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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
明治の近代国家は、外面的には西洋キリスト教化であったが、内面的には中華儒教朱子学化であった。
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『国體の本義』は、『教育勅語』や『軍人勅諭』など同様に戦前日本を縛りつけ、戦前日本人を精神主義で抑圧した。
日本国内では正道として通用したが、世界では非常識として理解されなかった。
日本の常識を破壊しようとしたのは、共産主義・キリスト教・一部の宗教であった。
その為に、戦前日本では「国體の本義」を否定し破壊しようとするキリスト教などの宗教と共産主義などのイデオロギーに対する弾圧が行われていた。
戦前日本は、国権を行使して私権や個人の自由と思想信教の自由を奪っていた。
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アメリカ大権とは、日本国憲法と戦後版皇室典範・皇室経済法そして日米安保条約・日米地位協定である。
アメリカ政府は、日本政府に対して経済政策要請を強要している。
日本にはアメリカの強要に対して拒否権はない。
日本の要求が受け入れられるどうかは、アメリカの意向次第である。
日本のアメリカ依存は、対等関係でなく上下関係である。
日本がアメリカを捨てて中国共産党に接近する事は不可能であり、中国共産党への依存を強めればアメリカは日本を許さない。
日本は、食糧・物資・エネルギー(石油・ウラン・その他)をアメリカとその影響地域で購入し、通信・情報・金融・サービスをアメリカ方式を利用し、水上及び上空の交通・運輸・輸送をアメリカ軍の保護下で自由に行っている。
中国共産党・中国軍には、アメリカ・アメリカ軍の代わりはできない。
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2020年5月22日・29日合併特大号 週刊ポスト「話題の新刊 この人に訊け!
平山周吉
『皇国日本とアメリカ大権 日本人の精神を何が縛っているのか?』
橋爪大三郎 著
筑摩書房
今も日本人の思考と行動を束縛し続ける『国體の本義』とは?
戦後政治のかたちを決めた『55年体制』、戦時下に出来たとされる日本型経済システム『1940年体制』、その二つのさらなる先に『昭和10年代体制』と呼ぶべき精神体制であり、今も日本人を『束縛』しているのか。そんな重い感触を読後に残すのが橋爪大三郎の『皇国日本とアメリカ大権』である。
昭和12年(1937年)に文部省が編纂し、一般向けに出版され、中等教育では教科書として使用された『国體の本義』を本書は解読していく。一流執筆陣が、昭和の『総動員体制』を記紀神話に基づいて正当化し、敗戦までの間に200万部ものベストセラーとなり(古川隆久『建国神話の社会史』中公選書)、戦後はまったく忘れられたのが『国體の本義』である。
その難解な本文はいまなら佐藤優『日本国家の神髄』(扶桑社新書)で全文を読める。橋爪は当時の読者、とくに学生は『暗記科目』として読んだだろうと推測する。『国體の本義』は『歴史や国語や道徳や、社会経済や、思想宗教や、すべてを統合する知識である』。その記述は苦しまぎれとほっかぶりのオンパレードだが、『これが正しい』という唯一の文書ゆえ、『誰もそれを反論しない(できない)』。まるで毛沢東思想のように享受され、日本人の思考と行動に影響をの残したのではないか。
本書は後半部で、『国體の本義』の『天皇大権』が占領下に『アメリカ大権』に丸々すり替わったこと強調する。本書の読みどころだ。護憲派も改憲派もその観点から同時に厳しく批判される。
『日本が天皇大権の国であり、天皇親政になじんでいたから』、占領は成功した。アメリカの占領は『明治以来の国体の枠のなかで、行われた』。その『アメリカ大権』はサンフランシスコ講和条約と日米安保条約にかたちを変え、今も現に日本を縛っている。
『国體の本義』に戦後、正面から立ち向かった思想家がいた。三島由紀夫と吉本隆明である。二人は『国體の本義』が出た年にまさに中等教育を受ける世代なのだ」
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最高学府の帝国大学などでは、統制経済のマルクス経済学が教えられ、優秀な成績で卒業した者は革新官僚となった。
陸海軍から派遣された優秀な幕僚将校らも、マルクス経済学を学び統制派の実務中核をなした。
各種の戦争を計画して始めたのは、革新官僚や統制派幕僚将校等であった。
