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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
戦後民主主義教育における日本人戦争犯罪史観の歴史教育を受けたいる現代日本人と戦前の愛国教育における皇国史観の歴史教育を受けてきた昔の日本人は、別人であり、お互いに相手の事が理解できない。
その象徴が、現人神天皇像と靖国神社参拝である。
現代日本人には、戦前・戦中を語る資格はない。特に、エセ保守とリベラル左派はそうだと言えるし、彼等が推薦する反天皇反民族反日イデオロギー信奉者である「戦争の語り部」の話は聞くに値しない。
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2024年2月12日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「あらゆる激戦を生き抜いた「日本海軍有数の戦闘機乗り」が語った「戦後世代の人には理解できない気持ち」
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私が2023年7月、上梓した『太平洋戦争の真実 そのとき、そこにいた人は何を語ったか』(講談社ビーシー/講談社)は、これまで約30年、500名以上におよぶ戦争体験者や遺族をインタビューしてきたなかで、特に印象に残っている25の言葉を拾い集め、その言葉にまつわるエピソードを書き記した1冊である。日本人が体験した未曽有の戦争の時代をくぐり抜けた彼ら、彼女たちはなにを語ったか。
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【写真】敵艦に突入する零戦を捉えた超貴重な1枚…!
日本海軍有数の戦闘機乗り
昭和17年、妻・くま子と結婚記念写真
角田(つのだ)和男は、ラバウル、硫黄島、フィリピン、台湾と、投入された搭乗員のほとんどが戦死する激戦を戦い抜いた、日本海軍有数の戦闘機乗りである。本人が当時つけていた日記によると、単独で撃墜した敵機は13機、協同撃墜は約100機にのぼる。
そんな角田でも、昭和17(1942)年8月7日、初めてラバウルで米軍の大型爆撃機・ボーイングB-17爆撃機を邀撃(ようげき)したときには膝がガクガク震えて困ったという。
第二航空隊(同年11月1日、第五八二海軍航空隊と改称)の一員としてラバウルに進出した角田は、空戦に、あるいは味方輸送船団の上空直衛にと、風土病のマラリアを発症しても休む間もないほどの出撃に明け暮れた。日本海軍は、それまで少数精鋭主義を貫いてきたため、搭乗員の絶対数が少なく、戦争が始まって急速養成されるようになったものの、補充が消耗に追いつかない。なかでも1年に数名から10数名しか養成してこなかった戦闘機隊の士官搭乗員の不足は深刻で、本来ならば古参の大尉か少佐が率いるべき零戦36機の大編隊を、飛行兵曹長(准士官)の角田が率いて飛ぶこともあった。
新任中尉の分隊長が名目上の指揮官として出撃するときも、基地を発進すれば中尉は角田機の一歩後ろに下がり、階級が下の角田が編隊の先頭に立って事実上の指揮官を務める。その働きぶりは、まさにソロモン方面の海軍戦闘機隊の屋台骨を支えているといって過言ではなかった。
角田の言葉で私の印象に残ったことがいくつかある。ひとつは慰安婦との心のふれあいである。
「いまさら生きて帰れない、戦死したい」
昭和18年はじめごろ、ラバウルにて。左端が角田飛曹長
日本海軍の一大拠点であったラバウルには、戦闘部隊だけでなく病院や慰安所の施設も完備していた。
「慰安所は士官用、下士官兵用と分かれていて、士官用の慰安婦はたいてい日本人でした。日本人は沖縄の人が多かったんですが、下士官兵用の多くは、業者に連れられて朝鮮から来た女性でした。慰安婦はみんな若いですよ。数え年で17、8ぐらいですか。20歳という人が最高でしたね。
法律的なことは知りませんが、本人たちは、戦死したら特志看護婦として靖国神社に祀ってもらえると言っていました。そういうふうに教えられていると。だから、空襲があっても防空壕に入らない子もいたんです」
角田は、「天皇陛下のために兵隊さんの奥さんの代わりを務めようと決心しました」と健気に語る朝鮮半島出身の若丸という慰安婦が、
「いまさら生きて帰れない、戦死したい」
と言って空襲があっても防空壕に逃げようとしないのに同情し、
