💖2)─1─日清戦争時。観戦武官や特派員は戦場での日本軍の軍事行動を観察していた。~No.4No.5No.6   

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 日本軍は、降伏した清国軍兵士捕虜を収容所に保護し、負傷している清国軍兵士捕虜は治療し、看護した。
 清国軍(中国軍)は、日本軍兵士の捕虜を取らず、奇的に惨殺した。
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 日本の歴史には、殺し合いは少なく、血や死体も少ない。
 中国や朝鮮の歴史は、殺し合いが多く、血と死体を語らないと何も話せない。
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 漢族系中国人は、土着性の強い農耕民で、土地の固執して戦う。
 日本民族日本人は、半農半漁民で、遊牧民的気質を持ち土地に固執せず命を守る為に逃げ、窮地に追い込まれ逃げられないと諦めた時に戦った。
 日本民族日本人の祖先である縄文人は、東シナ海日本海を行き来した船乗りであった。
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 中華世界では虐殺を繰り返したのは、農耕民族の漢族系中国人であって遊牧民族の非漢族ではなかった。
 何故なら、人口比が違うからである。
 農耕民族は、雑草のように爆発的に人口を増加させると、住んでいる土地は農耕地が少く開墾できない土地も少ない為に他人から奪うしかなく、奪っても取り返されない為には相手とその家族・親族を皆殺しにするしかなかった。
 遊牧民族は、人数が少ない為に、占領した土地の住民を殺したら支配地での労働者や納税者が減ってしまう為に抵抗しない相手は殺さなかった。
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 2019年7月11日号 週刊新潮「変見自在 高山正之
 憎悪は消えた
 スウィフトのガリバー旅行記にも出てくる不思議の国、日本を開国させた米国はそれが随分自慢だった。
 博覧会には日本を必ず招き、その精緻(せいち)な工芸品や匠の技を新聞は我がことのように誇らし気に伝えた。
 『日本は奇異だけれど支那の気持ち悪い奇異とは全く違う』という当時の女流評論家マリエット・ホーンの言葉がそんな気分をよく示している。
 しかし、米国の温かい眼差しは日清戦争で突然のように消えてなくなった。
 この戦争では支那定遠鎮遠というドイツ製新鋭戦艦2隻を持つのに対し日本はサイズも艦艇の数もその半分もなかった。陸軍も似たような陣容だった。
 いざ戦いが始まって世界は驚愕した。巨艦定遠を擁する支那北洋艦隊は舳先から相手艦の横腹に突っ込む衝角戦で挑んだ。
 ギリシャの昔からの開戦の形だが、縦陣で臨んだ日本海軍は敵艦隊の右に回り込み、端から1艦ずつ沈めていった。
 支那艦が迫れば彼らの間を縫いながら副砲を浴びせかける。やがて定遠が火災を起こし、北洋艦隊は大敗した。提督、丁汝昌(ていじょしょう)は生阿片を呷(あお)って自決した。
 海戦の手際以上に世界を驚かせたのは日本軍の陸戦での戦いぶりだった。
 勝てば敵兵も敵側の民間人も殺し、略奪し、女は犯すのが旧約聖書の昔から陸上戦の形だった。
 現に支那人は生擒(せいきん)した日本兵の目を抉り、舌を切り、手足をばらして殺した。
 しかし日本軍はそんな支那兵ですら降(くだ)れば殺さなかった。報復の殺戮も略奪も強姦もなかった。
 英のアジア専門家ヘンリー・ノーマン卿は『日本人は素晴らしい知性を持った勇敢で誇り高い民族』と高貴な戦い方を絶賛した。
 サラ・ペイン米海軍大学フェローは自身の『日清戦争』の中で『その評価があったからこそ英国は日本を同盟相手(1902年の日英同盟)にふさわしいと見做(な)した』と書いている。
 しかし米国の受け止め方は違った。昨日まで愛すべき奇異な東洋の小国と思っていたのが、実は強力な戦力を秘めるだけでなく知的で慈悲を知る民と知った。
 そのどれも米国人は持ち合わせていなかった。
 米国は平民の国だ。貴族がエリス島に来ても、身分とついでにノブレス・オブリージュも捨てさせた。慈悲の心とか人の範となる振舞とかはこの新天地ではむしろ障害ですらあった。
 だから黒人奴隷を鞭打っても心に痛みはなかった。シャイアンの居留地サンドクリークに金鉱が見つかると男の戦士の留守に居留地を襲って女子供を皆殺しにした。頭の皮を剝ぎ、耳を切り取り、陰部を抉って鞍頭に飾るのをむしろ誇らしいと考えていた。
 日本人と180度違う自分を見つけると、それに激しい憎悪になった。
 セオドア・ルーズベルトは日本を滅ぼすべき敵とみなし、以降、歴代大統領は日本を倒すことに精力を傾注する。まず日支を離反させるために支那人留学生を山と入れ、彼らに日貨不買をやらせた。
