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国體論と国家神道を、正統保守は認め、エセ保守とリベラル左派は否定する。
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2025年3月29日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「国体論」が明治以降に急速に盛り上がった「危険な理由」
神武天皇、教育勅語、万世一系、八紘一宇……。私たち日本人は、「戦前の日本」を知る上で重要なこれらの言葉を、どこまで理解できているでしょうか?
【写真】「国体論」が明治以降に急速に盛り上がった「危険な理由」
右派は「美しい国」だと誇り、左派は「暗黒の時代」として恐れる。さまざまな見方がされる「戦前日本」の本当の姿を理解することは、日本人に必須の教養と言えます。
歴史研究者・辻田真佐憲氏が、「戦前とは何だったのか?」をわかりやすく解説します。
※本記事は辻田真佐憲『「戦前」の正体』(講談社現代新書、2023年)から抜粋・編集したものです。
戦前の「5つの物語」
戦前とはなんだったのか。戦後78年の今年(※執筆時は2023年)、戦前の記憶がますます薄れるなかで、この問いにどう答えればいいか。
戦前といっても切り口はいくらでもあるが、本書では、日本神話からアプローチすることにした。
すなわち、大日本帝国を「神話に基礎づけられ、神話に活力を与えられた神話国家」と定義したうえで、戦前を5つの神話にもとづく物語に批判的に整理した。
その物語とは、「原点回帰という罠」「特別な国という罠」「祖先より代々という罠」「世界最古という罠」「ネタがベタになるという罠」の5つである。最後の「ネタがベタになる」は、物語が物語であることを忘れられた結果生じる、物語それ自体がはらむリスクなので、メタ物語ともいえるかもしれない。
このような物語を否定するのはたやすい。神武創業の実態は西洋化だったし、日本人が昔から特別に忠孝を大事にしていたわけでもない。もとより日本より古い文明はいくらでもあるし、日本の神々が世界をつくった云々は荒唐無稽というしかない。
だけれども、このような物語がなぜ近代以降、急速に整備されたのかも同時に考えなければならない。いうまでもなく、欧米列強の侵略に対抗して、急速な近代化・国民化を成し遂げるためである。その試みはあまたの苦難をともないながらも成功し、日本は日清戦争や日露戦争に勝ち抜き、欧米列強に伍するようになった。
たしかに日本は、昭和戦前期にやる必要もない中国との全面戦争にはまり込み、もがき苦しんだ挙げ句、ついに対米英開戦のやむなきにいたり、破滅的な終幕を迎えた。とはいえ、そのことをもって近代化の試みがすべて否定されるわけではない。
そのため、われわれが戦前から読み取るべき教訓は、たんなる物語の否定ではなく、そのリスクを受け止めながら、今後どのような物語を紡いでいくかにあるだろう。序文でも述べたとおり、物語は虚構だけれども、共同体を形成するうえで大きな役割があるからだ。
宗教の否定が醜悪な疑似宗教を生み出したように(フランス革命における最高存在の祭典や、ソ連におけるレーニンの遺体保存やスターリンの個人崇拝などを思い出されたい)、物語の否定はかえって戦前的な物語の劣化コピーを生成させる。物語は排除されるべきものではなく、上書きされるべきものなのである。
道義国家論と神聖国家論
そのうえであらためて、戦前の国体論を整理してみたい。
日本は明治維新により、近代的な国民国家となった。だがいったん国民国家となると、イギリス、フランス、ドイツなどと並列されることになる。このなかでは、日本はなんとも貧弱な存在にすぎない。
日本に生まれた以上、日本人としての立場を受け入れて、断固として自国を守るべき? それはそうかもしれないが、もう少し積極的な理由づけもほしい。つまり、この日本という国民国家がほかに比べて優れており、そのためならば命を投げ出してもいいというような理由が。その需要に応じたのが国体論だった。
国体とは、万世一系の天皇を建国以来いただく日本独自の国のありかたである。ヨーロッパにせよ、中国にせよ、このように連綿として続く王室をもつところはない。これこそ日本の卓越する点というわけだ。
この国体のすばらしさを説明する回路は、おもにふたつ存在する。
