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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
明治維新とは、日本を神武天皇の時代に戻す事であった。
慶応3年12月9日(1868 年1月3日) 王政復古の大号令「諸事神武創業ノ始ニ原ツキ」。
明治新政府は、「神武創業ノ始」に回帰する事を標榜して、日本を近代化して大陸戦争に勝利する軍国主義国家に改造すべく暴走した。
日本の近代化とは、平和の為ではなく戦争の為であった。
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皇国史観・神国物語は、必然であった。
民族中心神話を基にした皇国史観・神国物語は、外敵から日本を守る為に創作された宗教的イデオロギー的自衛手段であった。
日本を救ったのは、精神的支柱としての皇国史観・神国物語であった。
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何故、明治維新が必要だったのか。
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鎌倉時代から江戸時代まで武士政権時代では、伊勢神宮の天照大神(最高神・女性神)は信仰されたが初代神武天皇は忘れ去られた。
江戸時代は儒教が隆盛を極めていた時代で、中国の歴史書や漢籍に基づき日本人は中国人の子孫であると信じられていた。
江戸時代後期の後期水戸学は、キリスト教とロシアの侵略から神国日本を守る為に、儒教による中国人祖先説を打ち砕き日本民族を世の中に浸透させる為に皇国史観を創り出した。
皇国史観への道を切り開いたのは孝明天皇であった。
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2024年1月15日 学術文庫&選書メチエ編集部「神武天皇の墓所は三ヵ所あった!? 幕末の混乱期、荒れ果てた「暴汚」「霊威」の地に決定した「ある事情」。
初代天皇とされる神武天皇の墓所、「神武天皇陵」は、現在の奈良県橿原市にある。大和三山のひとつ、畝傍山の北麓にある「畝傍山東北陵」だ。しかし、神武天皇陵はもとからこの地だったわけではないという。おもな候補地だけで三ヵ所があったが、奇妙な経緯で、現在の地に落ち着いたのだ。新刊『神武天皇の歴史学』(外池昇著、講談社選書メチエ)からその成り行きを見ていこう。
幕府公認の「塚山」か、霊威の地「神武田」か
「初代天皇の墓所」ともなれば、太古の昔から丁重に祀られ、人々の尊崇を集めてきた場所と思うだろう。しかし、実は現在の「神武天皇陵」は、幕末期に定められた場所なのである。
そもそも神武天皇陵は、江戸時代になるまでその所在も定かではなかった。江戸時代中期の元禄年間(1688-1704)に幕府が行った天皇陵の修築事業「元禄の修陵」では、現在の神武陵から300mほど北に離れた「塚山」が「神武天皇陵」と定められていた。
しかし、その時からすでに異論がくすぶっていたのである。
塚山とは別に、「神武田」という地も神武天皇陵と目されていた。京都の医師で国学者の松下見林が著した『前王廟陵記』(元禄11年刊)には、こんなことが書かれている。
〈神武天皇陵は百年ほど前から壊されて「糞田」となり、「民」はその田を「神武田」と呼ぶ。「暴汚」(ひどく汚されていること)の仕業であり、「痛哭」(激しく泣くこと)するべきである。数畝の他は高く盛られているが、「農夫」はこれに登っても平然としている。これを見るとぞっとする。〉(『神武天皇の歴史学』p.33)
「糞田」とはおそらく、排泄物を肥料に用いている田のことだが、それにしてもひどいありさまだったようだ。この「神武田」こそが、のちに新たに整備され、現在の神武天皇陵となるのである。
「神武田」という地名は、検地帳に載っているような公的なものではなく、民間でそう呼ばれていたらしい。その読み方も、「じぶの田」「じんむた」「シンム田」「ジムタ」など一定しない。別名では「ミサンサイ」とも呼ばれていた。
