🌈9)─1・A─縄文人の死生観・人生観・宗教観を受け継いだ天皇家の宮中祭祀と民族神話。⦅14⦆〜No.18 

  ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本民族日本人は、アイヌ民族琉球民族と同じ数万年前の旧石器人(ヤポネシア人)・縄文人(日本土人)の血・遺伝子と文化・宗教・歴史、伝統・伝承・継承を受け継ぐ「世襲」の直系子孫である。
   ・   ・   ・   
 マルクス主義の革新派、一部のリベラル派と保守派、反宗教無神論・反天皇反民族反日的日本人達は、縄文人とは血の繋がっていない赤の他人である。
 彼らは、死ねば「無に返り」生きていた事、存在していた事さえ消えてなくなると信じるがゆえに、死後の世界を否定し、生まれかわりを・生き返りを認めず、命の尊厳を踏み躙り、民族的な神や仏を殺し日本から消し去ろうとしている。
 つまり、彼らにとって祖先とは、無視してもかまわない無意味な存在であり切り捨ててもかまわない無価値な存在に過ぎない。
 それを証明するのが、「政教分離の原則」で天皇家宮中祭祀と民族神話を国事行為から私的行為に格下げし、なおかつ否定し消し去ろうとしている事である。
   ・   ・   ・   
 国事行為ではないとされる皇室祭祀・宮中祭祀とは、数万年前の縄文人の死生観・人生観・宗教観を受け継いだ宗教祭祀である。
   ・   ・   ・   
 2022年11月 YAHOO!JAPANニュース BOOKSTAND「生物の「死」はプログラムされている? 死ぬ意味・死の恐怖について生物学の見地から考察
 『生物はなぜ死ぬのか (講談社現代新書)』小林 武彦 講談社
 25mプールにバラバラに分解した腕時計の部品を沈め、かき混ぜていたら自然に腕時計が完成して、しかも動き出す――。これが地球に生命が誕生する確率を表す例えだという。偶然が重なり奇跡的に誕生したのが生命だとすると、その命が潰える「死」にも意味はあるのだろうか?
 今回ご紹介する書籍は『生物はなぜ死ぬのか』(講談社)。著者の小林武彦氏は生物学者で、『寿命はなぜ決まっているのか――長生き遺伝子のヒミツ』(岩波書店)、『DNAの98%は謎 生命の鍵を握る「非コードDNA」とは何か』(講談社)などの書籍も執筆している人物だ。同書は生物学をバックグラウンドとして生物の誕生・絶滅の意味などから「死」の理由を考察していく内容となっている。
 「生き物が生まれるのは偶然ですが、死ぬのは必然なのです。(中略)『死』は絶対的な悪の存在ではなく、全生物にとって必要なものです」(同書より)
 25mプールの例え(生命の誕生)が偶然だとすると、「死」の必然とはどういうことなのだろう。小林氏はこう語っている。
 「生物を作り上げた進化は、実は<絶滅=死>によってもたらされたのです。
 生き物にとって死とは、進化、つまり『変化』と『選択』を実現するためにあります。『死ぬ』ことで生物は誕生し、進化し、生き残ってくることができたのです」(同書より)
 白亜紀の恐竜が絶滅せずに生き残っていたら、ヒトは祖先といわれている小型哺乳類から進化できなかったかもしれない。また生物は環境や外敵に適応すべく、長い年月を経て進化し続けている。つまり「死」も絶滅や進化が作った生物の仕組みのひとつ、という考え方だ。
 第2章「そもそも生物はなぜ絶滅するか」で小林氏は、現代の地球は過去の歴史から見ても「絶滅種が非常に多く発生している状態」(原因は私たち人間)だと語った。これは恐竜が絶滅して新しい種が台頭してきたように、生物の入れ替え(小林氏の言う"ターンオーバー")が始まっている可能性もある。この先数百万年かけて新しい地球に適応した生物が現れるのかもしれないが、そこにヒトの子孫が残っているかはわからないそうだ。
 「人類よりもっと科学的に進歩した宇宙人が地球を訪れる可能性が遠い将来にないわけではありませんが、それ以前に人類が滅びている可能性のほうがだいぶ高いのかもしれません」(同書より)
 「死」が「生」にプログラムされているのだとしても、「死」に対するそこはかとない恐怖感は拭えない。小林氏は第5章「そもそも生物はなぜ死ぬのか」で、なぜヒトは死ぬことが怖いのかについても考えを述べている。
 「この恐怖から逃れることはできません。この恐怖は、ヒトが『共感力』を身につけ、集団を大切にし、他者との繋がりにより生き残ってきた証なのです。
 ヒトにとって『死』の恐怖は、『共感』で繋がり、常に幸福感を与えていてくれたヒトとの絆を喪失する恐怖なのです」(同書より)
