⚔8)─2─日本は古代から人身売買があった。悲惨な日本の歴史と美しい日本。山椒大夫。〜No.32 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本列島とは、同時多発的に頻発する複合災害多発地帯である。
 日本の自然は、数万年前の旧石器時代縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅寸前まで追い込んでいた世にも恐ろしい災害を起こしていた。
 日本民族は、自然の猛威に耐え、深刻な厄災の中を逃げ回り、地獄の様な環境を生きてきた。
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 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
 日本民族の宗教とは、自然崇拝である。
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 2024年4月1日 YAHOO!JAPANニュース「【光る君へ】古代からあった。奴隷と人身売買という悲惨な我が国の歴史
 足かせ。(写真:イメージマート)
 今回の大河ドラマ「光る君へ」では、人身売買という悲劇的な場面が描かれていた。すでに証文があったので、母親も紫式部もどうすることができなかったのだ。我が国には奴隷や人身売買が行われていたので、その辺りを詳しく解説しておこう。
 我が国には奴婢という奴隷が存在し、それは良民(税負担をする一般の人)の所有物だった。しかし、奴婢には税負担がなく、税収が減るというデメリットがあった。
 そこで、養老2年(718)に制定された「養老律令」で、人身売買は禁止された。しかし、その後も人身売買は、水面下で行われていたのである。人身売買がクローズアップされたのは、鎌倉時代のことである。
 寛喜3年(1231)6月、武蔵国金子郷(埼玉県入間市)と美濃国蒔田荘(岐阜県大垣市)で、初夏にもかかわらず降雪があった。さらに、この年の夏は冷夏と長雨が続き、同年7月には霜降、8月には大洪水と暴風雨が襲来し、例年にない強い冷え込みが日本列島を襲った。
 これにより農作物は大きな被害を受け、収穫に悪影響をもたらした(冷害)。一連の天候不順がもたらしたのが、寛喜の大飢饉なのである。
 寛喜3年(1231)の天候不順による農作物の収穫量の激減により、翌年にはわずかな備蓄穀物を早い段階で食べ尽くし、全国的に餓死者が続出した。
 激しい飢餓で人々は死に絶え、人口の3分の1が失われたといわれるほどだった。寛喜4年(1232)は一転して激しい猛暑に見舞われ、旱魃が農民を苦しめた。早い段階で種籾すら食し、作付けが困難になったのである。
 同年9月には北陸道と四国が深刻な凶作となり、京都や鎌倉といった都市部には、生活困窮者が流入した。都市部には餓死者が続出し、その死臭が漂ってきたという(『明月記』)。
 餓死者が増えたため、幕府は備蓄米を放出して対策した。この年、年号の寛喜は貞永と改められ、鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)などで国土豊年の祈禱が執り行われた。
 大飢饉によって、庶民の生活は困窮した。何よりも問題となったのが、妻子を売るという現象が続発したことである。つまり、人身売買である。
 これまで人身売買を禁じてきた鎌倉幕府は対応を迫られ、苦境に立たされることになる。その事実を示すものが、次に掲出する法令であった。
 {寛喜4年(1232)に餓死者が続出したため、飢人として富家の奴婢になった者については、主人の養育した功労を認め、その奴婢になることを認める(人身売買の許可)。
 人身売買はその罪が実に重いが、飢饉の年に限っては許可する。ただし、飢饉のときの安い値段で、売主が買主から奴婢を買い戻す訴えを起こすことはいわれないことである。
 両者が話し合って合意し、現在の値段で奴婢を返還することは差し支えない。}
 庶民も決して奴婢になることが本意ではなかったが、事情が事情だけに止むを得ないことだった。幕府のほうでも出挙米を供出するなど、種々対策を行ったが、人身売買を許可せざるを得なかった。
 しかし、それは飢饉の年のみという時限立法の措置であり、永久的な措置でなかったことに注意すべきであろう。重々、人身売買の罪の重さを認識してのことであった。そして、法令の後半部分では、予測されるトラブルを避けるため、その扱いを定めたのである。
 渡邊大門
 株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
 1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。
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 『山椒大夫』と聞いて安寿と厨子王の名を想起する方もいるのではないでしょうか。母が子を想い、唄を口ずさむシーンに心を揺さぶられた方もいることでしょう。今回は平安時代後期を舞台にした『山椒大夫』のあらすじを紹介します。
 目次
1.『山椒大夫』の作品解説
2.『山椒大夫』の主な登場人物
3.『山椒大夫』のあらすじ
 山椒大夫
 『山椒大夫』の作品解説
 『山椒大夫』は、1915年に発表された森鴎外の代表作の一つです。中世の芸能「説経節」の有名な演目『さんせう太夫』が原作で、封建制度から資本主義制度への移行や発展を盛り込むなど鴎外オリジナルの脚色を加えて執筆されました。
 『山椒大夫』のあらすじ​​
 陸奥掾正氏(むつのじょうまさうじ)は12年前に筑紫(福岡)へ行ったきり帰ってこない。姉娘・安寿とその弟・厨子王は、母に連れられて正氏を尋ねる旅に出ることになる。道中、山岡太夫と名乗る船乗りに騙され、安寿と厨子王は丹後(京都)に、母は佐渡(新潟)に売り飛ばされてしまうのだった。
 安寿と厨子王は、丹後の長者・山椒大夫のもと過酷な肉体労働に耐え忍ぶ。しかし父がいるはずの筑紫国までは遠く、故郷にも帰れない。安寿は厨子王だけでも逃がすことにした。
 別れ際、安寿は厨子王に、母から託された大事な守り本尊を渡す。その後、追手が別れの場を通りかかると、下方の沼のほとりに安寿の履物だけが残されていた。
 やがて厨子王は京都・清水寺藤原師実(ふじわらのもろざね)に出会う。師実は妻の姪の病気平癒を祈願しに来ていたのだ。厨子王が持つ守り本尊を見て、父親が確かな家柄であることを確信。さらに厨子王が守り本尊をもって姪の病を治したことに感謝する。
 師実は恩に応えようと正氏の居所を見つけるが、正氏は既に亡くなっていた。厨子王は父の死を深く悲しみ、成人後は名前の一字を受け継ぎ「正道」と名乗るようになる。師実の取り立てもあって丹後の地方役人に出世。貧しさ故に虐げられることのないよう、丹後では人の売り買いを禁止する法律をつくる。姉の入水自殺を知ると尼寺を建立し、死を悼むのだった。
 ある時正道は、母が佐渡島に送られたことを知る。現地に行くと粗末な衣服を身にまとった盲目の老女を目にする。老女は安寿と厨子王を想う唄を口ずさんでいた。
 安寿の形見である守り本尊を老女の額に押し付けると、老婆の両目の視力が回復。再会を果たした親子は抱き合って喜ぶのだった。
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