🌈9)─1・A─縄文文明の9つの文化圏。北海道(アイヌ)と沖縄(琉球)以外は消滅した。⦅11⦆〜No.18 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本列島と縄文人の歴史は、中国大陸と漢族中国人や朝鮮半島朝鮮人の歴史とは違う。
 縄文時代とは、日本列島の物語で中国大陸や朝鮮半島の話ではない。
 縄文時代の森の文明は、日本民族琉球民族アイヌ民族のみに受け継がれた。
 漢族中国人や朝鮮人は、ヨーロッパ人と同じ中央アジアの草原の文明であった。
   ・   ・   ・   
 ①石狩低地以東の北海道②北海道西南部および東北北部③東北南部④関東⑤北陸⑥東海・甲信⑦北陸・近畿・伊勢湾沿岸・中国・四国・豊前・豊後⑧九州(豊前・豊後を除く)⑨トカラ列島以南
   ・   ・   ・   
 現代日本で、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力を失っている日本人が増え、彼らは高学歴な政治的エリートや進歩的インテリで左翼・左派・ネットサハ、リベラル派・革新派・一部の保守派に存在する。
 つまり、現代の日本人から縄文人の子孫が消滅しつつある。
 それはとりもなおさず日本民族(ヤマト民族)の絶滅を意味する。
  ・  ・  
2022-10-06
🌈9)─1・A─「韓国人や中国人は日本人とはルーツが違う」は遺伝的優位人種差別か?⦅11⦆〜No.18 
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 9つの文化圏
 前述のように、縄文前期には日本列島内に以下の9つの文化圏が成立していたと考えられている。
 石狩低地以東の北海道
 エゾマツやトドマツといった針葉樹が優勢な地域。トチノキやクリが分布していない点も他地域との大きな違いである。トド、アザラシ、オットセイという寒流系の海獣が豊富であり、それらを捕獲する為の回転式離頭銛が発達した。
 北海道西南部および東北北部
 石狩低地以東と異なり、植生が落葉樹林帯である。ミズナラ、コナラ、クルミ、クリ、トチノキといった堅果類の採集が盛んに行われた。回転式離頭銛による海獣捕獲も行われたが、カモシカやイノシシなどの陸上のほ乳類の狩猟も行った点に、石狩以東との違いがある。
 東北南部
 動物性の食料としては陸上のニホンジカ、イノシシ、海からはカツオ、マグロ、サメ、イルカを主に利用した。前2者とは異なり、この文化圏の沖合は暖流が優越する為、寒流系の海獣狩猟は行われなかった。
 関東
 照葉樹林帯の植物性食料と内湾性の漁労がこの文化圏の特徴で、特に貝塚については日本列島全体の貝塚のうちおよそ6割がこの文化圏のものである。陸上の動物性食料としてはシカとイノシシが中心。海からはハマグリ、アサリを採取した他、スズキやクロダイも多く食した。これらの海産物は内湾で捕獲されるものであり、土器を錘(おもり)とした網による漁業を行っていた。
 北陸
 シカ、イノシシ、ツキノワグマが主な狩猟対象であった。植生は落葉広葉樹(トチノキ、ナラ)で、豪雪地帯である為に家屋は大型化した。
 東海・甲信
 狩猟対象はシカとイノシシで、植生は落葉広葉樹であるが、ヤマノイモやユリの根なども食用とした。打製石斧の使用も特徴の一つである。
 北陸・近畿・伊勢湾沿岸・中国・四国・豊前・豊後
 狩猟対象はシカとイノシシで、植生は落葉広葉樹に照葉樹(シイ、カシ)も加わる。漁業面では切目石錘(石を加工して作った網用の錘)の使用が特徴であるが、これは関東の土器片による錘の技術が伝播して出現したと考えられている。
 九州(豊前・豊後を除く)
 狩猟対象はシカとイノシシ。植生は照葉樹林帯。最大の特徴は九州島と朝鮮半島の間に広がる多島海 を舞台とした外洋性の漁労活動で、西北九州(北松浦半島)型結合釣り針や石鋸が特徴的な漁具である。結合釣り針とは複数の部材を縛り合わせた大型の釣り針で、同じ発想のものは古代ポリネシアでも用いられていたが、この文化圏のそれは朝鮮半島東岸のオサンリ型結合釣り針と一部分布域が重なっている。
 九州南部は縄文早期末に鬼界カルデラの大噴火があり、ほぼ全滅と考えられる壊滅的な被害を受けた。
 トカラ列島以南
