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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
現代の日本人には、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力が乏しいか、ない。
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ウィキペディア
興亜観音(こうあかんのん)は、静岡県熱海市伊豆山にある観音像。また、同観音像を祀る宗教法人礼拝山興亜観音(らいはいざんこうあかんのん。以下「興亜観音」という)。日蓮宗から分かれた法華宗陣門流(本山: 新潟県三条市)の系ではあるが、興亜観音はこれにも属さず、日本で唯一の独自の歴史と祭祀を持った独立した寺院である。創立の趣旨から宗派を問わず参拝客を受け入れている。また、興亜観音は、創建者松井石根大将の賛同を得て、三重県尾鷲市金剛寺、奈良県桜井市蓮台寺、富山県入善町養照寺に現存するほか、中華民国、タイ国にも贈られたことが知られている。
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2021年6月19日 MicrosoftNews KYODO 共同通信社「静岡空襲76年、日米の死者悼む 黒焦げ水筒で献酒
© KYODONEWS 日米合同の慰霊祭で献酒する人たち=19日午後、静岡市葵区の賎機山
静岡市街地に大量の焼夷弾が落とされた静岡空襲から76年となる19日、犠牲になった市民約2千人と、墜落死したB29搭乗員23人を慰霊する日米合同の慰霊祭が、同市葵区の賎機山で開かれた。市民の他、横田基地(東京都)所属の米軍人約50人が参加。米兵の遺品の一つである、黒く焼け焦げた水筒に入れたバーボンウイスキーによる献酒も行われた。
参加者らは賎機山の山頂に立つ、日米双方を弔う二つの慰霊碑にそれぞれ献花した。
慰霊祭を主催する同市の医師菅野寛也さん(87)はあいさつで「慰霊の行事なくして和解平和はあり得ない」と、毎年開催する意義を説明した。」
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2019年4月2日 朝日新聞デジタル>記事「空襲1945 なぜ敵国兵士を弔うのか 「B29慰霊碑」訪ねて考えた
中央大学(東京都八王子市)の学生が、全国にある米軍爆撃機の慰霊碑にまつわる話を本にまとめた。約2年前に出版した「日本全国B29慰霊碑物語」の続編。2冊合わせて北は秋田から南は沖縄・石垣にある計31の碑を調べた。その調査を通じて学生たちは「戦争とは何か」を考えた。
焦土と化した日本「空襲1945」 あの日の惨禍、写真は語る
空襲・戦火の記憶、記事一覧はこちら
昨年12月に続編を出したのは、松野良一教授のゼミの学生たち。ゼミでは2006年と17年に、青梅市と東村山市にあるB29慰霊碑を取材し、多摩地域のケーブルテレビなどで放映された。その後、「全国にどれくらいのB29に関する慰霊碑があるのか」との疑問から調査、取材した。
総合政策学部3年の谷井健吾さん(21)は山口県柳井市の「平和の碑」を取材した。1945年7月に旧日本軍の攻撃を受けたB24の墜落地に立つ。乗務員は捕虜として広島市に連行され、ほとんどが原爆で即死した。
谷井さんは「なぜ敵国の兵士を弔うのか」という疑問を抱いていた。碑建立に携わった人や、被爆死した米兵の親族……。そこで出会ったのが歴史研究家の森重昭さんだった。
2016年5月にオバマ米大統領(当時)が現職として初めて広島を訪れた際、抱擁した相手だ。「敵国の人間としてではなく、一人の人間として」という森さんの言葉に心を揺さぶられた。「市民同士では敵も味方もないと気付かされた」
総合政策学部2年の佐藤仁紀さん(20)は、宮崎県沖に墜落したB29の慰霊祭を取材した。印象に残るのは、元特攻隊の男性と、墜落機から唯一生還した米兵との慰霊祭での出会い。「戦後70年以上経て仲良くなる。恨むべきは戦争で、兵士ではないとわかった」
本は中央大学出版部からで1部300円。問い合わせは同出版部(042・674・2359)へ。(滝口信之)」
