🎑70)─1・B─日本の木造建築のルーツは3万年以上の昔の縄文時代に遡る。~No.159No.160 

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 数万年前の旧石器時代縄文時代
 日本民族は、旧石器人(南方系ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)、弥生人揚子江系渡来人)、古墳人(北方系帰化人)が混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
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 2022年10月13日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「TOP 日本史 古代
 木造文化財は維持できるのか? ─世界最古の木造を含む遺産の未来─
 [入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #065
 柏木 宏之
 写真・作図/柏木宏之
 わが国の建造物は主に木造で、海外のように石造りやレンガ造りではない。そのうえ高温多湿で大地震も多く毎年襲う台風の威力にもさらされる木造建築物は修復をしなければならない。また最大の脅威は火災による焼失だ。由緒ある木造文化財はこれからも維持できるのか?
 法隆寺中門 門の真ん中に柱があるという稀有な構造が歴史の謎とされ、さまざまな俗説から小説にまでなった。いずれも日本式のエンタシスで美しい。撮影柏木宏之
■四方柾の木目のまま使われている法隆寺西院伽藍の堂宇や回廊
 日本列島の建築物の歴史は、木の歴史だといっても過言ではないでしょう。
 すでに縄文時代から豊富な木の種類の特徴や知識を蓄えてきた私たちのご先祖様は、適材適所に木材を使い分けています。
 世界最古の現存木造建築物である法隆寺西院伽藍の堂宇や回廊には、今では絶対に手に入らない檜(ひのき)の巨木が使われています。ですから法隆寺の柱は、朱などで塗装をされずに四方柾(しほうまさ)の美しい木目のまま使われています。
 彩色されていない法隆寺回廊・中門の柱。柾目が美しい。撮影柏木宏之
 実は仏像造りも初期は一木造り(いちぼくづくり)が主流で仏像が造られますが、やがて寄木造り(よせぎづくり)が主流になります。もちろん寄木造りは自由な造形がしやすいことなどメリットがあるのですが、元々は一木造りで使う巨木が伐採によってどんどんなくなって来たことが、その造像技術移行の原因だとも考えられています。
 日本の古民家を訪問すると、「こんな梁(はり)や柱はもう無いね」とよく聞きます。
 現代は、それほど良木がますます無くなっているのです。
 大伽藍などに使われる巨大な木材は、今や日本列島にはほぼ存在せず、台湾や東南アジアから各国の厚意によって輸入されます。
 伊勢神宮をはじめ春日大社などでも、ご神木と呼ばれる巨木が大切にされています。それは神の依り代(よりしろ)としても大切なのですが、将来の建築補修材として保存されているのも事実です。
 春日大社春日山原始林は平安時代に伐採や狩猟が一切禁止されて、良質な原木を大切に保存したことから始まります。
■屋根瓦・壁・格子など自然由来の赤色が使われていた首里城
 2019年10月31日未明に発生した沖縄県首里城全焼は大変残念な出来事でした。
 あの赤い城を再現するのには大変な研究と努力が傾注されましたし、主要な材木は台湾政府の厚意で特別に輸入できた貴重なもので、1992年に再建されました。
 また、一口に「赤色」といいますが、屋根瓦・壁・格子などなど、すべて同じ色ではなく、さまざまな自然由来の赤色が使われていたのです。
 戦前の白黒写真があったのでデザインは判明しますが、どうすればさまざまな赤色に発色するのか?
 再建首里城は、再建当時の職人や学者が人生をかけた研究と努力で完成させたのです。
 しかし完成からわずか27年後、それもたった一夜の火災で灰燼に帰してしまいました。
 今沖縄では首里城再々建に向けて様々な努力がなされていますが、火災に強い鉄筋コンクリート製にするかもしれないとのことです。
 昭和6年に再建された大阪城天守閣は鉄筋コンクリート造りでエレベーターも装備しています。
 また大阪大空襲で焼失した四天王寺伽藍も戦後鉄筋コンクリートで伽藍が再建されています。
 ですから私は首里城についても躯体の鉄筋コンクリート化はありだと思いますが、せっかく貴重な建材や瓦などの再現にまで力を注いだのに、やはり焼失事故は返すがえすも残念無念です。
 首里城正殿。撮影柏木宏之
 伝世する歴史的木造建築物は、落雷、戦禍、放火、失火、自然災害などで失われる危険を常にはらんでいます。
 そして巨木資源が枯渇する現代において、本来あるべき姿に再現することが非常に困難になりつつあることも知っていただきたいと思います。
 首里城展示パネルより。撮影柏木宏之
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 10月27日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「TOP 日本史 古代
 古代日本・縄文時代から受け継ぐ木造建築の技術を探る!