また、ここでは人々を恐れさせる出来事もあった。幕末の安政年間に記録された村役人の聞き取りによると、この地は「霊威の地」と恐れられて農作する者もなく、荒れ地となっていた。松や桜を焚き木にしようと伐採した村人が「家中死に果て」、芝地の草を刈り取って牛馬に与えても食べようとせず、田地にして耕作した近隣の村人3人が死んだ、という。
こうした「霊威の地」だからこそ、「神武天皇陵にふさわしい」と考えられたのかもしれない。
塚山は現在、綏靖天皇陵となっている
しかし、この神武田でも、幕府が定めた塚山でもなく、もう一つの「神武天皇陵」を唱えた大物学者がいた。
神武田も塚山も「真の神武天皇陵ではない」として、異説を唱えたのは、国学者として知られる本居宣長と蒲生君平(がもうくんぺい)である。蒲生君平は天皇陵を訪ね歩いて著した本格的な研究書『山陵志』で有名な学者だ。
本居と蒲生が神武天皇陵としたのは、畝傍山の東北の山腹にある「加志」または「御陵山」「丸山」などと呼ばれる地だった。「神武田」からは南に500mほどの地点である。
この説は、朝廷から宮内省にいたる流れに属する学者からは「異説」として非難・攻撃の的とされ、結局、公の認めるところとはならなかったが、著名な学者の説としては充分な説得力があったと思われ、根強く支持されていくことになる。
「攘夷祈願」を急ぐ孝明天皇
さて、三ヵ所となってしまった「神武天皇陵」の候補地――。いったいどのように決着したのだろうか。
この問題の決着を急がせたのは、幕末に高まった攘夷の気運と、尊皇思想の高まりだった。
尊皇家として知られる水戸藩主・徳川斉昭は、荒れ果てた神武天皇陵の修築と、神武天皇を祀る神社の創建を建白しているが、その時、斉昭の念頭にあったのは幕府が定めた塚山ではなく、神武田だった。
またこのころ、奈良奉行として現地に赴任した幕末の能吏・川路聖謨(としあきら)は、幕臣としての立場上、塚山説を擁護するが、神武田の共存も許容し、ただ、本居宣長の丸山説に対しては厳しい批判を向けている。
そして、この問題の決着に決定的な意思を示したのが、孝明天皇である。かねてから攘夷の意思が強かった孝明天皇は、神武天皇陵で攘夷実現のための祭祀を強く望んでいた。そして文久3年(1863年)2月17日、ついにその決定がなされたのである。
孝明天皇がその意志を示すに先立っては、陵墓修築に携わってきた谷森善臣と、藤堂藩士の北浦定政という二人の学者から、それぞれの所論を提出させている。谷森が神武田説、北浦が丸山説である。その時、幕府公認の塚山説はすでに検討の対象ではなかった。
それに対する孝明天皇の決定は「神武田」だった。しかし、その「御達し」には、「丸山のほうも粗末にならないように」という1行が加えられていた。
〈ここに「丸山」について「粗末にならないように」と孝明天皇が述べるのも、それどころか、この段になって今更のように「神武田」(ミサンサイ)説とともに「丸山」説をも孝明天皇の最終的な判断を仰ぐ場に並べるというのも、よく考えてみればこそ、何とも不自然との印象を抱かざるを得ないのである。〉(『神武天皇の歴史学』p.135-136)
〈そのことの前提として、「丸山」説が決して消え去ったのではないどころかこれを支持する人びとのことを無視できないという現実があったことも忘れられてはならないのである。〉(同書p.136)
整備前の神武天皇陵(神武田)。『文久山陵図』より
ともあれ、この決定に従って修築工事は進められ、同年11月、新たな神武天皇陵は完成した。しかしその3年後の慶応2年(1866年)12月、孝明天皇は結局、神武天皇陵の参拝はかなわないまま36歳の若さで崩御する。
完成した神武天皇陵。『文久山陵図』より
孝明天皇の子の明治天皇が神武天皇陵を初めて拝したのは、明治10年(1877年)の紀元節、2月11日のことだった。
※関連記事〈初代天皇なのに、教科書に登場するのは「神武景気」だけ。この程度の知識で、ホントに良いのだろうか?〉、著者・外池昇氏のインタビュー〈日本史上の重要人物〈神武天皇〉を、歴史学者はなぜ無視してきたのか?〉も、ぜひお読みください。
