✨36)─2・B─皇籍離脱に反対したGHQ「占領軍指令説」の誤謬。〜No.152No.153No.154 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2024年2月19日 YAHOO!JAPANニュース サンデー毎日×週刊エコノミストOnline「皇籍離脱に反対したGHQ「占領軍指令説」の誤謬 社会学的皇室ウォッチング!/103 成城大教授・森暢平
 「サンデー毎日3月3日号」
 ◇これでいいのか「旧宮家養子案」―第5弾―
 旧宮家皇族たちは、連合国軍総司令部(GHQ)によって皇籍離脱させられた―。この「GHQ指令説」は「事実」であるかのように拡散されている。この説は「(だから)旧宮家の子孫は皇族に復帰する資格がある」という、「旧宮家養子案」派の主張につながる。だが、歴史の細部を見ないこうした主張は乱暴である。実は日本政府のほうが離脱に積極的で、GHQがそれにストップをかけていた事実もあるからだ。(一部敬称略)
 昭和天皇の弟宮である秩父、高松、三笠の3宮家を除く伏見宮家など11宮家51人が皇籍離脱臣籍降下)したのは、1947(昭和22)年10月14日。三笠宮家の故寬仁(ともひと)が、この皇籍離脱について「GHQの圧力で皇室弱体化のため」だったとの見解を示す(『文藝春秋』2006年2月号)など、「GHQ指令説」は人口に膾炙(かいしゃ)する。しかし、実際はどうだろう。
 敗戦3カ月後の45年11月11日、『毎日新聞』が東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)らが「臣籍降下」を決意したと報じる。東久邇宮はさらに注目すべき内容を『毎日』記者に語った。
 「皇族の範囲を極めて小範囲に限定すべきで、例えば、秩父宮高松宮三笠宮様のように陛下の御肉親のみに限定して、その他の皇族は臣籍に降り、一国民として仕え奉るのがよいと思う」
 自身を含め伏見宮系11宮家は臣籍に降下することを提案したのである。11宮家の離脱を最初に言い出したのは、東久邇宮であることは疑う余地はない。
 一方、GHQは46年5月21日、日本政府に対し「皇族に関する覚書」を発し、宮家への歳費を打ち切るとともに、特権剥奪を指令した。これにより宮家皇族の資産に対して高率の財産税が課されることになった。これを機に46年夏ごろから、宮内省は宮家の皇籍離脱を具体的に検討し始める。
 実はGHQは「国民の意思によって、国会により歳費を貰(もら)うならば、異議はない」という意向を宮内省に示した(宮内省の次官、加藤進による臨時法制調査会第一部会小委員会での説明)。皇室歳費の議会による民主統制を強調しているのだ。皇族の範囲は議会、つまりは国民が決めるべきという態度である。
◇枝葉を刈るという発想 昭和天皇も推進
 これに対する宮内省の考えははっきりしていた。
 「各皇族が品位を保たれるに充分な国家支出をなすことは困難と考えられ、皇族方の共倒れを救う一つの道は臣籍降下である」(外務省「皇室に関する諸制度の民主化」)とするものだ。大きな幹を残すために「枝葉を刈る」という発想だった。
 離脱の範囲も日本側が検討した結果である。宮内省秘書課長だった高尾亮一はのち「皇族籍を離脱する線と申しますのは、非常にはっきりしておりました(略)一線をどこかに引かなくてはならないとすれば、ここの線(11宮家の離脱)以外には方法がみつからないという事情にあった」と証言する(「憲法調査会第三委員会第三回会議議事録」)。
 皇籍離脱の情報を知った民政局次長のケーディスは11月5日、法制局次長の佐藤達夫に、「現在の皇族のある方が臣籍に降下せられるとゆうことであるが、それは何時(いつ)、如何(いか)なる方法で決定せられ、又(また)如何なる理由によって決定せられたのか(略)別に反対があるわけではないが色々質問したいので近く宮内省の代表者にでも説明を聞きたい」と述べた(「内閣法関係会談要旨(第一回)」国立公文書館アジア歴史資料センター収録)。皇籍離脱に走る宮内省に説明を求めたのである。
 昭和天皇は11月29日、皇族たちに対し、「色々の事情より直系の皇族をのぞき、他の十一宮は、此際(このさい)、臣籍降下にしてもらい度(たく)」「時期は来年(47年)一月末か二月頃がよかろう」と通告した(『梨本宮伊都子妃の日記』)。昭和天皇宮内省と一体となって宮家の皇籍離脱に動いた。昭和天皇皇籍離脱を迫るGHQに抵抗したと主張する人がいるが、そうした史実は全くない。
◇新憲法施行前の離脱に待ったを掛けたGHQ
 宮内省は46年末、旧皇室典範増補を改正しようとする。なぜなら、戦前の規定では、内親王が単独で皇籍離脱ができないためだ。そのままでは夫を亡くした明治天皇内親王北白川宮房子が離脱できない。12月27日に改正がなった。