 小林氏の記述で何かがストンと腑に落ちたように感じた。私たちは「死」が「怖い」のではなく「寂しい」のではないか? 「死」はヒトだけの感覚だというが、「死」の意味が一番わかっていないのもヒトなのかもしれない。小林氏が「昆虫は最も進化した生物」と語るのも納得だ。
 自分の内臓を吐き出して(足りなければ自身の体も)子供に食べさせる母グモ、24時間しか生きられず「食べる」必要がないため口を持たずに生まれてくるカゲロウ。どの生き物も「生」を全うして子孫のために死んでいく。生きることは死ぬことなのだ。私たちは「生きる」ことに執着しすぎて、「生きる内容」がおざなりになっていないだろうか。
 ここ数十年で世界はデジタル化が進み、AIが発達した。死ぬことなくバージョンアップを続けるAIと私たちの未来がどうなるのかについても小林氏は触れている。いつでも合理的な答えを出すAIにヒトが頼りきることは「考えることをやめる」ことと同義だ。ヒトは知能を使うことで進化して生き延びてきた。知能を使わなくなったヒトは衰退するだろう。
 「大切なことは、何をAIに頼って、何をヒトが決めるのかを、しっかり区別することでしょう。
 ヒトが人である理由をしっかりと理解すること」(同書より)
 AIが宗教的な存在となり、ヒトがただ服従する立場になるのではないかと小林氏は危惧する。AIとヒトの立場が逆転するかどうかはヒトの手にかかっているのだ。
 共感力を身につけてしまったヒトは、昆虫や動物のように死を悟って死んでいくのはこの先も難しいだろう。しかし恐れる気持ちは生きている証ともいえる。死の意味について考え、「精一杯生きなければ」と思うことこそが祖先から受け継いだ進化の一端なのかもしれない。」
   ・   ・   ・   

   ・   ・   ・   
 ストーンサークル
 HOME 特別企画 インタビュー・対談 縄文人の死生観とは?―青森県企画政策部世界文化遺産登録推進室 世界文化遺産登録専門監 岡田康博
 縄文人の死生観とは?―青森県企画政策部世界文化遺産登録推進室 世界文化遺産登録専門監 岡田康博
 2021.12.12
●「北海道・北東北の縄文遺跡群」世界遺産登録記念・特別インタビュー/『月刊石材』2021年8月号掲載
 縄文人の死生観とは?
 青森県企画政策部世界文化遺産登録推進室 世界文化遺産登録専門監 岡田康博
 三内丸山遺跡・環状配石墓
 出典:JOMON ARCHIVES(青森県教育委員会撮影)
 縄文人も先祖観を持っていた
――縄文人の死生観について教えてください。
 岡田康博専門監(以下、岡田) 遺跡から判明することは、そこに残された明確な証拠からだけです。ですから、縄文の人たちの死生観を考える場合、確実にいえることはまず、「墓がある」という事実です。
 墓がある以上、縄文の人たちがそれまで生きていた自分の最愛の人など、つまり死者を弔っていたということは当然のことだと思います。それは一定の原理原則のようなものだといえます。ただ、「思想の問題は、考古学では一番不得手」ということを前提に、今日はお話ししたいと思います。
 まず、墓地をつくるということは、定住と密接な関係があります。ある意味、土地への執着、土地への強い思いを表していると思います。ですから、その土地で生まれて一生を終えることについて、縄文の人たちは非常に大きな意味付けをしていたと考えられます。
 北海道・北東北ですと、大規模な墓地は、すべての遺跡から見つかっているわけではなく、特定の集落に集中してつくられる傾向にあります。そういった集落を「拠点集落」と呼んでいますが、地域の拠点となるところに大規模な墓地はつくられています。
 また個々の墓を見ると、乳幼児と大人では、その構造に大きな違いがあります。乳幼児は普段使っている土器を棺として、乳幼児だけの墓地に埋葬しています。その墓地は家の近くにありますので、我が子に対する強い愛情の表れと同時に、再生の願望が強かったのではないかと思われます。「早く胎内に戻ってほしい」「また宿ってほしい」といったことを願い、縄文の母親たちは、「墓のうえを歩いていた可能性もある」ともいわれています。
 一方で大人の墓地は、乳幼児の墓地とは別の場所にありますが、忌み嫌うものではなくて、いま生きている人たちを守り支える、心の支えといった位置付けだった可能性があります。よって、大人と乳幼児では、死生観の違いを考える必要があると思っています。
 いずれにしても、墓地はいま生きている人たちが死者とお別れをする大事な空間でありますので、それが日常生活のなかに明確に位置付けられていたといえると思います。
――縄文時代には、定期的な墓参はあったのでしょうか?