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日本は、古代から中国と朝鮮による地政学的侵略、戦国時代からキリスト教による宗教侵略、江戸時代後期からロシアによる軍事侵略、明治時代のマルクス主義・無政府主義と大正時代の共産主義(レーニン主義、トロツキー主義、スターリン主義、毛沢東主義)によるイデオロギー侵略、昭和前期のアメリカによる人種差別から、天皇・日本国・日本民族を守る為に積極的自衛戦争を繰り返していた。
その為に、明治維新が必要だった。
日本には、援軍を送ってくれる同盟国はなく、支援してくれる友好国もない、孤立無援であった。
日本国内には、国際的反天皇反日勢力に味方する反天皇反民族反日のエセ保守とリベラル左派が何時の時代でも存在していた。
今も昔も、天皇と日本国と日本民族の敵は国内外に数多く存在している。
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皇国史観(こうこくしかん、旧字体:皇國史󠄁觀)とは、日本の歴史が万世一系の天皇を中心として展開されてきたとする歴史観。
概要
定義
皇国史観の定義については、さまざまな見解がある。
デジタル大辞泉は、「万世一系の天皇を中心とする国体の発展・展開ととらえる歴史観」と紹介している。
日本大百科全書には、「国教化した天皇中心の超国家主義的日本史観」と記述されている。
精選版 日本国語大辞典には、「万世一系とする天皇による国家統治を日本の歴史の特色とする考え方」で「古事記・日本書紀の神話を歴史的事実とする」と記述されている。また、日中戦争(支那事変)から第二次世界大戦(大東亜戦争/太平洋戦争)期の軍国主義教育の強力な後ろ盾となったとしている。
起源
起源についても、多くの見解が散見される。
日本大百科全書には、「その根源は幕末の尊攘(そんじょう)思想、平田国学、明治の国粋主義などまでさかのぼりうる」とした上で「唯物史観歴史学の発展に対し危機意識を強めた平泉らは、「万世一系」の「国体」とそれを基軸として展開してきたとみる日本歴史の優越性を強調し、「大東亜共栄圏」思想に歴史的裏づけを与えようとした」と紹介している。
日本共産党のしんぶん赤旗は、「その概念を、いつの時代にまでさかのぼって定義するかによって成立時期が異なります」とし、「「史観」としていつ確立されたかについてはさまざまな見方があります」とした上で「「体系」的とは言い難い概念」だと主張している
沿革
南北朝時代・江戸時代
皇国史観の先駆は、南北朝時代に、南朝の北畠親房が著した『神皇正統記』である。江戸時代には水戸学や国学がおこり、幕末になると尊皇攘夷運動が盛んになった。
第二次世界大戦前
明治維新後、政府は水戸学の影響を受け、皇国史観を「正統な歴史観」として確立していく。1889年に制定された大日本帝国憲法で“大日本帝国は万世一系かつ神聖不可侵の天皇が統治すること”(君主主権[要出典])と明記した。
明治以降の歴史教科書では、足利尊氏が朝廷に刃向かった朝敵とされたが、永禄年間までは楠木正成のほうが朝敵とされていた(下記「南北朝正閏論争」も参照)。
経過
1880年代には記紀神話に対する批判など比較的自由な議論が行われていた。また考古学も発展し、教科書には神代ではなく原始社会の様子も記述されていた。
しかし、1891年には帝国大学教授久米邦武の「神道は祭天の古俗」という論文が不敬罪に当たるとの批判を受け職を追われた。このような変化は、神道内においては伊勢派 が出雲派 を放逐したことと軌を一にする。
その後、1920年代には大正デモクラシーの高まりを受け、歴史学にも言論が活溌になり、左翼においてはマルクス主義的な唯物史観に基づく歴史書も出版されたが、社会主義に対する危機感と共に統制も強化された。1935年には天皇機関説事件が起きた。1940年には歴史学者津田左右吉の記紀神話への批判が問題となり、著作が発禁処分となった。一般の歴史書でも、皇国史観に正面から反対する学説を発表する事は困難となったそして、第二次世界大戦が勃発すると、「日本は強い国、世界に一つの神の国(以下省略)」と記載した修身科の国定教科書『ヨイコドモ』が小学校に配布された。
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日本共産党 2008年3月19日(水)「しんぶん赤旗」
皇国史観とは?