 宮内次官の加藤は46年12月27日、GHQ民政局のピークに対し、宮家皇族は日本国憲法施行の5月3日以前の離脱を切望していると述べた。宮内省は離脱を急ぐ一方、資産を失う11宮家のために離脱一時金を支給し、宮家の財政を支えるという戦略をとった。これにGHQは疑問を持った。民政局のリゾーは、日本側は「この日(5月3日)の後では、一時金支出の問題が国会の総予算の議事手続きに巻きこまれるかもしれない」という危惧があるからこそ、急いでいるとみた(『占領期皇室財産処理』)。
 GHQは、宮家が離脱するなら、帝国議会の審議を経るべきだとの意見を伝えた。日本政府がそのために用意したのが、「皇族の身分を離れる者等に対する一時金支出に関する法律案」である。47年3月7日、閣議で決まった。ところが、民政局は3月10日、法律案を承認しない旨を連絡した。宮家への歳費打ち切りを指令した前年5月の覚書との不整合を極東委員会で指摘されるのを恐れたと考えられる。法制局部長の井出成三は3月11日、民政局に出向き、「既に五月三日以前に臣籍降下せられる様、諸般の手続を進めて来て居るので、今になって一時金の支給が不可と言うことでは困る」と抗議した(『日本立法資料全集』7)。結局、予定の日程での離脱はできず、新しくできた国会で一時金の額などの議論がなされた。離脱の実現は新憲法成立の5カ月後になった。
 「旧宮家養子案」を支持する人たちは、旧皇族たちが新憲法下でも皇族の地位にあったと主張する。しかし、野に降りることが確実な旧宮家皇族に、現実の継承権があるとは当時、誰も考えていなかった。逆に言えば、旧皇族が新憲法下でも継承権があったと主張できるのは、実はGHQが5月3日以前の離脱に「待った」をかけたお陰なのである。
 (以下次号)
 本稿執筆にあたって、神崎豊「一九四七年一〇月における一一宮家の皇籍離脱」(『年報日本現代史』11号、2006年)を参照した
■もり・ようへい
 成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など
 2月20日発売の「サンデー毎日3月3日号」には、「東大『推薦』京大『特色入試』合格者出身高校一覧」「難関8国立大『推薦型・総合型』選抜結果」を掲載しています。ほかにも「介護施設スタッフに家族を大切にしてもらう秘訣」「現役最高峰の演歌歌手 天童よしみ物語(上)」などの記事も掲載しています。
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 日本民族のルーツは、数万年前の旧石器時代縄文時代である。
 日本天皇の歴史は、数千年前の弥生時代古墳時代からである。
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 昭和天皇は、神の裔でる正統な万世一系の男系父系天皇を国内外の反天皇勢力から護る事を最大の使命とし、正統天皇を後世に残す為にあらゆるモノを犠牲にした。その中には国家や国民さえもあった。
 その象徴が、三種の神器疎開であった。
 戦後日本では、反宗教無神論・反天皇反民族反日イデオロギーが浸透していた。
 日本は、戦国時代の中世キリスト教会・イエズス会修道士会による宗教侵略、江戸時代後期のロシアによる軍事侵略、大正時代の共産主義者によるイデオロギー侵略に晒されてきた。
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 32年テーゼ
 1932年5月コミンテルン執行委員会西ヨーロッパ・ビューローによって決定された「日本における情勢と日本共産党の任務に関する方針書」のこと。日本の支配体制を絶対主義的天皇制とみなし,きたるべき日本革命は天皇制を打倒し,地主制を廃止するブルジョア民主主義革命であり,社会主義革命はその次の段階とする二段階革命論の立場を明確にした。日本では河上肇翻訳で同年7月 10日『赤旗』特別号に掲載され公にされた。同種のものには 27年,31年のものがある。これらのテーゼは当時の日本の経済理論,社会主義運動理論に大きな影響を与え,活発な論争を引起した。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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2017-09-28
✨21)─1─昭和天皇は、原爆は非人道的大量殺戮兵器であるとして開発中止を厳命した唯一の国家元首。~No.89No.90No.92・ @ ⑰ 