 [入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #066
 柏木 宏之
 写真・作図/柏木宏之
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 日本は島国だ。山が迫った国土のおかげで、恵まれた豊富な木材資源を利用してきた古代人は、どのように木の性質を利用して、建築物を建てて来たのか?古代から受け継ぐ木造技術を見てみよう。
 青森県三内丸山遺跡縄文タワー。釘を使わずにあの巨木を組み合わせてタワーを造った。 撮影:柏木宏之
■「栗の木」の利用が見られる三内丸山遺跡
 『魏志倭人伝』には倭国は「山島に依りて國邑を為す(さんとうによりてこくゆうをなす)」と紹介されています。つまり海岸に迫るほど山が主体の島国だと認識されていたようです。確かに国土の7割が山地の国ですから、木材資源も豊富だといえるでしょう。地球規模の環境変化で、針葉樹・広葉樹・落葉樹・常緑樹とその樹林帯には変化がありましたが、常に樹木に覆われていたのが日本列島の特徴です。
 縄文時代の温暖だった時期に青森県の三内丸山(さんないまるやま)遺跡が約1500年以上栄えます。この遺跡が現代の私たちに示してくれたのは「栗の木」の利用です。栗の木はもちろん美味しい実を秋に実らせますので、採集狩猟生活には無くてはならない木でした。しかも木の性質はしなやかで丈夫、そのうえ虫がつきにくく、幹を切ってもすぐにヒコバエが始まるほど生命力にあふれた樹種です。
 三内丸山に住んだ縄文人は、集落の周りに栗の木を植えて暮らしていました。栗の木を食料生産林として増殖し、建材としても利用していたようです。この縄文遺跡「三内丸山遺跡」でも、当時の上物(うわもの=建物)が再現されています。
 以前は弥生時代になって現れると考えられていた高床式建物が、すでにあったと結論付けられています。
 しかも木を組み合わせた壁は、校倉造の原型のような再現がなされています。それらはすべて発掘による遺構と建物の破片の調査から慎重に出された結論です。
 そしてなにより目を引くのは巨木を使った「縄文タワー」でしょう。見張り台として使われたのか、逆に海から見た時のランドマークだったのか?まったくわかりませんが、釘を使わずにあの巨木を組み合わせてタワーを造った技術に驚きます。
 三内丸山遺跡の再現上物(高床式建物)、三内丸山遺跡は今から5900年~4200年前の縄文時代の遺跡。高床式建物がすでにあったと考えられている。板壁は校倉(あぜくら)式構造の原型か? 撮影:柏木宏之
■高麗門形式の大手門には複雑な技法が編み出されている
 さらに時代が下ると大工技術も驚異的に進歩します。木を継いだり組み合わせたりするのが木造建築法には必須の技術です。江戸時代には木造技術は完成の域に達して、実に複雑な技法が編み出されます。
 例えば、現在の大阪城には江戸時代の建造物が数多く残っていますが、大手門に不思議な技法が使われています。この大手門は高麗門形式で、その南側の控え柱の下部が腐食のため弱って来たので1923年(大正12年)に継ぎ柱をして補強しました。
 高麗門形式で、その南側の控え柱の下部が腐食のため弱って来たため補強。撮影:柏木宏之
 柱を持ち上げて巧くずらすだけで分離する継ぎ方。撮影:柏木宏之
 この継ぎ方、柱を持ち上げて巧くずらすだけで分離しますが、組んであるとびくりともしないほど頑丈なのです。戦後、ある大新聞社が全国にこの継ぎ方の謎が解ける人を大募集して大きな話題になったそうです。今は、タイミングが良ければボランティアガイドの方が、模型で説明をしてくれますよ。
 ほかにもスギ材・ヒノキ材・マツ材・サクラ材などなど用途に応じて木材の長所を活かした使い方がされてきました。しかしながらそういった木材も枯渇し始めているのです。それは世界にもその例はありまして、古代メソポタミアエジプト文明で多用されたレバノン杉は、今や天然記念物になるほど枯渇しています。
 木造建築の伝統と受け継いできた優れた技術を残すためには、まず樹木を大切に育成しなければなりませんね。
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 ウィキペディア
 日本建築史では、日本における建築の歴史を記述する。
