✨15)─2・B─戦争犯罪。九州大学生体解剖事件。昭和20年5月17日。~No.53No.54No.55 

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 心清き善い日本人は2割、心穢れた悪い日本人は3割、心が清くもなく穢れてもいない同調圧力・空気に流される根なし草のような自我が弱い日本人は5割。
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 2021年6月20日 MicrosoftNews 朝日新聞デジタル「戦時中に処刑された米兵ら43人、日米関係者が慰霊
 © 朝日新聞社 犠牲になった米兵を悼み、焼香する旧陸軍将校の遺族、冬至克也さん=2021年6月20日、福岡市城南区
 76年前の6月20日、福岡市にあった旧陸軍の西部軍管区司令部に捕らわれていた米兵8人が軍律会議を経ずに処刑された。8月にも同様の処刑があり、5月と6月には九州帝国大(現九州大)での実験手術の末、米兵が殺された。これら計43人の米兵を慰霊する法要が20日、福岡市城南区の油山観音であった。
 法要には処刑に加わって戦犯となった軍人2人の遺族や、米国のジョン・C・テイラー在福岡首席領事らが参列した。大分県の航空戦史研究者、深尾裕之さん(50)の働きかけで実現した。犠牲者の写真や日米の国旗が飾られた本堂で読経や焼香があり、犠牲者の遺族からのメッセージも読み上げられた。
 参列者の一人、冬至克也さん(67)=福岡市中央区=の父、堅太郎さん(故人)は6月20日の処刑に加わった。堅太郎さんは処刑の前日に空襲で母を亡くしており、処刑された米兵は、いずれもこの空襲とは別の日に墜落した米軍機の乗組員だった。
 終戦後に米軍がBC級戦犯を裁いた横浜裁判で死刑判決を受け、減刑されて出所した後、自宅に4体の地蔵を置いて自身が手にかけた4人の米兵を慰霊した。地蔵はいま油山観音の本堂裏にある。法要でも出席者が地蔵に手を合わせた。
 克也さんは「あの戦争は何だったのか。戦争なくして、この平和をもたらすことは出来なかったのか。この国の主権者として深く思う」と話した。
 左田野渉さん(62)=東京都荒川区=の父、修さん(故人)は8月10日の処刑を命じられた。修さんは生前、当時の心境などを詳細な手記に残した。その中には「処刑した相手はまだ若く、自分には悔いがある」との記述もみられるという。渉さんは法要後、「遺族として米国側の人と接したのは今日が初めてだった。息子として、父の代わりに慰霊の場に出られてよかった」と述べた。
 テイラー首席領事は「第2次世界大戦で日本人の苦しみは多かったと思う。それなのに今日、このような集まりに参加できて米国の代表としてうれしい」と話し、「私たちの責任は二度とこのような戦争を起こさないことだ」と語った。(吉田啓)」
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 NHK ETV特集
 2015年 12月12日(土)よる11時放送
 再放送12月19日 午前0時放送(金曜深夜)
 “医師の罪”を背負いて
 ~九大生体解剖事件~
 終戦間際の1945年5月から6月にかけて、九州帝国大学医学部で米兵の捕虜を使った生体実験が行われた。世に言う「九大生体解剖事件」。墜落したB29の搭乗員8人に対し、海水を使った代用血液を注入するなどのさまざまな生体実験の手術が行われ、捕虜たちは死亡した。戦後70年間タブー視され、多く語られることのなかった「負の歴史」。生体実験に関わった医師や看護師は、すでに全員が事件についてほとんど語らぬまま亡くなってしまった。しかし、ただ一人、そのとき医学生として生体実験手術の現場に立ち会った証言者がいる。東野利夫さん(89)である。東野さんは戦後、福岡市内で産婦人科医院を営みながら、国内外で関係者に取材を重ね、多くの壁にぶつかりながらも、事件と向き合う地道な活動を続けてきた。
