🌏8)─1─明治新政府は大陸戦争を始める為に「巧妙なロジック」を作り出した。~No.16 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 徳川幕府は、オランダからの情報で、西洋列強の日本・アジア侵出の概要を知っていた。
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 日本の近代化とは、侵略してくる外敵と大陸戦争をして勝利する為であった。
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 寛政5(1793)年 寛政日露交渉。ラクスマン外交
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2022-07-31
🏞75)─1─ルイ16世は蝦夷地・樺太調査目的でフランス艦隊を派遣した。1785年。~No.308 
2022-08-01
🏞75)─2─イギリスの蝦夷地植民地化計画と徳川幕府の対応。1796年。~No.309 
2022-08-03
🏞75)─3─ロシアの対日戦略目的は当初は友好・交易であったが途中から領土・植民地に変わった。~No.310 
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2018-11-26
🏞76)─1─開国・尊皇攘夷前史。寛政日露交渉。松平定信。大黒屋光太夫林子平。エカテリーナ女帝。~No.311No.312・ @ ㉔
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 2023年5月22日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「「明治天皇」と「神武天皇」は、実は瓜二つだったという驚きの事実 つくられた「神武天皇」像
 辻田 真佐憲
 © 明治天皇 photo by gettyimages
 「戦前」とは何だったのか。
 神武天皇教育勅語万世一系、八紘一宇……。右派も左派も誤解している「戦前日本」の本当の姿とは何なのか。
 本記事では、明治維新で都合よく利用された神武天皇の具体的イメージが必要になり、つくりあげられていく様子をくわしくみていく。
 ※本記事は辻田真佐憲『「戦前」の正体 愛国と神話の日本近現代史』から抜粋・編集したものです。
 「神武天皇と今上陛下は御一体」
 神武天皇の存在感が高まると、挿絵などで具体的なイメージが求められるようになった。
 現在、神武天皇というと、どのような姿を想像するだろうか。試しにグーグルでイメージ検索してみると、その特徴はおおよそつぎのとおりとなる。
 長い髪を左右に分け、両耳のところで束ね(みずら)、首元には勾玉のネックレス。顔つきは凛々しく、豊かな口髭と顎髭を蓄える。白くゆったりとした上着は腰もとの帯で締められ、袴も膝下あたりで上から紐でくくられている。そして腰に太刀を佩(は)き、背中に矢筒(靭(ゆぎ))を背負い、片手には長い弓。そして弓の先には金鵄が輝いている。
 当時のイメージもここから大きく離れるわけではない。『日本教科書大系』で明治期の歴史教科書をみてみると、大きく違うのは頭部ぐらい。顔が平安絵巻のような引目鉤鼻だったり、髪型が長髪もしくは髷だったりする。ただどれも鮮明とはいいがたく、細かい分析には向かない(図1)(※外部配信でお読みの方は現代新書の本サイトでご覧ください)。
 そこで、ここでは彫像をみてみたい。立体物の彫像は、挿絵と違って360度、細部まで作り込まなければならず、ごまかしが利かないからだ。
 その先駆例は、東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)教授の竹内久一によって制作された、木像の神武天皇である。新聞『日本』の懸賞当選作品で、1890(明治23)年、第3回内国勧業博覧会に出品された。やはり皇紀2550年のことだった(図2)(※外部配信でお読みの方は現代新書の本サイトでご覧ください)。
 この木像は、大八洲(おおやしま)(日本の異称)、八咫鏡皇位の象徴である三種の神器のひとつ)、八紘から、高さは8尺(約2.4メートル)とされた。やはりゆったりした衣服を身に着け、勾玉のネックレスをつけ、太刀を佩いている。
 際立った特徴は、今回も頭部である。まず、髪型はみずらではなく、オールバックになっている。しかしそれ以上に興味深いのは、顔の彫りが深く、凛々しいことだ。ここが平安絵巻のようであった教科書のそれとは大きく異なる。
 神武天皇といっても、その顔がわかるわけがない。想像するにしても手がかりがほしい。一歩まちがえれば、不敬と責められかねない──。竹内は困った挙げ句、ついに明治天皇に似せることを思いついた。
 天皇万世一系である、神武より今上まで連綿として引き続いて居る日本は芽出度い国柄である、そして見ると神武天皇と今上陛下は御一体である、御一体でなくてはならぬ、されば宜しく陛下を摸し奉るに如(し)くものはないとて即座にさう定めてしまつた。(「先帝陛下と神武天皇」)
 神武天皇から途切れず今上天皇まで皇統が連綿とつづく日本では、神武天皇今上天皇は一体でなければならない。竹内はこう理屈づけることで、明治天皇を模写することを正当化した。
 なるほど、そう言われてあらためて神武天皇の木像をみると、明治天皇の面影が感じられなくもない。
 西洋化こそ古代回帰?