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 昭和天皇は、親ユダヤ派、差別反対主義者、避戦平和主義者、原爆は非人道的大量虐殺兵器であるとして開発中止を厳命した反核兵器派、難民・被災者・弱者などを助ける人道貢献を求め続け、戦争には最後まで不同意を表明し、戦争が始まれば早期に講和して停戦する事を望むなど、人道貢献や平和貢献に努めた、勇気ある偉大な政治的国家元首・軍事的大元帥・宗教的祭祀王であって戦争犯罪者ではない。
 同時に、日本の歴史上最も命を狙われた天皇である。
 昭和天皇や皇族を惨殺しようとしたのは日本人の共産主義者無政府主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストであった。
 昭和天皇は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本のマルキシズムボルシェビキ、ナチズム、ファシズムの攻撃・侵略から日本の国(国體・国柄)・民族・文化・伝統・宗教を守っていた。
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 昭和天皇「本土決戦を行えば、日本民族は滅びてしまう。そうなれば、どうしてこの日本という国を子孫に伝えることができようか。自分の任務は祖先から受け継いだ日本を子孫に伝えることである。今日となっては、一人でも多くの日本人に生き残ってもらいたい、その人たちが将来ふたたび立ち上がってもらう以外に、この日本を子孫に伝える方法はない。そのためなら、自分はどうなっても構わない」(1945年8月10日聖断)
 天皇にとって民(日本民族)は「大御宝(おおみたから)」である。
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 天皇の意思は「大御心(おおみこころ)」で、民は「大御宝(おおみたから)」として、天皇日本民族は信頼という硬い絆で結ばれていた。
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 軍国日本と陸軍は、ヒトラーナチスから逃げてきたユダヤ人難民を助け、アメリカ・イギリス・ソ連が見捨てたユダヤ人難民を守っていた。
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 靖国神社の心・志・精神とは、人道貢献と平和貢献の事である。
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 歴史的人道貢献とは。昭和天皇A級戦犯である東条英機松岡洋右松井石根らは、ソ連ポーランド侵略から逃げてきた数万人のポーランドユダヤ人を保護し、ナチス・ドイツゲシュタポと日本人の反ユダヤ派、親ドイツ派の上海ホロコーストを阻止しユダヤ人難民数万人を敗戦後まで守り続けた。
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 昭和天皇の平和貢献とは、戦争には不同意であったが政府と軍部が決定すれば裁可するが、戦争が始まれば早期に講和を行って戦争を止める事を求め続けた。
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 日本国内には、天皇制度を廃絶しようとしている反天皇反民族反日的日本人達が超エリート層の高学歴の知的エリートや進歩的インテリに数多く存在している。
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 現代の日本人、政治家・官僚・学者そしてメディア関係者も誰も重大問題とはせず、沈黙、つまりは黙認している。
 現代の学校歴史教育では、昭和天皇が行った数々の歴史的偉大な功績は否定され抹消されている。
 つまり、生徒・学生で昭和天皇は嫌いが大多数で、昭和天皇が好きだという子供は異常・おかしいとされている。
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 昔の日本人は、戦場で人殺しの戦争犯罪を行ったが、同時に戦場で人助けの人道貢献や平和貢献を行った。
 現代の日本人は、戦争犯罪を行わないが、人道貢献や平和貢献も行わない。
 事実、中国共産党ウイグル内モンゴルチベットで行っている人道に対する犯罪であるジェノサイドから目を逸らしている。
 興味も関心もないと公言する親中国派・媚中派の政治家や官僚が存在する。



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 世界に誇る皇室の伝統を守り伝えよう
 皇室の伝統を守る国民の会【公式】
 私たちは、皇室の伝統的な男系継承を確保する「養子案」の早期実現を求める活動を進めています
 解説資料⑫旧宮家皇籍離脱には、GHQによる皇室に対する圧迫があった
 2021.02.112022.10.29