 植生は照葉樹林帯である。動物性タンパク質としてはウミガメやジュゴンを食用とする。珊瑚礁内での漁労も特徴であり、漁具としてはシャコガイタカラガイなどの貝殻を網漁の錘に用いた。九州文化圏との交流もあった。
 これら9つの文化圏の間の関係であるが、縄文文化という一つの文化圏内での差異というよりは、「発展の方向を同じくする別個の地域文化」と見るべきであるとの渡辺誠による指摘がある。つまり、これら全ての文化圏のいずれもが共通の、しかし細部が若干異なる文化要素のセットを保持していたのではなく、それぞれの文化圏が地域ごとの環境条件に適合した幾つかの文化要素を選択保持しており、ある文化圏には存在したが別の文化圏には存在しなかった文化要素も当然ながら見られるのである。
 縄文後期に入ると、これら9つの文化圏のうち、「北海道西南部および東北北部」「東北南部」「関東」「北陸」「東海・甲信」の5つがまとまって単一の文化圏(照葉樹林文化論における「ナラ林文化」)を構成するようになり、また「北陸・伊勢湾沿岸・中国・四国・豊前・豊後」「九州(豊前・豊後を除く)」がまとまって単一の文化圏(照葉樹林文化論における照葉樹林文化)を構成するようになる。その結果、縄文後期・晩期には文化圏の数は4つに減少する。
   ・   ・   ・   
 2022年10月9日 YAHOO!JAPANニュース 毎日キレイ「<世界遺産縄文人津軽海峡を越えていた? 「北海道・北東北の縄文遺跡群」から暮らしに迫る
 「世界遺産 北海道・北東北の縄文遺跡群II~北海道・北東北でなぜ?縄文遺跡の謎~」の一場面=TBS提供
 女優の杏さんがナレーションを務める、TBSのドキュメンタリー番組「世界遺産」(日曜午後6時)。10月9日は「北海道・北東北の縄文遺跡群II~北海道・北東北でなぜ?縄文遺跡の謎~」と題し、日本の最も新しい世界遺産である「北海道・北東北の縄文遺跡群」を取り上げる。
 【写真特集】日本の最も新しい世界遺産 緑の中にたたずむ縄文遺跡群のフォト 
 自然豊かな北海道・北東北には縄文時代、一つの文化圏が形成されていた。そこには同じ土器型式、自然環境、そして大型建造物にみてとれる文化的共通点が。自然の恵みを受け、利用しながら1万年以上続いた縄文人の暮らし。その一連が分かるのがこの地域の特色だ。
 三内丸山遺跡には大型掘立柱建物や大型竪穴建物があり、それらはクリの木で建てられていた。縄文人はクリを栽培し、それを森にして管理、利用していたという。北海道大船遺跡の大型竪穴建物の建材もクリだが、実は北海道には元々クリはなく、縄文時代に北東北から渡った交易品だという。」
   ・   ・   ・   
 日本史のススメ
 HOME > 日本史講座 >
 日本史講座
 縄文時代のはじまりと特徴~縄文文化はなぜ始まった?【日本史講座】
 この記事では、縄文時代がどのような時代でどんな特徴があったのかについて解説します。
 縄文時代はなぜ始まり、どのような特徴があるのでしょうか。
 そうした疑問に答えていきます。
 記事のなかでは
縄文時代とはいつからいつまでのことをいうのか。
縄文時代の特徴とはなにか
縄文時代の文化はなぜ始まったのか?
 といったことについて、ざっくりと見ていきます。
 この記事を書いている筆者は、大学時代は史学科で日本史を専攻していました。
このサイトでは、日本史を学んでいる高校生が、読むだけで日本史の要点がわかり、大学受験レベルの知識を身につけることができることを目指して記事を書いています。
 また、歴史の「なぜ」に注目して、流れを理解できるようにすることを心がけています。
 それではさっそくいってみましょう。
 縄文時代はいつからいつまで?
 縄文時代は、更新世末期の約1万3000年前から始まり、弥生時代が始まる紀元前4世紀頃までのことまでをいいます。
 旧石器時代縄文時代を分ける明確な年代があるわけではありませんが、縄文時代旧石器時代は、明らかに生活のスタイルや使われている道具が変化していて、その新しい道具が使われ始めた時期を縄文時代の始まりと位置づけています。
 縄文時代を特徴づける道具としては、土器(縄文土器)、磨製石器、弓矢、骨角器などがあります。
 とくにこの時代の土器には、特徴的な縄目模様がついていて、そこから「縄文」という名称がつけられました。
 縄文文化はなぜ始まった?