 事件は、関係者や私たちに一体何を残したのか。私たちは何を反省し、何を語り継ぐべきなのか。番組では、東野さんの証言や亡くなった関係者・遺族への取材を通して、「九大生体解剖事件」からの70年という歳月の意味を見つめる。
 語り:池田成志(内容59分)
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 ウィキペディア
 九州大学生体解剖事件は、第二次世界大戦中の1945年に福岡県福岡市の九州帝国大学(現九州大学)医学部の解剖実習室においてアメリカ軍捕虜に生体解剖(被験者が生存状態での解剖)が施術された事件。相川事件ともいわれる。
 大学が組織として関わったものではないとの主張もあるが、B級戦犯裁判ならびにその後の関係者の証言、関係者の反倫理的行為への意図的な隠蔽と否認などから、医学部と軍部の両方による計画的実行であったとする見解もある(#九州帝国大学の組織的関与についてを参照)。 物的証拠は無くあくまで証言のみで有る。
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 『海と毒薬』は、遠藤周作の小説。1957年に発表された。
 太平洋戦争中に、捕虜となった米兵が臨床実験の被験者として使用された事件(九州大学生体解剖事件)を題材とした小説。テーマは「神なき日本人の罪意識」。第5回新潮社文学賞、第12回毎日出版文化賞受賞作。熊井啓監督で同名の映画が製作された。
 作中では九州帝国大学ではなく「F市の大学病院」とのみあり、登場人物も同事件に関わった特定の実在人物をモデルにしたものでない。ストーリーの構成においても創作性の強い作品である。
 遠藤が九州大学病院の建物に見舞い客を装って潜り込んだ際、屋上で手すりにもたれて雨にけぶる町と海とを見つめ、「海と毒薬」という題がうかんだという。評論家の山本健吉は、「運命とは黒い海であり、自分を破片のように押し流すもの。そして人間の意志や良心を麻痺させてしまうような状況を毒薬と名づけたのだろう」としている。
 あらすじ
 引っ越した家の近くにある医院へ、持病を治療しに通う男。男はやがて、その医院の医師・勝呂(すぐろ)が、かつての解剖実験事件に参加していた人物であることを知る。
 F市の大学病院の医師である勝呂。彼は、助かる見込みのない患者である「おばはん」が実験材料として使われようとすることに憤りを感じるが、教授たちに反対することが出来なかった。当時、橋本教授と権藤教授は医学部長を争っていたが、橋本は前部長の姪である田部夫人の手術に失敗し、死亡させてしまう。名誉挽回するために、B29の搭乗員の生体解剖を行い、勝呂と戸田も参加することになる。
 テーマ
 成文的な倫理規範を有するキリスト教と異なり、日本人には確とした行動を規律する成文原理が無く、集団心理と現世利益で動く傾向があるのではないか。小説に登場する勝呂医師や看護婦らは、どこにでもいるような標準的日本人である。彼らは誰にでも起き得る人生の挫折の中にいて、たまたま呼びかけられて人体実験に参加することになる。クリスチャンであれば原理に基づき強い拒否を行うはずだが、そうではない日本人は同調圧力に負けてしてしまう場合があるのではないか──自身もクリスチャンであった遠藤がこのように考えたことがモチーフとなっている。
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 西日本新聞
 『海と毒薬』九大生体解剖事件 思考停止、良心はあえいで
 2020/11/9 12:00 (2021/4/15 8:47 更新)
 吉田 昭一郎
 太平洋戦争末期の1945年5月、九州帝国大(現・九州大)医学部の医師らが、米軍爆撃機B29の乗員で捕虜となった米兵8人を生体解剖した事件を題材にした劇映画「海と毒薬」(1986年、熊井啓監督、原作・遠藤周作)。ともに解剖に参加する研究生で、忠実に務めを果たす戸田(渡辺謙)と、良心の呵責(かしゃく)に苦しむ勝呂(奥田瑛二)の対話を軸に、事件の内実を解き明かしていく。
 【関連】『EUREKA ユリイカ』バスジャック被害者、ともに歩む再生の軌跡