 解説資料 GHQ旧宮家皇籍離脱
 旧宮家には皇室及び国の経済支援の停止・高額の財産税が課せられた
 政府資料「戦後、皇室の財産について採られた措置」(平成17年小泉内閣において設置された「皇室典範に関する有識者会議」に対し政府が作成提出した資料)

○各宮家に贈賜されていた歳費等の打切り
 皇室から各宮家に支給されていた歳費が昭和21年5月で打ち切られたこと
 日本国憲法施行後は国庫から皇族費を支出することになったが3直宮家(註:秩父・高松・三笠3宮家)の年額による皇族費のみが予算に計上され、11宮家には予算が計上されなかったこと
○皇室財産の廃止・縮小
 昭和22年3月31日までに、皇室及び各宮家の財産に対して、財産税および戦時補償特別税が課税され、その結果約89%が納付されたこと。
 (註)これらを紹介したあと、政府提出資料は「以上のような皇室財産等に係る措置の背景には、連合国最高司令官総司令部GHQ)の方針があった。」と指摘している。
 (資料2)昭和22年10月の皇籍離脱について(PDF)
 GHQは3直宮家のみ存続を認める方針だった
 木下道雄元侍従次長『側近日誌』昭和21年1月1日記事
 「下記はDyke(註 ダイク)の意見を聞き書きしたもの。……今上天皇及び男子ご兄弟御三方の皇族としての已存権を確認す。」
 ※ダイクGHQ民間情報教育局長は、天皇陛下および秩父・高松・三笠3宮家の存続を認める、との意見を述べていた。
 日本側は皇室の共倒れを防ぐには11宮家の臣籍降下を行うしかないと判断
 外務省特別資料部第1課「皇室に関する諸制度の民主化」(昭和23年10月作成)
 〝
 「(皇室の)財産上の特権が剥奪され、財産税が徴集せられ、継続的収入の途が杜絶され、且つ皇族費は国費として計上されるとしても各皇族が品位を保たれるに充分な国家支出をなすことは困難と考えられ、皇族方の共倒れを救う一つの道は(11宮家の方々の)臣籍降下である。」
 (出典「世界に誇る皇室の伝統を守り伝えよう!」リーフレット、令和3年2月11日、皇室の伝統を守る国民の会)
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 筑摩書房
 マッカーサーが仕掛けた時限爆弾と皇統の危機
 笠原英彦
 二〇〇四年に小泉内閣皇室典範改正の意向を表明したことで、マスコミや論壇で改正の賛否をめぐり激論が交わされたのは記憶に新しい。しかし周知のとおり、二〇〇六年の秋篠宮紀子妃のご懐妊を機に、小泉首相皇室典範改正法案の通常国会提出を見送った。秋に無事悠仁親王が誕生すると、皇位継承をめぐる議論は一気に沈静化した。
 いま、時間の経過とともに皇室典範をめぐる議論を冷静に振り返ると、なぜ皇室典範の改正が必要になったのか、原点に立ち返って再検討する必要に気がついた。
 そもそもの原因は、マッカーサー率いるGHQの占領改革にある。マッカーサー華族制度の廃止、一四宮家のうち直宮(昭和天皇の兄弟)を除く一一宮家五一方の皇籍離脱を命じたのである。大正時代以来批判の多かった側室制度の廃止により、明治天皇大正天皇のような庶子皇位継承権も消滅していた。にもかかわらず、「男系の男子」にのみ皇位継承資格を限定する旧皇室典範以来の原則はそのまま維持されたのである。
 戦後まもないこともあり、「国体の護持」を至上命題とする日本政府は天皇制の存続や昭和天皇の免責に安堵し、米国政府やGHQの意向を踏まえマッカーサーにより周到に仕掛けられた皇統断絶という時限爆弾の存在を見逃したのである。
 筆者は二〇〇一年に『歴代天皇総覧』(中公新書)を公刊し、日本における皇位継承の流れを追い、皇統断絶の危機に気づいた。側室制度の廃止、戦後の一一宮家の皇籍離脱という厳しい条件の下でなお、皇位継承資格を「男系の男子」に限定するのは無理がある。そこで、二〇〇三年『女帝誕生』(新潮社)を出版して警鐘をならしたのである。
 二〇〇四年になり、ときの小泉首相皇室典範改正に取り組む姿勢を示したのには、さすがに驚いた。二〇〇一年一二月に皇太子夫妻のもとに敬宮愛子内親王が誕生したことがきっかけとなったのであろう。
 その後、小泉首相の私的諮問機関である「皇室典範に関する有識者会議」が設置されるに及んで、宮内庁の準備したたたき台が「女性・女系天皇容認」であることが明らかになってきた。上記の拙著では、いったん女性天皇を容認すると女系天皇も容認せざるをえなくなると指摘した。過去の女帝は寡婦か未婚者であったが、当節女性天皇に独身を強要することを国民世論は認めないであろう。
 皇位継承を初めて法定した明治の旧皇室典範の起草に際しても、女系継承が提案されたが、井上毅らの強硬な反対により退けられた。女系継承を容認した草案を手にした当時の最高実力者、伊藤博文も、女帝の配偶者を規定した草案の第一三条に目を止め、自ら「第一三条難解」と朱筆を入れている。  小泉内閣下の議論でも、女性天皇の配偶者をいかに規定されるかが注目された。戦後、華族制度が廃止されたから、もはや配偶者を供給する皇配族が現代の日本には存在しない。