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日本民族は、今日の友は明日の敵・今日の敵は明日の友、という無常にして非情な人間関係を当たり前の事として自然に受け入れ、戦争が終われば戦場で自分の親兄弟を殺した相手に恨み辛みを捨て、遺恨を残さず、長年の友人の如く和気あいあいと酒を酌み交わし心の底から親交を深め、意気投合したら婚姻を結んで家族となった。
その好例が、日本とアメリカやイギリスとの関係である。
隣国の中国共産党政府、韓国・北朝鮮、ロシアとはそんな関係はないし、歴史的事実としてそうし関係を築く事は絶対に不可能である。
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反天皇反日本にして反宗教無神論のマルクス主義者・共産主義者、左翼・左派・ネットサハには、何故、日本人が家族や身内を容赦なく無慈悲に殺した敵兵士を仏として弔い供養し神として祀り拝礼するのか、その民族固有の宗教・伝統・文化・風習が理解できない。
何故なら、彼らにはローカル的な民族の心・志・精神・思い・気持ちがないからである。
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死んだ敵兵を慰霊するのは、日本人が心優しいからではなく、怨みを持つ怨霊・荒神・魔物となって祟られるのが怖いからである。
つまり、恐ろしい憎悪エネルギーを爆発させた死者が残虐な亡霊となって復讐しに来るという恐怖である。
恐怖の亡霊を鎮める為に、日本人が殺した敵兵士を仏として弔い供養し神として祀り拝礼するののである。
全ての死者を弔うという日本宗教の正統性は、仏教・儒教・キリスト教・ユダヤ教・その他ではなく、日本神道であり、日本神話・血の神話を源とする神の血を根拠とする祭祀王である万世一系の男系父系天皇が有する神格である。
神の血を引かない正当な女系母系天皇では、怨念の塊となった亡霊を鎮め、怨みを持つ怨霊・荒神・魔物を癒やす事はできない。
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日本民族は、平和愛好民族として戦争を憎いとは思ってはいないどころか、その時、いざとなったら戦争を辞さず、自ら進んで武器を手に戦場に出て敵と殺し合った。
が、差別主義者や戦争狂の過激な右翼・右派・ネットウヨクとは違う。
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2017年8月15日 デジタル記事「敵味方に関係なく戦死者を弔う日本の伝統精神
テーマ:個人的なこと
靖国神社の敷地内には、国籍を問わず全世界すべての戦没者の霊を祀る「鎮霊社」が建てられています。
日本国のために命を捧げた方々を顕彰する、靖国神社の境内に、靖国本殿に英霊として祀られている方だけでなく、国籍を問わずに全世界すべての戦没者の霊を祀る「鎮霊社」があるという意味はとても大きく、僕は凄く心に想うことがあります。
鎮霊社の前に立て札があり、こんな由来が書かれています。
「明治維新以来の戦争・事変に起因して死没し、靖国神社に合祀(ごうし)されぬ人々の霊を慰めるため、昭和四十年七月に建立し、万邦諸国の戦没者も共に鎮斎する。例祭日七月十三日」
靖国神社には、白虎隊や西郷などは祀られていません。そこを批判する方もいらっしゃるようですが、それを補う意味でも、この鎮霊社はあるんですね。
ただ、この鎮霊社は、靖国神社ができてから、約百年後に本殿とは別に建てられたこともあり、なんらかの政治的作為があるのでは?などという方もいらっしゃるようですね。
でも僕は、素直に鎮霊社の精神、戦争で命を落とした万邦諸国の戦没者を弔いたいという気持ちを信じたいと思います。
というのも、日本には、古来から、敵味方なく戦死者を弔う伝統精神があったと僕は信じているからです。
それは、やっぱり人間は魂の世界から、魂の修行のためにこの世に生まれてきて、生きているうちは魂の修行だから、色んなことがあるにしても、死んで魂の世界に戻ったら、魂の世界は一緒だという、神道以前の古神道の精神に繋るものが、日本には息づいていると僕は思うからです。
また、古来からの怨霊鎮魂の考えも関係しているのかもしません。
たとえば、元寇の時。
元寇で命を落とした人たちを弔うために、北条時宗は、1282年、円覚寺を創建しました。
開山は、時宗が南宋から招いた禅僧・無学祖元。
ここで注目したいのは、両軍の戦死者を供養していることです。凄いでしょ?