ひとつは、日本は君臣の努力(忠孝)によって万世一系の皇統を守ってきたからエライという考え。もうひとつは、日本は神々によって天皇の君臨を保証されているからエライという考えだ。前者が後期水戸学系であり、後者が国学系といえるかもしれない。
この両者は相補的である。合理的に考えれば、努力論(道義国家論)のほうがもっともな主張に聞こえる。植民地化の危機にあるなかで、国民に奮起をうながす掛け声とも相性がいい。ただ努力論は、ひるがえせば努力が足りないと国体が終焉する可能性を含まざるをえない。これでは、共産主義者などに付け入るすきを与えかねない。
そこで、日本が自明にエライという宿命論(神聖国家論)が力を増してくる。日本の国体はなにがあっても大丈夫なのだと。とはいえ、国体が神々に保証されているのだとすると努力する意味がなくなり、結果的に国民の怠惰を招く恐れもある。やはり努力も欠かせない──。こうして努力論と宿命論は循環するのである。
ただし忘れてはならないのは、このような国体論は官民問わず雑多に論じられ、ときに混ざり合っていたということだ。民間発の八紘一宇が国是と称されたことを思い出してもらいたい。これなど、道義国家論と神聖国家論の奇妙な融合だった(日本は道義的に世界を統一する宿命を有する)。
そのため、文部省が編んだ『国体の本義』などをみるだけでは、国体論の総体をとらえることはできない。記念碑や軍歌など、幅広くカルチャーを取り上げなければならない理由もここにある。全体主義的なイデオロギー国家では、国家的なイデオローグが国のあり方を体系的に示す。だけれども、良くも悪くも民間の活力が盛んな日本はそれと同一には論じられない。
さらに連載記事<靖国神社は「上から7番目」…日本人が意外と知らない「神社には序列がある」という「驚きの真実」>では「戦前の日本」の知られざる真実をわかりやすく解説しています。ぜひご覧ください。
辻田 真佐憲(文筆家・近現代史研究者)
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3月2日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「天皇が「万世一系の継承者」と定義した…江戸時代を終わらせた明治維新が「革命」にならなかった国家的事情
明治天皇の肖像(画像=Uchida Kuichi/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
明治維新の歴史的意義とは何か。経済評論家の上念司さんは「日本の伝統的な価値観を守りながら、時代に合わせて必要な改革を進めたことだ。この明らかに矛盾したミッションを成功させるには、天皇という存在が不可欠だった」という――。
【画像】五箇条の御誓文の原本
※本稿は、上念司『保守の本懐』(扶桑社)の一部を再編集したものです。
■軍事政権からの「民主化」だった
明治維新による社会の変化は「革命」と言っていいぐらいの大きなものでした。身分制度はなくなり、年貢は地租に変わり、憲法が制定され議会もできて選挙も行われるようになったからです。
江戸時代は言ってみれば徳川家と大名が連合した軍事政権であり、一定の身分がなければ政治には参加できませんでした。また、身分は基本的に世襲であり、生まれた瞬間に将来その人がどのような職業に就くのかもほぼ決まっていました。
もし、フェートン号事件から安政の開国に至る外圧がなければ、江戸時代はもっと長く続いていたことでしょう。しかし、世界はそれを許さなかった。日本は欧米列強との国交を開かざるを得ない圧力を受け、不平等条約を飲まざるを得ない状態に追い込まれたのです。
■日本の遅れに気付いた改革派vs守旧派
なぜ欧米列強に勝てなかったのか? 理由は簡単です。まずは軍事力の差。そして、その差をもたらす科学技術が最大の問題でした。
私有財産制度が確立していない国ではイノベーションは起こりません。古代中国は羅針盤を発明しても、大航海時代はこなかった。同じことが封建時代の日本にも言えるわけです。
明治維新の原動力となった下級武士たちはこのことにいち早く気付き、社会改革の必要性を訴えました。しかし、当時の徳川幕府はこれをたびたび弾圧しました。
改革派は同盟を組んで戦い、大政奉還から最後は戊辰戦争という暴力によって守旧派を粛清。明治新政府が立ち上がったわけです。このあたりの歴史についてはこれだけで本が何冊も書けてしまうので省略します。
■新政府が「革命ではなく維新」とした理由
問題は、明治維新において伝統や正統性が思想的かつ理論的にどのように確保されたかという点です。維新は維新であって決して革命ではない。
