💍37)─1─民族中心神話から知た戦前の日本の本当の姿。〜No.136No.137No.138 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 1945年8月15日に至る近代日本・大日本帝国・軍国日本・天皇制度国家日本の歴史は、幕末のペリー黒船艦隊来航ではなく、江戸時代後期のロシアによる日本・北方領土樺太への侵略から始まっている。
 それは、植民地の拡大・奴隷の獲得・敵国の富簒奪であったが、同時に啓示宗教侵略と非人間的科学的イデオロギー侵略でもあった。
 日本の大陸侵出は、天皇・国家・民族そして神話宗教を守る為の積極的自衛戦争であった。
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 日本人と言っても、神代の民族中心神話を崇拝した戦前の日本人と平和憲法を護持する現代の日本人とでは別人のような日本人である。
 日本人の間に、反宗教無神論・反天皇反民族反日的日本人達が増え、それは1990年代から起きている。
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 現代の日本人は、昔の日本人と比べて民族的な歴史力・伝統力・文化力・宗教力はない。
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 2023年5月16日7:03 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「日本人が知らない本当の「戦前」…右派も左派も誤解している「戦前日本」の本当の姿
 「戦前」とは何だったのか。
 神武天皇教育勅語万世一系、八紘一宇……。右派も左派も誤解している「戦前日本」の本当の姿とは何なのか。
 【写真】日本人が知っておくべき「神話」からみる「戦前の正体」
 本記事では、近現代史研究者である辻田真佐憲氏が、多用されているにもかかわらず、きちんと理解されていない「戦前」について解説する。
 ※本記事は辻田真佐憲『「戦前」の正体 愛国と神話の日本近現代史』から抜粋・編集したものです。
 定まらない日本の自画像
 われわれはいま、新しい時代のとば口に立っている。
 明治維新から太平洋戦争の敗戦までは77年。敗戦から昨2022(令和4)年までもまた77年。戦前と戦後が並び、現代史が近代史をはじめて凌駕しようとする、これまでにない事態が目の前に開かれつつある。
 いつまであの敗戦を引きずっているのか。憲法だって見直していいではないか。もういい加減「普通の国」になろう──。
 近年、そういう声が徐々に高まっているのもゆえなきことではない。日本はもはや、アジアに燦然と輝く卓絶した経済大国ではなく、(そこで生活するものとしては忍びないことではあるものの)中国の後塵を遥かに拝しながら緩やかに衰退する斜陽国家になりつつあるのだから。
 さはさりながら、われわれはみずからの国のありかたについて、かならずしも明確なビジョンがあるわけではない。
 戦前と戦後を分かつ戦争の名称はその象徴だ。さきほど太平洋戦争ということばを便宜的に使ったけれども、これとて、けっして定まったものではない。かといって、当時の名称である大東亜戦争はいまだ政治的に忌避されやすく、左派やアカデミズムの界隈が好むアジア・太平洋戦争(かつては15年戦争だった)もいかにも妥協の産物にすぎない。
 もっとも中立的なのは「さきの戦争」「さきの大戦」だろうが、このぼんやりとした表現は、われわれの定まらぬ自画像にぴったり一致している。
 このような状態だからこそ、われわれは過ぎ去ったはずの「戦前」にいつも揺さぶられている。まるで亡霊に怯えるように。
 「新しい戦前」と「美しい国
 昨年末、タレントのタモリがテレビ番組「徹子の部屋」で本年(2023年)がいかなる年となるかと問われて、「新しい戦前」と答えて話題になった。
 筆者は「素人がなにを」とあざ笑う狭量な専門家に与しない。数百万もの視聴者を相手にしていた人間の感性はときに鋭いものだ。