敗戦後、彼らはGHQの占領政策に協力し、その一部が社会党や共産党に入党した。
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万世一系の天皇を守るには、正統性を記紀神話に求めるしか他に方法がなかった。
人々が集まって作った法律による正当性は人為的に変更可能である。
だが、神話による正統性は如何に今に合わない非現実不合理非論理であっても変更不可能である。
つまり、法律に基ずく正当性は作り変える事ができるが、神話に基ずく正統性は存在するか消滅するかの二者選択しかない。
日本神話である日本書紀と古事記は奈良時代に成立したが、日本神話の源流である大地母神信仰や巨石・山岳=正三角山(富士山の形)崇拝は縄文時代まで遡る。
日本神話は、土着信仰であって宗教信仰ではない。
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軍国日本は、度重なる反天皇反日テロリストによる昭和天皇暗殺失敗事件を教訓とし、天皇や皇族の命を護り皇室の弥栄と存続の為に、日本人はもちろん日本国籍を持つ朝鮮人や台湾人に対しも皇国教育を徹底させた。
「日本は神の国である」「天皇陛下は、現人神で、絶対不可侵の尊い御方である」と。
日本に味方して援軍を派遣して助けてくれる親日知日の国は1ヵ国もなく、むしろ軍隊を送って攻めてくる国ばかりであり、日本はそうした反日敵日の国に包囲されていた。
戦前の日本が頼ったのは、諸外国による国際正義や国際信義ではなく日本国籍保有者の心・志・気概といった精神であった。
一国で世界を相手に戦う以上、日本国籍保有者に対して総動員体制を国家権力で命じた。
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日本国・日本軍・日本人は、戦争犯罪といった悪い事をしたが同時に人道貢献として人助けのいい事もした。
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国際正義や国際信義を信じるに値するかどうかといえば、「信じられない」と言うのが真実である。
何故なら、世界各地に「日本人は奴隷」という数多くの公的報告書や正式な公文書などの一級史料がありながら、今だに「日本人を奴隷として金儲けをした」「日本人女性を売春婦として売り買いした」という事実を認めないからである。
西洋から見れば、日本人はアフリカ人同様に奴隷であった。
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ウィキペディア
『国体の本義』(こくたいのほんぎ)とは、1937年(昭和12年)に、「日本とはどのような国か」を明らかにしようとするために、当時の文部省が学者たちを結集して編纂した書物である。神勅や万世一系が冒頭で強調されており、国体明徴運動の理論的な意味づけとなった。
概要
「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。」と国体を定義した上で、共産主義や無政府主義を否定するのみならず、民主主義や自由主義をも国体にそぐわないものとしている。また共産主義、ファシズム、ナチズムなどが起こった理由として個人主義の行き詰まりを挙げている。
『国体の本義』の「万世一系」論
第一 大日本国体
一、肇国
大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体明治以来の我が国の傾向を見るに、或は伝統精神を棄てて全く西洋思想に没入したものがあり、或は歴史的な信念を維持しながら、而も西洋の学術理論に関して十分な批判を加えず、そのままこれを踏襲して二元的な思想に陥り、而もこれを意識せざるものがある。又著しく西洋思想の影響を受けた知識階級と、一般のものとは相当な思想的懸隔を来している。かくて、かかる状態から種々の困難な問題が発生した。嘗て流行した共産主義運動、或は最近に於ける天皇機関説の問題の如きが、往々にして一部の学者・知識階級の問題であった如きは、よくこの間の消息を物語っている。
— 文部省、國體の本義、149-150頁
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現代の理論
特集●米中覇権戦争の行方
『国体の本義』を読みなおす
明治維新と天皇制の150年 ―4―
筑波大学名誉教授・本誌代表編集委員 千本 秀樹
1.戦後の歴史教育は皇国史観に貫かれている
2.ファシズムと闘う『国体の本義』?
3.新自由主義と闘う『国体の本義』?
4.憲法第9条と自衛隊は両立する?
5.国体は「万古不易」だったのか?