九州各地には、元軍の戦死者を弔う「蒙古塚」が今でも残っています。
敵味方なく「死後は神になる」という死者に敬意を表す伝統精神は日本人の誇りで、そうゆう伝統精神があったことを日本人として僕はとてもうれしく思います。
僕は、日本の古来からある、敵味方なく死者を弔うという日本の伝統精神を世界に向けてもアピールするために、横綱白鵬、日馬富士と安倍首相が一緒に、九州の蒙古塚を慰霊に行ってほしいなって思います。
また、日露戦争の後は、日本は旅順近郊の激戦地・案子山にロシア兵戦没者の慰霊塔を真っ先に建てました(なんと!自国の日本兵を弔う慰霊塔よりも先に!)
ロシア人にとっては信じがたいことで、ときのロシア皇帝ニコライ二世は涙を流して感激したといいます。
また第二次世界大戦中、敵国アメリカのルーズヴェルト大統領が死んだとき、日本の鈴木貫太郎首相が弔意の談話をアメリカ国民に向けて発表しています。(同時期、ドイツのヒトラーは訃報に狂喜乱舞していたといいます・・・)
僕はもっともっと日本人自身が、日本には古来から、敵味方に関係なく戦死者を弔う日本の伝統精神があったことを知り、誇りに思ってほしいと思う。
そして、日本には古来から敵味方に関係なく戦死者を弔う日本の伝統精神があったことを諸外国にも知らせるべきだと思う。だって、諸外国にはそうゆう伝統精神はなかったのだから、きちんと知らせないとわかってくれるはずもないのだから。
僕は、この日本の伝統精神は素晴らしいものだし、これからの日本人も大切にしないといけないと思います。
そして、このような伝統精神は諸外国にはなかなかないものだと思うので、これは日本の伝統精神なんだということは、しつこいぐらいに諸外国にアピールすべきだと思います。
最後になりますが、そうでないと、せっかく日露戦争の後、敵国ロシアの戦没者の霊を真っ先に日本が慰霊したことに、ロシアも感謝したということがあったのに、その後シベリア抑留というような不幸な出来事が起こったりもしてしまいますから。
あんな悲劇が繰り返されないように、靖国にある鎮霊社の精神、敵味方に関係なく戦死者を弔う日本の伝統精神は日本人自体がもっと大切にし、誇にほりに思い、そして諸外国にもっとアピールすべきだと僕は思いますが、皆様いかがなものでしょうか?
日本古来からの怨霊鎮魂、敵味方に関係なく戦死者を弔う精神。
敗戦国家日本をさばいた東京裁判を不幸にも日本国民は経験しました。
日本の復讐を恐れてやったGHQのウォーギルトインフォメーション。
それを経験してしまった日本だけに、「いや、日本には敵味方に関係なく戦死者を弔う精神が古来からあったんだぞ」ということは訴えたいものだと思います。
@広島の原爆が落とされた二日後の8月8日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告、満州や南樺太に侵攻する。さらに終戦の日から三日後の8月18日、千島列島北端の占守島に上陸し、千島列島を次々と占領していく。その後、8月28日には択捉島、9月1日には国後島、色丹島、9月5日には歯舞群島まで占領する。
おいおい、日ソ中立条約はまだ失効していない。しかも、日本はポツダム宣言を受諾している。終戦の日を過ぎてもなお侵攻を続け、多数の日本人を虐殺するソ連。・・・」
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デジタル記事「明治維新150周年【いざなう維新】
新年編6 恩讐を越え 「敵」の戦死者弔う
拡大薩摩藩の戦死者の墓の前で法要を営む福島県白河市の丸の内町内会の人たち=昨年8月27日、丸の内町内会提供
写真:薩摩藩の戦死者を弔ってきた丸の内町内会長の箕輪正男さん=福島県白河市
拡大薩摩藩の戦死者を弔ってきた丸の内町内会長の箕輪正男さん=福島県白河市
写真:西南戦争での政府軍、薩軍の戦没者を弔う慰霊塔=鹿児島市の南洲墓地
拡大西南戦争での政府軍、薩軍の戦没者を弔う慰霊塔=鹿児島市の南洲墓地
