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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
2023年5月13日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「意外と知らない日本人の大誤解…じつは「日本人は集団主義ではなかった」という衝撃事実
いま日本はどんな国なのか?
私たちはどんな時代を生きているのか?
日本という国や日本人の謎や難題に迫る新書『日本の死角』が刊行される。
意外と知らなかった論点・視点の数々とは――。
日本人は「日本のこと」について深く知らないという「意外すぎる現実」 日本はどんな国か、いまはどんな時代か
© 現代ビジネス
「日本人=集団主義」なのか?
「日本人は、集団の和を何よりも大切にするので、集団と一体化しようとするあまり、自分というものをなくしてしまっているのだ」──。
これまで、日本人論では「日本人=集団主義」であるということが繰り返し主張されてきた。
多くの日本人がそう思うかもしれないが、はたしてほんとうだろうか。
じつは集団主義かどうかについては、さまざまな実験がおこなわれている。
〈「同調行動」の実験では、ひとりで答えれば、まず間違いっこないような簡単な課題に答えてもらう。しかし、じっさいには、その課題に、ひとりではなく、ほかの何人もの被験者と一緒に答えてもらう。
じつは、その「ほかの何人もの被験者」は、みな「サクラ」なのである。かれらは、ときどき、全員そろって、あきらかに間違った答えを言う。そのとき、ほんとうの被験者はどう答えるか? ──それを観察するのである。
もし、被験者が皆に合わせて、そのあきらかに間違った答えを言ったとしたら、「集団に同調した」ということになる。自分の判断をねじ曲げてでも集団に合わせるという「同調」は、まさしく「集団主義」の核心である。
この実験は、最初、「世界でいちばん個人主義的」といわれてきたアメリカ人を被験者にしておこなわれた。
何回、同調をしたか、その割合を示す「同調率」は、37%だった。その後、同じ方法で八つの実験がおこなわれたが、「同調率」の平均は25%だった。〉(『日本の死角』より)
それでは、気になる日本人の同調率は何%なのだろうか?
アメリカ人と変わりなかった…
〈ところが、日本人を被験者にして同じ方法でおこなった五つの実験をしらべてみると、「同調率」の平均は25%にすぎなかったのである。
驚いたことに、アメリカ人と変わりがない。日本人は、特別に集団に迎合しやすいというわけではないのである。
日本人をアメリカ人と比較した研究は、こうした同調行動の実験をはじめとして、調査研究も含めると、全部で43件見つかった。
「常識」に反して、「日本人とアメリカ人のあいだには差がなかった」という研究がいちばん多くて24件。「常識」とは逆に、「アメリカ人のほうが集団主義」という研究が、なんと13件もあった。「常識」どおり、「日本人のほうが集団主義」という研究は6件しかなかった。〉(『日本の死角』より)
科学的な方法で比較をしてみると、日本人は特に集団主義的ではないということなのである。
「日本人は集団主義である」となんとなく思い込んでいるのであれば、間違った常識や先入観のもとでものを考えているということである。
日本人は「日本のこと」について深く知らないという「意外すぎる現実」 日本はどんな国か、いまはどんな時代か
© 現代ビジネス
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5月21日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「「日本人=集団主義」はじつは根拠がなかった…世界中で大誤解が広まった「驚きの理由」
現代新書編集部
いま日本はどんな国なのか、私たちはどんな時代を生きているのか。
日本という国や日本人の謎や難題に迫った新書『日本の死角』が話題になっている。
ここでは、「日本人は集団主義」という幻想がなぜ世界的に広まったかについて掘り下げる。
日本人は「日本のこと」について深く知らないという「意外すぎる現実」 日本はどんな国か、いまはどんな時代か
日本人は「日本のこと」について深く知らないという「意外すぎる現実」 日本はどんな国か、いまはどんな時代か
© 現代ビジネス
「日本人は集団主義」と言われるが…
「日本人は集団主義」とよく言われるが、じつは薄弱な根拠しかなく、幻想であることを『日本の死角』収録の「『日本人は集団主義』という幻想」では指摘している。
ではどのようにして「日本人は集団主義」説は「常識」として定着したのか。
〈この「常識」の淵源をたどっていくと、パーシヴァル・ローウェルというアメリカ人に行きあたる。ボストンの資産家の息子で、「火星の表面に見える縞模様は、火星人が掘った運河だ」という説を唱え、有名になったアマチュア天文家である。
