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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本軍の将兵であれば人種・民族・民族の差別なく平等・公平に靖国神社の祭神として祀られ、天皇が感謝の言葉と顕彰の詔を述べ頭を垂れて礼拝した。
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日本は、集団的自衛権でシベリアに出兵して失敗した。
だが、日本陸軍は輝かしい成果を挙げていた。
シベリア出兵を否定する日本の歴史書は、全て無意味で、無価値で、評価に値しない。
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2020年3月13日 読売新聞「通りに旧日本軍中佐の名前
捕虜1,000人救出に感謝
トルコ・日本『友好の道』
トルコ最大都市イスタンブールの通りに、旧日本軍・津村諭吉中佐の名前が冠される。約100年前、苦難の末にトルコ(旧オスマン帝国)軍人捕虜をロシアから帰還させた人物だ。埋もれていたエピソードがトルコで脚光を浴びている。
(イスタンブール 酒井圭吾)
『YUKICH・TSUMURA』通りは、海沿いのベイコズ区に誕生する。全長1.3キロ・メートルと短いが、近くにスルタン(皇帝)の宮殿がある風格の高い場所にある。昨夏、アイドゥン区長が提出した名称変更議案を区議会が可決し、2月にイスタンブール市議会も変更を認めた。今月にも正式に中佐の名が刻まれる。
旧日本軍は1918年、第一次世界大戦でシベリアに抑留されたトルコ兵約1,020人をロシアの了解を得て解放した。中佐は彼らをトルコに送還する任務に就いた。21年に極東ウラジオストクを輸送船『平明丸』で出発したが、エーゲ海でトルコと対立するギリシャにだほされた。
中佐はトルコ兵の引き渡し要求を拒否した。食糧を分け合いながら船内にとどまって抵抗。トルコ兵は、22年に母国にたどり着いた。
トルコのエルドアン大統領は昨年6~7月の訪日時、安倍首相に中佐の逸話を披露している。ベイコズ区に日本の支援で開校した海洋専門学校がある縁で、改名を思い立ったというアイドゥン区長は『決して有名ではない話だが、これを聞いた野党の区議や住民も感動して納得してくれた。日本とトルコの友好の新たな象徴にしたい』と話している」
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2021年9月23日 産経WEST 正論モーニング「日本軍がトルコ兵千人を救った 「エルトゥールル号」に続く新史実をトルコ政府が本に
小島 新一
有料会員記事
『捕虜生活から自由へ』で、ギリシャ軍からトルコ軍捕虜を守り抜いたと称えられている津村諭吉中佐(左ページ)同書は非売品で、研究機関などに贈られる
第一次世界大戦後の1921(大正10)年、日本陸軍が、シベリアでロシアの捕虜となっていたトルコ軍将兵約1千人を本国に生還させたことがトルコ国内で脚光を浴び、同国政府が今月、経緯をつづった本を日本語で出版した。トルコ語のほか英語版も出版し、世界に発信するという。日本とトルコの間では、トルコ軍艦「エルトゥールル」号遭難事故の乗組員救助(1890・明治23年)、その「恩返し」とされるイラン・イラク戦争下の邦人救出(1985・昭和60年)に象徴される「人道の絆」が紡がれてきた。その歴史に新たな1ページが加わりそうだ。
日本軍将兵も一緒に抑留された
第一次世界大戦の東部戦線で帝政ロシア軍の捕虜となったトルコ兵たちの存在は、シベリア出兵中の日本軍が発見。同大戦で日本とトルコは、連合国、同盟国と対立する陣営に属していたが、日本軍は管理地域の捕虜たちを本国に送還することを決定。1921年2月23日、トルコ軍捕虜1032人(現地で結婚した妻や子供数人も含む)と、日本軍指揮官の津村諭吉陸軍中佐(出発時は少佐)以下28人の日本軍人を乗せた民間の貨物船「平明丸」がウラジオストクから出港した。
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西日本新聞
2021年9月23日(木
捕虜を守り抜いた日本の信義
2021/9/2 6:00 [有料会員限定記事]
津村諭吉という人物をご存じだろうか。昨秋、トルコ・イスタンブール市内の通りが「ツムラ・ユキチ通り」と名付けられた。背景には100年前に生まれた日本とトルコの友好の秘話がある▼第1次大戦でロシアの捕虜となり、シベリアに抑留されたトルコ兵を、日本が送り届けることになった。大戦では、日本は英仏ロなどの連合国側、トルコはドイツなどの同盟国側で戦った...