 竹内は明治天皇の姿を直接見たというが、やはり参考にしたのはわれわれもよく知るあの御真影(お写真)ではないか。
 短髪で豊かな髭を蓄えた明治天皇が、軍服を着用し、胸を張り出すように椅子に腰掛け、左手はサーベルを掴み、右腕はサイドテーブルに載せながら、こちらを凝視している──。この御真影は1888(明治21)年に撮影され、1890年代以降、各小学校などに頒布されたものである。
 この御真影の成立については、猪瀬直樹の『ミカドの肖像』がもっとも先駆的によくまとめている。
 それまで明治天皇の肖像は、明治初期に撮影された写真(和装と軍装)と、それをモデルに描かれた絵画だった。これらは、髭が薄く、顎が細く、いかにも東洋人らしい見た目をしている。
 ところが、有名な御真影では、いかにも西洋の君主らしい大柄な風体をしている。なぜか。それは、日本政府に招かれたイタリア人の銅版画家エドアルド・キヨッソーネが記憶をもとに描いた肖像画を、写真家の丸木利陽が撮影したものが御真影だったからである。明治天皇は写真嫌いだったため、このような複雑な手段がとられたのだ。
 キヨッソーネはモデルの写真があるときは、それに忠実に描いた。だが、それを欠き、想像力に頼ったばあい、どうしても慣れ親しんだ西洋人の姿に引きずられた。
 現実よりも、凛々しく、雄々しく、西洋風に。そんな明治天皇御真影をもとに、神武天皇像もつくられたのだとすれば──。これほど皮肉なこともあるまい。
 というのも、西洋を内面化させた明治天皇の肖像をもとに神武天皇像をつくることで、現在の西洋化された明治天皇こそ神武天皇の復活だと循環的に説明することができるようになっているからである。
 言い換えれば、西洋化こそ古代回帰だという倒錯したロジックがここで可視化されている。神武創業とは、やはり西洋化だったのだ。
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 さらに【つづき】『「神武天皇」は、実は日本人に忘れられていたという衝撃の「事実」』では、近年関心が高まっている神武天皇が、実は幕末まで忘れられた存在であったという点についてくわしくみていく。
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 日本が戦った大陸戦争は、江戸時代後期に突然日本を襲ったロシアの日本侵略が原因で、天皇・国・民族、歴史・文化・伝統・宗教を軍事力で守る為の積極的自衛戦争であった。
 徳川時代の平和ボケした個人主義の日本人を大陸戦争ができる集団主義日本民族に改造する為に、軍国主義政策を採用して近代的天皇体制国家を樹立した。
 リアリストではないの現代の日本人の能力では、起きた事実の歴史的現実が理解できない。それが現代日本人の絶対に超えられない限界である。
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 明治維新とは、ロシアの軍事侵略から如何にして神国日本を守るかという体制選択であった。
 伝統的な徳川将軍家を中心とした諸国・諸藩連合の地方分権体制か、革新的な天皇を中心として一国中央集権体制かである。
 佐幕派は前者であり倒幕派は後者であった。
 つまり、日本の生き残りを賭けた、佐幕派の革新的リノベーションか倒幕派の破壊的イノベーションかの選択内戦であった。
 何れにせよ、世界が大きく激変する時代において、戦争を避ける話し合いによる外交での継続的リノベーションには未来はなく滅亡し、戦争を覚悟した外交での破壊的イノベーションのみが未来で生き残る正解の選択であった。
 それは、現代でも変わる事のない普遍的大原則である。
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 日本や諸外国そして国連・国際司法法廷の歴史では、日本の孤独な積極的自衛戦争は平和に対する罪・人道に対する罪による戦争犯罪であるとして完全否定されている。
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 5月18日 「「神武天皇」は、実は日本人に忘れられていたという衝撃の「事実」