 岡田 縄文の人たちにとって死は一瞬ではなくて、弔ったあとも何らかのかたちで死者に関わっていたと考えられます。
 その一つの理由は、墓の周りを石で囲むという環状配石墓では、遺体を墓に埋葬したときと、石でその周りを囲んだときでは時間差があります。つまり、埋葬後に現代でいう追善供養のようなことをしていて、それはすごく大事なことだったと思われます。
 人が亡くなったあとも死者との関わりがあって、それはいま生きている人の精神的な支えであると同時に、集団としての結束を固めるときに、先祖を共有する行為が社会的にも非常に意味があったと考えられます。
――そうすると、「縄文人も先祖観を持っていた」ということでしょうか?
 岡田 そうだと思います。
 「先祖が同じ」ということについて、両親なのか、さらにさかのぼって、祖霊といわれるような精神的なものなのか、見解は分かれるところですが、いずれにせよ、親愛なる死者が「同胞である」という意識をどのようにして保っていくか、ということは縄文の人たちにとって大事なことだったと思います。
――縄文時代は一万年以上続きましたが、その間に死生観の変化はあったのでしょうか?
 岡田 私はあったと思います。
 縄文時代の晩期になると、集落とは離れた場所に集団墓地がつくられています。そして、その場所は集落を見下ろす小高い丘のうえだとか、逆にいうと集落から見上げる場所だとかを選んでいますので、たぶん、「死者は亡くなると山に帰る」という意識になったのだと思います。
 縄文の人たちにとって、死は一瞬の出来事ではない
――「追善供養らしき行為で、埋葬地を石で囲んで」という話が先ほどありました。なぜ、石だったのでしょうか?
 岡田 石は腐ることはないので、世代を超えてその場所をずっと伝えられます。ですから、石を使ったことには非常に大きな意味があると思います。
 墓地をつくって石を使った人たちは、いずれ亡くなるわけですが、自分が亡くなっても、その墓地が精神的に意味のある空間として引き継がれていかなければなりません。ですから、いつの時代も「その場所が墓地である」と、わからないとダメであり、その場所を示す石は大事な役割を果たしていたと考えています。
――大湯の環状列石では、石がたくさん使われています。墓地と考えてよいのでしょうか?
 岡田 基本的には集団墓地だと思います。ただ、石は一度に持ち込まれたのではなく、時間をかけて少しずつ持ち込まれています。
 大湯以外の遺跡でもいえますが、環状に並べられた石を見ると、この場所ではAという場所から運んだ石を使い、別の場所ではBという場所から運んだ石を使うというケースがあります。 一種類の石だけでつくられた場所が何ヵ所かあり、時間をかけて環状列石はつくられたと考えられます。こうしたことから考えても、縄文の人たちにとって、「死は一瞬の出来事ではない」ということでしょう。
 大湯環状列石・万座環状列
 出典:JOMON ARCHIVES
――一つの環状列石をつくるまでには、どのくらいの時間を要したのでしょうか?
 岡田 大湯の環状列石の場合、200年です。他の遺跡を見ても、少なくとも世代を超えてつくられていることは間違いないですね。
 縄文人の一生は30年、40年といわれていますので、世代を超えていくとなると、大湯であれば数世代単位で継続していたということになるのだと思います。
――縄文人は、家族意識を持っていたのでしょうか?
 岡田 私は「縄文時代は家族の時代だった」と思っています。
 竪穴住居を見ていくと、大きさは大体同じです。縄文時代は、生活するときの一つの単位が段々と固まっていく過程にあると思いますので、その際に「家族が居住のときの一つの単位」ということは疑う余地はないと思います。
 大船遺跡・復元建物。代表的な竪穴建物跡を復元したようす
 出典:JOMON ARCHIVES(函館市教育委員会撮影)
――一家族は何人くらいだったのでしょうか?
 岡田 それがわかると苦労はしませんが(笑)、基本的には夫婦と子どもでしょう。平均寿命から考えると、三世代同居というのは、かなり珍しいケースだと思います。
 大家族の場合には、おじさんやおばさん、甥や姪と同居していた形跡も見られますので、基本的には家族を中心としながらも、ある程度の範囲の血縁関係が居住のときの一つの単位だと考えられます。
――お墓から見つかった土器や石器などの副葬品には、どのような意味があるのでしょうか?
 岡田 副葬品から読み取れる意味は二つあります。一つは埋葬されている人の性差を表しています。たとえば、墓のなかに狩りの道具が入っていれば男性であり、調理の道具が入っていれば女性です。それぞれの道具が一緒に入っていたというケースはないので、基本的には性差を示していると考えられます。
 もう一つは、シャーマンといわれるような祭事に関わる特殊な人の場合、特別なものが入る例があります。たとえば、石を加工した「石棒」と呼ばれるものであったり、あるいは精巧な彫刻を施した装身具であったりといったことはあります。
 縄文人は神を意識していた
――縄文人は神を意識していたのでしょうか?