このローウェルが、明治時代の日本にやってきて、日本をテーマにした『極東の魂』という本を書いた。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)はこの本を読んで感激し、それが日本に来るきっかけになったというから、かなり影響力の強い本だったのだろう。
この『極東の魂』のなかで、ローウェルは「日本人には個性がない」と繰りかえし主張しているのである。〉(『日本の死角』より)
ローウェルは日本に来て日本語を学びはじめてからたった1年ほどでこの本を書いている。
そのため、先入観で日本人を論じている部分も見られる。
「日本人には個性がない」という話も、アメリカと日本が西と東の対極に位置するから対極的な存在である——といったように。
「日本文化に特有な集団主義」と見誤った
その後、人類学者ルース・ベネディクト『菊と刀』によって、「日本人は集団主義」という「常識」が日本で確立されたといえる。
〈戦後すぐの時期、「日本人は集団主義」と言われれば、日本人もアメリカ人も、ついこのあいだまで、一丸となって戦争を遂行していた日本人の姿を思い浮かべたにちがいない。「日本人は集団主義」という指摘は、だれにとっても「なるほど」と思える指摘だったのである。
しかし、「世界でいちばん個人主義的」といわれてきたアメリカも、その例外ではない。たとえば、ソ連による核攻撃の脅威に怯えていた時代には、団結を乱す異分子を排除しようとして、「赤狩り」の嵐が吹き荒れた。
戦時中、日本人が見せた集団主義的な行動も、外敵の脅威にたいする普遍的な反応であり、べつに特殊なものではない。それを「日本文化に特有な集団主義」の証と見誤ってしまったわけである。〉(『日本の死角』より)
話題書『日本の死角』では、多くの人が見誤ることになった最大の原因である「基本的帰属錯誤」など思考のバイアスについても掘り下げている。
日本人は「日本のこと」について深く知らないという「意外すぎる現実」 日本はどんな国か、いまはどんな時代か
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日本列島の自然環境では、個人主義と集団主義を上手く両立させないと生きられなかった。
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江戸時代の封建制度は個人主義で、明治時代の近代制度は集団主義であった。
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日本民族の歴史で、個人主義時代は平和な時代で、集団主義時代は戦争の時代であった。
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明治維新・戊辰戦争、近代化・軍国主事政策とは、ロシアの軍事侵略に対して積極的自衛戦争を戦って勝利する為の、徳川幕府による個人主義の地方分権体制か明治新政府による集団主義の中央集権体制かの体制選択内ゲバであった。
現代の日本人には、民族的な歴史力・伝統力・文化力そして宗教力がなく、日本的な個人主義と集団主義の区別が付かないだけに、その事が分からない。
マルクス主義史観もキリスト教史観も役に立たない。
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個人の日本民族と自己中の漢族中国人・半島人とは、全然違うアジア人である。
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近代日本の主敵は、白人キリスト教のロシアとロシア人であった。
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徳川幕府は、アイヌ人が住む蝦夷地、北方領土を日本の固有領土として統治し守っていた。
ロシアは、千島列島を南下していたが樺太には進出していなかった。
1785年 老中・田沼意次は、ロシアの侵略を警戒して蝦夷地探索隊を派遣した。
1789(寛政元)年 徳川幕府は、アイヌの蜂起クナシリ・メナシの戦いの背後にロシアが策謀していると疑い警戒した。
1792年 老中・松平定信の寛政日露交渉。
水戸学による攘夷運動の始まり、神国日本意識と攘夷気運が全国に伝播した。
1806年 文化露寇。ロシア軍艦による北方領土・蝦夷地・樺太における海賊行為。
1807年 徳川幕府は、東北諸藩に対して蝦夷地防衛の派兵を命じた。
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徳川幕府は、ロシアなどのキリスト教国の軍事侵略・宗教侵略から日本を守る為に伊能忠敬に日本地図作成を命じた。
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日本の近代化の目的は、対外戦争を戦う為の軍国主義化であった。