 とはいえ、戦前ということばはたやすく使われすぎてもいる。なんでも戦前と認定しながら、あまりに戦前を知らない。残念ながら、歴史を生業とする物書きでもしばしばこの陥穽にハマっている。
 現在と戦前の比較は、類似のみならず差異にも注意を払うべきである。なんでもかんでも戦前認定することは、かえって戦前のイメージを曖昧にし、貴重な歴史の教訓を役立たないものにするだろう。
 わかりやすい例として、「安倍晋三東条英機のような独裁者だ」という批判を考えてみよう。よく耳にした比較だが、かならずしも適切とはいいがたいものだった。
 大日本帝国憲法のもとでは首相に権限が集中しにくく、かえって軍部の暴走を招いた面があった。根っからの軍事官僚で法令の条文に固執した東条もこれに苦慮しており、陸軍大臣参謀総長などを兼任することで、なんとか自らのもとに権限を集めようとした。独裁者と呼ばれたゆえんだが、それでもかれは、戦時中に首相の地位を追われてしまった。
 戦後、このような戦時下の反省もあって、首相にさまざまな権限が集約されたのである。そのため、この傾向を戦前回帰と呼ぶのはあまりに倒錯している。
 筆者はここで、同じく昨年、凶弾に斃(たお)れた安倍元首相が唱えた「日本を取り戻す」「美しい国」というスローガンを思い出さずにはおれない。それはときに戦前回帰的だといわれた。
 だが、本当にそうだっただろうか。靖国神社に参拝しながら、東京五輪大阪万博を招聘し、「三丁目の夕日」を理想として語る──。そこで取り戻すべきだとされた「美しい国」とは、戦前そのものではなく、都合のよさそうな部分を適当に寄せ集めた、戦前・戦後の奇妙なキメラではなかったか。
 今日よく言われる戦前もこれとよく似ている。その実態は、しばしば左派が政権を批判するために日本の暗黒部分をことさらにかき集めて煮詰めたものだった。
 つまり「美しい国」と「戦前回帰」は、ともに実際の戦前とはかけ離れた虚像であり、現在の右派・左派にとって使い勝手のいい願望の産物だったのである。これにもとづいて行われている議論が噛み合わず、不毛な争いに終始せざるをえないのは当然だった。
 このような状態を脱するためには、だれかれ問わず、また右派にも左派にも媚びず、戦前をまずしっかり知らなければならない。
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 さらに、【つづき】『日本人が知っておくべき「戦前の正体」…「神話」からみる戦前の「本当の姿」』では、戦前とは何だったのか、神話と国威発揚との関係を通じて、戦前の正体についてくわしくみていく。
 辻田 真佐憲(文筆家)
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 5月16日 YAHOO!JAPANニュース「日本人が知っておくべき「戦前の正体」…「神話」からみる戦前の「本当の姿」
 辻田 真佐憲文筆家
 近現代史研究者プロフィール
 「戦前」とは何だったのか。
 神武天皇教育勅語万世一系、八紘一宇……。右派も左派も誤解している「戦前日本」の本当の姿とは何なのか。
 本記事では、前編『日本人が知らない本当の「戦前」…右派も左派も誤解している「戦前日本」の本当の姿』に引き続き、近現代史研究者である辻田真佐憲氏が、戦前とは何だったのか、神話と国威発揚との関係を通じて、戦前の正体について解説する。
 ※本記事は辻田真佐憲『「戦前」の正体 愛国と神話の日本近現代史』から抜粋・編集したものです。
 大日本帝国は神話国家
 戦前とはなんだったのか。『「戦前」の正体 愛国と神話の日本近現代史』は、神話と国威発揚との関係を通じて、戦前の正体に迫りたいと考えている。
 大日本帝国は、神話に基礎づけられ、神話に活力を与えられた神話国家だった。明治維新は「神武天皇の時代に戻れ」(神武創業)がスローガンだったし、大日本帝国憲法教育勅語の文面は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の神勅を抜きに考えられないものだった。