 あくまで男系維持を主張する人々は旧皇族の復帰や養子の解禁を主張する。旧皇族皇位継承資格者の供給源として余りに小さすぎると筆者は考える。なぜサンフランシスコ講和条約の発効後、政府は旧皇族を直ちに皇籍復帰させなかったのであろうか。明らかに、当時の政府の不作為は厳しく問われねばならない。
 現行の皇室典範を放置したまま、悠仁親王の成長を待つ間に、愛子内親王も含め、宮家の内親王や女王は婚姻のため次々と皇籍離脱する可能性がある。宮家の縮小は皇統存続にとって致命的である。もはや男系か女系かに議論を矮小化している場合ではない。象徴天皇制の下、日本人の精神的支柱である日本の皇室を守れるか否かは日本国民の主権者意識にかかっている。
 (かさはら・ひでひこ 慶應義塾大学教授)
 象徴天皇制皇位継承
 笠原 英彦 著
 詳細へ
 定価735円(税込)
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 2023年6月28日 Zzakzak by夕刊フジ葛城奈海 戦うことは「悪」ですか
 皇位継承問題を先送りにするな 国会での議論進まず先にLGBT法が成立 旧宮家皇籍復帰が突飛な話ではない理由
 皇位継承に関する有識者会議の清家篤座長(左)から報告書を受け取る岸田首相=2021年12月、首相官邸
 LGBT理解増進法成立により、初代神武天皇以来、2000年以上も「万世一系」で受け継がれてきた皇統が断絶する危険性が高まったことは昨日述べた。
 悠仁親王殿下と同世代の男性皇族がいないことから、皇統が先細りして、いずれ断絶する危険性があることは、従前から指摘されてきた。
 だからこそ、筆者が会長を務める「皇統(父系男系)を守る国民連合の会」では、「GHQ(連合国軍総司令部)により皇籍を剝奪された旧11宮家の中から、然るべき男系の御子孫の方々に皇籍復帰をお願いし、その方々と現宮家との養子縁組を実現すること」を求めて来た。
 こうした訴えに対し、「戦後75年以上も一般国民として過ごしてきた方々は俗世にまみれていてふさわしくない」という意見がある。しかし、旧11宮家の方々は、皇籍離脱された1947(昭和22)年の5月3日に施行された日本国憲法および皇室典範の下でも約5カ月間、皇位継承資格を有していた。
 その後も、皇族と旧皇族の親睦団体である「菊栄親睦会」に参加されており、「いざというときには皇室をお支えする覚悟」をお持ちだと言われている。
 歴史上にも皇統の危機は何度もあった。
 最も極端な例では、25代武烈天皇は跡継ぎ不在のまま崩御し、身近に皇位継承資格者が存在しなかった。このため、応神天皇まで5世遡(さかのぼ)り、そこから5世子孫で越前におられた方をお迎えした。それが26代継体天皇だ。実に、10親等も離れた継承だった。その後も、8親等離れた継承が2度、7親等離れた継承が1度行われている。
 臣籍から皇籍復帰して即位した先例もある。
 57代陽成天皇には後継者がおらず、大叔父である光孝天皇が55歳で即位した。自分の子が皇位に就くことはないと思った58代光孝天皇は、26人の皇子皇女を臣籍降下させたが、適任者が見つからず、皇子の一人を皇籍復帰させて即位したのが59代宇多天皇だ。
 また、その子である醍醐天皇は臣籍として生まれたが、父の即位に伴って皇族になり、その後、即位した。
 こうした史実を知れば、旧宮家皇籍復帰が決して突飛な話ではないことをお分かりいただけるのではあるまいか。
 皇位継承に関する有識者会議の最終報告書が提出されてからはや1年半。国会での議論が進まないなか、先にLGBT法が成立してしまった。岸田文雄首相は今年2月、自民党総裁演説で「(皇位継承策について)先送りの許されない課題であり、国会における検討を進めていく」と語っている。慎重かつ着実な有言実行を望む。 
葛城奈海(かつらぎ・なみ) 防人と歩む会会長、皇統を守る国民連合の会会長、ジャーナリスト、俳優。1970年、東京都生まれ。東京大農学部卒。自然環境問題・安全保障問題に取り組む。予備役ブルーリボンの会幹事長。著書・共著に『国防女子が行く』(ビジネス社)、『大東亜戦争 失われた真実』(ハート出版)、『戦うことは「悪」ですか』(扶桑社)、『日本を守るため、明日から戦えますか?』(ビジネス社)。
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 2021年1月9日 サイゾーウーマンコラム「日本のアウト皇室史没落した宮家の地獄
 コラム 【連載】堀江宏樹に聞く! 日本の“アウト”皇室史!!