「天皇陛下のためにとこの道を選んだ少女がいるのなら、万一の場合は陛下に代わって、お詫びの印に死んでやろう」
と、空襲下、若丸とともに防空壕に入らず一夜をともにしたことがある。若丸は、「今日は爆弾が当たる、当たる」と歌うように口ずさみ、「神様、仏様。どうか爆弾が当たりますように」と祈りながら角田の胸に顔を埋めた。角田は、この子の運命がなんとかならないものかと考えながら、「当たれば仕方がないが、なるべく爆弾は当たりませんように」と祈ったという。彼女がその後どうなったか、生きてラバウルを出ることができたかどうかさえ、角田には知るすべがない。
「金は、確かに儲かるんですよ。昭和18(1943)年当時で、若い子たちがそれぞれ2万か3万円ぐらいの郵便貯金を持っていました。内地で1000円もあれば家が建った時代、少尉の給料が月70円だった頃のことです。内地に帰れば横浜あたりで店でも開くには十分な資金でしたが、あの子たちにそんな経営能力があったかどうか……」
「地獄の底までついて来い!」
昭和19年5月、三沢基地で。硫黄島に進出前の角田
二つめは、「死ぬのが怖くなった」と、飛行場に出てこなくなった中堅の下士官搭乗員のことである。
戦闘機乗りも人の子だから、死ぬのが怖いのは当然だ。ふだんは使命感や敵愾心で死の恐怖を打ち消し、明るく朗らかに振る舞っていても、次々と戦友たちが死んでゆくのをまのあたりにするうち、ふと恐怖が頭をもたげてくる。
角田の部下だった松永一飛曹も、そんな一人だった。本来ならば3機小隊の二番機、三番機を務める程度の飛行時間しかないのに、ベテランが次々と戦死してゆくために経験の浅い松永が9機編隊の中隊長を務めることさえあり、彼はその重圧に耐えられなかったのだ。若い搭乗員たちが角田のもとにやってきて、松永が、飛行機に乗るのが嫌になった、搭乗員を辞めたい、仲間の顔を見るのもつらいと言って部屋に引きこもっているという。 角田はわざと朗らかに話しかけて松永の心をほぐし、
「そう簡単にアメちゃんに墜とされてたまるか。閻魔の関所は俺が蹴破る。地獄の底までついて来い!」
と気合いを入れた。松永は角田の言葉に持ち前の明るさを取り戻したが、次の出撃で、艦上爆撃機隊を敵戦闘機から守ろうと、勇敢にも単機でF4Uコルセア15機の編隊に挑み、撃墜されて戦死した。角田にとって、悔やんでも悔やみきれない出来事だったという。
胸のふくらむ思い
昭和17年8月、ニューギニア・ブナで空戦中被弾した角田の乗機・零戦三二型(Q-102)はその後、現地に放置され、のちに米軍に鹵獲された
三つめは、角田自身が経験した「胸のふくらむ思い」について。
昭和18年2月上旬、ガダルカナル島からの撤収作戦が極秘に進められていた頃のこと、角田は輸送船団の上空哨戒指揮官を命じられた。日中、敵機は切れ目なく船団を攻撃にやってくる。そして――。
「爆弾を積んだグラマンF4Fが20数機で攻撃に来ました。部下たちは先ほど来襲した敵機を深追いして、味方船団上空には私1機しかいない。それで爆弾を命中させないためには、敵の注意を全部、自分に向けさせなくては、そう思って、単機で下から突っ込んでいった。すると案の定、ガンガン撃ってきました。被弾すると、エンジンの爆音のなかでも聞こえるぐらい、大きな音がするんです。
――撃たれたときは嬉しかったですね。よし、これで俺の作戦は成功したと。敵機F4Fは射撃しながら爆撃の照準はできませんから、輸送船には一発の爆弾も当たらなかった。ガンガン撃たれながら、それまで固くなっていたのが、フワーッと胸がふくらむ思いがしました。
私は、胸がふくらむ経験をしたのはそのときだけでしたが、のちの特攻隊員も、命中した人たちは同じ気持ちだったろうと思うんです。それまでは怖れて体を固くしてるでしょうが、よし、これで命中するぞと、何秒か前にはわかると思う。そのときはおそらく胸をふくらませたんじゃないか。それが自分の経験からして、ひとつの慰めになるんです。そう思わなきゃいられないですよ」
ニッコリ笑うこと
昭和19年11月6日、フィリピンで特攻隊員となった角田和男
四つめは、そんな激戦のなか、角田が実践していたということである。
「生きるか死ぬか、極度の緊張をともなう空戰で、私は敵機を1機撃墜するごとにニッコリ笑うことを心がけていました。笑うのが無理なら、口角を上げてみるだけでいい。それだけで、けっこう気持ちが落ち着くものですよ」
ところが、昭和19(1944)年11月11日、特攻隊の直掩機(爆装機の掩護、戦果確認)としてフィリピン・マニラの湾岸道路から発進したさいのこと。