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FNNプライムオンライン
「ツムラ・ユキチ通り」トルコに日本人名の通りが登場…平明丸事件の真実
~時を超えて結ばれる日本とトルコの友情~
2020年10月22日 木曜 午後6:30
2020年秋、イスタンブール市内のある通りが「津村諭吉中佐通り」と改名された。ボスポラス海峡に近いこの閑静な並木通りは、周囲を公園やグラウンド、学校に囲まれている。トルコに名を刻まれた、この津村諭吉とは誰なのか?
捕虜の引き渡しを拒否
津村中佐は、第1次世界大戦中にロシアの捕虜となった1000人あまりのトルコ兵を母国に送還した、旧日本軍の輸送船・平明丸の司令官だ。平明丸はトルコ到着直前にギリシャ軍に拿捕され、津村中佐は捕虜の引き渡しを要求されたが、これを拒否した。そして7カ月近い抑留の末、仲介役のイタリアに捕虜を引き渡し、トルコ兵らを救った人物だ。
拿捕された当時の日本の新聞には、以下のように記載されている。
{大阪毎日新聞(1921年4月22日付):
シベリアに在った俘虜(捕虜)のトルコ兵を大洋汽船平明丸でトルコへ送還中、ギリシャ政府はアンカラ政府と戦争状態にあるを以て、トルコの俘虜を送還する事は即ち敵軍の勢力を増加する結果となるに依り、トルコ国の俘虜をレスボス島に上陸させるよう交渉して来たけれども、日本当局が之を承認しなかった為めギリシャ軍司令官は直に平明丸を抑留した。
※一部省略。原文の地名はカタカナに変換済}
旧日本軍の輸送船 平明丸
拿捕を受けて日本はギリシャの後ろ盾だったイギリスなどと話し合いに入った。しかし、協議は遅々として進まず、最終的にイタリアの仲介で決着をみた。平明丸がイタリアのアシナラ島で、イタリア側に捕虜を引き渡したのは1921年10月18日。冬のエーゲ海は波が荒く、雨も多くて航海には向かない。平明丸が日本に向けて引き返すにはぎりぎりの時期だったと見られる。トルコ人捕虜の多くは最終的に1922年6月に無事帰国、その後はギリシャの懸念通り直ちに祖国解放戦争に参加し、同年9月にギリシャ軍はトルコから完全撤退した。
映画化された「平明丸」事件
しかし、約100年前の事件がなぜ今、トルコで注目を浴びたのか? 実は、トルコ人監督による「平明丸 母国トルコへ帰るとき」と名付けられたドキュメンタリー映画が制作されたことをきっかけに、この事件が知られるようになったのだ。作品はトルコだけでなく日本でも上映された。さらにエルドアン大統領が2019年6月、G20大阪サミットに出席した際に次のように発言したことが、津村中佐の知名度を一気に高めることになった。
第1次世界大戦時に、ロシア軍の捕虜となっていたトルコ兵の身柄をギリシャ軍に引き渡すことを拒否した船の司令官、津村中佐に親愛と敬意を表し、心から感謝する。
早くも地元住民に浸透
「津村諭吉中佐通り」ができたイスタンブール・ベイコズ区は、1973年に日本の支援で開校した海洋専門高校があり日本との結びつきが強い。ベイコズ区では、エルドアン大統領の日本での発言を知り、両国の友好の証としてこの通りの改名に着手したという。改名案は2019年9月にベイコズ区議会で可決され、翌年2月にはイスタンブール市議会でも全会一致で可決した。 筆者は「津村諭吉中佐通り」と書かれた看板の前で、地元の人たちに話を聞いた。
クトゥプさん(女性):
ギリシャ軍がトルコ人兵士らを捕虜にしようとしたけど、この司令官が拒否したのよね。通りに彼の名前が付けられてとても嬉しいわ。彼のような素晴らしい人の名前が後世に受け継がれていくことは素晴らしいことよ。彼が居て本当に良かった。この逸話を知って感動したわ。彼の功績に対し、日本人の皆様に感謝したい。ありがとう。
イスマイルさん(男性):
捕虜になった日本人中佐の話は地元新聞で見たよ。トルコと日本の話はこれが初めてじゃない。その前にもエルトゥールル号(※注)がある。映画を観て本当に感動したよ。日本の貧しい村の人々がトルコ人を一生懸命もてなしてくれたんだ。トルコ人も日本人も困った人を放っておけない国民性を共有しているから、民族は違っても心は一緒だよ。
※注)親善のため訪日したトルコの軍艦エルトゥールル号が、1890年和歌山県串本町沖で嵐に遭遇し沈没。乗組員ら587人が死亡したが、地元民らにより69人が救出された。この歴史的な友情と絆の物語が、2015年に日本・トルコ合作映画『海難1890』として公開された。
(関連記事:明治から令和へ~“贈りもの”が語りかける日トルコ友好の「原点」…修復に込められた思い)
両国の遺族が対面
