🌈9)─1・A─縄文時代は女性が活躍する平和で平等・公平そして豊かな社会であった。⦅7⦆〜No.18 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本民族日本人は、数万年前の旧石器時代縄文時代から日本列島に住んでいた在来種日本土人の子孫であり、中国大陸か朝鮮半島で誕生して日本列島に移り住んだ外来種渡来人ではなかった。
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 縄文人は、世界文明が暴力で追い求め強奪していた金銀財宝には関心がなければ興味もなく、人より多く欲しいとは思わなかった。
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 『縄文文明の環境』  安田喜憲 著  吉川弘館 
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 国際交流と平等社会
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 女性が活躍した縄文時代
 森がはぐくんだ女性社会
 縄文時代は女性中心の時代だった。なぜ女性中心だったのか。その理由をいくつかあげてみたい。
 まず女性中心の社会が形成される出発点は、縄文文化の開始期にまでさかのぼる。今から1万3000年前、長かった氷河時代が終わりに近づき、気候が温暖化するとともに、ブナやナラの温帯の落葉広葉樹の森が拡大してきた。日本列島の縄文文化は、この森の中を流れる川や湖に生息する魚貝類を利用する森の文化として出発した。森の資源を利用するためには、森の中で定住生活を開始する必要があった。それ以前の旧石器時代の主要な食料はウマやバイソンなど草原に生息する大型の哺乳動物だった。動物の群れを追いかけて、彼らも移動をよぎなくされた。ところが縄文時代の食料の資源となった森は移動しない。森の中を流れる川にはサケが定期的に遡上してくる。遊動して獲物をさがすよりも、身の周りにある森の資源を高度に利用する方がよほど効率がよかった。そこで人々は森の中で定住生活を開始したのである。この定住生活の開始こそ、女性中心の社会を形成する第一歩だった。出産まじかの身重の体をひきずって移動する必要もない。出産にも育児にも定住生活ははるかに女性にとっては有利だった。
 そして森の中での食料の獲得は、女性の手で十分にできるものだった。ドングリやクリなどの木の実の採集、球根や山菜取り、川や湖の魚貝類の捕獲は女性の手でも十分にできた。最近発見された青森県三内丸山遺跡では、クリ畑とよんでもよい高度なクリの木の利用が行われていた。こうした木の実の集約的な利用が縄文時代の主食を提供したのだが、それは女性の手によって開発された可能性が高い。女性の繊細な自然を見る目が、こうした植物利用の技術を生み出したのであろう。
 生命の死と再生への祈り
 縄文時代は戦争などによって、人間どうしが殺しあうことがほとんどない社会だった。ときには美しい女性をめぐって、恋のさやあてぐらいはあったかもしれないが、トロイ戦争のような巨大な戦争にまで発展することはなかった。それは縄文時代が平等主義に立脚した社会であったからである。三内丸山遺跡から整然とならべられた墓がいくつも発見されたが、それらには、大小の差はほとんどみられず、副葬品にも差がなかった。
 こうした平等な社会では、女性は巨大な権力や富の力にこび、それにほんろうされる必要がなかった。いや女性中心の社会であったからこそ、権力者や富をめぐる戦争を生まなかったということができよう。
 そうした平等主義に立脚した社会でもっとも尊ばれた価値感は、生命の再生と循環の思想であった。男性中心の階級社会に生きる現代人を支配している価値感は、富と権力の思想である。一日も早く豊かになり、他人よりすこしでも出世して偉くなりたい。そのために現代の女性は教育ママになり強妻にならざるをえないのである。
 だが縄文時代にはそんなことは必要なかった。縄文時代を通して人々を支配した思想は富でも権力でもなかった。人々は生命の誕生を喜び、他者の命を尊び、そして生命の死を悲しみその再生を願った。縄文人を支配した最大の思想は生命の再生と循環そして他者の生命に対する畏敬の念であった。
 その生命の再生と循環をつかさどる女性、とりわけ出産こそがあらゆる事がらの中で、もっとも重要なことがらであった。縄文時代の中期以降、東日本を中心としておびただしい土偶が作られるようになる。その土偶の99パーセントまでが女性であり、かつ出産直前の女性なのである。なかには今にも子供が生まれるばかりの女性の陰部を強調したものもある。生命を生み出す女性の陰部を象った土板や男性の性器を象った石棒などが大量につくられている。巨大な石棒がある。
 生命を生み出すセックスもまたおおらかであり、かつ女性主導のものであったと思われる。現代社会のように一夫一婦にとらわれる必要はもうとうなかった。愛とは男性が作り出した言葉でるといわれるように、それはキリスト教の下、女性の性を監視し、女性性をコントロールするために生まれたものである。だが女性の生命を誕生させる力を鼓舞し、それを崇拝した社会においては、愛という言葉を強調する必要はなかった。そこで必要なのは生命の躍動であり、生命を誕生させるという欲求こそが愛なのであった。そして愛は生命を誕生させた後により深まるものであり、子供への愛、家族への愛がおのずから生まれたのであろう。
 森が春には芽吹き、夏には緑の葉を青々と繁らせ、秋には木の実を生み出し、冬には枯れ果てることを毎年毎年くりかえすように、森の中で定住生活する縄文人もまた生命の誕生と再生のドラマを営々とくりかえし、その永劫の循環の中に、最大の価値をみつけていたのである。こうした社会が日本列島では1万年以上つづいたのである。
 縄文時代に奴隷がいた?
