり実践してきた日本の天皇家は素晴らしい。まだ誰も見向きもしなかった頃からパラリンピックに関心を持ち、東京誘致に一生懸命だった上皇上皇后は素晴らしい。日本はこうした皇族を誇りに思っていい」
 「対照的なのが米国だ。ついこの間まで国家元首だった人物(ドナルド・トランプ前大統領のこと)は、十年来の知り合いだった腕が不自由な新聞記者が気に入らない記事を書いたのに怒って、選挙キャンペーンの遊説の際、その記者の不自由な動作をまねして茶化していた」
 「集まった支持者はそれを見て笑いこける。最低な連中が支持する最低な男だった」
 「この話は一時、メディアで騒ぎとなったが、この人物は謝罪していない。米国とは、そんな男が大統領になった国だ。日本とは雲泥の差だね」
https://www.nbcnews.com/politics/2016-election/trump-s-worst-offense-mocking-disabled-reporter-poll-finds-n627736
 42億5000万人が東京パラリンピック視聴
 パーソンズ会長は言う。
 「障害者と健常者との違いは障害者にとっては力になる。不自由さは弱点ではない。パンデミック以後の世界はこれまでよりもより良い世界にせねばならない」
 「その社会とは、すべての人々にとって好機をもたらすものでなければならない」
 「パラリンピックの成功を踏み台にしてわれわれは『WeThe15』ヒューマン・ライツ運動を展開する。世界全人口の15%は障害者だ。12億人の人たちが障害を持っている」
 「この人たちには健常者が謳歌している権利を同じように享受する権利があるのだ。スポーツはその一部に過ぎない」
https://apnews.com/article/paralympics-2021-opening-ceremony-807f5ea1cc994ecbab2b5f7a50d59945#:~:text=TOKYO%20(AP)%20%E2%80%94%20The%20Paralympics,the%20recently%20completed%20Tokyo%20Olympics.
  8月24日から始まった東京パラリンピックの模様は177か国と地域の150のテレビ、ラジオ、オンラインで報道される。
 IPO関係者は「視聴者は全世界で累計42億5000万人」と予想している。前回のリオ・パラリンピック41億人を大きく上回る。
https://www.paralympic.org/news/tokyo-2020-paralympics-set-break-all-broadcast-viewing-records
 東京パラリンピックは世界を変える起爆剤になるかもしれない。」
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