日本の先人たちが行った善行のおかげで、トルコ人の日本人に対する信頼は絶大だ。映画「平明丸 母国トルコへ帰るとき」のハイリエ・サワシュチュオール監督と、平明丸に乗っていたトルコ兵の孫のシェナイ・アテシさんに話を聞いた。サワシュチュオール監督はシェナイさんの父・ムスタファ・ドクルさんの視点でドキュメンタリーを制作。シェナイさんは、津村中佐の遺族に会うために訪日も果たしている。
サワシュチュオール監督:
この史実を知った瞬間、衝撃が走りました。7年もの抑留と船旅を経てトルコの大地が見えるところまで来て、再び捕虜となったトルコ兵らの無念と、日本人乗組員に死者が出ても信念を曲げず最後までトルコ兵を引き渡さなかった日本人中佐の話。「このまま埋もれさせてはいけない。何とかして世に知らしめたい」という使命感に駆られました。そんな中、トルコ兵だった父親の平明丸での体験をホームページに載せていたムスタファ・ドクルさん(シェナイさんの父親)と出会ったのです。彼が父親の軌跡を追っていたことを知り、彼の目を通してドキュメンタリーを作成しようと思いました。
トルコ兵の孫のシェナイさん:
祖父から伝えられた話の中で父と私の心に最も響いたのは、津村中佐がイタリアの島でトルコ兵らと別れる際、全員にひとりずつ声をかけたことでした。訪日前に祖父の墓参りをしましたが、津村中佐の孫である赤澤周平さんと日本で初めて会ったのも中佐の墓前でした。その墓に眠る津村中佐と祖父が一緒にいたのだと思うと、とても感慨深かったです。赤澤さんは「100年近く経った今も、トルコで自分の祖父のことが忘れ去られていなかったことに感銘を受けた」と話していました。完成した映画を初めて見たとき、(祖父の平明丸での体験を追った)父が「お父さん、私はあなたを見つけたよ!」というシーンで、私は涙が止まらなくなりました。父による「父親探しの旅」がこれで報われたのだと感じました。平明丸でつながったこの縁こそが、祖父が私たちに残してくれた遺産だと思っています。
監督とシェナイさん一家は、津村中佐の孫である赤澤さん一家をトルコに招き、平明丸に救われたトルコ兵の遺族と一堂に会することを心待ちにしている。全員で、この「津村諭吉中佐通り」を歩くのが夢だという。新型コロナウイルスが収束し、1日も早くその日が訪れることを願いたい。
【執筆:イスタンブール支局 土屋とも江】」
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トルコ人「日土友好!」 トルコがイスタンブールの通りにトルコ人を救った日本人の名前を付ける
翻訳元
スレ主
イスタンブールの通りにトルコ人を1000人以上救った日本軍人の名前が名付けられる。
Istanbul street named after Japanese officer who saved over 1000 Turks
イスタンブールの通りに日本船平明丸の指揮官の名前が名付けられた。平明丸はWW1でロシアに捕まったトルコ兵1012人をイスタンブールまで送り届けた。
平明丸はエーゲ海でギリシャに止められたが、津村諭吉中佐はトルコ人捕虜をギリシャ兵に渡すのを拒否した。
津村中佐のヒロイズムはHayriye Savaşçıoğlu氏によって「Vatana Giderken: Heimei Maru」('故郷への道程:平明丸)というドキュメンタリーとなって公開された。
WW1では6万5千人以上のオスマン兵がロシア軍に捕まり、ロシア最東端の港湾都市ウラジオストクまで送られた。
当時ロシアと同盟国だった日本はロシア革命の混乱に乗じてウラジオストクを占領し、オスマン帝国の囚人を引き継いだ。
戦争後、囚人を故郷に戻そうとする動きが始まり、1921年に日本はトルコ人をイスタンブールに送ることに決めた。
トルコ政府は捕虜を連れ戻すために日本に48000ポンド送り、日本政府は平明丸を派遣した。
船はスエズ運河を経由して地球海へと入り、イスタンブールを目指した。
途中でギリシャ軍艦によって停止され、囚人を引き渡すように要求されたが津村中佐はそれを拒否した。
船旅は簡単なものではなく、途中で病気で倒れる囚人もいた。
平明丸は1921年2月23日に出港し、1922年6月19日にトルコへと辿り着いた。
イスタンブール市議会は2019年7月1日に通りの名前を津村中佐の名前で名付けるように要請を出していた。
市議会のメンバーは「日本の指揮官が我々をギリシャ兵に渡さなかったのは素晴らしい勇気の一例である。津村中佐の名前を我々の地区の通りに名付けて敬意を示したい」と述べた。
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日本陸軍は、戦闘中にもかかわず、ロシア人避難学童・ポーランド人戦争孤児・ユダヤ人難民・白系ロシア人らを赤軍(ソ連軍)・ロシア人共産主義者から助けていた。