倒幕、明治維新という大きな時代の変革は、多くの流血を伴った。戊辰戦争の激戦の舞台となった東北では、「敵」だった薩摩藩の戦死者らの弔いが今なお続く。さらに節目の年を迎えて、敵味方を超えて戦没者を追悼する動きが進んでいる。
福島県白河市。JR白河駅から10分ほど歩いたところにある「鎮護神(ちんごじん)山」という小高い丘に登ると、「戊辰薩藩戦死者墓」と書かれた高さ3メートルほどの墓石があった。1868年6月に始まった「白河口の戦い」で戦死した約60人の薩摩藩士たちが眠っている。
会津攻略をめざす薩摩、長州などの新政府軍と仙台、会津藩などの旧幕府軍が白河城をめぐって激突したこの戦いは約100日間にわたって続き、約1千人以上が戦死。戊辰戦争で最大の戦いと言われる。
墓石に刻まれている薩摩藩の戦死者の一人、「二番隊小頭見習 河崎休右衛門良経(よしつね)」は、鹿児島市の河崎良和さん(92)の祖父、良光さんの兄だ。
良光さんは良経、良実(よしざね)の2人の兄とともに白河口の戦いに参加。良経は銃撃を受けて死亡したという。次男の良実は戊辰戦争後の1877年に起きた西南戦争にも加わり、激戦地となった熊本・田原坂で戦死。良光さんだけが二つの戦争を生き抜いた。
良和さんは小学生のとき、戊辰戦争で戦死した良経のことを聞かされた。そして5年ほど前、鹿児島市で開かれた戊辰戦争戦没者慰霊祭で白河に薩摩藩士の墓があることを知り、借りた墓碑銘の写真から「良経」の名前を見つけた。
約80年ぶりに知った大伯父の「消息」。当時24歳だった良経がたけだけしく奮戦する姿が思い浮かんだ。
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薩摩藩戦死者の墓の近くにある長寿院の島村宗忍(そうにん)住職によると、白河口の戦いの後、町中に放置されていた新政府軍の戦死者の遺体を当時の住職が引き取り、藩ごとに墓を建てて丁重に弔った。1915年にはいわき市や三春町にあった薩摩藩士の墓と合葬したという。
毎年8月下旬、地元の丸の内町内会の有志が集まり、墓の掃除をした後、長寿院の僧侶が読経する。法要は少なくとも20年ほど前から続いているという。町内会長の箕輪正男さん(69)は「両軍とも国のためを思って一生懸命戦い、命を落とした気の毒な若者。故郷から離れた敵地だからこそ丁寧に弔ってあげたい」と話す。
今年は戊辰戦争から150年。白河市は7月中旬に、薩摩や長州、大垣など「敵軍」だった自治体から首長や歴史研究家、子孫などを招いた慰霊祭を計画。長寿院も6月10日に慰霊祭を催す予定だ。
「敵地」で続けられてきた弔いに、河崎さんは「本当にありがたく、死ぬまでに一度は訪ねたい。薩摩藩士の墓に手を合わせることで、肩身の狭い思いをしたかも知れないと思うと、胸が痛む、子や孫にもこの気持ちを伝えたい」と話す。
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西郷隆盛らが眠る鹿児島市の南洲墓地に昨年9月、新しい慰霊塔が建てられた。西南戦争の戦没者を薩軍、政府軍の区別なく弔うもので、塔の碑文には「西南之役官軍薩軍恩讐を越えて」と刻まれた。
南洲墓地に政府軍の戦死者を慰霊するものが置かれるのは初めて。記念式典に招かれた大久保利通のひ孫で東京都世田谷区の大久保利泰(としひろ)さん(83)は「140年の月日を経て、ようやくここまで来たことに感慨無量」と語った。
式典には西郷のひ孫で川崎市の西郷吉太郎さん(70)も出席。明治政府に反抗した西郷と、盟友の討伐を指揮した大久保の子孫が握手を交わした。
慰霊塔の建立を呼びかけた同市の大雄山南泉院の宮下亮善(りょうぜん)住職は「歴史を振り返って和解するというだけではない」と強調する。
「今、世界ではいがみあいが続き、『許す』という気持ちがなくなっている。『和をもって貴しとなす』という日本の文化を未来志向でアピールしたい」 (大崎浩義)」