 幕末に「急に」思い出された神武天皇
 辻田 真佐憲文筆家 近現代史研究者プロフィール
 「戦前」とは何だったのか。
 神武天皇教育勅語万世一系、八紘一宇……。右派も左派も誤解している「戦前日本」の本当の姿とは何なのか。
 本記事では、近現代史研究者である辻田真佐憲氏が、近年関心の高まっている神武天皇をめぐる歴史を紐解く。
 ※本記事は辻田真佐憲『「戦前」の正体 愛国と神話の日本近現代史』から抜粋・編集したものです。
 関心が高まる神武天皇
 2022(令和4)年3月に、古屋圭司衆院議員が「神武天皇今上天皇は全く同じY染色体であることが、『ニュートン誌』染色体科学の点でも立証されている」とツイッターで発信して一部で話題になった。
 あたりまえながら、染色体は実在の人物にしかないので、これは神武天皇の実在を前提としていることになる(そもそも科学雑誌『Newton』は同趣旨の論文掲載を否定している)。
 いや、天皇だって祖先をたどっていけば誰かにたどりつくのだから、そのひとりが神武天皇だという反論もあるかもしれない。
 だが、縄文時代弥生時代、どこかの竪穴住居に住んでいた人物Xはただの人物Xなのであって、八紘一宇の理念を唱えたとされる神武天皇とイコールではない。モデルとなった人物が仮にいたところで結論は同じだ。なんともずさんだが、この手の実在論は根強く存在する。
 政治家の発言に限らず、近年、神武天皇にじわじわと関心が高まっている。国立国会図書館のデータベースで検索すると、神武天皇と冠した本は、2010年以降で60件ヒットする。1980年代は8件、90年代は12件、2000年代で17件にすぎないにもかかわらず、だ。
 また令和に入ってからだけで、神武天皇像が岡山県笠岡市に、神武天皇の記念碑が三重県熊野市に、それぞれひとつずつ建てられている。ゆかりのある神社で、神武天皇の顔ハメパネルにまで出くわすこともある。戦前のひとがみたら、驚嘆するしかないだろう。
 岡田宮(北九州市)にある神武天皇の顔ハメパネル。(2020年10月著者撮影)
 神武天皇はときにスピリチュアルな文脈でも顔を出す。
 安倍昭恵夫人は、安倍元首相銃撃事件を受けて「神武天皇にゆかりのある奈良の大和西大寺で(引用者註、安倍元首相が)亡くなったんだから、それが意味することがすべてなの。そういう運命にあったのよ」と述べているといわれる(加藤康子「幼馴染が語る総理と母、洋子さん」『月刊Hanada』2022年11月号)。
 神武天皇に注目するのが悪いといいたいのではない。神話や日本人のルーツに関心をもつことは、けっして責められるべきことではない。憲法などにそこで示された理念を盛り込むことも、内容によってはかまわないだろう。
 ただ、われわれが神話をよく知らないことをいいことに、政府や与党に手垢にまみれた八紘一宇を唱えだされても困ってしまう。かえって神話をないがしろにするような、いい加減な神武天皇実在論の横行も困りものだ。
 現在でも、建国記念の日日本サッカー協会JFA)のマークなどは神武天皇と関係している。その記念碑や史跡が地域振興に用いられている例も少なくない。2020(令和2)年11月、JRの宮崎駅が神話にもとづいて、西口を高千穂口、東口を大和口と改称したことをどれくらいのひとが知っているだろうか。
 日常の延長線上にあるからこそ、神話を神聖不可侵にせず、かといって毛嫌いしない。いま、それぐらいの適度な距離感が求められているのではないか。
 そんな距離感を手にするために、まずは神武天皇をめぐる歴史からひもといてみたい。
 血湧き肉踊る建国神話
 そもそも神武天皇はいかなる人物だったのか。その足跡は、現存もっとも古い日本の史書である『古事記』と『日本書紀』(両者はまとめて記紀と呼ばれる)に記されている。
 この記紀はたいへんユニークな書物で、同じ奈良時代に編纂されたにもかかわらず、ときに大きく神話の内容が異なっている。そこで、ここでは共通する部分をかんたんに取り出してみよう。
 神武天皇、本名イワレヒコ[神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)]は、祖先より代々、九州南部を拠点にしていた。ところがある日、政治を執り行うのによりふさわしい大和に政治の中心を移そうと決意した。