本稿と次回連載の目的は、戦後日本の歴史教育が、皇国史観に貫かれていることを明らかにすることである。こう書くと、「また千本の強引な論法が始まった」と苦笑されるにちがいない。一般的には、戦後の歴史教育は、皇国史観を克服したと思われている。はたしてそうだろうか。わたしにこの示唆を与えてくれたのは、長谷川亮一『「皇国史観」という問題』(白澤社発行、現代書館発売、2008年)である。若手研究者の学位論文で、文字通りの労作であって、わたしがいうような大それたことは言及していない。しかしわたしは、この著作から、多岐に渉る飛躍的な着想を得た。
1.戦後の歴史教育は皇国史観に貫かれている
同書の最大の功績は、皇国史観を天皇中心史観から区別したことである。これまでは、皇国史観と天皇中心史観は区別されてこなかった。皇国史観についての最もスタンダードな概説書といえる永原慶二『皇国史観』(岩波ブックレット20、1983年)でも、「(皇国史観が)もっとも徹底した形で強力におしだされてくるのは昭和に入ってからであり……1935年、『国体概念、日本精神ヲ根本トシテ学問、教育刷新ノ方途ヲ議』するため『教学刷新評議会』が設置され、ここに『日本精神主義者』の代表が総登場したといえそうである。……平泉氏をその代表的歴史家とすることは不当でないだろう」としている。
戦後の歴史教育と皇国史観の関係についても、「文部省の教科書検定の歴史観を見ると、その根底には、今なお皇国史観以来の考え方が根強く生きつづけているように思われる。……(平泉澄の弟子である村尾次郎が)1956年、教育の右旋回にともなって教科書調査官制度が発足したとき、社会科の最初の主任調査官となって今日の検定路線を打ちだした人物である……」としており、このこと自身、わたしに異議はないが、戦後の皇国史観の表出を、政権の外交姿勢や愛国心の強調に限定しており、歴史の捉え方そのものに踏み込んではいない。
永原慶二は本書で、『国体の本義』(文部省、1937年)と『国史概説』(文部省、1943年)を主要に取りあげているのだが、この2書、及び戦後歴史教育(特にその根幹をなす幕朝関係論、すなわち幕府と朝廷との関係)の3者の差異と連関についてはまったく言及していない。また平泉澄は、天皇中心史観のチャンピオンではあったが、長谷川亮一によれば、次回で後述するように、『国史概説』の編纂方針、歴史観に反対して抗議し、この事業から離脱しているのである。
長谷川亮一は皇国史観を、『国史概説』によって確立したとして、他の天皇中心史観との違いを明らかにした。『国史概説』は、社会経済史や文化史にも紙幅を割き、戦後歴史学を担った中堅・若手研究者を執筆者として総動員した、概説書としては当時の最高水準を示す成果だったのである。永原慶二は皇国史観を「非科学」と切って捨てているが、『国体の本義』はそうであるとしても、『国史概説』は政府からの制約のもとで、精一杯、科学性を確保しようとした。だからこそ、皇国史観は戦後も生き延びたのである。
長谷川のいう皇国史観の核心は、武家政治について、天皇が将軍に政治を委託したという歴史観にあるということなのだが、『国史概説』の成り立ちと、その内容の戦後歴史教育との異同については次回に取り置くとして、今回は『国史概説』に先行した『国体の本義』の内容を検討する。
1937年に文部省が刊行した『国体の本義』、1943年の『国史概説』、戦後の歴史教育は、共通する部分と、当然ながら修正された部分が存在する。『国史概説』の執筆に全力を注いだ当時の中堅・若手研究者が、戦後歴史学の中心となったとき、その歴史叙述の骨格を変えられない立場は理解できる。そこへの批判は次回に譲って、本稿では、『国体の本義』について再検討しよう。
2.ファシズムと闘う『国体の本義』?