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松井石根 と興亜観音
山田雄司
はじめに
明治 11年 (1878)7月27日、愛知県牧野村(現名古屋市)で 生を受けた松井石根は、陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業。日露戦争に従軍した後、北京・上海などでの駐在を経て、ハルビン特務機関長、台湾軍司令官を勤め、陸軍大将となったが、昭和 10年 (1935)8月、陸軍省内で統制派の永田鉄山軍務局長が皇道派青年将校に共感した相沢二郎中佐に惨殺されるという相沢事件が起きたため、軍の責任を感じた松井は現役を退いて予備役 となった。
中国駐在中、孫文の大亜細亜主義に強く共鳴した松井は、昭和8年3月に大亜細亜協会が設立されると、この運動に進んで参カロし、予備役となった後は会長となり、亜細亜の独立解放など「興亜」の理想を実現すべく活動に邁進した。
しかし、昭和12年8月の第二次上海事変をきつかけに、中国通の松井は現役復帰を命ぜられ、8月15日上海派遣軍司令官となって、9月29日には苦難の末に大場鎮を占領、10月30日には上海軍と第 10軍とを統轄する中支那派遣軍司令官も兼官することとなったが、12月4日朝香宮鳩彦中将が上海派遣軍司令官 となったため、松井は兼任を解かれた。そしてその後南京攻略戦の指揮にあた り、12月10日に総攻撃を開始、13日に南京城は陥落し、17日入城式が行われた。
12月22日には上海に戻り、新政府樹立のための工作に奔走していたがうまく事は運ばず、翌年2月23日海路帰還した。帰国後の松井は傷病兵の慰問や全国の護国神社の参拝などを行い、退役軍人として英霊の冥福を祈り、遺族から依頼された墓碑銘の揮墓などを行つた。その後松井は大森の官舎を引き払い、熱海伊豆山に移り住み、ここに興亜観音 と名づけた観音像を建立し、日本。中国両国戦死者の菩提を弔つた。そして松井は観音堂への参詣と朝夕の観音経の奉唱を欠かさず、あわせて全国の傷病兵の見舞いに努める一方、上海、南京、北支、中支などの戦跡を巡歴して慰霊を行うのとともに、興亜総本部総裁 ・大日本興亜会総裁として「亜細亜の独立」のために奔走した。
敗戦後の松井はほとんど仏門のような生活であつたが、昭和20年10月19日、A級戦犯容疑となり、肺炎のために遅れて昭和 21年3月6日巣鴨プリズンに入獄した。そして極東国際軍事裁判において死刑判決を受け、昭和23年12月23日、7人のうち最初に処刑された。そのときの辞世は次のようである。
天地も人もうらみずひとすじに無畏を念じて安らけく逝く
いきにえに尽くる命は惜かれど国に捧げて残りし身なれば
世の人にのこさばやと思ふ言の葉は自他平等誠の心
衆生皆姑息
正気払神州
無為観音力
普明照亜洲
本稿では、このような松井石根によって建立された興亜観音が、いかなる思想により発案され製作されたのか、またどこにどのような経緯で建立されたのか、さらには興亜観音が人々にどのような影響を与えたのか明らかにしたいと思う。
南京戦後の慰霊
昭和12年12月13日、南京は陥落し、17日に入場式が行われたが、翌 18日に南京戦において亡くなった 日本軍戦死者の慰霊祭が行われた。この慰霊祭について、東京裁判中山寧人参謀の宣誓口述書では以下のように述べ られている。
慰霊祭は初め"中 国軍の戦没者も併せて祈り慰霊する様にせよ、これが日支和平の基調である"と、松井大将は参謀長に祭文其の他の準備をする様に命ぜられましたが、同時の余裕なく後 日に譲ることとなりました。
松井は慰霊祭において日本軍および中国軍の戦死者をあわせて祀ることを考えていたが、師団長から異論が出て、同時の余裕もなかったため日本軍戦死者のみとし、「中支那方面陸海軍戦病歿将兵之霊標」の標柱が立てられ、南京城内故宮飛行場にて松井を祭主として慰霊祭が挙行された。松井はすでにこの時点で日中両国の戦死者の慰霊を考えていたと言える。
また、山ノ井晃道「千人針と観音さま」に以下の叙述がされている。