 皇族身分を失い、没落した“宮家”の地獄――悲しき妃殿下の「アアこれで万事休す」告白
 堀江宏樹(作家・歴史エッセイスト)
 日本のアウト皇室史
 皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます! 
 前回まで――「美しすぎる宮妃」として戦前に人気を博した梨本宮伊都子さん。妃殿下の職務として「看護婦業務」に並々ならぬ情熱であたり、子育てのほうもプリンセスが2人お誕生になられました。そのプリンセス、方子女王は朝鮮王朝へと嫁ぎ、規子女王は結納を交わしたお相手から婚約破棄されるという憂き目に遭ったものの、名家へ嫁がれました。しかし、その後、第二次世界大戦の訪れにより、梨本宮家は崩壊を免れず……。
 梨本宮家の没落
 堀江宏樹氏(以下、堀江) 第二次世界大戦中(1939-45)の梨本宮伊都子さまは、還暦前後のご年齢ながら、婦人雑誌のグラビアに生活のご様子が取り上げられたり、愛国婦人たちから人気者でした。とくに戦争初期は、東京での生活にさほど大きな影響はなく、充実した日々を過ごしておられたご様子です。梨本宮様も軍人としての活動に邁進されておられました。
 しかし……次第に戦局は日本に不利なように傾きはじめ、やがて敗戦の時を迎えることになってしまいました。ここから梨本宮家の地獄がはじまるのです。
――地獄、ですか……。
 堀江 東京は空襲が相次ぎ、梨本宮邸はもちろん、各宮家の屋敷(東京の李王家の屋敷を含む)はすべて全焼という惨事に見舞われるのです。戦前にはあれだけ潤っていた梨本宮家ですが、終戦の頃には食べる物にさえ事欠くようになっています。
 梨本宮家は富士山ちかくの河口湖畔に別邸があったので、そこに疎開するのですが、なんとその周辺にも空襲警報が多発、強気な伊都子さまもついに「老人になってからこんな目にあふとは」と、嘆き節を日記に書きつけることになりました。
――庶民の625倍の生活費を持っていても、戦争で苦しむことになるんですね……。
 堀江 1945年(昭和20年)8月15日、日本は運命の敗戦を迎えますが、昭和天皇による「玉音放送」を聞いた感想を伊都子さまは衝撃的な言葉で日記に記しました。
 「アアこれで万事休す。(敗戦に打ちひしがれているだけでは)昔の小さな日本になってしまふ。これから化学を発達させ、より以上の立派な日本になさねばならぬ」というあたりは前向きでよろしいのですが、生命をかけて戦ってきたのに敗北した兵士の方々、その家族の無念を思うと、「どうしてもこのうらみは はらさねばならぬ アアアアーーーー(読みやすいように調節したが、だいたい原文ママ)」。
――なかなかに過激なお言葉ですが、リアルですね。
 堀江 こういう率直なところが伊都子さまの魅力であると同時に、彼女の日記全文が活字として刊行されていない理由ではないかな、と思ったりもしますが。
 おまけに梨本宮さまは戦後すぐに、GHQから巣鴨勾留所まで出頭命令が出されていますし、ようやく戻ってこられたと思ったら、今度は皇族の身分を失う「臣籍降下」が待っていました。極めつけは巨額の財産税を課されたことですね。だいたい全財産の4分の3くらいの額を現金で納入せねばならなくなるのですが、このために焼け残った河口湖の別邸などの不動産や、蔵を埋め尽くしていた財宝や文物のほとんどすべてを売り払うハメになりました。
 戦前、庶民の625倍の豊かさで生きてこられた梨本宮家です。老齢になってから、いわゆる戦後成金に財産を買い叩かれるのは、これまでの人生を否定されるに等しく、屈辱以外の何者でもなく、ついつい日記にも過激な表現が並ぶようになります。
 「ここにも敗戦のみぢめさをひしひしとこたへる(1946年/昭和21年7月29日)」
 「(買い叩きに来た戦後成金の夫婦の姿を確かめようと)私はそっと窓のところからみていたら、主人は大きい人、妻はやせた小さい人にて(肺病でも出そうな形)(略)あんな人が富士の別荘に入るのかとおもふと(略)いまにバチがあたる(同年7月31日)」。
憐れに思った昭和天皇が下着を差し入れ
――悔しいのはわかりますが、「バチがあたる」かぁ(苦笑)。
 堀江 「貧すれば鈍す」などとも言いますが、あれほど仲がよかった夫の(元)宮さまとの夫婦関係も悪化したまま、老老介護の様相まで呈して来ます。