〈問い〉 貴紙2月10、11日「神国の誕生―再考・建国の記念日」でのべていた皇国史観はいつごろだれが体系化したイデオロギーなのですか?(福島・一読者)
〈答え〉 「皇国史観」は、その概念を、いつの時代にまでさかのぼって定義するかによって成立時期が異なります。源泉が古事記、日本書紀にあるのは確かですが、「史観」としていつ確立されたかについてはさまざまな見方があります。また、「だれが」という点では、特定の個人がひとりで生み出したものではないため「だれが」と確定するのは不可能です。政府から民間人まで、さまざまな思惑が絡み合いながら育成され、結果的に太平洋戦争の時期にピークを迎えた「史観」としかいいようのない面があります。そして、「体系化」についてはそもそも「皇国史観」が体系的なものでなく、戦後この言葉がよく使われるようになってからも、かなりあいまいなレッテルとして機能してきたことが、最近の研究で指摘されるようになっているほどに、もともと「体系」的とは言い難い概念です。
こうした、あいまいさ自体が特徴ともいえるのが「皇国史観」ですが、見解が分かれていることを前提にしつつも、大づかみ歴史をたどると以下のようになります。
「皇国史観」は、江戸時代以前から複数の源流をもちながら存在していた思想を下敷きに、明治政府の指導者たちが天皇を中心とした中央集権的国家づくりをめざすなかでその基礎が形成されました。大日本帝国憲法や教育勅語によって天皇の神格化が制度化されるなかで教育面でもその普及が強化され、国定教科書でもとりあげられて幼少期から「皇国史観」が植え付けられました。
「皇国史観」の強化時期としては、国家神道にもとづく国民教化運動の中心を担うため教部省が設置された1872年なども重要な節目と見ることができますが、1930年代なかばに「国体」をはっきりさせようとする「国体明徴運動」が起こったように、「国体」の概念自体があいまいであるという認識や矛盾が右翼勢力のなかにも長らく存在していました。しかし戦時体制が強化されていくなかで日本の領土拡張政策を正当化する論拠として機能した「皇国史観」は、時を追うごとに帝国日本の精神的支柱としての役割が強まり、37年の「国体の本義」の発行や「国民精神総動員運動」などをへて、「国民的」なものになっていきました。その理論化には歴史学者の平泉澄が大きな役割を果たしました。(金)
〔2008・3・19(水)〕
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ウィキペディア
橿原神宮(かしはらじんぐう)は、奈良県橿原市久米町にある神社。旧社格は官幣大社、勅祭社。現在は神社本庁の別表神社。畝傍山の麓にあり、神武天皇畝傍山東北陵の南にある。
歴史
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出典検索?: "橿原神宮" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2023年2月)
初代天皇である神武天皇と皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命を祀るため、神武天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされるこの地に、橿原神宮創建の民間有志の請願に感銘を受けた明治天皇により、1890年(明治23年)4月2日に官幣大社として創建された。橿原神宮の設計は、東京帝国大学(現・東京大学)名誉教授を務めた伊東忠太によって行われた。
1940年(昭和15年)には昭和天皇が同神社に行幸し、秋には日本各地で紀元2600年奉祝式典が挙行された。この年の参拝者は約1000万人に達したという。現在でも皇族の参拝がある。
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2022年4月6日 橿原市(かしはらし)観光情報サイト
日本のはじまり、橿原神宮へ!
橿原市を代表する聖地「橿原神宮」。日本のはじまりの地であり、市内を訪れたら一度は訪れたいスポットです。広々とした境内は清らかな空気に包まれ、参拝すればきっと清々しい気持ちに。境内はとても広いので、ゆっくり散策するのもおすすめです。
目次
橿原神宮のきほん
どんなところ?
橿原神宮は、神武天皇を祀る神社の創建を求めた民間有志の嘆願により、明治時代に創建された神社。
大和三山のひとつである「畝傍山」の麓にあり、甲子園球場約13個分とも言われる広大な敷地内には重厚で美しい社殿をはじめ、畝傍山や深田池周辺の四季折々の風景、毎年話題の大絵馬など、時間をかけてゆっくりめぐりたい見どころがたくさんあります。
最寄り駅は近鉄「橿原神宮前」駅。第一鳥居までは徒歩約5分です。訪れる場所によっては、「畝傍御陵前」駅や「橿原神宮西口」駅の方が近くなりますので、事前確認をお忘れなく!