 また、明治天皇の皇后(昭憲皇太后)は神功(じんぐう)皇后に、台湾で陣没した北白川宮能久(きたしらかわのみやよしひさ)親王日本武尊(やまとたけるのみこと)に、日本軍将兵は古代の軍事氏族である大伴氏(天忍日命(あめのおしひのみこと)の子孫)になぞらえられていた。そして大東亜戦争(『「戦前」の正体 愛国と神話の日本近現代史』では歴史上の用語としてこれを用いる)で喧伝されたスローガンのひとつは、神武天皇が唱えたとされる八紘一宇だった。
 それ以外にも、国体、神国、皇室典範万世一系、男系男子、天壌無窮(てんじょうむきゅう)の神勅、教育勅語靖国神社君が代、軍歌、唱歌など、戦前を語るうえで外せないキーワードはことごとく神話と関係している。
 もっとも、神話が重視されたといっても、大日本帝国政府が神社を縦横無尽に操り、プロパガンダをほしいままにしていたなどと主張するつもりはない。戦前の宗教政策は一貫性に欠け、おおよそ体系的なものではなかった。
 それでも、神話は戦前に大きな存在感をもっており、モニュメントやサブカルチャーなどで参照され続けたのである。いわゆる国家神道をめぐるこれまでの議論は、政府や軍部の動きにとらわれすぎていたのではないか。本書ではそのような「上からの統制」だけではなく「下からの参加」も視野に入れて、神話と国威発揚の結びつきを考えたい。
 いうなれば『「戦前」の正体 愛国と神話の日本近現代史』は、神話を通じて「教養としての戦前」を探る試みだ。そしてこの試みはまた、今後の日本をどのようなかたちにするべきか考えるヒントになることも目指している。
 戦前の物語を批判的に整理する
 そのため『「戦前」の正体 愛国と神話の日本近現代史』は、細かな事実をあげつらって、神話の利用を解体してそれで事足れりとする立場にも与しない。国家はなにがしかの国民の物語を必要とするからである。
 たしかに、国民国家は近代に成り立ったものであり、虚構にすぎないといえばそうだろう。だが、現在の国際秩序はその虚構をベースに動いているのであって、これを否定したところで無政府状態のカオスを招来するにすぎない。
 そもそも虚構というならば、人権も平等も皇室制度も貨幣も共産主義もすべて虚構である。そんなことをエビデンスやファクトなどのカタカナを振り回して、あらためて指摘しても意味がない。むしろわれわれが本当に考えるべきなのは、そのなかから適切な虚構を選び、それをよりよいものに鍛え上げていくことではないか。
 戦後民主主義の永続・発展を望むにせよ、21世紀にふさわしい新しい国家像を描くにせよ、自分たちの立場を補強する物語を創出して、普及を図るしか道はない。このような試みが十分に行われていないから、戦前の物語がいつまでたってもきわめて中途半端なかたちで立ちあらわれてくるのだ。
 「感染症」を終わらせるためには、怖い怖いと「自宅」に立てこもるのではなく、積極的に「ワクチン」を打たなければならない。
 そこで本書では、「原点回帰という罠」「特別な国という罠」「先祖より代々という罠」「世界最古という罠」「ネタがベタになるという罠」という5つの観点で、戦前の物語を批判的に整理することにした。
 批判的というのはあえて述べるまでもなく、物語にはひとびとを煽動・動員するリスクもあるからである。
 このような物語の構造を知っておくと、今日、軍事的な野心を隠さない他国、たとえばロシアや中国の動きを読み解くときにも役立つかもしれない。戦前的なものの再来は、なにも現代日本だけで起きるとは限らないのだから。
 また、北朝鮮の指導思想(金日成金正日主義)と日本の国体思想はしばしば類似性を指摘されるけれども、その比較をたんなる印象論で終わらせないためには、国体思想の核心を正しく掴まなければならないだろう。
 もっと身近なところでは、神話の知識はときにサブカルチャー作品の読解にも役立ってくれる。