日本の開国・幕末・明治維新・戊辰戦争・近代化・軍国主義化の発端は、ロシアの軍事侵略とキリスト教の宗教侵略で、その歴史的事実が、中世キリスト教会の日本人奴隷交易、寛政日露交渉(1792年)と攘夷運動、文化露寇事件(1807年)と蝦夷地・北方領土派兵(約4,000人)、攘夷派が激怒した対馬事件(1854年)の弱腰交渉、などであった。
日本をロシアから救ったのは、戦争も辞さずのイギリスの軍事力・海軍力であった。
軍事を否定し信用しない国家・国民・民族には、現実世界で生きる資格はなかった。
熱狂的天皇主義者(現代の右翼・右派・ネットウハ、一部の保守派とは無関係)である尊皇派・勤皇派による攘夷運動は、間違った愛国主義・民族主義ではなく、正しい軍国主義・国粋主義・好戦主義、正義の戦争・聖戦であった。
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神国日本を守る為の攘夷対象は、軍事侵略を企むロシアと宗教侵略を繰り返すキリスト教であった。
徳川幕府の外交方針である経教分離の原則を受け入れて交易を行っていたオランダは、キリスト教布教をしない事を受け入れていただけに排除すべき攘夷の対象ではなかった。
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ロシアの日本侵略は、ヨーロッパ戦争と連動していた。
1729年~1796年 ロシア女帝エカテリーナ2世(ドイツ人将軍の娘)。
ロシアの海外戦略は、1,ウクライナ、黒海、バルカン半島への領土拡大、2,アラスカ・北米大陸の開拓、3,日本との交易であった。
1796年~1815年 ナポレオン戦争。
1812年 ナポレオンのモスクワ遠征。
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1689年 ネルチンスク条約。ロシア帝国と清王朝は、国境線を外興安嶺(スタノヴォイ山脈)とアルグン川(アムール川上流)を結ぶ線に定めます。
1858年アイグン条約。ロシアは、アムール川(中国名は黒竜江)以北のシベリアの地を強引に割譲させロシア領とした。
1860年 北京条約。ロシアは、アロー戦争に介入し英仏連合軍が北京を占領した所で講和を斡旋し、その見返りとしてウスリー川以東の沿海州を獲得し沿海州の南端の地にウラジオストクを建設した。
ロシアは、不当な手段で手に入れた領土は戦争に負けて奪われない限り返還する事はなかった。
ウラジオストクは冬でも凍らない不凍港で、日本海を南下して中国、朝鮮、日本への侵出を手に入れたが、目障りなのはウラジオストクにある樺太が日本の勢力圏にある事であった。
ロシアは、樺太を自国領にする為にロシア人の軍人や囚人を上陸させて、反日的先住民を味方につけ日本人や親日派アイヌ人に対する暴力事件を頻発させた。
明治8(1875)年 樺太・千島交換条約。明治新政府は、ロシアとの戦争を避ける為に樺太問題を解決すべくロシア領千島との交換条約を結んだ。
日本側の戦略的利点は、ロシア海軍をウラジオストクと樺太の日本海内に封じ込め、宗谷海峡・津軽海峡・対馬海峡を抑えてしまえば太平洋への航路を遮断する事ができた。
ロシアの対アジア政策とは、限られた軍団と艦隊による日本海支配であって、大軍団と大艦隊による日本侵略ではなかった。
日本海を手に入れる為に、陸軍は満州から遼東半島・朝鮮半島に軍事要塞都市を建設して防衛軍団を配備し、海軍は対馬と樺太を手に入れ旅順・対馬・ウラジオストクを軍港要塞都市として守備艦隊を配置する、であった。
1891(明治24)年 ロシアはシベリア鉄道敷設工事を始めた。
文久元年の農奴解放以来、ロシアの農村は余剰労働力を抱えていた。農民の不満の高まりは、ロシアにとって命取りになる。そこで、鉄道沿線のシベリアへ、農民の入植を促進するのが最大の目的であった。
日本は、シベリア鉄道は軍事目的と見なして警戒し、ロシアとの戦争に備えて軍国主義政策を採用し、強権を持って国民生活を犠牲にして軍拡を進めた。
イギリスは、上海・香港の中国利権をロシアから守る為に日本に接近した。
日露戦争は不可避となり、開戦のその時が刻々と迫っていた。
日本の戦争は、領土拡大の帝国主義的侵略戦争ではなく祖国防衛の民族主義的自衛戦争であった。
明治33(1900)年7~8月 江東六十四屯虐殺(黒竜江=アムール川の悲劇)。
8月2日から3日 黒龍江・アイグン事件。ロシア軍兵士約2,000人は清国人移住者約2万5,000人を大虐殺した。
日本人は、ロシア人の蛮行に恐怖し激怒し復讐を誓った。
軍事力のない国は、如何に道理や信義があろうとも被害者として滅び滅亡する。
その事実を知っていた近代国家日本は、軍国主義政策を採用して国力(経済力・軍事力=民力)強化に努めた。