「日本のはじまり」と言われるのはなぜ?
日本最古の正史とされる『日本書紀』によると、約2680年前に神倭伊波禮毘古命(後の神武天皇)が橿原の地に「橿原宮」を創建し、第一代天皇として即位されたと伝えられています。つまり、「第一代天皇即位の地」、これが由来となり「日本のはじまりの地」と呼ばれるようになりました。
御祭神は?
お祀りされている神様は「神武天皇」と「媛蹈韛五十鈴媛皇后」。神武天皇が幾多の困難に打ち勝ち第一代天皇となられたことや、127歳という大長寿を全うされたことから、開運・招福、健康・延寿の御利益があると言われています。毎年2月11日の建国記念の日には、第一代神武天皇の建国の偉業を仰ぎ「紀元祭」が行われています。
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2026年4月4日 産経新聞「100年ぶり、大正天皇にならわれ 神武天皇式年祭
初代天皇である神武天皇の式年祭が、大正5年以来100年ぶりに行われた。皇祖の命日に御霊を慰める式年祭は、宮中祭祀(さいし)の中でも「大祭」に位置付けられる重要な儀式。天皇、皇后両陛下は大正天皇、貞明皇后の前例にならい、奈良県橿原市の神武天皇陵まで赴き、厳かに拝礼された。
宮内庁によると、現在の宮中祭祀は明治憲法下の旧皇室祭祀令に基づいて行われる。大祭は天皇自らが祭典を行い、拝礼した上で、御告文(おつげぶみ)を奏上する。神武天皇と先代(現在は昭和天皇)のみは毎年の命日に大祭として祭典を営む。
先代より前の3代(現在は大正天皇、明治天皇、孝明天皇)は毎年、掌典長が執り行い、天皇が拝礼する小祭となる。また、歴代天皇の崩御から3年、5年、10年、20年、30年、40年、50年、100年、それ以降は100年ごとに営まれる祭典は式年祭と呼ばれる。
天皇祭、式年祭は、歴代天皇をまつる皇居・皇霊殿と、それぞれの陵(天皇の墓)で行われる。両陛下は先代である昭和天皇の三年、五年、十年、二十年の式年祭はいずれも武蔵野陵(東京都八王子市)での儀式に臨まれている。
宮内庁によると、100年ぶりの神武天皇式年祭を迎えるにあたり、大正5年の二千五百年式年祭で大正天皇、貞明皇后が神武天皇陵を参拝した前例にならい、両陛下も陵での拝礼を望まれたという。
二千五百年式年祭では、大正天皇は陸軍式の正装だったが、陛下は今回、モーニング姿で臨まれた。また、ホテルからの御料車には、国会開会式などと同じくトヨタ製の「センチュリーロイヤル」を使われた。
当時は伏見宮貞愛親王、東伏見宮依仁親王妃が務めた皇霊殿での名代は皇太子ご夫妻、依仁親王だった陵への同行役は秋篠宮ご夫妻がそれぞれ果たされた。
皇太子妃雅子さまは体調への負担が大きい伝統的な装束「五衣」「小袿」「長袴」に、髪を束ねて後ろに垂らす「おすべらかし」の髪形で臨まれた。宮内庁関係者は「神武天皇の式年祭を重く受け止め、体調を整えられた」としている。
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神武天皇 宮内庁書陵部によると、父は天津日高彦波瀲武●(=慮の心を皿、右に鳥)●(=滋のつくり、右に鳥)草葺不合尊(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)、母は玉依姫命(たまよりひめのみこと)。日本書紀によると、太子となって九州から東遷し、大和を平定。紀元前660年に橿原宮で即位し、初代天皇となった。紀元前584年に127歳で崩御したとされる。明治6年に即位した2月11日を紀元節と定め、戦後に廃止されたが、昭和42年に「建国記念の日」として祝日となった。
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トラベル Watch「今こそ行きたい日本はじまりの地、奈良。神武天皇を祀った橿原神宮で古代のロマンに触れる
野村シンヤ2019年10月22日 07:00
初代天皇である神武天皇が祀られている橿原(かしはら)神宮。広大な敷地と立派な社殿を持つ格式の高い神社だ