 昨年公開された新海誠監督の『すずめの戸締まり』は、明らかに天の岩戸開き神話が元ネタのひとつになっているし、主人公の岩戸鈴芽(すずめ)が宮崎県と目される場所より船に乗り、あちこちに立ち寄りながら東に進むストーリーは、神武天皇の東征をほうふつとさせる。その意味するところは、しかし、神話を知らなければ掴みようがない。
 いずれにせよ本書は、過度な細分化で物語を全否定するのでもなく、かといってずさんな物語でひとびとを煽動・動員するのでもなく、両者のあいだの健全な中間を模索することで、目の前の現実に役立てることをめざしている。
 この目的のため、『「戦前」の正体 愛国と神話の日本近現代史』では、銅像や記念碑などの史跡も積極的に取り上げた。現地に足を運んで、歴史を五感で味わってもらいたいからだ。歴史を一部の専門家やオタクの専有物にせず、また右派や左派のイデオロギーの玩具とせず、ふたたび広く教養を求めるひとびとに開放してその血肉としてもらうこと。それが新しい時代のとば口に求められていることだと筆者は強く信じている。
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 本記事の抜粋元『「戦前」の正体 愛国と神話の日本近現代史』では、明治維新から大東亜戦争まで、日本の神話がどのように利用されてきたのかを解説しながら、それに関連するエピソードを紹介している。
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 5月11日 YAHOO!JAPANニュース「人類生活の「幸福の基礎」が危ない…戦前日本の「深刻な格差」
 格差是正に立ち上がる農民
 井上 寿一
 戦前の日本はどのような社会であったのか。
 昭和恐慌下、革命の夢は破れた。「エロ・グロ・ナンセンス」に沈む社会の格差が拡大する。それでも人びとは希望を持ちつづける。昭和の日本社会は、舞台と主役を代えて、格差是正を追求する。舞台は都市から農村へ、中央から地方へと代わる。
 本記事では農民たちの格差是正の試みをくわしくみていく。
 ※本記事は井上寿一『戦前昭和の社会 1926-1945』から抜粋・編集したものです。
 立ち上がる農民——農村雑誌『家の光』
 農村は疲弊していた。欧州大戦後の戦争景気の反動不況が都市よりも農村に深刻な打撃を与えていたからである。農村雑誌『家の光』が創刊されたのは、このような状況のなかだった。創刊号(1925〈大正14〉年)のカラーの表紙はのどかな田園風景である。農婦が菖蒲の花を活けている。遠くには鯉のぼりが泳いでいる。
 このような明るい印象の表紙とは異なって、誌面には危機感が溢れていた。「本誌記者」は言う。「去る大正10年頃から急に農村問題が社会問題の中心となって……猫も杓子も口にし、筆にしなければならぬ程の大きな問題となった」。ところがその後、「年一年と下火」となり、「殊に議会に於ける政党の農村問題と来ては全く画餅に等しい感」となった。「今日迄の農村振興策は何れも空鉄砲である、不渡手形である、そこで何とか局面を転回して農民の実生活方面から根本の改造」をしなければならない。
 同号の別の論考も同様の危機感を抱いている。「五穀豊穣地味肥沃の瑞穂国と申して又とない農本国と教えられましたのは一場の夢となりました」。農村から都市へ、急速な人口移動が起きていた。他方で農業の生産性の低下にともなって、状況は「地主としても容易な苦痛でないこと」が明らかとなる。「小作人の地位を向上せしめること」も困難だった。
 「共存同栄」
 「瑞穂国」日本の再興の模範国となったのは、北欧の農業国デンマークである。この論考は、2つの点からデンマークに注目する。
 1つは近代的な農業経営の手法である。デンマークは「産業組合の発達」によって、バターやチーズ、ハム、ベーコンなどを輸出している。日本もそうなるべきだ。そう主張する『家の光』は、表紙の「家の光」の文字の上に「共存同栄」を掲げている。
 もう1つは生活様式である。デンマークの女性の身なりは、米仏英とくらべると「御話にならぬ程質素」で、「田舎じみて」いる。それにもかかわらず、「他国語さえ自由に話し、ピアノを弾じ、政治を談ずる。且つ昼は忠実に牛馬を牧し農事に励む丁抹農家婦人はまさしく幸福」だった。