そもそも、明治維新という呼称自体、維新が終わった後に後付けされた名称です。やっている最中には「御一新」と呼ばれていました。御一新、つまり何かが大きく変わるというニュアンスでしたが、終了後それは革命ではなく維新であると定義付けられました。
明治維新において最も重要なこと、それは明治天皇が古代から続く万世一系の継承者として、国家の正統性を象徴した点にあります。
天皇は日本の歴史における「万世一系」の象徴であり、国家の正統性を維持する中心的な存在でした。幕末の混乱期においても、その権威は失われていません。幕末も例外なく歴代将軍は天皇の任命で就任していますし、むしろ条約勅許問題など朝廷の権威をさらに利用する動きすらありました。
そのため、維新期において「王政復古」のスローガンが浮上したのは、その正統性から言えば当然のことでした。
■天皇は改革に欠かせない存在だった
この考え方の萌芽は水戸黄門でお馴染みの徳川光圀がまとめた『大日本史』という歴史書の中に見て取れます。それを発展させた水戸学、特に後期水戸学は明治維新の理論的な支柱の1つになりました。
新政府は、多くの改革を実施するにあたり、その正当な理由を日本の伝統的価値観に結び付けて説明しました。もちろんかなり苦しい説明もありますが、伝統と結び付けて解釈するという点がとても大事です。この点で、天皇は新しい時代の象徴でありながら、古来の伝統とも連続性を持つ存在でした。
特に大事なのは、五箇条の御誓文(1868年3月)です。御誓文は明治新政府の基本方針を明確化する文書であり、その内容には革新性と保守性が共存しています。明治新政府が目指したもの、それは当時の欧米のような自由主義、言ってみれば「自由で開かれた社会」でした。
■社会の維持には「メンテナンス」が必須
自由で開かれた社会とは、保守思想が目指す漸進的な改革を実現するための基盤となるものです。個人の自由が最大限に尊重され、同時にその自由が社会全体の利益と調和する形で保障されるからこそ、自由に議論ができ、その結果として衆知を集めることができる。
そして、一定の結論が出た後で常にそれを振り返り効果を確認しながらまた次の漸進的な改革に着手する。保守という言葉は英語で言えば「メンテナンス」です。私たちの社会は古い自動車みたいなものですが、新車に買い替えるわけにはいかないのです。
急進的な改革には大きなリスクが伴うため、古いポンコツでも修理しメンテナンスしながら乗り続けるしかない。そのためには、当事者すべてが整備士としてこの修理に参加する必要があります。
自由な議論を通じて、みんなで決めていく社会。何を隠そうこれこそが五箇条の御誓文にある一節「廣(ひろ)ク會議(かいぎ)ヲ興(おこ)シ萬機(ばんき)公論ニ決スヘシ」そのものなのです。
■天皇自らが先頭に立って近代国家への道を歩む
左翼系の歴史学者には明治天皇による御誓文を茶番だとか、単なるスローガンだとバカにする人たちがいます。しかし、それがいかに愚かしい批判か。読者のみなさんはもうすでにご理解いただけるかと思います。
保守思想の観点からすれば、日本の歴史、伝統を重視し、その形式に従って明治天皇がこのような布告を出すことは極めて重要なことです。
近代国家への道を歩むということは日本にとって未曽有の大改革であり、天皇自らその先頭に立って努力すると宣言されたわけです。それも天地神明に誓って。
その目指すものの第一に掲げられたのが「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ(広く人材を集めて会議を開き議論を行い、大切なことはすべて公正な意見によって決めましょう)」という項目です。いわゆる保守思想と自由主義の融合、保守自由主義は明治維新から始まったのです。
■当時の日本は侵略の危機に晒されていた
明治天皇が自ら先頭に立ってこういう社会改革を行う必要があったのは、日本をいち早く欧米並みに近代化し日本を守るためです。欧米諸国は「自由で開かれた社会」であると同時に、同じ基準を持たない国々を文明国とは認めていませんでした。
「自由で開かれた社会」と言っても、あくまで当時の基準。フランスもついこの間まで身分制度があったような国だったわけです。それが無くなって自由になった。でも、文明国と認めない国は「教化」の対象であり、侵略して植民地にしてもいいという倫理観がまかり通っていたわけです。