 船団を率いて出発したイワレヒコは、途中、九州北部や中国地方のあちこちに立ち寄りながら瀬戸内海を東に進み、大阪湾に上陸した。しかし、地元の豪族であるナガスネヒコ長髄彦)に阻まれて、兄のヒコイツセ(彦五瀬命)が重傷を負うなど大きな痛手を受けてしまう。
 そこでイワレヒコは、あらためて船に乗り、紀伊半島に迂回して熊野に上陸。そこから険しい紀伊山地を越えて、南より奈良盆地に入った。こうしてようやくナガスネヒコを打ち破って、橿原宮(かしはらのみや)で初代天皇に即位した。
 『日本書紀』ではこの即位の直前、「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)とせむ」と述べたとされており、後世ここから八紘一宇ということばが作られた。
 細かいことを抜きにすれば、神武天皇の物語はこんなところである。パッと読む限り、ゲームやマンガの題材になりそうな血湧き肉躍る建国神話である。
 実は忘れられていた神武天皇
 ところが、その主人公である神武天皇は、信じがたいことに、幕末までかならずしも重んじられていなかった。忘れられた存在だったと表現する研究者までいる。
 その証拠に、江戸時代まで京都御所にあった天皇家の仏壇[御黒戸(おくろど)]には、神武天皇の位牌がなかった。あったのは天智天皇と、その子孫である光仁天皇桓武天皇以降の天皇のものばかり。神武天皇を含む初期の天皇たちは、祖先供養の対象から外されていたのだ。
 たしかに、『日本書紀』には壬申の乱(672年に発生した古代最大の内戦)のときに、天武天皇神武天皇陵に馬や兵器を供えたとの記述が残っている。ただ、平安中期に醍醐天皇の勅命で編まれた律令の細則『延喜式』をみても、神武天皇陵はほかの天皇陵にくらべて特別な扱いを受けていない。
 それどころか、中世になるとその所在は行方不明になってしまった。神武天皇陵が現在地に定められたのは幕末だし、今日のように整備されたのは近代以降。神武天皇とその皇后ヒメタタライスズヒメ(媛蹈韛五十鈴媛命)を祀る橿原神宮も、明治になって創建された。
 神武天皇が軽んぜられた理由ははっきりしない。その存在が記紀にしか残らず、没年も『古事記』では137歳、『日本書紀』では127歳と、あまりに不自然だったからだろうか。これにくらべると、平安京遷都を実現した桓武天皇(その父が光仁天皇、曽祖父が天智天皇)ははるかに身近に感じやすい。
 いずれにせよここで重要なのは、なぜ幕末になって神武天皇が急に思い出されたのかだ。先回りしていえば、それは明治維新に都合がよかったからにほかならない。
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 さらに、【つづき】『「神武天皇」は明治維新」で新政府にとって都合が良かった…新政府が利用した「巧妙なロジック」』では、1867(慶応3)年12月、最後の将軍・徳川慶喜による大政奉還ののちに出された、「王政復古の大号令」や明治維新に都合よく利用される神武天皇についてくわしくみていく。
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 5月18日 「「神武天皇」は「明治維新」で新政府にとって都合が良かった…新政府が利用した「巧妙なロジック」
 辻田 真佐憲文筆家 近現代史研究者プロフィール
 「戦前」とは何だったのか。
 神武天皇教育勅語万世一系、八紘一宇……。右派も左派も誤解している「戦前日本」の本当の姿とは何なのか。
 本記事では、前編『「神武天皇」は、実は日本人に忘れられていたという衝撃の事実』にひきつづき、明治維新において都合よく利用された神武天皇についてくわしくみていく。
 ※本記事は辻田真佐憲『「戦前」の正体 愛国と神話の日本近現代史』から抜粋・編集したものです。
 革命ではなく原点回帰
 1853(嘉永6)年のペリー来航で、日本は大きな転換期を迎えた。圧倒的な軍事力と科学力を背景に、世界をその軍門に下らしめてきた西欧列強が、ついに北東アジアにまで押し寄せてきたのである。