(昭和12年)十月の或る日の東京朝 日新聞の夕刊は、上海戦の第一線に突撃部隊の勇名を馳せた我が鷹森部隊長の陣中生活の一面を報じてゐる。
鷹森部隊長は日頃、法然上人の教に深く帰依する人となり、死屍なまぐさき戦線に立つては、日毎に戦場の露と消える敵味方の勇士の冥福を祈つて、法然上人の一枚起請文を誦し又南無阿弥陀仏を唱へて亡き霊に回向してゐると云ふ。
鷹森部隊長 とは、松井石根司令官配下の第 3師 団先遣隊連隊長の鷹森孝大佐のことである。彼もまた敵味方の戦死者供養を行つていることが注目される。
さらには、『朝日新聞』昭和12年12月24日には「無名戦士よ眠れ」と題する記事が写真とともに掲載されている。
抗日の世迷い言に乗せられたとは言え、敵兵も又、華と散つたのである、戦野に骸を横たへて風雨に曝された哀れな彼ら、が勇士達の目には大和魂の涙が浮かぶ、無名の敵戦士達よ眠れ !白木にすべる筆の運びも彼 らを思へばこそ暫 し渋る優 しき心の墓標だ
そこには自木に「中国無名戦死者之墓大日本軍建之」と墨で書かれた墓標が4柱横たえている。この記事から、敵兵を弔おうとしていたのは上官だけでなく、兵卒の間でも広く行われていたことがわかる。中国との戦争の際には日本軍による慰霊がしばしば行われ、新聞でもよくとりあげられた。こうした慰霊のあり方がいつからどのような形で行われていたのか、従軍僧との関係も考慮して検討の余地があろう。
昭和13年2月7日には南京で50日祭ともいうべき慰霊祭が挙行された。『松井石根大将陣中日誌』には以下のように記 されている。
午後慰霊祭二参列ス予ハ去年南京入城翌日最初ノ慰霊祭ヲ自ラ祭主トシテ営ミ今日亦五十日祭トモ云フヘキ此祭事二遭フモノナレト異ノモノハ戦勝ノ誇卜気分ニテ寧口忠霊二対シ悲哀ノ情少カリシモ今日ハ只々悲哀其物二捉ハレ責任感ノ太ク胸中二迫ルヲ覚エタリ 蓋シ南京占領後ノ軍ノ諸不始末卜其後地方自治、政権工作等ノ進捗セサルニ起因スルモノナリ例テ式後参集各隊長ヲ集メ予ノ此所感ヲ披露シテー般ノ戒筋ヲ促セリ
忠霊 (病死共) 一人、○○○余
斃馬一二、○○○頭
このとき慰霊されたのは、12月18日の慰霊祭で慰霊された「中支那方面陸海軍戦病歿将兵」の「忠魂」であって、中国人の戦死者の慰霊は行われていない。なおこの時に、「忠霊二対シ」「只々悲哀其物二捉ハレ責任感ノ太ク胸中二迫ルヲ覚エタリ」という感想を残しているのは、「南京占領後ノ軍ノ諸不始末」や「政権工作等ノ進捗」しないことによるためであったとしている。南京入城後、軍紀の乱れから一部兵士による略奪・強姦・暴行・殺人が行われたことに松井は心を痛めていたことが昭和12年12月20日の日記からもわかる。そのため、慰霊祭の際に「軍紀 ・風紀ノ振粛」「支那人軽侮思想ノ排除」といった訓示を与え、規律を正そうと努めている。
この日の夕、中国側の自治委員と会見し、新政権樹立を中国人の手に任せ、そのためには自らも協力を惜しまない旨を述べ、朝香宮軍司令官主催の夕食会では、「兎二角支那人ヲ懐カシメ之ヲ可愛カリ憐ム丈ニテ足ルヲ以テ各隊将兵二此気持ヲ持タシムル様希望」することを各隊長に述べている。中国通であつた松井は慈悲の心をもつて中国および中国人を見ていた。
そして翌2月8日朝、兵靖病院を慰問したが、その際、日中両国僧侶参列の下、中国軍戦死者の慰霊祭を行つていることが注目される。上海派遣軍参謀副長『上村利通日記』にはその様子が以下のように記されている。
松井軍司令官兵靖病院見舞、担江門脇二於テ支那軍戦死者ノ慰霊祭ヲロロニ取り行フ。
「敵ニハアレド亡キガラニ花ヲ手向クル武士道ノ情ケナ リ」自治委員会ノー行、日支ノ僧侶参列ス
この慰霊祭は、南京城北西の担江門脇で行つていることから、昭和12年12月12日日本軍南京侵攻の際、中国軍兵士が担江門から脱出しようとして混乱し、約1000名の中国軍兵士が死亡した担江門事件の慰霊であろう。