分かりやすく言えばこれは「令和の世から昭和のテレビドラマを振り返って、その酷さに絶句する」みたいなものです。当時のドラマではセクハラも暴力の描写も今では絶対に考えられないぐらいえげつないものでした。でも、当時はそれでよかったのです。
今から見れば、欧米諸国のダブルスタンダードにしか見えないこの行動も、当時としては当たり前。だからこそ、左翼の人たちはこの時代を帝国主義の時代とネガティブなイメージで呼ぶわけです。
■伝統を守りながら改革もする難題をクリア
欧米列強によるアジアの植民地化から日本を守るためには、江戸時代の古い仕組みでは対抗できない。だからこそ、維新の志士たちは日本を近代化させ、近代国家として生まれ変わった日本を欧米列強に認めさせようと立ち上がりました。外的環境の変化に適応しつつ、日本の社会を守るためには、歴史的な連続性に配慮しつつも大胆な改革が必要でした。
伝統を守り、しかし、改革もする。どう考えても完全に矛盾しているこの難ミッションを課せられたのが明治新政府であり、それをクリアしたのも明治新政府でした。
例えば、五箇条の御誓文第一条にある「広く会議を興し」という部分は、封建制的な専制支配を否定し、議論を通じた開かれた政治を目指す意思を示していますし、第四条の「天地の公道」に基づく行動とは、西洋的な普遍的価値観を取り入れる意思を表しています。
■市街戦を繰り返したフランス革命との違い
ポイントはそれらが、明治天皇による宣言だったという点です。五箇条の御誓文は、明治天皇が自ら発した、歴代天皇および天地神明に誓うという形式が取られました。これは、天皇という伝統的権威を基盤に新しい体制を構築しようとする保守思想的なアプローチと言えるでしょう。
フランスのようにパリで市街戦を何度も戦うことなく、最初からこのような設定をした点に私たち日本人の先人たちの智慧を感じませんか?
明治維新の成功は、伝統と改革のバランスを取ったことにあります。天皇と五箇条の御誓文は、伝統的な価値観、特に万世一系や日本の文化的アイデンティティを基盤にしながら、必要な改革を進めるということを明確にした宣言でした。これは保守思想において重要な社会秩序の維持のためには、天皇の存在が不可欠であったことを意味します。
■混乱を最小限に抑えることができた
公儀(幕府のこと)は天皇から征夷大将軍に任命されることで日本を統治する権限を与えられている。だから、公儀といえどもそれは「幕府」に過ぎない。この理論は徳川光圀が明治維新の200年前に主張したものです。
明治新政府の歴史解釈は少なからず徳川光圀に始まる水戸学の影響を受けています。この天皇を中心に据えた歴史観が、激動の時代における混乱を最小限に抑える役割を果たしました。
ただ1つだけ余計な話をさせてください。水戸学は時代が下るにつれてあまりにも過激化しすぎて一部はトンデモ論、陰謀論に走るヤバい学派になってしまいました。そのため、明治新政府も水戸学のすべての理論を採用したわけではなく取捨選択が行われています。
また、旧水戸藩の人材は過激な人が多すぎたので明治新政府からは排除されました(「水戸学がトンデモなので明治新政府もトンデモ」という左派の批判は的外れです)。
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上念 司(じょうねん・つかさ)
経済評論家
1969年、東京都生まれ。中央大学法学部法律学科卒業。在学中は創立1901年の日本最古の弁論部・辞達学会に所属。日本長期信用銀行、臨海セミナーを経て独立。2007年、経済評論家・勝間和代氏と株式会社「監査と分析」を設立。取締役・共同事業パートナーに就任(現在は代表取締役)。2010年、米国イェール大学経済学部の浜田宏一教授に師事し、薫陶を受ける。金融、財政、外交、防衛問題に精通し、積極的な評論、著述活動を展開している。
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国體論とは、小国日本が大国ロシアの日本侵略から天皇・国・民族を軍事力で守る為に必用な祖国防衛論であった。
明治時代における日本の敵とは、ロシア・清国(中国)・朝鮮の3カ国であった。
近代日本の対外戦争、大陸戦争は、積極的自衛戦争であった。
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明治後期からは、ソ連・中国共産党・国際的共産主義勢力の反宗教無神論・反天皇反民族反日本であるマルクス・レーニン主義、共産主義によるイデオロギー侵略から母国を守る為に国體論が利用された。