 住宅について詳しくは日本の住宅、神社については神社建築を参照。
 「日本建築史」の始まり
 江戸時代から建築に対する有職故実的な研究は行われていたが、学問として成立するのは明治時代以降である(建築という用語自体、明治時代に造られたもの)。最初期の日本人建築家の辰野金吾はロンドン留学の際に「日本の建築にはどのような歴史があるか」と聞かれて何も答えられず、自国の建築史研究の必要を感じたという。辰野の教え子、伊東忠太法隆寺が日本最古の建築であることを学問的に論じ、ここに日本建築史が第一歩を記した。1900年(明治33年)、パリ万博に際して岡倉覚三(天心)を中心に『稿本日本帝国美術略史』(帝室博物館編)が刊行されたが、建築の部門を任された伊東忠太は岡倉の美術史区分に大きな影響を受け、建築史の大枠を築いた。当時、廃仏毀釈で大きな打撃を受けた寺院建築の保護が課題となっており、関野貞は奈良・京都の主な建築を調査し、それらの建築年代をまとめていった。また、建築史学者と歴史家の間に法隆寺の建設年代に関する論争(法隆寺再建・非再建論争)が起こったが、現存する建物の様式論や、六国史などの文献研究はもとより、遺構調査など考古学の発掘成果も取り入れられるようになって、学問の深化が見られた。
 日本建築史の扱う範囲
 第2次世界大戦前までは古代・中世の社寺建築が研究の中心であったが、第二次世界大戦後は民家、江戸時代の社寺、明治以降の近代建築と次第に対象が広がっている(明治以降、旧植民地に日本人建築家の残した作品も対象になっている)。身近な街の古い建物にも関心が高まっており、例えば道端の祠のようなものでも、地域の歴史を物語るものとして評価されることがある。
 日本建築の位置付けと特色
 日本建築は他アジア諸国と同じように中国建築の影響を受け、近代以降は西欧の影響を強く受けているが、日本の風土・文化に合わせた独自な展開も見られる。
 柱・梁を基本構造とする日本建築と、煉瓦や石で壁を築いてゆく西洋建築は対照的な存在であり、20世紀のモダニズムの時代になると、近代建築の理念を先取りした点があるとして注目されるようになった。
 原始~先史時代
 三内丸山遺跡:大型竪穴建物
 現在の考古学・建築史では大きく床の位置(竪穴建物や高床建物)、壁の有無(伏屋式、壁立式)、構造(掘立柱式、棟持柱式)によって分類される。現存する原始~先史時代の建築物は存在しないものの、建築部材が出土するようになり、遺構の発掘成果に基づいた復元建築物が存在している。
 三内丸山遺跡
 縄文時代の遺跡である三内丸山遺跡などからは高度な建築技術が存在していたことが窺える。竪穴建物の内部にも既に炉や穀物貯蔵用の穴などの設備が発掘されることが多く、定住の住居としての形式が見えるようになる。近年の発掘成果により、弥生時代に渡来人がもたらしたと信じられていた建築技術や様式が縄文時代から存在していたことが明らかになった。
 三内丸山遺跡:高床建物
 床のある建築物高床建物
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 出典検索?: "日本建築史" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年10月)
 かつては、床を持つ建築物が普及するのは稲作とともに弥生時代からだと考えられ、狩猟より農耕が一般的になるにつれ床を持つ住居が増えてきたと考えられていた。後に高床建築は、伊勢の神宮の神明造りや出雲大社の大社造り、住吉大社の住吉造りなどの神社建築様式に発展していく。20世紀の初頭のドイツの建築家ブルーノタウトは、伊勢の神宮を訪れたときに、その簡素さと究極の美しさにショックを受けて「雷に打たれたようだ」と表現した。
 吉野ヶ里遺跡 遠景
 登呂遺跡
 吉野ヶ里遺跡
 弥生時代以後には、大規模な定住の状況が鮮明になっていると言える。
 古墳時代に入ると農耕技術の進歩や共同体の拡大に伴い、集落そのものが巨大化するのに合わせて、建築物も大きくなる。各地の有力者が自らの住居を作る際、複数の居室を持つ大規模建築物が見られ、これらは豪族居館と呼ばれる。群馬県三ツ寺遺跡などでその遺構が発掘された。また、祭司等の宗教行事や貯蔵施設など、集落の中心となる建築物が判りやすくなった。