 岡田 私は意識していたと思っています。
 これまで縄文人は、「『万物に精霊が宿る』といったことは意識していたであろう」と考えられていたと思いますが、縄文の人たちはもう少し具体的に神のイメージを持っていたと私は思っています。
 それは、たとえば土偶といわれる祭祀儀礼に関係する道具があり、それ以外にもさまざまな祭祀儀礼の道具が発掘されていますので、ある程度の役割分担のようなことが祭祀道具から見てとれます。ひと言に「土偶」といっても、大きさやかたちはさまざまで、目的によって使い分けされているので、当然ながら祭祀儀礼の対象となる神も、その都度違っていたのではないかと思っています。
 自然の恵みを祈願する神、自分たちが世代を超えて生きていくことの祈りや感謝を伝える神など、広い意味では同じ神かもしれませんが、祭祀儀礼の対象としては、生活の場面で違いがあってもいいのではないかと思います。
――土偶は祭祀儀礼の道具として考えてよいのでしょうか?
 岡田 土偶がどんな場所から見つかるのかというと、墓から出てくる場合もありますが、非常に少ないです。土偶が圧倒的に多く見つかるのは、最近では「盛土遺構」と呼んでいる場所で、長い時間、さまざまな祭祀儀礼が行なわれた空間です。その空間はいろいろな遺跡にあり、土偶はそこから見つかりますので、祭祀儀礼の道具であることは疑う余地はないでしょう。
 亀ヶ岡石器時代遺跡・大型遮光器土偶(レプリカ)
 原品は東京国立博物館所蔵。
 沢根地区低湿地で1887年に出土したもの。
 出典:JOMON ARCHIVES(つがる市教育委員会所蔵)
 また、たとえば装身具の類で、耳飾りやペンダントが集中して見つかる場所があります。何かしらの儀礼に使う道具と、そのときに身につけていたものを、役目が終わると一ヵ所に埋めたといったことも考えられます。
 いまは、縄文人の精神世界が複雑であったことが見えるようになってきました。
――縄文遺跡から発掘された耳飾りの一部や玉(ぎょく)などの一部で、大陸との関係が指摘されているものもあるようです。縄文時代に大陸との接点はあったのでしょうか?
 岡田 私は、何らかのかたちで交流があったと思っています。
 玦状(けつじょう)耳飾りと呼ばれている耳飾りの形態は、大陸と共通点があります。もちろん、「偶然の空似」ということは充分に考えられます。
 耳飾り以外にも、石でつくった装身具のなかには、大陸と共通するものがあります。また単品ではなく、祭祀儀礼に使われているものがセットとして、ある程度の共通点がありますので、何らかのかたちで交流はあったであろうと考えています。
 内丸山遺跡・装身具。
 中列左端と2番目が玦状(けつじょう)耳飾り。
 出典:JOMON ARCHIVES(三内丸山遺跡センター所蔵、田中義道撮影)
――大陸との交流があったとすれば、縄文時代でもいつ頃のことでしょうか?
 岡田 いろいろな状況を確認しなければなりませんが、縄文時代の後期以降、日本の縄文の世界が大きく変化していく過程のなかで、大陸と共通する情報が見られます。でも、それ以前から交流はあったかもしれません。
 日本列島と大陸の間に日本海があり、自然でも大きな波が来たり、小さな波が来たりします。実証することは難しいですが、たまたま日本側で大陸からの情報の波を受け止められたときに、共通する文化的事象が出てくるのでは、と思ったりしています。
――縄文時代の後期以降、日本の縄文の世界は、なぜ大きく変化していくのでしょうか?
 岡田 考えられる一つの要素は寒冷化で、いまから4,300年くらい前に起きたとされています。それに伴って食料の減少など、不安定な食料事情が考えられ、その際に集落の分散化や小型化など、いろいろな現象が起きています。
 社会の揺らぎが見えてくる時期でもあり、そういったことも関係するのかもしれません。また縄文後期は、ストーンサークルが登場する時期でもあります。
――その時期には、亡くなる方が増えたのでしょうか?
 岡田 難しいところですが、集落の数は減っておらず、人口が急激に減少したということは見てとれません。自然環境が変化して厳しい状況にあったとしても、うまく克服して大きな人口減少にはならなかったと思われます。
――現在はコロナ禍にありますが、縄文時代には、疫病などもあったのでしょうか?
 岡田 証拠としては捕まえにくいと思います。遺跡から遺体が確認されるケースは稀であり、埋葬した痕跡しか見られませんが、発想のなかには、そうしたことも留めておく必要があるのかもしれませんね。
 縄文時代に戦争はなかった
――よく聞く話ですが、やはり縄文時代は戦争がなかったのでしょうか?