日中戦争時には、ナチス・ドイツの迫害から逃げてきた数万人のポーランド・ユダヤ人難民を助け保護した。
太平洋戦争時には、ナチス・ドイツの上海ホロコースト実行要求を拒否して、ユダヤ人数万人が暮らす上海ゲットーを守り通した。
困窮者の救護・保護を希望したのは、その当時の歴代天皇達であり、特にその中でも特筆すべきは昭和天皇である。
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日本陸軍が行った数多くの人道貢献は、天皇旗と旭日旗のもとで行われた。
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1890(明治23)年9月16日未明 トルコ軍艦エルトゥールル号、日本郵船の武蔵丸と頼信丸は、熊野灘で台風に巻き込まれ難破した。
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良い事をする日本人は2割。悪い事をする日本人は3割。その時の状況で悪い事も良い事もする日本人は5割。
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日本軍部・日本陸軍・日本人軍人は、幾つもの人類史的世界史的な輝かしいレガシーを残した。
昔の日本人は、現代の日本人とは違って大和心・志・気概を持ち、金や利権に惑わされず、外圧を撥ね付け、死を覚悟し、命を捨ててまで信念を貫き通していた。
日本軍が掲げた「旭日旗」は、勇猛果敢に戦う偉大なる軍隊旗であって「戦犯旗」ではない。
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現代の外務省は瀋陽事件で、逃げ込んできた脱北の朝鮮人家族を中国当局に引き渡し、中国人警察官が落とした帽子を拾って渡した。
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メキシコ革命時。メキシコシティーの日本大使館は、逃げ込んできた大統領家族を、天皇の名誉と日本の体面を賭け、日本の国旗「日の丸」を玄関内に広げて、クーデター派との戦争を覚悟で守り通した。
日の丸・日章旗は、栄光ある日本の立派な国旗である。
大使館には、天皇家・皇室の「菊の御紋」が掲げられている。
各国に派遣される大使は、皇居で天皇の認証を受け、天皇の国書を授かって赴任する。
諸外国は、天皇が認証し、天皇の国書を持った日本人を正当な大使として認める。
国際社会において、日本は天皇の信用で成り立っている。
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日本陸軍・日本人軍人は、悪い事・戦争犯罪を行ったが同時に良い事・人道貢献も行い、犯した罪に対しては逃げも隠れもせず正当な裁判を受け処刑された。
人道貢献は、平時・平穏時ではなく戦時・災害時に自己犠牲として行われる。
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各国の共産主義者は、血に餓えた獣として、数十万人から数百万人・数千万人を、女性や子供、病人や障害者に関係なく反革命分子・無用な生き物として大虐殺していた。
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現代日本の左翼・左派・ネットサハ、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者、学者・教育関係者、護憲派、人権派、良心派、道徳派、正義派、反戦平和主義者、反天皇反日的日本人などは、日本軍の微細な戦争犯罪を暴きながら、時にはありもしない犯罪を憎悪を持って捏ち上げ、その陰で人道貢献を歴史の闇に葬り続けている。
彼らは、悪い事はしないが良い事もしない薄情で冷血で非情な情義なき日本人である。
現代の歴史教育は、彼らが悪意を持って創作した検定済み教科書で子供達に教えている。
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右翼・右派・ネットウヨクは、悪い事も良い事もする可能性がある日本人である。
何故なら、彼らが革新官僚(隠れマルクス主義者)や軍部と結託して戦争を起こした軍国主義者・差別主義者だからである。
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日本人共産主義テロリストは、キリスト教系朝鮮人テロリストと同様に昭和天皇や皇族を惨殺する為に付け狙っていた。
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