新しい元号「令和」が始まり、10月22日には天皇陛下の御即位を広く披露する「即位礼正殿の儀」が執り行なわれる。新しい時代の始まりであるが、「日本のはじまりの地」として今注目されているのが奈良県の橿原(かしはら)神宮と飛鳥地方だ。
JR東海(東海旅客鉄道)は奈良県をPRするキャンペーン「うまし うるわし 奈良」を2005年より行なっているが、今年はこの“飛鳥”エリアにスポットを当てて展開している。その飛鳥を巡るプレスツアーに参加してきたので、前編と後編に分けて紹介しよう。なお、橿原神宮の通常公開されていない施設などの写真については、特別に許可を得て撮影したものであることをお断りしておく。
神武天皇と皇后を祀る橿原神宮
最初に紹介するのは初代天皇である「神武天皇」と皇后「ヒメタタライスズヒメノミコト(媛蹈韛五十鈴媛命)」が祀られている「橿原神宮」。
奈良県中部の橿原市にあり、大和三山(耳成山、畝傍山、天香久山)である畝傍山の東南に位置する。日本最古の正史ともされる「日本書紀」によると、今よりはるか昔2600年前に、天照大神の血を引く神倭伊波禮毘古命(後の神武天皇)が九州の高千穂からこの地に移り、橿原宮を創建して第一代天皇として即位されたと伝えられている。その後は、飛鳥京、藤原京、平城京と遷都され、跡地は長らく畑地となっていた。
動きがあったのは幕末の文久3年(1863年)で、神武天皇の御陵が畝傍山の北東に定められる。明治10年代になると橿原宮址を調査し、これを顕彰しようという動きから、民間から橿原神社の建築の出願が相次いだ。これを受け、明治政府は明治22年(1889年)に神社創建を認可し、社殿として京都御所の賢所と神嘉殿の2棟が下げ渡された。明治23年(1890年)1月に移築が完了し、3月に社号を橿原神宮に、4月2日には格式の高い官幣大社に列せられることになった。神武天皇は幾多の苦難を乗り越えて都を開いたことから、開運・招福のご利益があるとされている。また、言い伝えでは127歳の長寿であったことから、健康・延寿を願う多くの人が参拝に訪れている。
表参道に建てられている第一鳥居も立派だ。現在は改修工事が行なわれており、その先に見えるはずの第二鳥居は台座のみになっているが、近々新しい鳥居がお目見えする予定だ
振り返ると第一鳥居の先には水墨画のような美しい奈良の山々が広がる
神武天皇にまつわる鮎を用いた「鮎みくじ」と、幸運を呼ぶとされる金鵄を用いた「金鵄みくじ」。かわいいフォルムが女性に人気だとか
創建以来、宮域の拡張整備が行なわれてきたこともあり、約16万坪と広大な敷地を誇る橿原神宮。“橿原”という地名から昔は樫の木が生い茂っていたと推測されることから、境内にはカシ類を主として約8万本が植栽されており、深い緑に包まれているのが特徴だ。
敷地にはいくつもの施設が建立されており、見どころはたくさんあるが、重厚で壮大な社殿は一見の価値がある。両脇に長い廻廊を連ねた入母屋造りの外拝殿、整備された外院斎庭の奥にある美しい内拝殿など、参拝に訪れる人の心を清々しいものにしてくれる。後背には緑が映える畝傍山も見え、古来大和の趣を感じることができるのも特筆すべき点だ。ちなみに畝傍山は標高199.8mの高さであり、北参道の途中にある登山口から登って、頂上から橿原の街並みを一望できるそうだ。
廻廊から内拝殿を見たところ。内拝殿の奥には祝詞(のりと)を奏上する幣殿、ご神体が鎮座する本殿が続く。釣燈篭にはカシの葉をモチーフにしたマークが入っている
廻廊から外拝殿を見たところ。通常は外拝殿で参拝を行なうので、ここまで入ることはできない
外拝殿からは内拝殿とちらりと見える幣殿までを拝むことができる
もし、早起きができるなら、橿原市観光協会が実施している「橿原神宮朝拝体験ツアー」(1000円)がオススメ。朝8時に集合し、神職の案内のもと、普段は立ち入ることのできない儀式殿にて朝拝を体験し、内拝殿からお参りすることができる。朝拝は毎日職員が集まって行なう朝のお参りで、穢れを祓って本来の自己に立ち還るために唱える「大祓詞(おおはらえことば)」を奏上するものだ。厳かな雰囲気のなか、参加者も渡された大祓詞を一緒に唱えて奏上する。清々しい空気でキリッと始まる朝もここでしか味わえない体験だ。