1935年、貴族院において、東京帝大教授(憲法学)、貴族院議員の美濃部達吉の天皇機関説が問題視された。当時民政党を与党的に待遇していた岡田啓介内閣は、当初「学問の自由」を主張していたが、政権にありつきたい政友会などからの執拗な攻撃に屈し、「国体明徴」を宣言した。わたしはこの事件を明治維新後の大転換期を画する出来事だと考えているのだが、この後噴出した国体明徴運動、すなわち、日本を「神の国」だとする歴史観、国体観を理論的に裏づけるために文部省が刊行して、学校をふくむ全国各機関に配布したのが『国体の本義』である。
「国体」とは、わかりにくいことばである。大統領制や議院内閣制は「政体」であって、どの国でも歴史的に変遷する。国体とは、日本にしか存在しない概念であり、外国人には理解しにくいものである。日本にしか存在しないからこそ、日本は素晴らしい国家だということになる。『国体の本義』本文冒頭に、「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が萬古不易の国体である」とある。国体とは何かを知ろうとしてきたわたしにとっても、この規定は一言一句、過不足のない、絶妙な表現であると思う。
「万世一系」とは、天照大神以来、現代風にいえばY遺伝子で皇統をつないできたこと、「神勅」とは、『国体の本義』によれば、「我が肇国は、皇祖天照大神が神勅を皇孫ニ二ギノミコト(原文漢字)に授け給うて、豊葦原の瑞穂の国に降臨せしめ給うたときに存する」とある。「肇国(ちょうこく)」とは、「国をはじめる」という意味である。また、天皇を男系でつないできたことに意味があり、女系を認めれば、皇室が英国王室なみに格が下がるということになる。皇室が英国王室より優れているのは、女性差別をしているからである。「万古不易」とは、これまでも、これからも変わることはないということである。
『国体の本義』は、戦後GHQによって禁書とされ、歴史学界でも「天皇讃美の神がかり的な書物」としてかたづけられてきた。今ではインターネットで復刻版を手に入れられるが、書店では購入できない。『国体の本義』についての研究もほとんどなく、「新しい歴史教科書をつくる会」の杉原誠四郎元会長と保阪正康が言及した程度だった。
そこへ2009年、元外務官僚の佐藤優が『日本国家の神髄―禁書「国体の本義」を読み解く』(産経新聞出版発行、扶桑社発売)を刊行した。『国体の本義』の全文について、佐藤優の解釈を施したもので、雑誌『正論』に連載したものをまとめたものである。佐藤優によれば、『国体の本義』の目的のひとつは、日本がファシズム化することを防ぐことであり、現代に復権することの意義は、新自由主義と闘うことにあるという。佐藤優の問題意識からすれば、それは間違っていない。
もちろんわたしはファシズムとも、新自由主義とも、別の根拠と方法で闘うのではあるが。わたしの問題意識は、『国体の本義』と、『国史概説』に基く考え方が、現代の歴史教育にも生きているからこそ、佐藤優がそのように考えるということである。ここから、『国体の本義』を読み解いていくのだが、本稿の目的は本書全体を再評価することではなく、現在につながる部分を抜き出す方法で行なう。
『国体の本義』の構成は、緒言、第一大日本国体(一肇国、二聖徳、三臣節、四和と「まこと」)、第二国史に於ける国体の顕現(一国史を一貫する精神、二国土と国民生活、三国民性、四祭祀と道徳、五国民文化、六政治・経済・軍事)、結語となっている。
本書の主旨は、大日本帝国が神の国であってすばらしいということだが、本文156ページのなかに、他国を蔑視する、見下す表現が一か所もない。逆に、外来文化のおかげで日本は発展してきたという趣旨で一貫している。
緒言の冒頭は「我が国は、今や国運頗る盛んに、海外発展のいきほひ著しく、前途彌々(いよいよ)多望な時に際会してゐる。産業は隆盛に、国防は威力を加へ、生活は豊富となり、文化の発展は諸方面に著しいものがある。夙に支那・印度に由来する東洋文化は、我が国に輸入せられて、惟神(かむながら)の国体に醇化せられ、更に明治・大正以来、欧米近代文化の輸入によって諸種の文物は顕著な発達を遂げた」から始まる。