さらに2月14日には、上海郊外の呉泄元砲台跡に計画中の聖戦記念塔の地鎮祭を行つている。この地は最初の上陸作戦で多くの日本軍死者を出した激戦地であり、そこに記念塔が建設されることになったのである。また同日、上海東西本願寺に祀られている戦病死者の英霊に参拝している。『松井石根大将陣中日誌』によれば、西本願寺に収容されている遺骨総計は約2万1千で、すでに4千余を還送し、近くさらに6千を還送する予定だとい。また東本願寺の分は総計2千余で、すでに6百余を還送し、近くさらに3百を還送する予定だという。これら多数の戦病死者の遺骨を目の当た りにし、松井は自身の責任の重大さを痛感じ「痛恨ノ至りと記している。
また2月18日には、大場鎮の戦闘で亡くなった 日本軍戦死者慰霊のため建設することになつた表忠塔の題字およびその下に刻記するための詩を書し、それは以下のようであつた。
大場鎮陥落即吟
悪戦力闘三閲月
包疲抜塁斃不已
神哉敵陣旭旗翻
欲餞忠霊幽寂裏
こうした納骨施設を伴つた表忠塔・忠霊塔の類は、日露戦争以後、日本軍が海外で戦闘の後、英霊を弔うため、その地に少なからず建立された。遺骨の大部分は郷里に還送されたが、残つた遺灰は付近の清浄な地に埋葬 され、納骨祠を建立して遺灰は奉安された。
以上、南京戦後、松井の戦死者慰霊に関する記事を抜き出してみた。ここでわかることは、松井は自ら慰霊祭の祭主を務めるなど、積極的に慰霊を行つており、日本軍だけでなく中国人の戦死者慰霊も行つていることである。
松井は2月23日に門司港に到着後、翌朝赤間神宮および乃木神社に参拝しているが、松井は同じ大将として乃木希典を非常に尊敬していた。乃木は日露戦争旅順要塞攻撃で亡くなったロシア軍慰霊のために、明治41年6月10日日露両国の代表者が参列して行われた「旅順陣歿露軍将卒之碑」の除幕式に参カロしたり、旅順要塞攻撃の際に殉じた日本陸海軍将校下士卒の遺骨残灰の一部を合葬して英霊を慰めるために、明治41年3月31日に竣工された旅順白玉山納骨祠や、日本軍戦歿者の英霊を慰めその威烈を千載に伝えるために、明治42年11月28日に竣正式が行われた旅順表忠塔にも深く関わつていることから、慰霊に関してこうした乃木のあ り方に倣つたのであろう。「旅順陣歿露軍将卒之碑」建立の意図は、戦時中は「仇敵」だつたが戦後は「友邦者」となったのであり、自国に忠義を尽くし戦歿した「英霊」が存するのであるからもちろん敵国にも戦歿した「英霊」がおり、その遺屍が「無頼土民の徒」に冒涜されないように改葬して弔い、その義烈を千載に伝えようとしたものであつたとされている。こうした慰霊のあり方は、武士道と結びついて醸成され、さらには松井石根が強調した「怨親平等」思想に基づいた興亜観音建立へ とつながっていく。
2 興亜観音の建立
熱海伊豆山に建立された興亜観音の経緯については、田中正明編 『松井石根大将の陣中日誌』に紹介される熱海伊豆山温泉旅館涼々園主人古島安二氏の手記 「興亜観音建立由来記」に詳しいので、それをまとめる形で紹介 したい。
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「建立縁起」には次のように記されている。
支那事変は友隣相撃ちて莫大の生命を喪滅す。実に千歳の悲惨事なり。然りと雖、是所謂東亜民族救済の聖戦たり。惟ふに比の犠牲たるや身を殺して大慈を布く無畏の勇、慈悲の行、真に興亜の礎たらんとする意に出でたるたるものなり。予大命を拝して江南の野に転戦し、亡ふ所の生霊算なし。洵に痛惜の至りに堪へず。方に此等の霊を弔ふ為に、彼我の戦血に染みたる江南地方各戦場の土を獲り、施無畏者慈眼視衆生の観音菩薩の像を建立し、此の功徳を以つて永く怨親平等に回向し、諸人と倶に彼の観音力を念じ、東亜の大光明を仰がん事を祈る。
因に古島安二氏其他幾多同感の人士併に熱海市各方面の熱心な協力を感謝す。
紀元二千六百年二月
願主 陸軍大将松井石根
また、『朝日新聞』静岡版昭和15年2月25日「"冥福を祈つて"願主松井大将は語る」には、「興亜観音開眼式の二十四日朝、松井大将は牧少将を通じて観音建設の意向を次の如く語つた」として、