 ここに近代的な農業経営と新しい生活様式を求めて、農民が立ち上がる。
 『家の光』の発行母体、産業組合中央会は、1910(明治43)年に産業組合法(1900〈明治33〉年に公布)にもとづき国が設立した、いわば官製組合である。しかし創刊号の巻頭言の宣言「われ等の理想は、同心協力の精神であり、共存同栄の社会である」が示しているように、『家の光』は、体制批判をふくんでいた。
 『家の光』の「共存同栄」の共同主義は、第1に政党政治、第2に資本主義、第3に都市、これら3つに対する対抗原理である。
 第1の政党政治に対して、普通選挙法の公布(1925〈大正14〉年5月)の同年9月号において、『家の光』の巻頭言「普選を前にして」は、政党批判を展開する。「近頃の政治が兎角、国民生活とかけ離れた傾向を有するのは全く政党そのものが直接政治を目的とするものでなくて、単に一部政治家が政権利権獲得のために一時的に結合する団体に過ぎない」。政党政治金権政治と同じだった。
 そうは言っても、『家の光』が反政党の立場だったわけではない。この巻頭言は来るべき普選後の政治に対する期待を欧米先進国の標準的な複数政党制に求めて、つぎのように述べている。「少なくも我国の諸政党は英国の自由、保守、労働 三大政党の対立、米国の共和、民主二大政党の対立の如く公明正大なものであって欲しい」。そう言いながら、この巻頭言はすぐに言葉を継いだ。「けれどもそれは今日の囚れた政党に求むることは困難で要は国民各自の政治的自覚に待つより外にない」。
 『家の光』は、来るべき第1回普選に向けて、新たに生まれる約1000万人の「青年と新有権者」に期待する。「内は中央地方の政費膨張、物価騰貴、輸入超過、産業不振、人心動揺」、「外は経済上、外交上、軍事上強大国の圧迫を蒙り、甚しきは小弱国にまで軽侮せられ、何れの方面を見るも憂うべきものならざるは無い」。このように困難な内外環境のなかで、「必ず与えられたものを正しく行使することが、与えられたものの正になすべき事である」(1925〈大正14〉年12月号)。
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 さらに【つづき】『「格差」は戦前昭和から存在していた…「深刻な打撃」を受け、「格差是正」を追求した農民たち』では、女性参政権無産政党、複数政党制について懐疑的な『家の光』の政党政治への批判的姿勢をくわしくみていく。
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 4月29日 YAHOO!JAPANニュース「戦前の教育理念は、果たして否定されたのか?
 「曖昧」なまま生き延びた教育勅語
 小野 雅章
 戦後教育と戦前・戦中教育とは、憲法の改正と旧教育基本法の制定そして教育勅語の排除によって断絶したものと一般的に理解されている。
 しかし、本当に「断絶」していたのだろうか。
 日本の近代教育全体の文脈の中における教育と天皇制の関係を考察する『教育勅語御真影 近代天皇制と教育』を上梓した小野雅章さんは、本寄稿で史実の確認の重要性を伝える。
 近代日本が求める人間像の変化と教育理念
 日本の近代教育は、明治5年(1872年)の学制発布から数え昨年で150年を迎えた。その間、時代の推移に応じて求められる人間像は常に変化し続けた。
 アジアの小国である日本が西欧諸国に伍する近代国家となることを目ざし、急激な教育の近代化を進めた1870年代の方針は、自由民権運動などの「行き過ぎた」近代化を是正するため、1880年代は一転して、教育(とくに、国民教育の部分)は保守化の傾向が強まるが、内閣制度の発足にともない、1885年に初代文部大臣に森有礼が就任し、立憲君主制移行を射程にした教育政策を推進すると、求める人間像にも変化がみられ、儒教主義的な教育はほぼ全面的に否定された。