 岡田 縄文遺跡から武器は見つかっていませんので、戦争はなかったはずです。「狩りの道具が武器になるだろう」といったこともいわれますが、弓矢の先に付ける矢じりが大型化して、武器に変化するのは弥生時代です。縄文時代にはそういったことが一切見られませんので、矢じりは武器ではないと考えられます。
 垣ノ島遺跡・墓に副葬された足形付土版と石鏃や石槍、
 つまみ付きナイフ(石匙)
 出典:JOMON ARCHIVES(函館市教育委員会所蔵)
 また、集落の周りをたとえば濠で囲む、あるいは土手を築くといった防御の施設も見つかっていません。稀に溝で囲んだ集落が見つかりますが、祭祀的な意味と考えられています。ですから、実用的な防御施設は縄文時代にはなく、平和で協調的な社会だったといえると思います。
――弥生時代になると、なぜ戦争が起こってくるのでしょうか?
 岡田 これまでは、「稲作が伝わってきて、生産力の違いによる食料を含めた富の収奪が戦争の起源」という話がありました。しかし、弥生文化の担い手であった渡来してきた人たちが持ち込んだ文化的な要素の可能性も否定できないと思います。
 日本全国の縄文遺跡から見つかった人骨を詳細に分析した人たちがいて、その結果を見ると、「暴力や何らかの被害を受けて亡くなった人は、世界的に見ても非常に少ない」とあります。そういった意味では、戦争もある意味では文化的行為であって、だからこそ、防ぐことができると思います。
 縄文時代を見ると、「戦争は必然でない」と考えられるので、現代を生きていくうえで一つの明るいことだと感じています。
――さかのぼって、旧石器時代から縄文時代へ移行した理由も、気候変動などが考えられるのでしょうか?
 岡田 気候の変化は、やはり大きな要素です。縄文時代以前の旧石器時代は氷河の時代であり、縄文時代は地球規模で温暖化が起きてきます。それによって環境が大きく変化し、森林環境が針葉樹から落葉樹へ代わり、海水面が上昇することによって日本海ができて、暖流が北上し、寒流が南下します。また入り江や内湾が発達し、現在とよく似た環境ができ上がりました。
 環境の変化によって、暮らしやすさという点では、縄文の人たちはよい環境を手に入れることができました。ただ、環境が整っただけではダメですので、それに対応するような技術や技術を支える生き方、哲学のようなものも合わせて発達してきた、ということも背景として考えなければならないと思います。
――旧石器時代の人や縄文人は、どこから来たのでしょうか?
 岡田 難しいですね(笑)。いまいえることは、縄文文化の担い手の縄文の人たちは、基本的には縄文時代の初めには、日本列島に居住していたということです。また、人骨の分析などを見ていくと、形式的には均一なので、「日本列島のなかでの南北交流は、かなり古い時代から頻繁にあったのではないか」という気がします。
 そのあたりは、考古学のロマンということでしょうね(笑)。
 伊勢堂岱遺跡・環状列石。
 上が北東。環状列石A(右上)、環状列石B(左上)、環状列石C(下)。
 出典:JOMON ARCHIVES
 人類が未来に向けて生きていくうえで、縄文社会、縄文遺跡はいろいろな示唆を与えてくれる
――「北海道・北東北の縄文遺跡群」として世界遺産に申請し、登録されました。「縄文時代の北海道・北東北は、暮らしやすかった」ということでしょうか?
 岡田 生活という点からすると、非常に恵まれた自然環境にあったと思います。その環境が基本的には食料の安定供給というか、安定した食料の確保につながるという意味では、紛れもなく「暮らしやすかった」といえると思います。
――今回の17遺跡は、どのような基準で選ばれたのでしょうか?
 岡田 縄文時代の初めから終わりまで、いろいろと変遷がありますので、その変遷を連続して切れ目なく説明できるような構成になっています。また環境の変化がありますので、その変化にどう適応してきたのかという意味で、17遺跡を六つのステージに分けて考えました。その変遷を定住というキーワードで、特に移り変わりを具体的に示しました。
――今回の世界遺産の登録までに何年かかったのでしょうか?
 岡田 「三内丸山遺跡世界遺産にしたい」と意思表示をしてから16年です。
 三内丸山遺跡・全景。
 左は大型掘立柱建物(復元)、右は大型竪穴建物(復元)。
 出典:JOMON ARCHIVES
――すごいですね。いまのお気持ちをお聞かせください。
 岡田 息の長い取り組みにはなりましたが、解決しなければならない課題が山ほどありました。一つは広域で取り組んでいますので、それぞれの遺跡において、いろいろな理解や解釈がありました。それを世界に向けて説明するためには、共通理解に立つ必要がありましたので、その環境づくりに時間がかかりました。
 それから世界遺産保全が目的ですので、「それぞれの遺跡がしっかりとした保全の体制をつくる」ということでも時間がかかりました。さらには縄文というと、価値がわかりづらい部分がありますので、「その価値をどのようにわかりやすく伝えるか」といったことについても、時間をかけて検討しなければなりませんでした。
 もちろん時間をかけた分、結果的に世界のなかで評価をされることになりましたので、よかったと思っています。
――現代人が縄文時代や縄文遺跡から学べることはありますか?