 縄文時代の人々の生活・文化は、それ以前の旧石器時代とは明らかに異なっています。
その変化はなぜ起こったのでしょうか。
 旧石器時代から縄文時代への変化をもたらしたのは、地球規模での環境の大きな変化です。
 地球規模での気候の変化
 旧石器時代はとても寒い氷河時代でした。
 これを地質学では更新世といいます。
 旧石器時代の日本【日本史講座】
 更新世は約1万年前に終わり、温暖な気候へと変わっていきます。
 地球が急速に暖かくなっていくのですね。
 地質学的には完新世の始まりといいます。
 縄文時代の始まりはちょうど更新世完新世の切り替わりの時期にあたります。
温暖な気候になったことにより、氷河が溶け海面が上がり、大陸と陸続きだった陸地は消え、海に囲まれた現在の日本列島の形が形成されました。
 ちなみに縄文時代前期の約6000年前には、いまより地球の平均気温が2度ほど高くなり、それによって海面もいまより4メートルほど上昇していたと考えられています。
この現象を縄文海進といいます。
 これにより、たとえば東京湾でいえば、現在の東京都の大部分が海で、さいたま市あたりまで入り江が来ていたのです。
 縄文時代の遺跡で、海から離れた場所(たとえば海のない埼玉県の遺跡など)からも、貝を食べた跡である貝塚が発見されるのは、現在とは地形が違って海が内陸まであったからなのです。
 定住化の始まり
 気候の温暖化によって、人々の生活のなにが根本的に変わったのかというと、定住化が始まったことです。
 旧石器時代の人々は、マンモスやナウマンゾウ、オオツノシカなどの大型動物を追って、移動しながら生活していました。
 このような大型動物は、厚い毛皮におおわれていて寒い環境に適応しています。
しかし、縄文時代になり気候や自然環境が変わると、これらの大型動物は日本列島では生きていけなくなり、絶滅したと考えられます。
 大型動物がいなくなった一方で、気候の温暖化によりクリやクルミ、ブナやナラといった広葉樹林が日本列島に育っていきます。
 その結果、木の実が豊富に採れるようになります。
 また、大型動物の代わりにシカやイノシシなどの中・小型動物が狩猟の対象となります。
 また、海からは豊富な魚介類も採れるようになりました。
 縄文時代は、自然の恵みがかなり豊富な時代であったと考えられています。
 こうして、食料の確保が安定したことから、獲物を追って移動する必要がなくなります。
 結果、これまで移動しながらテント式の住居や洞窟で暮らしていた人々は、集落を作り、竪穴住居を建て、定住生活をするようになりました。
 そうした定住生活のなかで新たな道具が生まれ、また独自の宗教観や呪術的風習も誕生し、縄文文化が発展していったのです。
 まとめとポイント
 以上、縄文時代のはじまりと特徴についての概略を解説しました。
 ここでのポイントは、更新世から完新世への地球規模の環境変化で、人々のライフスタイルが大きく変わって新しい時代が訪れたということです。
 ちなみに、世界史では多くの地域で、旧石器時代の次の時代区分は新石器時代となります。
 新石器時代の特徴としては、磨製石器の使用、農耕の開始、牧畜の開始などが挙げられます。
 日本では、磨製石器は使用されていたものの、農耕や牧畜は行われていないため、新石器時代という名称は使わずに、「縄文時代」という独自の時代区分がなされています。
 縄文時代の生活や暮らし、縄文時代の宗教観や呪術的風習については、別記事で解説します。
   ・   ・   ・   
 SciencePortal
 ニュース
 縄文時代の終わりから弥生時代にかけて急激な人口減少があった DNA解析で判明
 2019.06.25
 縄文時代の終わりに急激な人口減少があった—。約2500年も前のこうした興味深い現象を東京大学の研究グループが現代の日本人男性のDNA解析から明らかにした。寒冷化により狩猟生活をしていた縄文人の食料が減ったことが原因らしいという。研究成果はこのほど英科学誌「サイエンティフィック・リポーツ」に掲載された。
 東京大学大学院理学系研究科の大橋順准教授と大学院生の渡部裕介さんらは、同大学大学院医学系研究科の徳永勝士教授(研究当時)らと共同で、日本人男性345人の男性だけが持つY染色体塩基配列を解析した。Y染色体は父親から息子へ受け継がれるため、変異をもとに系統を調べることができる。
 現在の日本人は縄文人と大陸からの渡来系弥生人の混血と考えられているが、解析の結果、日本人のY染色体は七つの系統に分かれ、縄文人に特有の型を持った系統の男性が122人いることが判明した。このため研究グループはこの122人を対象に共通祖先をさかのぼる遺伝子系図解析を実施。遺伝子の変異が起きる速度を基に、過去にさかのぼって人口の推移を推定した。
 すると、約2500年前の縄文時代晩期から弥生時代初期にかけて、人口が大幅に急減していたことが明らかになった。男性の人口だけでなく女性を含めた全人口が急減したと推定できるという。この時期は、日本を含み世界的に気候が寒冷化しており、気温が下がったことで食料供給の減少が人口減につながったとみられる。研究グループによると、その後人口が増加したのは、気候が再び温暖化し、渡来系弥生人がもたらした水田稲作技術によって、安定した食料供給が可能になったためと考えられるという。
 縄文後期の人口減は遺跡の発掘などで推定されていたが、遺伝子解析からも裏付けられた形だ。
 縄文人由来Y染色体を用いて推定した集団サイズの変化。縄文時代晩期から弥生時代にかけて縄文人の人口が減少したことを示している(提供・東京大学
   ・   ・   ・