それが、昭和前期の国體護持である。
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歴史的事実として、日本は被害者であって加害者ではなかった。
現代の歴史教育は、国體論と国家神道を戦争犯罪を肯定する思想として否定している。
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後期水戸学は、キリスト教の宗教侵略を恐れていた。
世界の大航海時代と日本の戦国時代に、中世キリスト教会・イエズス会伝道所群は日本を宗教侵略し、白人キリスト教徒商人は異教徒日本人をアフリカ人同様に商品として世界に輸出していた。
歴史的事実として、日本へのキリスト教伝来と仏教伝来は違うのである。
日本人は、仏教を受け入れたが、キリスト教を拒否した。
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日本人の共産主義者・無政府主義者テロリストとキリスト教系朝鮮人テロリストは、昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。
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国体護持(読み)こくたいごじ
【太平洋戦争】より
…これに対し日本では,45年2月14日の近衛文麿元首相の天皇への上奏文提出を契機に,和平工作が木戸幸一内大臣らの宮中グループを中心に進められた。彼らの論理は,敗戦にともなう〈共産革命〉を避けるため,〈国体護持〉=天皇制擁護の立場から早期和平を実現するというもので,日本国民と日本の侵略戦争の犠牲になったアジア諸民族に対する責任感に欠け,〈国体護持〉のみを唯一絶対の基準とする和平論であった。鈴木貫太郎内閣は,7月13日にソ連に対し和平の仲介を依頼したが,ヤルタ協定に参加していたソ連は,18日に日本の依頼を拒否した(終戦工作)。…
※「国体護持」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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ウィキペディア
国体(こくたい、旧字体:國體)とは、国家の状態、国柄のこと。または、国のあり方、国家の根本体制のこと。あるいは主権の所在によって区別される国家の形態のこと。国体という語は、必ずしも一定の意味を持たないが、国体明徴運動後の1938年当時においては、万世一系の天皇が日本に君臨し、天皇の君徳が天壌無窮に四海を覆い、臣民も天皇の事業を協賛し、義は君臣であれども情は親子のごとく、忠孝一致によって国家の進運を扶持する、日本独自の事実を意味したという。
国体論は、幕末に水戸学によって打ち立てられ、明治憲法と教育勅語により定式化された。国体は、天皇が永久に統治権を総攬する日本独自の国柄という意味をもち、不可侵のものとして国民に畏怖された。
概要
もともと国体という語は国家の形態や体面を意味していたが、幕末の対外危機をきっかけに、水戸学が日本独自の国柄という意味で国体観念を打ち立てた。水戸学の構想は日本全国に広まり、国体論が一つの思想として独立した。国体論は、明治維新の後の過渡期を経て、帝国憲法と教育勅語により定式化された。
国体の語義
「国体」は旧字体で「國體」と書き、「國」という字は一政体の下に属する土地・人民などの意、「體」という字は、からだ、てあし、もちまえ、すがた、かたち、かた、きまり、などの意である。
国体という語は、古くから漢籍に見え、『管子』君子篇において国家を組織する骨子という意味で用いられ、『春秋穀梁伝』において国を支える器という意味で用いられたが、これらは本項でいう国体とは関係がない。その後、漢書に国体の語が見え、これは国の性情、または国の体面という意味であり、本項でいう国体にやや近いといえる。このほか後漢書、晋書、旧唐書、宋史、続資治通鑑綱目などに表れる用例も似たような意味である。
日本において国体という語が多用されるのは近世になってからであるが、古典籍においてもその語は散見される。ただしその用例と意味は近代のものと異なる。国体の語が日本の古典に現れるのは、延喜式所載の出雲国造神賀詞に「出雲臣等が遠祖天穂比命を国体見に遣時に」とあるのが初見であるといわれる[9]。国体は古訓でこれをクニカタと訓じた。また日本書紀の斉明天皇紀に「国体勢」という語句が見え、これをクニノアリカタと訓じた。諸書を対照すると、国体も国体勢も元は地形の意味であったのが転じて国状の意味に用いられたようである。次いで『大鏡異本陰書』や『古事談』に国体の語が見える。これは万葉集にある国柄の語と同義であって、ともにクニガラと訓じ、国風や国姿などの意味に通じる。