 岡田 縄文時代の生活は、自然とともに生きてきた人たちの暮らしであることは間違いありません。遺跡のなかでは、断片的ではありますが、「縄文の人たちが自然とどう向き合っていたのか」を知ることができますので、まずはその事実をしっかりと知る必要があると思います。それをいまの時代に実践することはできませんが、未来を考えるヒントやきっかけとして、縄文遺跡は充分に役割を果たしていけると思います。
 いま、SDBs(持続可能な開発目標)がよく話題になりますが、縄文の生活はそれと重なる部分があります。人類が未来に向けて生きていくうえで、縄文遺跡はいろいろな示唆を与えてくれると思いますので、実際に遺跡に足を運んでいただいて、その価値や世界観を感じていただければと思います。
 御所野遺跡・クリとクルミ
 出典:JOMON ARCHIVES(一戸町教育委員会所蔵)
――現在、全国的にお墓を片付ける仕事が増えています。縄文時代のお墓や埋葬を見て、そのような状況をどのように感じますか? 最後にお聞かせください。
 岡田 お墓は死者のものであると思いますが、一方では、いま生きている人たちのものでもあると思います。お墓は死者が生きていた証であると同時に、自分たちが生きていくうえでの精神的な支えであると思います。
 かたちはいろいろとあるにせよ、墓地が持っている意味は、時代を超えても変わらないものがあると思います。
――本日はお忙しいところ、誠にありがとうございました。
 出典:『月刊石材』2021年8月号
 聞き手:石文社・中江庸
 祝!「北海道・北東北の縄文遺跡群」世界遺産登録!!もご覧ください。
 https://stone-c.net/log/5491
   ・   ・   ・   
 人生のちょっと先のことがわかる!
 毎日が発見ネット
 縄文人の死生観~死は消滅ではありません。自然に還って存在し続けるのです
 縄文人の死生観~死は消滅ではありません。 自然に還って存在し続けるのです pixta_30849372_S.jpg自然と共生し、隣人と調和しながら、約1万年もの間、穏やかな暮らしを持続していた縄文々。 彼らは「生」と「死」をどのように捉えていたのでしょうか。 墓制などから縄文時代の社会を研究する先史学者、山田康弘さんに伺いました。
 前の記事「国宝6点がすべてそろう! 東京国立博物館で「特別展『縄文―1万年の美の鼓動」を開催(2)」はこちら。
 死を遠ざけなかった縄文人の生き方
 現在、私たちが持っている死のイメージと、縄文の人々のそれとは、まったく違うものだったと、山田さんは言います。
 「現代では死は忌み嫌われているイメージがありますが、縄文人にとって死はもっと身近でした。この時代は、集落の中央にある広場にお墓を作ったり、家の中に埋葬したりすることが多くありました。広場や家に遺体をしばらく置いていた例も見られます。つまり、彼らは死や死者を恐れていなかったのです」。
 その根底にあるのが、「生命は再生する」「生命は自然の中を循環していく」という、「再生・循環」の観念です。
 「現代では、死は自分がこの世からいなくなる"消滅"や"無"のイメージを持つ人が多いですが、縄文人にとって、死は『自然に還ってもう一度生まれる』ための出来事でした」。
 この時代の「生」の象徴といえば、生命を生み出す出産に関するものが多く挙げられます。
 「土器や土偶がたくさん作られましたが、出産に関するデザインが多いんですね。土偶はおなかや腰のあたりが膨らんだだものがよく見られますが、これは妊婦をかたどったものだといわれています。
 また、土器には、赤ちゃんの顔のようなものが装飾されていたり、出産時の光景を表したようなデザインもあります。土器の中に赤ちゃんや、時には成人の遺骨を入れる『土器棺墓(どきかんぼ)』という埋葬方法がありますが、これは、土器を母体に見立て、もう一度生まれ変わることを願ったといわれているんですよ。お墓の副葬品として、遺体と一緒に土偶が埋められていた例もあります」。
 全てに宿る魂は自然の中で生き続ける
 縄文時代には、生物だけでなく、この世に存在する全てのものに魂(アニマ)が宿るという思想「アニミズム」がありました。縄文の人々は、常に周辺にさまざまな生命や魂を感じながら、生活していたことになります。こんな考えから「土器棺墓(どきかんぼ)」には、動物の頭や木の実などが入っていたこともあるそうです。
 そんな生活において、人の死もまた、自然界に起こり得る当たり前のことの一つでした。「縄文の人々にとっても死への不安や恐怖は当然あったと思います。でも、人は死んだらいなくなるのではなく、風となり、鳥となり、星となり、自然に還って存在し続け、やがて再生する。そう考えることは、彼らにとって『心の処方箋』として機能していたと考えています」。