 「御湯なども、そばについていないと、あぶなくてならない。何かにつけて、それはそれはやかましい(1947年/昭和22年1月12日)」とか。痛ましいことですが。
――伊都子さまが老老介護かあ。使用人の数も足りなくなっているのでしょうね。美輪明宏さんが、人生は「正負の法則」に貫かれている、すごく幸せなことがあると、それと同じだけ不幸なことがあることも覚悟しなさい、って言ってたのを思い出しました。
 堀江 そう。「早く死に度(た)い(1947年/昭和22年1月16日)」との言葉も飛び出していますね。この年の3月、財産税を梨本宮家では納め終えたのですが、同年10月には「臣籍降下」、つまり皇族としての身分を失う大事件が起き、さらにその翌日、蔵に残ったわずかな品物までが盗まれるという事件も起きました。
 それも、伊都子さまの夫である(元)宮さまの「背広」などだけでなく、毛糸で編まれた冬用の下着、靴下、シャツ、パジャマなどがまるごと盗まれるという悪質なものでした。憐れに思った昭和天皇が、自分の下着を届けてくれるなどして急場をしのぎましたが……。
――昭和天皇から下着の差し入れですか!? 皇族の身分を失い、毛糸のパンツすらも失って、まさに没落ですね……。
 堀江 非常に寒々しい(笑)。まさに「斜陽族」ですよ。1950年(昭和25年)のお正月には伊都子さまの目前で(元)宮さまが昏倒なさいます。お正月、それも早朝のことで医者を呼んでも来てくれないまま、静かに亡くなってしまうという悲劇でした。梨本の(元)宮さまは、明治以降の皇族ではじめて火葬になった方としても知られますね。
 また、伊都子さまのお名前は、1958年(昭和33年)に巻きおこった「ミッチーブーム」の熱心すぎる「アンチ」として一部には有名かもしれません。
 皇太子殿下(現・上皇さま)と、美智子さま(現・上皇后さま)のご結婚に真正面から伊都子さまは反対なさっていた有力者の一人なわけですが、彼らがご結婚を批判した理由の一つが、は身分云々の問題より、実際のところ、「嫉妬」ではないかと僕は思ったりするのです。
――美智子さまに嫉妬ですか。面白くなってきました(笑)。
 堀江 昭和天皇の皇后だった良子(ながこ)さまが、ミッチーに激怒した理由のひとつとして伊都子さまが記したお言葉があります。まとめると「私(=良子さま)の結婚の時に使われた馬車は四頭立てだったのに、彼女(美智子さま)が使う馬車は六頭立て」というお言葉なんですが、ここに「すべて」が現れていると思うのですね。
 美智子さまのご実家である正田家は「日清製粉」の経営者一族です。戦後、ますます成功しつつあった大実業家です。そんな実家を持つ美智子さまのお姿は、戦後、財産も名誉もほとんどすべてを失い、存在を否定されたに等しい旧皇族・旧華族にとっては、あまりに妬ましく見えたのではないかな、と。
 「皇后になる可能性まで、あなたは我々の手の中から奪っていくのか」という恨みですね。
 ミッチー批判の奥底に眠る感情
――良子さまのご実家・久邇宮家も戦後、臣籍降下させられ、巨額の財産税で身ぐるみを剥がれてしまったお家でしたよね。
 堀江 そうなんです。昭和天皇美智子さまとの結婚を肯定して以来、伊都子さまは美智子さまへの批判をやめたとされますが、自分のミッチー批判の奥底に眠る感情が嫉妬であると気づいたからではないかな……。もしくは、そう他人に思われても仕方ないと思ったからかな、などとも考えてしまうのですね。
 また、こうした女の嫉妬以上に、ミッチー批判の理由として重大だったのは、日本が戦争に敗れ、かつての身分制もひっくり返ったのは、「神の怒り」ではないかという恐れだったのかもしれません。これについてはまた次回以降、お話ししていきたいと思います。
 さて、美貌と知性、そして強気な態度で、世界中の王室にもその存在を知られた梨本宮伊都子さまの足あとをたどってきました。
 戦後の伊都子さまの零落ぶりはたしかに悲しいものでした。あれだけ大邸宅に暮らしていたというのに、娘の方子さま曰く「池のほとりの小さな家」で晩年を生活することになっても、自分の幸せを趣味の和歌の世界などに求めつづけ、1976年(昭和51年)に数え年で95歳で亡くなるまでの長い時間を、それなり以上に元気に過ごされました。
 そういう伊都子さまを筆者はやはり素敵な方だと思うのです。
――次回からは「女官」をテーマに始まります!