興亜の大光明を仰ぎ度い一心からこの大業のために尊い犠牲となつた皇軍将士とこれも同じ大業のためたふれた支那の兵士の霊を併せて弔ひ度いのが自分の念願で皇軍将士は靖国の神 と祀られるのであるが皇道精神から見れば自分が観音像を建ててその冥福を祈る気持もそれに合致してゐると信じてゐる、本籍迄熱海へ移した自分はここで幾多の英「
霊を慰めながら余生を送り度いと思ふ
と記されている。
「建立縁起」では、「怨親平等」が明確に記されており、観音菩薩の力によつて亡くなった人々の菩提 を弔い、さらに東亜民族の救済を念じている。
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興亜観音の造立は、戦死者を悼む多 くの人々の心を動かしていった。
3 各地に建立された興亜観音
興亜観音は熱海のものが著名であるが、それだけではなかった。新聞記事で興亜観音について報道されるや、怨親平等思想に共鳴した僧侶が自らの寺院にも興亜観音を建立したいとの希望を松井に申し出、松井はそれに対して快諾して、他所においても興亜観音が建立されることになった。
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台座銘には以下の「興亜観音建立縁起」が記されている。
支那事変戦没者追悼供養の為観音大士を建立す、願くはこの功徳を以て普 く怨親平等に回向し、日華両民族倶に妙智力に依倍して速やかに東亜の大光明を仰かんことを祈る、
昭和十六年七月吉日 金 剛廿一世観 梁曳
「辛巳端午
怨親平等
祐民誼」
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ここで も戦争で亡くなった日中両国の戦没者の供養として「怨親平等」が強調され、観音菩薩の力によつて大東亜建設がなされるよう祈願している。「怨親平等」と揮豪した祐民誼は、民国 29年 (1940)3月 、南京国民政府の行政院副院長兼外交部長となり、日本との外交折衝を主に担当し、同年12月駐日大使となつた人物である。年月からして、駐日大使として日本に赴任してい る際に依頼されて揮皐したと思われるめ。
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おわりに
以上、興亜観音建立の経緯について紹介した。これまでは熱海の興亜観音にのみ注目が集まり、他の興亜観音についてはほとんど忘れられていたと言つてよい。その背景には、松井石根が戦犯として処刑されたり、「興亜」という語が否定されたことにより、興亜観音も忌避されるようになったということもあろう。
松井が興亜観音を建立したことに対して、偽善にすぎないとの見方もある。しかし、松井の人となりを見れば、そのような推測はあたらないことがわかる。松井は尊敬する乃木希典に倣い、武士道に基づいて、勇敢に戦つた敵将もたたえて祀つたのである。そしてそこには仏教思想の影響もあり、「怨親平等」を唱えるようになったと考えられる。彼の晩年はひたす ら戦死者の冥福を祈ることに費や されたのである。
戦地に赴いた兵士の間では、弾除け観音や観音のお守りを身につけたりするなど、観音信仰が広がっていた。また、従軍僧や兵士たちによる敵味方のない戦死者の慰霊も数多 く行われた。こうしたことを受けて、松井は帰還後、興亜観音を建立し、毎日参拝して観音経を唱えた。
従軍の後、出家した兵士も少なくない。戦争という狂気に翻弄され、生き延びた者がせめてもの思いとしてできる行為が、死者への慰霊である。そこには古代以来続く日本人の霊魂観を基層として、時代とともに変わる慰霊のあり方がある。私は、興亜観音の前に立つとき、歴史に翻弄された多くの先人たちの姿を思い起こさずにはいられない。
(やまだゆうじ 二重大学人文学部)」
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