 このままでは、日本も植民地にされてしまう。それなのに、徳川将軍家の幕府は内憂外患に対応できていない──。
 危機感を覚えた志士たちは、政治体制を抜本的にあらためるため、天皇に注目した。
当時、衰えたといっても、泰平の世を260年余にわたって築いてきた徳川将軍家の権威はまだまだ大きかった。そんななかで「新しい政治を」と訴えたところで、「なんでぽっと出のお前らが」と反発される恐れがあった。
 そこで天皇を押し立てるとどうなるか。
 「いやいや、日本はもともと天皇の国だった。歴史をみたまえ。平安京に都を遷したのは桓武天皇。そのまえに大化の改新をやったのは天智天皇。その祖先は──神武天皇だろう。政治改革といっても、原点回帰するにすぎない。だいたい将軍だって、天皇より任命されているぞ」
 こう言い返せるわけである。なかなか強力なロジックではないか。
 そのため、明治維新の「維新」は英語でRestorationと訳されている。王政復古という意味だ。すべてをひっくり返す革命=Revolutionではない。少なくとも、明治維新はそういう体裁をとり、みずからの正当性を獲得しようとしたのだ。
 「神武創業」という巧妙なロジック
新政府の発足宣言でも、さっそく「神武創業」の文字が使われた。1867(慶応3)年12月、最後の将軍・徳川慶喜による大政奉還ののちに出された、「王政復古の大号令」である。
 つぎにその一部を引用する。原文はむずかしいので、「神武創業」の文字を確認するだけでもかまわない。
 諸事、神武創業の始にもとづき、搢紳(しんしん)・武弁・堂上・地下(じげ)の別なく、至当の公議を竭(つく)し、天下と休戚(きゅうせき)を同じく遊さるべき叡念につき、おのおの勉励、旧来驕惰(きょうだ)の汚習を洗ひ、尽忠報国の誠をもつて奉公いたすべく候事。
 明治天皇は、神武天皇の時代にもとづいて、出自や階級に関係なく、適切な議論を尽くして国民と苦楽をともにするお覚悟なので、みなもこれまでの悪習と決別して、天皇と国家のため努めなさい──。大略そう述べられている。
 神武創業の文字は、国学者・玉松操(たままつみさお)の意見で入れられた。かれは、公家から新政府の最高指導者のひとりとなった、岩倉具視の知恵袋だった。原案では「総ての事中古以前に遡回し」だったから、これでグッと印象が変わってくる。たかがスローガン、されどスローガンだ。
 とはいえ、武家政権の中世をキャンセルして、天皇中心の古代に戻るというだけならば、べつに天智天皇桓武天皇をモデルとしてもよかったのではないか。そう思った読者はとても鋭い。まったくそのとおりで、ここにトリックが隠されている。
 神武天皇の時代はあまりに古く、政治体制についての記録がほとんど残っていない。本当に出自や階級に関係なく議論していたかといえば、はなはだ疑わしい。
 しかしだからこそ、都合がよかった。ほとんど白紙状態ゆえに、新政府は「これが神武創業だ!」と言いながら、事実上、好き勝手に政治を行えるからだ。つまり「神武創業」は、「西洋化」でも「藩閥政治」でもなんでも代入できる魔法のことばだったのである。
 現在でも、「これが本来の日本の姿だ!」と言いながら、たんに自分の思い描いた勝手な国家像を押し付けてくるものがいる。たとえば、夫婦同姓。日本の伝統などと言われるが、じっさいは明治以降に一般化したものにすぎない。
 われわれは右派・左派問わず、このような原点回帰というロジックにとても弱い。「神社の参道真ん中を歩くのは伝統に反する!」と言われるとハッとしてしまうし、「これがマルクスが言いたかったほんとうの共産主義だ!」と喧伝されるとかんたんに転んでしまう。
 「本来の姿に帰れ」という掛け声には、なにかやましいものが紛れ込んでいないか、つねに警戒心をもたなければいけない。
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 本記事の抜粋元『「戦前」の正体 愛国と神話の日本近現代史』ではさらに、明治維新から大東亜戦争まで、日本の神話がどのように利用されてきたのかを解説しながら、それに関連するエピソードを紹介している。
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