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弱小国日本にとって、強大国ロシアとの日露戦争は避ける事ができない戦争であった。
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日本には、大航海時代の中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人による日本人奴隷交易(被害者として)と日本軍部・陸軍・A級戦犯によるポーランド・ユダヤ人難民(数万人)をホロコーストから守ったという人道貢献(実行者として)を世界記憶遺産に申請する資格・権利がある。
これは、日本国家ではなく、生きている日本民族日本人としての責務である。
日本人奴隷交易とA級戦犯の人道貢献には、その事実を証明する・裏付ける公文書・古文書・キリスト教会報告書など歴史的証拠が国内外に数多く残っている。
もし、日本の申請が認められないというのならば、ユネスコとイコモスによる世界遺産・世界文化遺産・世界記憶遺産には存在意義はない、無意味・無価値という事である。
日本人奴隷交易の責任の一端は、乱取りで捕らえた日本人を奴隷として外国人に売った日本人にもある。
A級戦犯が有罪となって見せしめ的リンチ縛り首で処刑にされた罪状は、政治家・官僚・軍人として戦争を始めた平和に対する罪であって、拷問・虐待・惨殺・虐殺を行った人道に対する罪ではなかった。
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武士は、敵が自分より強者・巨大で戦えば必ず負けると分かっている絶望的状況にあっても、体面・名誉・プライドの為に戦うと決断したら「勝敗は時の運」と思い定め、死を覚悟し、「肉を斬らして骨を斬る」の捨て身の戦いを「正々堂々」と奇策や奇兵を駆使しておこなった。
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日本の戦争史において、小国・少勢・小部隊・弱者・不利な者が大国・多勢・大軍・強者・有利な者に対して行う、油断を突く・虚を突くという奇襲・騙し討ち・不意打ち・夜襲は卑劣な戦術ではなく道理にかなった戦術である。
日本軍が戦った対外戦争である、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵そして満州事変、日中戦争、太平洋戦争はすべてそうといえた。
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鎖国下の江戸時代、日本の文化はあるがままでの共存と共生であり、日本の生き方は身の回りでの絆と繋がりであり、日本の生活は目の前の地産地消であった。
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鎖国政策とは、中国や東南アジアから疫病を入れない水際政策であったが、それでもコレラ、ペスト、梅毒、インフルエンザなど日本にはなかった伝染病が侵入して大流行を引き起こしていた。
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対中国・対朝鮮交易は、富をもたらしたが同時に疫病を引き入れる事になった。
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日本の総人口は、江戸開府の1600年頃では約1,200万人~1,800万人で明治5(1872)年には約3,295万人(琉球人とアイヌ人を除く)に増加していた。
人口増加は、慢性的な乳幼児死亡率が高い中で起きていた。
江戸時代の人口増加を支えていたのは、伝統を伝承する継続的リノベーションと一新する破壊的イノベーションであった。
江戸時代は人口が微増して、人生50年といわれ、年齢的人口構成は若者が多く老人が少なかった。
平均寿命は30歳前後と言われ、14~15歳で元服(成人)し家督を継いで出仕し役職について働いた。
早ければ30歳で、遅くとも40~50歳で隠居して一線から退いた。
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徳川幕府は、ロシアの軍事侵略から戦争をしてでも蝦夷地・北方領土・南樺太を防衛する為に東北諸藩に出兵を命じた。
東北諸藩は、戦争を覚悟して約4,000人を蝦夷地・北方領土・南樺太に送って防衛任務に当たった。
尊王攘夷派は、神国日本と蝦夷地や北方領土をロシアの軍事侵略から守る為に北に向かっていた。
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徳川幕府内の開国・国防派は、ロシアの軍事侵略から日本を守る為に清国(中国)や朝鮮との三国軍事同盟を模索していた。
戦争を嫌う現代の日本人には考えられない事を、江戸時代の日本人は戦争をする為に考えていた。