 縄文時代が平等主義に立脚した社会であったという見解を述べたが、最近、いや縄文時代にも奴隷がいたという説が浮上してきている。北アメリカのトリンギッダ族などに奴隷がいたことから、縄文時代の社会にも身分階層が存在したのではないかと容易に推測されると小林達雄氏(『縄文人の世界』朝日新聞社、1996年)は述べている。福岡県芦屋町山鹿貝塚の共同墓地の中で、20個もの貝輪をはめた女性の人骨がみつかった。この女性は何らかの宗教的な特定の身分についていた人とみなされている。その女性の身のまわりの仕事を代行した奴隷がいたのではないかという。こうしたシャーマン的な特殊な儀式をとりおこなう人は確実にいたであろう。そしてその身のまわりの世話や仕事の代行をする人もいたにちがいあるまい。しかし、それが果たして奴隷とよぶものであったかどうかは、別の問題である。
 三内丸山遺跡からは、ゴミ捨て場とみなされる低湿地の中から、子供と、20歳代の若い女性と、40歳代の臼歯が発見されている(岡田康博、小山修三編『三内丸山の世界』山川出版社、1996年)。このように墓地に葬ることのなかった女性が、果たして奴隷だったのであろうか。
 私はこの低湿地から発見された人骨を見た時、すぐにあの北欧のボッグ・ピープルを思い出す。デンマークや北ドイツでは、泥炭地に埋葬された人間の遺体がこれまで600体以上発見されている。それはボッグ・ピープルとよばれ、大半が鉄器時代初期(2000年前頃)のものである。
 人々は村の掟を破ったり、あるいは犠牲になった人々を、この泥炭地に葬ったのである。北ドイツのウインデェビィ湿原から発見された14歳の若い女性の遺体は髪の毛をそられ、両手を後手にしばられていた。そして目かくしをされ全裸だった。おそらく、不倫などが原因なのだろうか。村の掟を破ったのであろうか。その女性は、全裸で目かくしをされ、両手を後手にしばられて泥炭の中に埋めこまれ溺死されたとみなされる。
 おそらく三内丸山遺跡から発見されたこの女性の人骨も、こうした村の掟を破った女性ではなかったかと思うのである。今も昔も女性の恋は奔放である。愛ゆえに命をなげた女性は縄文時代から今まで、連綿と日本史の陰の舞台をいりどっている。こうした人々を奴隷とよぶかどうか、果たして縄文時代に奴隷がいたかどうか、慎重に検討されなければならない課題である。
 農耕と富の蓄積が女性の地位を低下させた
 縄文時代の女性中心の平和で平等な社会は、弥生時代に入って稲作農耕社会がはじまるとともに崩壊する。女性中心の社会の崩壊をもたらした最大の要因は富の蓄積だった。ドングリやクリあるいはイノシシやサケの肉は、冷蔵庫のない時代では、何年も貯蔵することができない。だが穀物は貯蔵することが可能だった。この穀物の貯蔵が貧富の差を生み出し、さらにはその富を背景として権力者を生み、さらなる新たな富をもとめて権力者どうしの戦争へと人々を駆りたてていったのである。そして女性中心の社会は男性中心の社会へと転化していかざるをえなかった。富を守るには男の武力が必要だった。
 こうした農耕の開始にともなう富の蓄積のみならず、農作業そのものも、女性の力のみでは実施することができなかった。水田を作るためには、灌漑水路を掘り、土地の平坦にするという土木作業が必要であり、クリ畑を維持管理するのよは異なり、とても女性の力のみではできなかった。さらに水田の耕作、播種、水田の用水の管理、収穫、脱穀などは、ドングリやクリの実の採集に比べると、はるかに複雑な行程が必要であり、女性が育児や料理の片手間でできる作業ではなかった。こうして、弥生時代に入り稲作農業が普及するとともに、日本の社会は女性中心から男性中心の社会へと大きく転化していったのである。