 教育勅語の発布は、明治憲法成立以降の立憲主義国家としての日本の「行き過ぎた」近代化を抑制し、国体史観を教育理念の中心におこうとする山県有朋などを中心とする明治政府内保守層による施策のひとつであった。
 しかし、これで日本の教育理念が一定化したわけではなかった。
 教育勅語は公布ののち10年も経過しないうちにその有効性に疑念がもたれ、教育勅語の改訂・追加・改訂論が権力内部で真剣に検討されるようになった。明治憲法成立直後の政権内保守派の意向を呈した教育勅語に示された教育理念だけでは時代状況にそぐわなくなったからである。
 しかし、日露戦後には、政府自らが教育勅語を否定することは天皇制そのものの権威を損ねることになり、当時の国際社会からも認知され始めた天皇の権威そのものを損ねるとの判断により、教育勅語の理念と日露戦争以降の現実社会の状況との間の「ギャップ」を埋めるための手段として、その時々の時代状況に対応した天皇の名による詔勅を発布して求める人間像を提示するという方式を編み出した。日露戦後の社会不安と体制基盤の動揺期には戊申詔書(1908年)を、関東大震災後の社会不安と民心動揺への対応として、「国民精神作興ニ関スル詔書」(1923年)を、そして、戦時体制による「ファシズム的」天皇制が頂点に達した時期の対応として、「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」(1939年)をそれぞれ発布した。
 これは、「教育勅語をして、時代を超えた普遍性を主張する『古典』の地位に昇格させ、新たな状況に対応すべき教育理念は、その都度その時々の天皇の名により〔詔勅が―筆者注〕示される」(佐藤秀夫編『続・現代史資料8 御真影教育勅語1』みすず書房、1994年)が確立したと指摘されている。
 教育勅語の「曖昧」さ
 「時代を超えた普遍性を主張する『古典』の地位」にあるはずの教育勅語そのものが、時代の変化にともない、その解釈に変更が加えられていたという事実はあまり知られていないが、重要な事実であろう。
 教育勅語の発布間もなくして、当時の文部省は、その解釈を一定し、官定の解釈書(衍義書)の執筆を井上哲次郎(いのうえてつじろう)に委嘱し、『勅語衍義』上・下(井上蘇吉ほか、1891年)となるが、結局は「官定」とならず、個人の著作となった。そもそも「勅語の解釈には色々説がある」(「聖訓ノ述義ニ関スル協議会」における吉田熊次(よしだくまじ)の発言)ことが当然のこととされていた。
 修身教育における教育勅語の教授内容さえ、時代により一定していなかった。周知の通り、教科書の国定化は1903年の小学校令改正により実施された。第一期国定修身教科書(『尋常小学修身書』)の編纂に際し、「勅語の述義を入れることそれ自体が問題であって」(同前)、教育勅語の解釈を教科書に掲載できなかった。当時の漢字の使用制限のためとされるが、それ以外、日清・日露戦間期教育勅語改訂論が権力内部で議論されていた時期であることも影響したと推測できる。
 第一期国定修身教科書は、国体意識の面において不十分との各界からの批判があり、早くも1908年には第二期国定修身教科書の改訂が開始された。義務教育年限が延長され、その最終学年使用の教科書に教育勅語の釈義を掲載することになった。この時点においても「勅語の解釈には色々説があるが、これを政府が一定の解釈としてどういふものか」(同前)との議論があった。教育勅語の解釈が如何に難しかったのかを端的に示している。議論は紛糾したようであるが、結局のところ、第二期国定修身教科書で教育勅語の解釈を掲載することになった。
 ここでは、教育勅語は全体で三部構成であること、教育勅語が示した徳目は歴史的にも、日本の他諸外国にも通用するものとするその徳目(「斯ノ道」)は、具体的に何かについて「父母ニ孝ニ」から「義勇公ニ奉シ」までであることなどが確認された。この解釈は、第三期・第四期の国定修身教科書においても適用され、文部省による教育勅語解釈として、国民教育の場で用いられた。多くの人々はこの解釈によって教育勅語を学んだ。