古代から朝鮮や中国の侵略で苦しめられた長州などの北九州・中国地方の日本人達は、敵である朝鮮や中国を攻め取ってロシアに対抗すべきだと主張していた。
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明治日本にとって国家存亡の危機とは、ロシアの軍事侵略とキリスト教の宗教侵略であり、ロシアが侵略してきた時に隣国の清国(中国)と朝鮮が日本に味方してくれるのかロシアに協力して敵になるかであった。
が、清国(中国)と朝鮮は日本の淡い期待を裏切ってロシアに味方したのである。
日本の大陸侵略政策とは安全保障が最優先課題で、北のら侵略してくるロシア・ソ連・共産主義勢力に対抗する為に、敵対する中国と朝鮮から反日・敵日・侮日勢力を武力で追放して友好に変え親日・知日の政権を樹立して攻守軍事同盟を結ぶ事であった。
その意味に於いて、日本の対外戦争は全て積極的自衛戦争であった。
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江戸時代のアイヌの人口は、記録上最大約2万6,800人であったが、天領とされて以降は感染症の流行などもあって減少した。
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日本とロシアの真ん中に住んでいるアイヌ人は、日本に味方するか、ロシアに味方するか、第三者として傍観者になるかを強制された。
千島アイヌ人は、ロシア人によって地上から消された。
樺太アイヌ人は、ロシアに残留組・多数派と日本への移住組・少数派に分かれた。
蝦夷アイヌ人は、日本・和人に味方して侵略者ロシアと戦って多くの犠牲者を出していた。
反天皇反日本人(和人)を主張する一部の現代アイヌ人の祖先が、どこのアイヌ人なのかいまいち分からない。
歴史的事実として、アイヌ民族は日本民族や琉球民族と同じ縄文人(日本土人)の直系子孫である。
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明治維新とは、ロシアの軍事侵略から如何にして神国日本を守るかという体制選択であった。
伝統的な徳川将軍家を中心とした諸国・諸藩連合の地方分権体制か、革新的な天皇を中心として一国中央集権体制かである。
佐幕派は前者であり倒幕派は後者であった。
つまり、日本の生き残りを賭けた、佐幕派の継続的変革か倒幕派の破壊的イノベーションかの選択戦争であった。
何れにせよ、世界が大きく激変する時代において、戦争を避ける話し合いによる外交での継続的変革には未来はなく滅亡し、戦争を覚悟した外交での破壊的イノベーションのみが未来で生き残る正解の選択であった。。
それは、現代でも変わる事のない普遍的大原則である。
日本の近代的軍国主義政策は、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、そして最も恐ろしいマルクス主義・共産主義のイデオロギー侵略が原因であった。
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日本民族は、個人主義と集団主義を車の両輪として生きてきた。
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江戸時代の封建体制は個人主義で、明治の近代体制は集団主義である。
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日本の歴史で、個人主義時代は平和な時代で、集団主義時代は戦争の時代であった。
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明治維新・戊辰戦争とは、徳川幕府による個人主義体制か明治新政府による集団主義体制かの体制選択内戦であった。
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弱小国日本、財政赤字で破綻していた明治新政府の国際的信用の根拠は、天皇の存在であった。
天皇の存在で、近代日本は普通の国家として世界に受け入れられた。
それが、天皇の国家元首としての統治権であった。
欧米列強は、殺しのプロである武士集団ではなく、日本民族の主権者であり祭祀王の天皇の存在ゆえに日本を侵略しなかった。
そこが、日本国とムガル帝国の違いである。
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ムガル帝国はいとも簡単に内部崩壊で滅亡し、インドはイギリスの植民地となり、インド人はイギリス人の奴隷となった。
日本が教訓として学ぶべきは、清王朝の中国ではなくムガル帝国のインドであった。
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日清戦争は、世界を巻き込んだ第ゼロ次世界大戦の日露戦争の前哨戦であった。