「マニラの湾岸道路から特攻出撃するとき、毎日新聞社の新名丈夫さん(第一航空艦隊附従軍記者)が、片膝を立ててこちらにカメラを向けているのがわかった。それで、ここでニッコリ、と思ったけど、顔がこわばってしまって私は笑えませんでした。しかし、若い搭乗員でニッコリ笑って出ていく者がいる。すごいと思いましたね……」
角田は、特攻隊に編入されながら、ベテランゆえに爆装(敵艦に体当りする)は命じられず、直掩機として、襲いくる敵戦闘機から爆装機を守り、仲間が敵艦に突入するのを見届ける、辛く非情な出撃を重ねた。大戦末期になると、飛行機の質も低下していて、同じ零戦でも所定の性能が発揮できないばかりか、飛行中にエンジンのシリンダーが裂けるなど、考えられないような故障を起こすことがよくあった。
「でも私は、前線への出撃待機中、飛行機工場で、勤労動員の女学生が一生懸命作業をしている姿をまのあたりにしていますから、彼女たちがつくった飛行機で死ぬなら、たとえ故障でも本望。喜んで死のうと思っていました」
と、角田は語っている。こんな人を、神も生かすのかもしれない。
一人一人が脳裏に浮かぶ
茨城県で開拓農家となった角田は、昭和37年頃には酪農を夢みたこともあった
戦後、茨城県で開拓農家となった角田は、自らの生活を犠牲にしてまで戦死した戦友たちの慰霊の旅を続け、遺族にも尽くし、かつての部下たちからは慕われた。ギリギリの極限状態でこそ、人間性の真価が露わになるのだろう。
平成2(1990)年、積年の無理がたたったのか脳梗塞をわずらった角田は、それでも杖をつきながら、慰霊行脚を続けた。
角田の1日は、机の上に戦死した戦友の遺影を1ページに1枚ずつ貼った蛇腹折りのアルバムを広げ、般若心経を唱えることから始まる。写真のなかの顔は、みな痛々しいほどに年若い。彼らの顔をじっと見つめ、無心に般若心経を唱えていると、1人1人の最期の状況が、まざまざと角田の脳裏に甦ってくる。
夜は夜で、ベッドに入ると、自分の関係した部隊の戦没者177名の氏名を「南無阿弥陀仏」とともに唱える。心をこめて名前を唱えていると、彼らのまだ幼さを残した顔や、戦後、訪ねた遺族のことなどが脳裏に浮かんでくる。その1人1人が愛しくてならない。
角田の体はだんだん不自由となり、1本の杖がやがて2本になったが、それでも慰霊祭へ出ることを諦めなかった。
そんな角田が、あるとき私にしみじみと言った言葉がいまも心に焼きついている。
夢ははかなくすぐに覚めてしまう
角田は晩年、身体が不自由になってもなお、最後まで戦没者の慰霊行脚を続けた。写真は平成15年、靖国神社で(撮影/神立尚紀)
「いまもよく夢に見ます。戦争で死んだ連中が出てきて、眠っていてもこれは夢だとわかるから、はじめのうちは、『お前たち、また出てきやがったか! 早く成仏しろ』と追い払うように無理やり目を覚ましたものですが、歳月が経てば経つほど、夢なら覚めないで欲しい、もっとゆっくり会っていたいと思うようになりました。でも、そう思えば思うほど、夢ははかなくすぐに目が覚めてしまうんです」
しかし‥‥‥と角田は言う。
「特攻隊員が敵艦に向かって突入し、目を見開いて、これで命中する、とわかったとき、幸せに胸をふくらませたであろう気持ちは、自分の体験に照らして信じています。ただ、これを戦後世代の人に理解してもらうことはむずかしいでしょうね。ほんとうに胸をふくらませるような、幸せな気持ちになったことがある人が果たしているのかどうか……」
平成25(2013)年2月14日、死去。享年94。通夜は2月17日、告別式は18日、いずれも茨城県かすみがうら市の「トモエホール」で執り行われた。
ふつう、この年齢になると同世代の友人がほとんどいなくなっていて、葬送の式は寂しいものになりがちである。だが、親族はもとより全国からかつての戦友や元部下、戦没者遺族たち、著書や慰霊祭を通じて角田と接し、その人柄を敬愛する若い人たち、角田を取材したことのあるテレビやラジオのスタッフなど、交通不便な場所にもかかわらず斎場いっぱいの人が参列し、故人の人徳が偲ばれた。告別式では、不肖私が弔辞を読む大役を仰せつかり、角田の「戦い」と「慰霊」に明け暮れた生涯を振り返った。軍艦旗に覆われた棺は、特攻隊の元部下たちにも見送られ、永遠の旅路についた。
神立 尚紀(カメラマン・ノンフィクション作家)
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