 しかし、1万年以上もつづいた縄文時代の女性中心の社会の影響は、そうかんたんには消えることはなかった。それは稲作農業の富を背景として最初に誕生した国家の王が卑弥呼という女性であったことにみごとに示されている。奈良時代に入ってからも、女帝があいついで誕生している。こうした卑弥呼や女帝誕生の中に、私は縄文時代の女性中心の社会の残影を見る思いがする。
 それのみではない、現代のわが家の家庭事情をみても、縄文時代の伝統はげんぜんと生きている。財布のひもはしっかりと妻ににぎられ、とても男性中心の社会などとはおもえない。……。
 だが、それはそれとして、20世紀末の現代、人類が地球環境の危機と人口爆発に直面している時、再び女性中心の社会を復活させることが必要なのだ。縄文時代の人々が自然と共生し、森の時間に歩調をあわせた生活を営々と生きたように、現代人もまたこの限られた地球の資源の中で、自然と共生して生きることをよぎなくされている。そして、女性中心の縄文時代の社会は権力者を生むこともなく人殺しの戦争もなかった。自然と共生し戦争のない平和な社会を構築するために、これから女性がますます活躍する時代がやってくるであろう。
 人口爆発であえぐアフリカやインドなどにおいて、人口の抑制にもっとも効果的な手段は、女性の社会的地位を高めることであると言われている。女性の地位が向上することは、人口爆発の抑制にもつながる。地球環境問題と人口爆発が、人類の命運をにぎる21世紀に、再び縄文時代以来の女性中心の社会が復活することはまちがいないだろう。21世紀は女性の世紀である。……。」
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縄文文明の環境 (歴史文化ライブラリー)
縄文時代の歴史 (講談社現代新書)
縄文時代の不思議と謎 (じっぴコンパクト新書)
つくられた縄文時代 (新潮選書)
信州の縄文時代が実はすごかったという本
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 日本民族心神話、日本書紀古事記における最高位の神様は、天皇家・皇室の祖先神である女性神天照大神である。
 女性神最高神とする宗教観は、数万年前の旧石器時代縄文時代から受け継がれていた。
 縄文世界では、大陽は女性神であり、大地も大地母神で、森の中には生命の再生と循環を司る女性神が溢れていた。
 つまり、日本の民族宗教=民族中心神話とは女性神崇拝であった。
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 縄文人縄文時代は女性中心の平等社会であったが、弥生人弥生時代は男性中心の不平等階級社会であった。
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 人類の古代文明は、森林を破壊し不毛の大地を作り出す事で富み栄え、そして気候異常による自然環境の激変で森林が崩壊する事で衰退し滅亡した。
 古代文明は、数千年前に栄えた姿を不毛な大地に生命感のない残骸を晒している。
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 日本民族とは、数万年前の旧石器時代縄文時代からの歴史・文化・伝統・宗教・言語・風土そして生活習慣を同じくする日本列島の住人である。 
 乱暴に言えば、日本人とは日本列島に住む人間であり、人種や民族に関係なかった。
 何故なら、日本民族・日本人とは、日本列島に流れ着いた・逃げて来た人種・民族、言語、宗教、その他一切に関係ない弱者、気候変動による難民(たとえば飢餓)、政争・戦争の負け組(敗北者、亡命者)、逃亡者、犯罪者、その他が乱婚を繰り返して生まれた混血の雑種だからである。
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