日本の近世には国体の語がしばしば文書に表れる。そのうち世に知られたもので最古の例は、元禄2年(1689)序、正徳6年(1717)刊の栗山潜鋒『保建大記』である。この間の元禄11年(1698)の森尚謙『儼塾集』に邦体という語が見える。その後、国体の意義を論じたものに、谷秦山、新井白石、荻生徂徠、松宮観山、高山健貞、賀茂真淵、山岡浚明、林子平、中井竹山、村田春海、平山行蔵、本居宣長、平田篤胤、会沢正志斎、青山延于、佐藤信淵、鶴峯戊申、江川英龍、大槻磐渓、安積艮斎、藤田東湖などがいる。
1853年(嘉永6年)黒船来航以降、国体という語は内治外交上重要なものとして用いられ、詔勅・宣命・その他公文書にも多く見られるようになる。たとえば黒船来航の年の7月、前水戸藩主徳川斉昭が幕府に建言した意見十箇条には、夷賊を退治しないばかりか万が一にもその要求を聞き入れるようでは「御国体に相済み申しまじく」(国体にあいすみません)と記し、同月伊達慶邦が幕府に提出した書に「本朝は万国に卓絶、神代の昔より皇統連綿」、「和漢古今、稀なる御治盛の御国体に御座候」とある。同年8月、孝明天皇が石清水放生会で攘夷を祈る宣命に「四海いよいよ静謐に、国体いよいよ安穏に、護り幸い給えと恐み恐みも申し給わくと申す」と宣い、そのほか同9月の神宮例幣使、安政元年(1854)11月の賀茂臨時祭、安政5年(1858)4月の賀茂祭、6月の伊勢公卿勅使発遣、および石清水八幡宮・賀茂社臨時奉幣などの宣命に国体の語を用いた。文久2年(1862)5月に幕府へ下した勅で「国政は旧により大概は関東〔幕府〕に委ねる。外夷の事の如きに至りては則ち我が国の一大重事なり。その国体に係るは、みな朕に問うて後に議を定めよ」と命じ、元治元年(1864)、将軍徳川家茂へ下した宸翰には「嘉永六年癸丑、洋夷猖獗来港し、国体あやうきこと云うべからず」とある。以上、幕末の公文書に表れた国体の語の例である。
明治維新後、国体の語が公文書にあらわることがますます多くなり、とくに詔勅に国体の語をしばしば用いる。たとえば慶応4年(1868)5月、奥羽士民を告諭するための詔に「政権一途、人心一定するにあらざれば何を以て国体を持し紀綱を振わんや」、「その間、かならず大義を明らかにし国体を弁ずる者あらん」とある。この詔では国体の文字の右にコクタイ、左にミクニブリという振り仮名が付されている[15]。次いで明治2年(1869)2月に薩長両藩主を徴する勅に「およそ国体を正し、強暴に備え、公義を立て、民安を慮り」とあり、同年9月の刑律改撰の勅に「我が大八洲の国体を創立する、邃古は措いて論ぜず、神武以降二千余年、寛恕の政、もって下を率い、忠厚の俗、もって上を奉ず」とあり、同月に服制更改の勅諭に「風俗なるもの移換、もって時の宜しきに随い、国体なるもの不抜、その勢を制す」「朕、いま断然その服制を更め、その風俗を一新し、祖宗以来、尚武の国体を立てんと欲す」とあり、明治15年(1882年)1月の軍人勅諭に「かつは我が国体にもとり、かつは我が祖宗の御制にそむき奉り」云々とある。
以上のように、国体のという語は近世以降頻繁に用いられたが、その意味は必ずしも一定したものではなく、多くは国風、国情、国の体面、国の名分、国の基礎、国の特性などの意味に用いられた。
帝国学士院『帝室制度史』第1巻国体総説によれば、1938年当時用いられた国体という語の意義は教育勅語を基礎としなければならず、この意義における国体は、日本に万世一系の天皇が君臨し、皇統連綿・天壌無窮に君徳が四海を覆い、臣民も天皇の事業を協賛し、義は君臣であれども情は親子のごとく、忠孝一致によって国家の進運を扶持する、日本独自の事実を意味するという。
古代中世の国体観念
国体の語が日本人一般に認識されたのは近代のことであるが、国体の語を用いなくともこれと同一の観念が起こったのはかなり古い。すなわち、日本人が自国を外国と比べて自国の国家成立の特色や国家組織の優秀性などを誇ることが多々あった。その特色または優秀性とされるものは、日本が神国であること、皇統が連続して一系であること等である。