 今から見れば、健康な人間の人体解剖実験は明らかに医療倫理に反する犯罪行為だ。体格検査だと偽ってベッドに寝かせ、気づいてあらがう捕虜を数人で押さえつけて麻酔で眠らせ、切開する。人間はどの程度の肺の切除までなら生存できるのか、解剖するのだ。
 戦時下、執刀する教授はこう正当化する。「相手は国際法違反の無差別爆撃を重ねた敵国兵だ」「大本営も8人の処置は現地に任せている。心配無用だ」「医学者として(人体実験は)願ったりの機会」。今、裁けば狂気だろうが、当時は罪悪感を抑え込むのはそう難しくなかったのだろうか。
 教授や戸田らは一つ一つ実務的に解剖を進めるが、勝呂だけはじたばたする。身をすくめて解剖室の隅っこに退いて目をつぶったり、手術台をちらちら見ては両手で目を覆い耳をふさいだり。極めて人間的である。
 なぜ生体解剖に参加したのか、勝呂は連合国側の追及に語る。「私はひどく(生体解剖に)抵抗を感じとったとですよ。ばってん、そんころ体も心もひどう疲れとって、それ以上考えるのが苦しかったとです」「もうどうでもよか、考えてもしょうのなかことと、私一人の力ではどうにもならない世の中なんだと、自分に言い聞かせて…」。思考停止に陥ったのだ。
 一方、戸田は葛藤に苦しむことはない。「良心の呵責とは、他人の目、社会の罰に対する恐怖だけ」と話す。軍国国家の社会規範、世間の筋道から外れなければ何ら問題はないというわけだ。
 実際には勝呂のように取り乱す人物はいなかっただろう。そんなことをすれば、失格者の烙印(らくいん)を押されて、医師生命を失うかもしれない。戸田の方がむしろ当時の医師らの本音や気分に近い気がする。
 戸田は「実験は捕虜を殺したのではなく、医学の進歩のために生かしたのだ」と、言い訳めいた言葉をかけて勝呂を慰めるが、その文脈に当時のリアルを感じた。捕虜の命を奪った解剖後、「なぜ俺の心はこんなに無感動なんや」とつぶやくのもまた伝わるものがある。
 ドライで切れ者の戸田と、誠実で気が優しい勝呂。渡辺と奥田は、対照的な人物をくっきりと縁取りするように演じている。
 異形に映る勝呂のためらい、おびえは医師らが心の奥に封印した良心を擬人化した姿にも思えた。良心を自由に表に出せなくなる前に、手を打たなければ取り返しがつかなくなる。国の動きと世の流れは、油断なく見ていかなければならないのだと思う。 (吉田昭一郎)
 ※「フクオカ☆シネマペディア」は毎週月曜の正午に更新しています
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 西日本新聞
 捕虜の遺体「あの感触は、今も消えない」 九大生体解剖事件【狂気のメス<1>】
 2021/4/14 12:18 (2021/4/14 12:18 更新)
 復刻連載【狂気のメス<1>】
 下崎 千加
 70年前と同じ青空が広がった5月5日、大分県竹田市の山中で慰霊祭が開かれた。米爆撃機B29が墜落した地。「殉空之碑」には死亡した米兵11人の名が刻まれている。うち8人は遠い別の場所で命を落とした。狂気のメスによって-。
 事情を知る人物が慰霊祭の会場にいた。福岡市の医師、東野(とうの)利夫さん(89)。 「解剖実習室で血の付いた床を流したときの何とも言えん気持ちは、今も忘れられんとです」。事件は1945年5月17日に起きた。
 九州帝国大医学専門部(福岡市)に入って間もないころだった。教授の手伝いで解剖学教室に詰めていると、目隠しをされた白人2人が護衛兵に抱えられ、実習室へ入っていった。
 気になってのぞくと、麻酔で眠る一人が解剖台に横たわり、白衣姿の約10人に囲まれていた。陸軍将校が説明する。「この捕虜は無差別爆撃をやったB29の搭乗員である。傷は落下傘で降りてきたときに村民から猟銃でやられたものだ」
 メスで肩から胸にかけて切開された。ポキポキという音とともにあばら骨が切り取られていく。赤紫の臓器が取り出された。「人間は片肺でも生きられる」。執刀医の声が聞こえた。中座して戻ると息絶えていた。