 飛鳥・奈良時代は、中国の仏教建築の様式と技術を朝鮮半島を経由して取り入れた時期である。仏教公伝(538年)以降、日本でも寺院建築が建てられるようになった。記録では577年に仏工・造寺工が百済から招かれた。588年から609年にかけて蘇我氏が築いた飛鳥寺奈良県高市郡明日香村。法興寺元興寺とも)や593年に聖徳太子創建とされる摂津国四天王寺(大阪府大阪市天王寺区天王寺)が、日本最古の伽藍とされる(いずれも当初の建物は現存しない)。現存するものとしては法隆寺の西院伽藍、法起寺三重塔(ともに奈良県生駒郡斑鳩町)が最古のものである。法隆寺西院伽藍は、かつては聖徳太子の時代の建築と信じられていたが、近代における研究の進展の結果、670年の火災以後、7世紀末から8世紀初めの再建と考えられている。法起寺三重塔は8世紀初めの建築である。当時の伽藍配置や技法には、百済の寺院との共通性が指摘されている。 一般に奈良時代の建物の基礎構法は伝統的な掘立式だった。平城宮の発掘調査によって検出された800棟の建物のうち、その大多数が掘立式の基礎だったことから、70年に及ぶ奈良時代の間に平均して4回の基礎の腐朽による建て替えが恒常的に行われたと考えられている[1]。 遣隋使・遣唐使の時代になると、中国の建築様式の影響が強くなり、礎石の上に柱を立てる大陸風の基礎構法が導入されるようになる。
 平安時代、国風文化の時代になると建築様式も日本化し、柱を細く、天井を低めにした穏やかな空間が好まれるようになった。平安時代以降には日本独自の形態として発展し、この建築様式を和様と呼ぶ。
 10世紀中期以降、朝廷や寺社の行事や儀式は次第に夜を中心にして行われるようになっていった。それは同時に夜間における灯火の利用を増大させて度重なる火災の原因となり、結果的には大規模な造営が行われる一因となった。このことは租庸調による税収の衰退とともに中央・地方の財政の悪化をもたらし、国宛や成功などの新たな財政制度を生み出すとともに、建築の分野では修理職や木工寮などの担当官司や東大寺などの大寺院を中心として工匠組織内部における技術や経験の師資相承が行われ、後世における大工・職人の徒弟制度の原点となった。また、日本全国から造営に動員された工匠たちも中央の優れた建築技術を持ち帰ってそれぞれの地方の建築で生かし、さらに地方の国司たちも中央に送る瓦などの生産能力を高めていくなど、中世以後の建築の発展につながることになった。だが、一方でこうした相次ぐ建築は木材の伐採に伴う山林(杣)の荒廃などの環境破壊を招き、次の鎌倉時代前半期に新たな自然災害や飢饉や治安悪化などの社会問題を生み起こす要因になったとする指摘もある。
 中世建築
 東大寺南大門
 慈照寺銀閣
 鎌倉時代
 東大寺の復興と浄土寺建立(大仏様あるいは天竺様、重源)
 禅宗様(唐様)(禅宗仏殿) - 功山寺仏殿、善福院釈迦堂など
 (俗に)武家
 室町時代
 鹿苑寺金閣寝殿造+禅宗)、慈照寺銀閣(書院造+禅宗仏殿)
 主殿造
 鎌倉時代に入ると、中国との交易が活発になったことで、再び中国の建築様式が伝えられた。まず入ってきたのは東大寺再興の際に用いられた様式である(大仏様あるいは天竺様)。
 天平時代に建設された東大寺大仏殿は平安時代末期の源平の争乱の中、焼失した。重源は幾多の困難を克服して大仏を鋳造し、1185年、開眼供養。1195年、大仏殿を再建。1203年に総供養を行った(東大寺盧舎那仏像を参照)。
 重源が再建した大仏殿などの建築様式は非常に独特なもので、当時の中国(宋)の福建省周辺の建築様式に通じるといわれている。
 その建築様式は合理的な構造、豪放な意匠で大仏殿にはふさわしいものであったが、日本人の好む穏やかな空間とは相容れない面もあり、重源が死去すると大仏様も衰えた。大仏殿再建に関わった職人は各地へ移り、大仏様の影響を受けた和様も生まれ、これを折衷様と呼ぶ。
 その後、禅僧が活発に往来し、中国の寺院建築様式が伝えられた。これは禅宗寺院の仏堂に多く用いられている(禅宗様あるいは唐様)。
 また、中世には出家した僧や隠遁者が人里離れて住む簡素な建物である草庵が出現し、鴨長明方丈記』や絵巻物などに描かれている。平安後期・鎌倉期には明恵や一遍、西行日蓮ら宗教者が草庵を拠点に活動を行った。
 近世建築
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