古代日本において、我が国は神国なり、という観念が存在したことは、建国に関して神話が遺されていることから分かる。また古代において祭政一致により国を治めていたことも神国思想より起る。そのほか日本書紀の神功皇后の三韓征伐の条で、攻め寄せる日本兵を見た新羅王が「われ聞く。東に神国ありと。日本と謂う。また聖王ありと。天皇と謂う。必ずその国の神兵ならん」と言ったとされるのも、形は新羅王に言わせているが実は新羅王の口を借りて日本国民の観念を述べているのである。また大化の改新にあたって何事も唐の制度を取り入れたが、ただ神祇官を八省の上に置いたのは神国思想に由来するものである。
神国思想は万世一系の思想につながる。たとえば、道鏡が皇位を望んだとき、和気清麻呂が宇佐八幡宮の神託を受けて帰り、「我が国は開闢以来、君臣定まり、臣をもって君と為すことは未だあらざるなり。天の日嗣は必ず皇嗣を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除すべし」と奏したというのが、この万世一系思想の現れである。また大化2年(646)に中大兄皇子が詔に奉答して「天に双日なく、国に二王なし。これ故に天の下に兼ね併せて万民を使うべきは、ただ天皇のみ」と言上したとされるのは、天皇の神聖に対する理解を表明したものといわれる。
貞観11年(869)12月14日、新羅の船が襲来した知らせを受けて、その撃退を祈る伊勢神宮への告文に「日本朝は、いわゆる神明の国なり。神明の助け護り賜わば何の兵寇か近く来るべき」とあり、同29日の石清水八幡宮への告文にも「我が朝の神国と畏れ憚り来たれる」とあり、神明を信じて疑わない。平安貴族の日記である小右記や玉葉に「我が国は神国なり」との文言がある。軍記物語である保元物語に「我が国は辺地粟散の界といえども神国たるによりて」とあり、源平盛衰記に「日本はこれ神国なり。伊弉諾伊弉冉尊の御子孫、国の政を助け給う」とあり、また同書で平重盛が父の清盛を諌めるとき「日本はこれ神国なり。神は非礼を受け給わず」と述べたという。これは創作話であったとしても、物語の著者が重盛に仮託して自分の思想を述べたものである。そのほか諸書や和歌に「当朝は神国なり」「神の国」「我朝者神国也」「日本は神の御国」などの語が見える。貞永年間に始めて武家法制が定められると第一に神社を崇敬すべきことを掲げている。蒙古襲来の際にも、文永7年正月の蒙古に送る牒文案に「皇土を以て永く神国と号す」とある。蒙古の軍船が嵐で沈んだことについて、日本国民はこれを神明の加護によるものだと信じたという。
鎌倉時代の末、虎関師錬は著書『元亨釈書』において、日本は皇統連綿として万世に替わることがないと論じた。これは日本の国体の依って定まる所を明らかにしたものだという。
南北朝時代、南朝方の公家北畠親房は『神皇正統記』を著し、同書の始めに「大日本は神国なり。天祖、初めて基(もとい)を開き、日神、永く流れを伝え給う。我が国のみこの事あり、異朝にはその類いなし。それゆえ神国というなり」と述べて日本が神国であることを明示し、さらに進んで万世一系の国体を論じて「ただ我が国のみ天地ひらけし初めより今の世の今日に至るまで日嗣を受け給う事よこしまならず。一種姓におきても、おのずから傍らに伝え給いしすら、なお正に返える道ありてぞ保ちましましける」といい、「これ、しかしながら神明の御誓い新たにして余国に異なるべき謂われなり」と結ぶ。神道については「この国は神国なれば神道に違いては一日も日月を戴きまじく謂われなり」と論じた。
中世の体制は、皇室・摂関家・大寺社・将軍家などの権門勢家が縦割りで支配するものであり、権門勢家間の垣根を越えて日本国の一体感を強調する目的で神国思想が持ち出されることがあった。特に元寇など日本の国防上の危機感が高まったときに神国思想が強調された。
近世前期の国体思想
近世の初め、天下人の豊臣秀吉や徳川家康は外国宛書簡で神国思想を表明する。
神国思想や自国優越思想、すなわち日本の国体が特異であるという点について、これを学者が詳細に議論するようになったのは徳川幕府が開かれてからである。その理由は、学問が発達し、日本古代の建国の体制が明らかになったことが一般的理由であるが、さらに、儒家がやたらと唐土を尊び日本を卑下する態度に対して反発がおこったこと、また、江戸の幕府が繁栄しているのと対照的に京都の朝廷が衰微していたので感情的に尊王の思潮が湧いたこと等が理由となった。特に京都在住の学者の間にその傾向があった。
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