 もう一人の手術が始まり「君、手伝ってくれ」と透明の液が入った輸液瓶を持たされた。この捕虜には傷が見当たらない。それでもメスの動きにためらいはなかった。胸の上下動がしばらくして止まった。
 遺体が並ぶ中、バケツの水で床の血を洗い流した。上級生が「貴重だからな」と遺体から標本を採取し始めた。眼球摘出のため、頭を押さえさせられた。
 5日後にも2人の手術に立ち会った。最初から治療する気などなかったのではないか…。疑念が確信に変わったのは、自分が不在の間にも4人の手術があり、全員が火葬されたと知らされたときだった。
 あれから70年。東野さんは両手を開いて眺め、苦しそうにつぶやいた。
 「まだぬくもりのある頭を押さえたときの、あの感触は、今も消えない」
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 戦争犯罪として医師ら14人、軍人9人が死刑(後に減刑)を含む有罪となった九大生体解剖事件。判決後はほとんどの関係者が口をつぐみ、タブー視されてきた。その禁を破って語り始めた人たちがいる。思いに迫る。
悪が支配「私なら断れたか…」 墜落の村訪問 真相調べ
 九大生体解剖事件に関わった福岡市の医師、東野(とうの)利夫さん(89)は、1948年の軍事裁判で証言台に立った。その中で、手術中に持たされた輸液瓶の中身が博多湾の海水だと知る。本土決戦で負傷者が多数出ることを想定した「代用血液」開発実験だったのだ。
 自身は罪を問われず、60年に産婦人科医として開業した。命の誕生に立ち会う一方、命を奪う行為に加担した過去に苦しんだ。眠れず、心療内科に通った。
 「命を救う医者がなぜ、あんな残酷なことをしたのか」。答えを見つけなければ苦悩から逃れられない。裁判資料を読み、刑期を終えた元教授に話を聞くなどして真相を調べ始めた。
 74年には事件の始まりを探ろうと、大分県竹田市と周辺を訪ね歩いた。B29の墜落場所に行き着き、土地の所有者である工藤文夫さんに会う。「本当にかわいそうなことをした」と言われたときは、自分と同じ傷を負っていると感じた。
 墜落場所の周辺には、日本軍機に体当たりを受け、搭乗員12人が落下傘で降下した。1人は墜落死、1人は拳銃自殺、1人は住民に猟銃で射殺された。捕縛された9人が福岡市の西部軍管区司令部に移され、機長をのぞく8人が生体解剖の犠牲となったとされる。
 工藤さんの三女、田口トシ子さん(81)=大分市=はあの日を覚えている。
 当時11歳。国民学校防空壕(ごう)でドーンという音を聞いた。帰宅中、右肩に被弾した搭乗員が戸板に寝かされているのを見た。別の1人を、竹やりを構えた住民が囲んでいた。100人以上いて「あだ討ちじゃ」と殺気立っていた。
 後日、1セント硬貨を拾った。「後で返してやろうと取っておいたけど、そんな日は来ませんでした」
 戦後、連合国軍総司令部GHQ)の捜査の手は山村にまで伸びた。竹田市熊本県阿蘇郡で数百人が取り調べを受け、射殺や暴行、遺体に石を投げたりした事実が明らかになった。加害の記憶がのどかな山村に影を落とし、九大事件と同様、誰も語らなくなった。
 そこに現れたのが東野さんだった。工藤さんと資金を出し合い、墜落跡地に石碑を建てた。77年から慰霊祭を毎年開き、91年に工藤さんが90歳で亡くなってからは長男の勝昭さん(78)が引き継いできた。
 70年がたち、戦争の記憶は遠のいていく。「竹田の皆さんが忘れずにいてくれる。ここに来ると救われます」と東野さん。一方で思う。ひとたび戦争になれば人の心を憎悪が支配する。九大事件の首謀者とされ、逮捕直後に自殺した第1外科教授は医学界のエリートだった。「私だったら断れたか…。自信はない」。東野さんの自問は続く。 (下崎千加)
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 この連載は2015年6月に掲載しました。文中の年齢、肩書、名称などの情報は全て掲載当時のものです。
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