 堀江宏樹(作家・歴史エッセイスト)
1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『眠れなくなるほど怖い世界史』(三笠書房)など。
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 2021年6月21日 高森明勅「被占領下の旧宮家皇籍離脱貞明皇后が是認された理由
 いわゆる旧宮家は男系の血筋では、天皇からの血縁はすこぶる遠い(男系の血筋で言えば、江戸時代に後陽成天皇の皇子が養子に入った近衛家や、東山天皇の孫が養子に入った鷹司家の方が、
 天皇との血縁は遥かに近い)。
 その為、当の旧宮家の方々ご自身からも、皇籍離脱の声が挙がっていた。
 「伏見宮系の皇族にもこのこと(血縁の遠さ)を自覚する者がおり、山階宮晃、小松宮彰仁、東久邇宮稔彦などは、それを理由にした皇族の臣籍降下皇籍離脱)を主張したことがある」
 (浅見雅男氏・岩井克己氏『皇室150年史』)。
 被占領下の昭和22年に、血縁の遠い11宮家の皇籍離脱が行われたのは、それが別の形で実現したとも言える。
 《これでいいのです》
 その旧宮家皇籍離脱に際し、宮内府(後の宮内庁)の皇太后職の庶務課長兼会計課長だった筧素彦氏が、当時、皇太后であられた貞明皇后大正天皇の皇后)に「まことに恐れ入ったことで」と申し上げたところ、以下のようなご感想をお述べになった。
 「これでいいのです。明治維新この方、政策的に宮さまは少し良すぎました」
 (筧『今上天皇と母宮貞明皇后』)と。
 貞明皇后がこのようなご感想を述べられた背景には、戦前、傍系宮家の皇族が増え過ぎたこともあり、皇室の尊厳を損ないかねない不行跡がしばしば見られた事実があった。
 《身をお慎みになって…》
 当時、宮内次官だった加藤進氏が、皇籍を離脱される方々に次のように申し上げた。
 「万が一にも皇位を継ぐべきときがくるかもしれないとの御覚悟の下で身をお慎みになっていただきたい」(『祖国と青年』昭和59年8月号)と。
 これは率直に言えば、従前の不行跡による懸念があった為だろう。
 昭和27年にサンフランシスコ講和条約が発効して、わが国が国際法上、独立を回復して以降も、それらの方々の皇籍復帰を求める国民の声は挙がらなかった。
 一方、「身をお慎みになっていただ」けなかった事例がいくつもあったのは、残念だ。
 いずれにせよ、当事者の方々は既にご高齢になられ、或いは亡くなられて、もはや「万が一」の場面もとっくに過ぎ去った。
 《君臣の分義を厳かに守るために》
 戦後の神道界、右翼・民族派の最大の思想家と呼ばれた葦津珍彦氏は、旧宮家について以下のように断言されている。
 「その事情の如何に拘らず、一たび皇族の地位を去られし限り、これが皇族への復籍を認めないのは、わが皇室の古くからの法である。
 …この法に異例がない訳ではないが…この不文の法は君臣の分義を厳かに守るために、極めて重要な意義を有するものであつて、元皇族の復籍と云ふことは決して望むべきではない」
 (『天皇神道憲法』昭和29年)と。
 現在の皇室典範でも、その趣旨を忠実に踏襲している。
 皇室と国民を厳格に区別し、皇室それ自体の「聖域」性を守る為に、一旦皇籍を離れられた方及びその子孫は、二度と皇族の身分に戻れないルールになっている(第15条)。
 《拒否反応がある》
 更に、香淳皇后昭和天皇の皇后)のご実家に当たる久邇家の当主で、旧宮家系の人々を代表するお立場にあり、伊勢神宮の大宮司神社本庁の統理などを歴任された久邇邦昭氏(勿論、元皇族であられた)は、ご自身の著書の中で次のように語られた。
 「旧皇族をまた皇籍に戻すべきだという意見もあるようだが、私はこれについては、『何を今さら』というのが正直なところ本心だ。…皇籍に復して国民の貴重な税金をいただくのには拒否反応がある」(『少年皇族の見た戦争』平成27年)と。
 これが当事者として当たり前の感覚だろう。
 ー以上、旧宮家を巡る初歩的な事実を、おさらい的にいくつか取り上げた。
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