ツアーは基本的に祭典や行事が行なわれていない金曜、土曜、日曜に実施されているが、申し込み方法も含めて、橿原市観光協会のWebサイトをチェックしてもらいたい。
伊勢神宮よりまるごと移築された儀式殿。ここでは結婚式のほか、毎朝の朝拝が執り行なわれる
神職をはじめとする橿原神宮の職員が毎朝集い、大祓詞と神社拝詞を奏上する。二拝二拍手一拝などの所作が美しい
橿原神宮
参拝時間: 日の出から日没まで(5時~19時、季節によって変更)
所在地: 奈良県橿原市久米町934
勅使館が10月23日から特別公開
そのほかでは、通常は非公開である「勅使館」が10月23日から12月8日まで特別公開される。この勅使館は天皇陛下の御代理である勅使が、例祭「紀元際」や重要な祭典の前に参籠(祈願のために籠る)、潔斎(神事前に身を清める)をする場所である。
これまで非公開であった「上段の間」も公開されるほか、午前と午後には神職による施設の解説も実施。また、東海道新幹線の「EXご利用票」(ご参拝の当日または前日に京都駅または新大阪駅着であるもの)か、JR東海ツアーズ「橿原神宮 勅使館特別拝観」チケットを持参した人には、鳥居の古材で調製された「開運延寿鳥居古材木札」が進呈される。
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明治維新とは、ロシアの軍事侵略から如何にして神国日本を守るかという体制選択であった。
伝統的な徳川将軍家を中心とした諸国・諸藩連合の地方分権体制か、革新的な天皇を中心として一国中央集権体制かである。
佐幕派は前者であり倒幕派は後者であった。
つまり、日本の生き残りを賭けた、佐幕派の継続的変革か倒幕派の破壊的イノベーションかの選択戦争であった。
何れにせよ、世界が大きく激変する時代において、戦争を避ける話し合いによる外交での継続的変革には未来はなく滅亡し、戦争を覚悟した外交での破壊的イノベーションのみが未来で生き残る正解の選択であった。。
それは、現代でも変わる事のない普遍的大原則である。
日本の近代的軍国主義政策は、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、そして最も恐ろしいマルクス主義・共産主義のイデオロギー侵略が原因であった。
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日本民族は、個人主義と集団主義を車の両輪として生きてきた。
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江戸時代の封建体制は個人主義で、明治の近代体制は集団主義である。
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日本の歴史で、個人主義時代は平和な時代で、集団主義時代は戦争の時代であった。
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明治維新・戊辰戦争とは、徳川幕府による個人主義体制か明治新政府による集団主義体制かの体制選択内戦であった。
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弱小国日本、財政赤字で破綻していた明治新政府の国際的信用の根拠は、天皇の存在であった。
天皇の存在で、近代日本は普通の国家として世界に受け入れられた。
それが、天皇の国家元首としての統治権であった。
欧米列強は、殺しのプロである武士集団ではなく、日本民族の主権者であり祭祀王の天皇の存在ゆえに日本を侵略しなかった。
そこが、日本国とムガル帝国の違いである。
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ムガル帝国はいとも簡単に内部崩壊で滅亡し、インドはイギリスの植民地となり、インド人はイギリス人の奴隷となった。
日本が教訓として学ぶべきは、清王朝の中国ではなくムガル帝国のインドであった。
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