🌈9)─1・A─三内丸山の縄文人の巨大建造物技術は中国の古代文明より1000年前に確立。⦅17⦆〜No.18 

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 日本文明は、長江文明の後継の孤立文明で、中華の黄河文明の亜流文明ではない。
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 2024年2月12日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「三内丸山の縄文人が誇った超技術の正体…なんと、中国の古代文明より1000年前に「巨大建造物を建てるワザ」が日本で確立していた
 志村 史夫
 あの時代になぜそんな技術が!?
 ピラミッドやストーンヘンジ兵馬俑三内丸山遺跡五重塔に隠された、現代人もびっくりの「驚異のウルトラテクノロジー」はなぜ、どのように可能だったのか?
 現代のハイテクを知り尽くす実験物理学者・志村史夫さん(ノースカロライナ州立大学終身教授)による、ブルーバックスを代表するロング&ベストセラー「現代科学で読み解く技術史ミステリー」シリーズの最新刊、『古代日本の超技術〈新装改訂版〉』と『古代世界の超技術〈改訂新版〉』が同時刊行され、早速、大増刷が出来しました!
 それを記念して、両書の「読みどころ」を、再編集してお届けします。まずは、青森県青森市の大規模集落遺跡で、世界遺産にも登録されている「三内丸山遺跡」を取り上げます。
 野球場建設地から飛び出した「大発見」
 三内丸山遺跡は、青森市の中央街を抜けて青森湾に注ぐ沖館川の右岸台地上に拡がっている。そこは、縄文時代前期から中期まで、つまり、いまからおよそ5500年前から4000年前までの約1500年の間、途切れることなく営まれた大規模な村の跡である。
 この地域は、江戸時代から遺跡として知られていたが、本格的な発掘調査が行われたのは1992年からであった。青森県の総合運動場の野球場建設に先立つ調査である。
 逐次、大規模な盛土遺構、計画的に配置された500軒以上もの住居跡、大量の土器や石器、土偶翡翠(ひすい)や黒曜石などの交易品等が発掘されていたが、三内丸山遺跡を一躍、全国的に有名にしたのは、1994年7月の大型掘立柱(ほったてばしら)構造物跡の発掘だった。
 この発掘が契機となって、すでに着工されていた野球場の建設が中止され、三内丸山遺跡は永久保存されることになった。
 【写真】復元された三内丸山遺跡の大型建造物
 © 現代ビジネス
 圧倒される「大型掘立柱構造物」
 この大型掘立柱構造物跡は、次図「大型掘立柱構造物の柱穴と柱穴に残っていた直径約1mの栗材」に示すように、深さが約2.2メートルの6個の柱穴が3個ずつ、2列に並んだものである(a)。柱穴の底からは、bに示すような直径約1メートルの栗材の柱痕も発見された。この木柱の底部の形は石斧で整えられ、柱の周囲は焦がして腐りにくくなるように加工が施されている。
 【写真】大型掘立柱構造物の柱穴と柱穴に残っていた直径約1mの栗材
 © 現代ビジネス
 この2枚の写真からも予想されるように、この「掘立柱構造物」はかなりの大きさである。復元されたものを見ればわかるように(記事冒頭の写真)、現場を訪れる者を、まず圧倒するのはその大きさだが、この柱穴の発掘時、専門家を驚かせたのは、
 すべての柱が4.2メートルの等間隔で立っていたこと
 すべての柱を内側に2度傾けることによって、互いに倒れにくくした「内転(うちころ)び」の技法が使われていたこと
 枠を作り、少しずつ土砂を混ぜて固める「版築(はんちく)」の技法を使った形跡があることだった。
 最古の「版築」技法
 「版築」技法は、古く中国の竜山文化(黄河中流域で栄えた新石器時代晩期の文化)にはじまるとされ、現在まで存続している建築土木技法で、法隆寺などの建立などに使われていることでもよく知られている。
 中国の竜山文化期は紀元前2000年前後であり、日本でいえば縄文中期から後期に相当する。つまり、日本では中国よりも早く、少なくとも同時期に「版築」技法が使われていたことになる。このこと一つをとってみても、日本の縄文時代の技術が、世界史における屈指の古代文明が有した技術に匹敵するものであったことを窺わせてくれる。
 さらに、大型掘立柱構造物が、近くに建っていた大型竪穴住居とともに、一定の長さの単位である「縄文尺(約35センチメートル)」とよばれる規格で建てられているらしいことも判明した。柱間隔の4.2メートルは12“縄文尺”に相当するため、縄文時代の日本人は十二進法を使っていたと考えられる。
 ともあれ、大型掘立柱建物の「復元」に使われた栗の巨木は、ロシアのソチからはるばる運ばれてきたものである。柱1本の重さは約8トン、長さは17メートル、直径は1メートルである。これだけの大きさの栗の巨木は、現在の日本国内では容易に見つけられないそうだ。
 現在でも困難を極めた「復元作業」
 私は、1996年10月24日に行われた6本の巨大木柱の組み立て作業に立ち会うことができた。
 組み立てには数基の大型クレーンが使われていた。クレーンで支えられながら立てられた6本の柱はまず、上部と下部に橋渡しされた鉄骨で仮留めされた。それから栗の丸木が3層にかけられて、このような建物が「復元」されたのである。
 直径約1メートル、地上の高さ約15メートルの巨木が立ち並ぶさまは圧巻だった。近くに寄れば、それが巨大な建造物であることを実感できる。
 クレーンも鉄骨もなかった時代に、人力と縄だけで、どのようにして、巨大な掘立柱構造物を建てることができたのか。写真に示した形が正確に「復元」されたものかどうかは別として、少なくとも、直径約1メートル、高さ15メートルほどの栗の巨木を6本、立て並べたことは事実である。縄文時代に、巨木を使いこなす技術が確立されていたのだ。
 私は縄文人智慧と技術の高さに驚かざるを得ない。
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 このように大規模な建造物を建てる技術を持っていたことは、それまでの「縄文人観」を大きく覆すものでした。三内丸山の人たちが「定住していた」ことも、その一つです。そうした定住生活を支える、驚くべき技術も、発見されています。
 続いては、三内丸山の暮らしを支えた古代技術を探っていきましょう。
 古代日本の超技術〈新装改訂版〉 古代世界の超技術〈改訂新版〉
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