日露戦争は、日本にとって江戸後期・徳川幕府当時から避けられない、何時かは戦わねばならない「やむなき戦争」であった。
日本の近代化・軍国主義化とは、弱小国家から中程度国家にまで発展させ、世界的大帝国であるロシアと日露戦争に勝つ為であった。
三国干渉による臥薪嘗胆とは、そうした意味があった。
世界の常識からして、日本がロシアに勝つなど誰も想像いていなかった。
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歴史的事実として、数万年前の石器時代・縄文時代から日本民族は戦争・殺し合いが嫌いで、他人と争う事、競う事、比べる事が苦手な民族であった。
つまり、「人は人、自分は自分、他人は他人」、「分相応の生き方」という事である。
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明治から昭和初期までに起こした戦争は、領土拡大の侵略戦争ではなく、現人神天皇、神国日本、神仏の子孫である日本民族を、外敵である夷狄(ロシア・中国・朝鮮)の軍事力と邪教(キリスト教)の信仰力から守る為の積極的自衛戦争であった。
が、現代日本はおろか、中国、韓国・朝鮮、ロシアを含む全ての国々、国際世論は、日本を血に飢えた邪悪・凶悪・残忍な戦争犯罪者と認定・断定している。
それが、東京裁判史観=自虐史観=日本人凶悪・残虐・極悪・非道の重犯罪人史観である。
日本民族が最も恐れたのは、石器時代・縄文時代から数万年かけて先祖が護ってきた日本らしさ・日本の国柄・日本の有り様を根底から消滅させる意図を見せていた信仰宗教のキリスト教とマルクス主義・共産主義のイデオロギーであった。
が、現代日本の歴史教育に深刻な影響をもたらしているのが、そのキリスト教とマルクス主義・共産主義である。
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現代の日本人は歴史が嫌いで、昔の日本人とは違って民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がなく、現実に起きていた歴史的事実を認めない。
高学歴のマルクス主義者の中に、残忍な殺人者であるレーニンを信奉する日本人が多数存在する。
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レーニンは、搾取されている貧しき人民を解放する為には世界の共産主義化しかないとの信念から、日中戦争と日米英蘭戦争(太平洋戦争)をプロデュースし、中国共産党・日本共産党にディレクションした。
スターリンは、屈辱的日露戦争敗北の復讐としてレーニンの対日陰謀を実行し、ピョートル1世(大帝)の日本征服の夢を叶えるべく北海道と北方領土4島を武力で強奪しようとした。
中国共産党は、レーニンとスターリンの指示に従って軍国日本を対米戦争に追い込むべく、中国在住の日本人を虐殺していた。
当時の日本人は、戦争を嫌い争う事を避ける現代の日本人とは違い、中国人の非人道的残虐行為に激怒し、惨殺された日本人の復讐・報復を政府や軍部に求めた。
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中国人による日本人虐殺事件は、第1回南京事件、満州ピクニック惨殺事件、済南事件、通州事件、その他など中国各地で数多き発生していた。
日本人は激怒して「暴支膺懲」に暴走した。
日本国内では、中国人に対する偏見・差別・嫌がらせの事例はあっても、暴行・殺害、強姦、強奪といった刑事事件はなかった。
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日本人の共産主義者や無政府主義者は、キリスト教系朝鮮人テロリスト同様に人道貢献と平和貢献をおこなった昭和天皇を惨殺するべく付け狙っていた。
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軍国日本は、戦場で人を殺す戦争犯罪をおこなったが、同時に、戦場で自己犠牲で人を助けるという人道貢献や平和貢献をおこなっていた。
東京裁判は、国際法の正義で、戦争犯罪者と同時に人道貢献や平和貢献をおこなったA級戦犯の陸軍軍人・政治家・官僚を見せしめ的縛り首で殺し、遺灰は遺族に引き渡さずゴミのように尊厳を否定して海に捨てた。
それが、靖国神社問題である。
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戦後の日本共産党を再建したのは、少数の日本人幹部ではなく、朝鮮人共産主義者達で、暴力革命の資金や武器はソ連や中国共産党から提供されていた。
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現代日本における政治家・官僚・学者・教育者には、新井白石に匹敵する見識と博識を持った日本人はいない。