 1937年12月、日中戦争による20か月の長い休みの後、学校に戻ってきた学童たち(GettyImages)
 戦時体制が本格化すると、時代状況の変化に対応して文部省自身がこの解釈を変更した。教育審議会の答申により国民学校制度が発足(1941年)するのに対応して国定教科書も改訂することになった。1939年11月、文部省内に「聖訓ノ述義ニ関スル協議会」を設置し、新たな修身教科書に「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」に掲載するためにその解釈を行うとともに、新たな時代状況に対応するために教育勅語の解釈を見直した。
 ここでの協議の結果、教育勅語は全体で二部構成でありその前半部を二つに分けることも可能であること、また「斯ノ道」の指す徳目を拡げ、「天壌無窮ノ皇運ニ扶翼スヘシ」をも加えることになった。「大東亜共栄圏」の構築を目指すという時代状況に合わせ、日本の教育勅語は全世界に通用するとの解釈に変更した。教育勅語の解釈は時代状況に合わせて変化し続けたのである。
 戦後教育をどう解釈するのか
 これまで検討してきたとおり、教育勅語の徳目はあくまでも1890年という資本主義社会にも到達していなかった時点のものであり、発布後10年も経過しないうちにその有効性が問われるようになり、その撤回・改訂・追加論が台頭するまでになる。それへの対応として、教育勅語を近代日本の徳目を示した「古典」と位置づけ、その時代状況に対応した詔勅(戊申詔書・国民精神作興ニ関スル詔書・青少年学徒ニ賜ハリタル勅語)を発布して対応した。さらに、その近代日本の徳目の「古典」であるはずの教育勅語自身、その解釈は一定することなく、時代状況に合わせて変化した。
 こうした事実の延長線上で戦後教育を考えたらどうなるのであろうか。一般的に戦前・戦中教育と戦後教育とは、憲法の改正と旧教育基本法の制定と教育勅語の排除により断絶したものとされ、これを肯定的にとらえるリベラル派とこれを否定的にとらえる保守派も戦前・戦中教育と戦後教育との断絶を前提としている。主権の変更や教育理念の変更はこのことを端的に示しているといえよう。しかし、戦後改革で天皇天皇制そのものが否定されたわけではない。戦後改革で象徴天皇天皇制へとの変更はあったものの、裕仁天皇という同一人物が天皇の位置にあり続けた。
 裕仁天皇(GettyImages)
 この変更は戦前・戦中の天皇天皇制からの超国家主義軍国主義的部分の排除であった。教育や学校場面でこれを検討すると、国体史観にもとづく天皇天皇制に教育理念を求めた教育勅語、さらに神社様式が一般的であった御真影教育勅語謄本の保管施設である奉安殿・奉安庫は否定されたが、御真影は軍装のものから「天皇御服」のものに変更された。こうした事実は、戦後教育も戦前・戦中の全面否定ではなく、象徴天皇天皇制への変更という時代状況に合わせて変更と見るのがより正確なのかもしれない。戦後の象徴天皇天皇制への変更は、実に「曖昧」なものであった。こうした状況のなか、天皇天皇制と教育との関係も戦前・戦中的なものを寛容する要素が強く残ったのではないか、と筆者は思っている。
 戦前・戦中と戦後教育とについて、「『皮袋』は変ったが『葡萄酒』はどの程度変質したのかという面から、1945年8月15日あるいは1947年4月1日を境界とする『戦前教育史』(近代教育史)と『戦後教育史』(現代教育史)との時期区分の有効性も問い直されるようになるかもしれない」(佐藤秀夫「(2)シンポジウム:教育史的認識をいかに形成するか《第一提案》」『日本の教育史学』第21集)と指摘がある。拙著『教育勅語御真影――近代天皇制と教育』(講談社現代新書)は、こうした問題意識のもとに執筆した。天皇制と教育との関係については、様々な側面から議論されるべきものであると考えている。その前提は史実の確認からはじめるべきある。拙著がそのひとつの題材なればというのが、著者が最も望むところである。
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