「醇化(じゅんか)」とは、国語辞典的にいえば、「まじりけのない、純粋なものにすること」ということだが、わたしの勝手な語感からいうと、「消化して血肉化すること」、さらに「手なづけること」というニュアンスがある。東洋文化を日本の国体にあわせてつくりなおしたということである。そこには、アジア諸国への敬意はあっても、蔑視はない。
一方、欧米の思想についてはどうか。「我が国に輸入せられた西洋思想は、主として18世紀以降の啓蒙思想であり、或はその延長としての思想である。これらの思想の根柢をなす世界観・人生観は歴史的考察を欠いた合理主義であり、実証主義であり、一面に於て個人に至高の価値を認め、個人の自由と平等を主張すると共に、他面に於て国家や民族を超越した抽象的な世界性を尊重するものである」、「西洋個人本位の思想は、更に新しい旗幟の下に実証主義及び自然主義として入り来り、それと前後して理想主義的思想・学説も迎へられ、また続いて民主主義・社会主義・無政府主義・共産主義等の侵入となり、最近に至つてはファッシズム等の輸入を見、遂に今日我等の当面する如き思想上・社会上の混乱を惹起し、国体に関する根本的自覚を喚起するに至つた」、「個人主義を本とする欧米に於ても共産主義に対しては、さすがにこれを容れ得ずして、今やその本来の個人主義を棄てんとして、全体主義・国民主義の勃興を見、ファッショ・ナチスの台頭ともなつた。即ち個人主義の行詰りは、欧米に於ても我が国に於ても、等しく思想上・社会上の混乱と転換との時期を将来してゐるといふことが出来る」と緒言では述べられている。
欧米がファシズムに至る行き詰まりをどうするかは別にして、日本にファシズムを輸入しようとする者がいるのは、我が国体の立場から欧米文化をきちんと醇化できなかったからであるというわけだ。佐藤優が本書の目的を「ファシズムからの防衛」と書いている理由はここにある。
『国体の本義』は、「和」を重視する。「我が肇国の事実及び歴史の発展の後を辿る時、常にそこに見出されるものは和の精神である。和は、我が肇国の鴻業より出で、歴史生成の力であると共に、日常離るべからざる人倫の道である。……個人主義に於ては、この矛盾対立を調整緩和するための協同・妥協・犠牲等はあり得ても、結局真の和は存しない。即ち個人主義の社会は万人の万人に対する闘争であり、歴史はすべて階級闘争の歴史ともならう。……我が国の和は、理性から出発し、互に独立した平等な個人の機械的な協調ではなく、全体の中に分を以て存在し、この分に応ずる行を通じてよく一体を保つところの大和(たいわ)である」。
佐藤優は、西洋では個人主義によって個人がアトム的存在に分断されているからファシズムが必要になるが、日本では和があるから、ファシズムは適合しないというのである。わたしは「日本の和は、異端分子を排除することによって、同質の者が形成する和である」と書いた(『「伝統・文化」のタネあかし』)。「日本には和が存在する」というのは、願望にすぎない。現代日本の若者のあいだでは同調圧力が強く、一人ひとりが自分の意見を言わないことによって和が維持されている。文字通り、「全体の中に分を以て存在し、この分に応ずる行を通じてよく一帯を保」っている。これが「国体」のもとでの「和」である。
日本の現状をファシズムであると主張しはじめたのは1935年の野坂参三であるが、その無理論さと杜撰さについては、神山茂夫の反論と比較して、旧稿で書いたことがある。また当時よりも、21世紀の現代の方が、ファシズムと呼ぶにふさわしいことも、本誌に執筆した。強権的な政治手法や政治体制を、なんでもファシズムと呼ぶのは科学的な態度ではない。佐藤優は、イタリアファシズムとドイツナチズムは異なっているというが、本稿では、1940年前後の日本とイタリア、ドイツとは政治・社会構造が本質的に異なっていたということだけを指摘しておく。日本は共産主義革命の前夜でもなかったし、下からのファシズム大衆運動もなかった。
『国体の本義』の姿勢は、東洋文化を蔑視するのではなく、また西洋文化を罵倒するのでもなく、それらをそれとして認めた上で、日本の国体に醇化することが必要だというものである。日本の国体はすばらしい、しかしそれは、西洋と比較してというわけではなく、本書では、日本と西洋は異なっているというところまでしかいわない。醇化が不充分だから混乱し、失敗すればファシズムに陥ると警告する。国体論を別にすれば、他文化に対する姿勢は、現代教育と共通するものがある。
5.国体は「万古不易」だったのか?