つまり、現代の日本人は民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がなく、ローカルな民族神話・崇拝宗教が嫌いであり、日本民族の歴史に対する理解がない。
それは、グローバル志向の高学歴な知的エリートや進歩的インテリに顕著である。
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天皇の存在意義とは、国内においては国家と国民統合の象徴であり、国外においては日本国と日本民族の信用の源泉である。
日本円貨の信用も、日本の国家、政府、日銀、国民ではなく天皇である。
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国際社会において、国家が国家として認められ、国民が国民として認められるには、正当性を持った不動の信用がなければならない。
国家が、納税者の国民と税収を得る領土と税金を使う統治組織・政府機構を持っていても、安心して国交を開くにたる信用を保証する正当性な根拠がなければ、国際社会は相手を真面な国家とは認めずならず者集団・犯罪者組織として対等な仲間とは認めなかった。
代表例が、イスラム教スンナ派のイスラム国(IS)である。
国民の信用の根拠をそこで生活している人間である事と主張しても、国際社会は認めない。
国際社会が戦争や災害で逃げ出してきた他国の難民を受け入れて助けるのは、信用とは別次元の話である。
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日本国憲法が、日本国と日本国民の国際的信用を保証してはいない。
そもそも、日本国憲法を保証しているのは天皇である以上、正統な天皇の承認なくし日本国憲法の正当性はない。
日本において、数万年の石器時代・縄文時代及び数千年前の弥生時代・古墳時代から受け継いできた歴史・伝統・文化・宗教における天皇の正統性は、1946年成立のキリスト教・マルクス主義・共産主義によって書かれた日本国憲法の正当性の上位にある。
戦後民主主義教育を受けた日本国民や外国人日本国籍保有者が、日本国憲法における国民主権で自分達が日本国の国際的信用を責任を持って保証すると宣言した所で認められない。
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明治維新が成功し、国際社会で財政破綻している明治新政府が認められたのは、天皇の存在が国際的な信用を保証していたあらである。
もし、天皇の信用がなければ、日本はムガル帝国のように滅亡していた。
国際社会は、ムガル皇帝の信用がインド国家とインド国民を保証しないと裁定を下した為に、正統なムガル帝国は国際法及び世界ルールに従って滅ぼされた。
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国際社会、世界は、信用が保証されていない相手・国家・国民に対して、悪人であろうが善人であろうが、世の為人の為に、世界の為に人類の為に、如何によい事を数多く行ったとしても、非情で、残酷で、苛酷で、えげつなかった。
国際社会から国家の信用が停止され剥奪された、チベット宗教国家は反宗教無神論の中国共産党に侵略されチベット人は虐殺されて消滅し、ハワイ民族王国はアメリカに併呑されハワイ王家は廃止させアメリカの一州に編入されて地球上から消えた。
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明治政府は政治の近代化とは宗教の排除であるとして、近代の西洋哲学と啓蒙思想そして儒教を利用して宗教統制・宗教弾圧を行い、国民の廃仏毀釈を黙認し行政の神社合祀を断行した。
廃仏毀釈の原因となった神仏分離令は、明治元(1868)年に発せら、仏教寺院が持っていた広大な境内と荘園が没収された。
国家神道は宗教ではなく、神への信仰ではなく神社での拝礼のみであった。
神道国教化政策の一環として、明治元(1868)年に神仏分離令を発して「廃仏毀釈」が起きた。
明治39(1906)年 一町村一社を原則に統廃合を行う「神社合祀令」を出し、3年間で全国各地で4万社もの神社が取り壊され、大正2年頃には19万社から12万社にまで激減した。
廃止された神社の神域は、国庫に納められるか民間に売却され、神の御所として護られていた自然は乱開発で破壊された。
儒教は、マルクス主義と同様に反宗教無神論であり、宗教弾圧であった。
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明治後期から大正期にかけて自然主義文学運動が起き、近代の西洋哲学と啓蒙思想にキリスト教とマルクス主義・共産主義が加わり民族の歴史を攻撃排除した。
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