 再生・循環を思えばもっと豊かな人生に
 縄文の人々は、私たちと同じように見たり、感じたりできるホモ・サピエンス(現生人類)でした。山田さんいわく、日本人の精神や考え方などの基盤がここにあるのだそうです。最近は、自分の遺骨を山や海に散骨する「自然葬」を希望する人も増えていますが、これも「生命は自然に還って再生する」という縄文時代の思想が、いまも私たちの心の中に脈々と受け継がれているからでは、と山田さん。
 「縄文時代の死生観は、人類史から見ても最も根源的な観念の一つです。現代は科学文明が発達したにもかかわらず、経済や環境、家庭や仕事などのさまざまな問題があり、死に対する恐怖や不安を持つ人も多くいます。閉塞感を強く抱えるいまだからこそ、その観念が人々の『心の処方箋』として求められているのでしょう。自分は消滅するのではなく、自然のあらゆるところに存在して生き続ける、と思うことができれば、死の迎え方やクオリティ・オブ・デス(死の質)も、とても豊かなものになるのではないでしょうか」。
~「縄文」を知る4つのキーワード~
 土偶
 人間をかたどった土製品で、縄文時代ごろから盛んに作られた。ほとんどが女性、特に妊婦の姿を表し、生命を生み出すため、あるいは再び生命を与えるための呪術に使う道具だったと考えられている。
 土器
 縄文時代に多く作られた土製の器。基本的には深い鉢の形で、主に調理の他、遺骨を入れる棺としても使われた。時期や地域により形や文様も多様。文様は縄目や木、貝などを使ってつけられていた。
 平均寿命
 人骨から死亡年齢を調べると、最も多いのは40~50歳ごろ。ただし、乳幼児の死亡率も高かったため、平均すると寿命は30歳くらいといわれている。
 墓
 「土器棺墓」の他、最も多いのが地面に穴を掘ってそのまま遺体を埋葬する「土坑墓(どこうぼ)」。手足を曲げた「屈葬(くっそう)」の姿勢で埋葬されることが多かった。
 取材・文/岡田知子(BLOOM) 
 2018年7月3日(火)~9月2日(日)
東京国立博物館(平成館)
 特別展「縄文―1万年の美の鼓動」
 住所:東京都台東区上野公園13-9 
 電話:03-5777-8600(ハローダイヤル)
 時間:9:30~17:00。金・土曜は~21:00、日曜および7月16日(祝)は~18:00(入館は各30分前まで)
 休み:月曜、7月17日。7月16日(祝)、8月13日(月)は開館
料金:一般:1,600円
 交通:JR上野駅公園口、鶯谷駅南口より徒歩10分
 1807p071_01.jpg
 山田康弘(やまだ・やすひろ)さん
 1967年、東京都生まれ。国立歴史民俗博物館研究部教授、先史学者。縄文時代を主とする先史墓制論・社会論が専門。著書に『老人と子供の考古学』(吉川弘文館)、『縄文人がぼくの家にやってきたら!?』(実業之日本社)他。
 『縄文人の死生観』
 (山田康弘/角川ソフィア文庫
 720 円+税
 精いっぱい生き、死への恐怖とも闘った縄文の人々の墓や遺物。そこにある自然や母胎への回帰、再生を巡る死生観とは?スピリチュアルブームや散骨葬など現代日本人の死のあり方をも読みとく、墓の考古学。
・特別展「縄文―1万年の美の鼓動」
・『縄文人の死生観』
2018年7月27日
この記事は『毎日が発見』2018年7月号に掲載の情報です。
   ・   ・   ・   
 テンミニッツTV 講師一覧 山田康弘 講義詳細
 テンミニッツTVは、有識者の生の声を10分間で伝える新しい教養動画メディアです。すでにご登録済みの方はこちら このエントリーをはてなブックマークに追加
 縄文時代の死生観と現代人の死生観は強くつながっている
 概説・縄文時代~その最新常識(13)二つの死生観
 山田康弘山田康弘東京都立大学人文社会学部人文学科歴史学・考古学教室 教授
情報・テキスト
 縄文時代にはまず再生・循環の死生観があり、その後、系譜的な死生観が発展してきた。しかし、系譜的な死生観は再生・循環の死生観の一部を切り出したものにすぎず、状況に強いられて発展してきたものであった。現代でも、系譜的な死生観に代わって、再生・循環の死生観が担う役割が大きくなってきている。シリーズ最終話では、縄文時代の精神生活が現代人の精神に及ぼしている影響について解説する。(全13話中第13話)
 時間:08:39
 収録日:2019/06/04
 追加日:2019/11/26
 ジャンル:
 歴史・民族考古学
 キーワード:
 死生観 縄文時代 循環 再生
≪全文≫
縄文時代を下るにつれて系譜的な死生観が発展してくる
 縄文時代の再生、循環の死生観は、円運動を伴うということで、「円環の死生観」と呼ぶことができます。自分自身が姿形を変化させながら、自然のさまざまな部分に循環していくのです。こうした死生観は、縄文時代の初源的な宗教形態の一つであるアニミズムと連動します。
 加えて、縄文時代の後半期になると、多数合葬・復葬墓の発生とともに、先祖から受け継いできた生命の線を、バトンリレーのような形でつなげていくという系譜的な死生観が発展します。先ほどの円環の死生観に対比して、「直線的な死生観」と呼ぶことができます。この二つの死生観の在り方が、縄文時代後期には並存していたと考えられます。
 後期以降も、墓地の中に新たに家族単位の区画が作られ、そこに代々埋葬されていくようになることを鑑みると、系譜的な関係性を考慮した埋葬方法を取っており、それを支えた死生観が存在したことがうかがえます。
●系譜的な死生観は再生・循環の死生観の一部を切り出した特殊なもの
 縄文時代の再生・循環の死生観と系譜的な死生観、この二つが円環の死生観と直線的な死生観ということになるのですが、自然の中で大きく循環するという考え方の中では、自分の先祖と自分がいて子孫がいる、という直線的な死生観は、実は一部分を切り取って並べたにすぎないことが分かります。例えるならば、数学における微分積分の考え方と同じです。
 系譜的な死生観は、特殊な状況下で必要とされたのであって、縄文時代の基本的な死生観は、むしろ円環の死生観、再生・循環の死生観であったと考えられます。この死生観は、人間だけではなく、イノシシやシカ、クマなどの動物や、トチの実やクリなどの植物にも適用できます。だからこそ、土器埋設遺構の中に入れて、再生するように祈っていたのです。
 貝塚も、単なるゴミ捨て場ではなく、人の遺体を埋めたり、さまざまな動物の骨を置いたりしました。その意味では、アイヌ人の文化にあった、あの世にもう1回送り込むという祭祀の場、いわゆる送り場と同じものだと考えられることが多いのです。このように、さまざまなものを、円環の中に送り込むという営為を、縄文人が行っていたことは、おそらく間違いないと思われます。
●現代にも残る縄文時代の死生観
 このような死生観は、実は現代社会においても残っています。例えば、先祖代々の墓を守るというのは系譜的な死生観ですね。一方で、最近生まれ変わりやあの世に関する、ドラマや映画、小説が増えてきました。社会的に見ると、生命が循環して生まれ変わり、あの世とこの世が交流しているという考え方、死生観が、われわれの心の中に残っているということです。科学万能といわれている社会において迷信と呼ばれかねないにもかかわらず、です。
 この死生観は、すでに縄文時代から存在していました。今から20万年前にアフリカでホモ・サピエンスが登場し、10万年ほど前に「アウト・オブ・アフリカ」といって世界に拡散していきます。最終的に、約4万年前に日本列島にやってきました。このような循環、再生の死生観は、彼らが移動を続ける間に身体の中に染み付いた、あるいは頭の中で考えたものだったと思われます。
 例えば、旧石器時代沖縄県の港川には「港川人」と呼ばれる人が住んでいました。そこにはクレバスが存在し、崖にひび割れが入っており、その中に実は遺体が入れられていました。
 宗教学者ミルチャ・エリアーデは、このようにクレバスや洞窟の中に遺体を入れるという行為は、母体への回帰を意味しているという議論を展開しています。これまでに説明した、土器の中に遺体を入れるという行為とまさしく同じ意味を持ちます。このように、社会ごとにさまざまな異なった形ではありますが、その基本には再生や循環の思想があります。この思想は、人間がホモ・サピエンスとして生まれてきてから、非常に長い期間持っていたものなのです。
 最近、主に都心部で墓が買えない、地方では墓を維持できないということで、墓じまいをどうするかという懸念が増大しています。また、墓の問題があるので、死んだ後どうするのか考えようということで、「終活」という言葉が出てきました。その中で、子どもたちに迷惑をかけられないので、自分たちは墓に入れずに、散骨やどこかに流すなどの自然葬や、桜など木の下に埋める樹木葬のニーズが高くなっています。
 そのニーズを支えているのは、実は縄文時代にある再生や循環の思想でもあるのです。つまり、墓を持てない人たちの増加や、あるいは夫婦でも一つの墓に入らないとい...
 テキスト全文を読む
 (1カ月無料で登録)
   ・   ・   ・