さて、本稿と次回連載の課題に戻ろう。戦後の学校歴史教育が皇国史観であり、それは『国史概説』で確立したのだが、源流は『国体の本義』にあるのではないかということだ。
『国体の本義』の「第二国史に於ける国体の顕現 一国史を一貫する精神」は、このように始まる。「国史は、肇国の大精神の一途の展開として今日に及んでゐる不退転の歴史である。……他の国家にあつては、、革命や滅亡によつて国家の命脈は断たれ、建国の精神は中断消滅し、別の国家の歴史が発生する。それ故、建国の精神が、歴史を一貫して不朽不滅に存続するが如きことはない。……国史は国体と始終し、国体の自己表現である」。問題は、建国の精神が歴史を一貫して不朽不滅に存続していたかということになる。
焦点は中近世である。「源頼朝が、平氏討滅後、守護・地頭の設置を奏請して全国の土地管理を行ひ、政権を掌握して幕府政治を開いたことは、まことに我が国体に反する政治の変態であつた。……源氏の滅後、執権北条氏屡々天皇の命に従はず、義時に至つては益々不遜となつた。依つて後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳上皇は、御親政の古に復さんとして北条氏討滅を企て給うた。これ、肇国の宏謨を継ぎ給ふ王政復古の大精神に出でさせられたのである。然るにこの間に於ける北条氏の悪逆は、まことに倶に天を戴くべからざるものであつた。併しながら三上皇の御精神は、遂に後宇多天皇より後醍醐天皇に至つて現れて建武中興の大業となつた」。戦後の教科書で育った世代には、北条氏がこれほど悪しざまに書かれていることは、珍しく思えるだろう。
次は、天皇家にとっての最大悪人の登場である。「建武中興の大業も、政権の争奪をこととして大義を滅却した足利尊氏によつて覆へされた。即ち足利尊氏の大逆無道は、国体を弁へず、私利を貪る徒を使嗾して、この大業を中絶せしめた。かくて天皇が政治上諸般の改革に進み給ひ、肇国の精神を宣揚せんとし給うた中興の御事業は、再び暗雲の中に鎖されるに至つた。……後醍醐天皇から御四代、御悲運の約六十年間は、吉野に在らせられたのであるが、後亀山天皇は、民間の憂を休め給はんとの大御心から、御譲位の儀を以て神器を後小松天皇に授け給うた」。後小松天皇は北朝で、譲位とは1392年の、現在でいう南北朝の合一である。1911年に帝国議会で南朝が正統と確認された。あくまでも、三種の神器を持っている者が天皇であって、南朝と呼ばず、吉野朝という。続けよう。
「吉野朝の征西将軍懐良親王が、明の太祖の威嚇に対して、豪も国威を辱しめられなかつた御態度は、肇国の精神を堅持せられた力強き外交であり、その後、尊氏の子孫たる義光・義政が、内、大義を忘れ、名分を紊したのみならず、外、明に対して国威を棄損した態度とは実に霄壌の差がある」。明との関係については、義満が明国皇帝から日本国王の冊封を受けた。それを「国威の棄損」と非難している。懐良親王はその前に、明の太祖から使者団を送られ、倭寇対策のために日本国王に任命されようとしたが、親王は使者団のうち5名を斬り、拒否した。そのことをここでは賞賛しているのだが、実はその後、2回目の使者が来て、親王は国王を受諾していることを本書は隠している。
ふしぎなことに、徳川家康が権力を獲得したことにはふれていない。江戸時代は、水戸学、国学などによって、尊王思想が広まって、「明治維新の原動力となつた」とする。「歴代天皇の御仁徳のいつの代にも渝(かわ)らせ給はざるは、申すも畏き御事であるが、徳川幕府末期の困難なる外交にいたく宸襟を悩ませられた孝明天皇は、屡々関白以下の廷臣及び幕府に勅諚を賜うて、神州の瑕瑾を招かず、皇祖皇宗の御偉業を穢さず、又赤子を塗炭に陥らしめぬやう諭し給ひ、特に重要政務を奏上せしめ、その勅裁を仰がしめ給うた」。
攘夷を命ずるほか、何もしなかった孝明天皇を賛美するのは、王政復古直前の天皇であるから、『国体の本義』としてはやむをえないのだろうが、この数行は、いかにも無内容である。続けて、内乱が起これば、外患、外国からの介入、場合によっては侵略が心配されたとき、山内豊信が勧めて徳川慶喜が大政奉還、王政復古となったと述べる。
先にも引用したように、本書では「中世以降の如き御委任の政治」、「中世以降絶えて久しく政体法上制度化せられなかった」という表現があったが、「肇国の精神」は継続して維持されていたのか、「萬古不易の国体」は続いていたのかということが問題になる。北条氏や足利氏は、『国体の本義』で、これほどまでに罵倒された。『国史概説』はこの課題を、どのように整理するのであろうか。
ちもと・ひでき
1949年生まれ。京都大学大学院文学研究科現代史学専攻修了。筑波大学人文社会科学系教授を経て名誉教授。本誌代表編集委員。著書に『天皇制の侵略責任と戦後責任』(青木書店)、『「伝統・文化」のタネあかし』(共著・アドバンテージ・サーバー)など。
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