 米公使ポール・ラインシュが5・4運動の指揮をとったことが何よりの証だ。
 日英同盟ワシントン会議で廃棄させ、フランクリン・ルーズベルト蒋介石に対日戦争を仕掛けさせ同時に米国は石油を断った。
 アパッチとチェロキーを戦わせ、バイソンを絶滅して糧道を断つ。それをそっくり真似て弱った日本に原爆で止めを刺した。
 戦後、米国は優雅で強い日本人を将来も封印するためにあの憲法を押し付けた。戦力の放棄ともう一つ、国家賠償法だ。
 国に薬害だ、差別だ、被爆だと因縁つけてカネをたかれと朝日新聞に騒がせる。おかげで『平和を愛するさもしい日本人』がやたら増えてきた。
 ここにきてトランプが日米安保破棄を言い出した。
 9条を崇めて勝手に丸腰になったのはお前の勝手。嫌なら武装しろ、粗野ながら実に意味深い。
 日本人はもはや優雅ではなくなった。その親近感からの直言だとしたらそれはそれでちょっと悲しい」
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 総力戦である第一次世界大戦までの戦争は、国家間戦争であっても、民衆出身兵士が幾千人死のうとも貴族的なゲームであり、王侯貴族が戦死する事は少なかった。
 敵軍の捕虜となった王侯貴族は、身代金を払い帰国した。
 敵軍の捕虜となる事は、恥ではなく名誉な事で、帰国すれば英雄として讃えられた。
 捕虜となった、王侯貴族は手厚く保護されたが、民衆兵士は人間以下に扱われ治療もされず放置されて死んでいった。
 西欧列強の軍隊は、白人のみを人間としたが、日本人・中国人・インド人ら非白人は人間とは認めなかった。
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 日露戦争までの国家間戦争では、第三国の軍部は観戦武官を、戦争をする両国の現地軍司令部に派遣し、戦闘状況を観察し、戦争終了後に詳細な報告書を作成した。
 世界中の報道機関も、話題を呼びそうな戦争には特派員を戦場に派遣し、逐次、戦場レポートを報道していた。
 その意味で、小国の日本が大国の清国(中国)やロシアと戦う戦争には関心が高く、数多くの観戦武官や特派員が派遣されていた。
 日本軍も支那軍も、国際世論を意識し、戦場を歩き回る白人に対しては特権を与えて優遇していた。
 特に、日本は、不平等条約改正問題があり、近代国家である事を国際社会に知らしめる必要があって、国際法戦時国際法の専門家を前線の軍司令部に派遣していた。
 その為に、日本軍は、武士道精神で卑怯な事を一切しない世界一紳士的な軍隊であり、負けるかも知れない大軍に対して勇猛果敢に挑み掛かる最強の軍隊であった。
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 武士道精神や大和魂など戦う事を美学とする昔の日本人と、武器を捨て降伏こそ正しいと確信する非暴力無抵抗主義の現代日本人は、別人である。
 特に、第九条の護憲派日本人は、見た目の姿形が日本人であっても中身が全然違う日本人である。
 つまり、張りぼての中身がない空虚な日本人である。
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 国家・民族が、敬愛・尊敬されるのと愛されるのとは全然違う。
 現代日本は、敬愛や尊敬ではなく愛される事だけを望んでいる。
 ネズミや蛇などの動物はもちろん石や雑草でも、人から愛して貰える。
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 現代日本人は、愛されたい、好かれたい、褒められたい、励まされたい、と言った異常な承認渇望症に取り憑かれている。
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 ウィキペディア
 観戦武官とは、第三国の戦争を観戦するために派遣される武官。 この制度の起源は明らかではないが、傭兵ではない、国家による軍隊が必要であること、士官学校国際法などの制度の成立が不可欠であることから、およそ19世紀半ばごろに確立されたものと思われる。
 日本では、1870年に普仏戦争大山巌が観戦している。また、1898年の米西戦争では秋山真之海軍大尉(後に中将。海軍戦術、『坂の上の雲』で有名)・柴五郎陸軍少佐(後の大将。義和団の乱では北京籠城戦を戦い抜く)が観戦武官として派遣された。
 日露戦争の際には日露両国に対して欧米諸国から多数の観戦武官派遣の申し入れがあり、日本はイギリス、アメリカ合衆国ドイツ帝国オーストリア=ハンガリー帝国、スペイン、イタリア、スイス、ノルウェー及びスウェーデンスウェーデンノルウェー連合解消の時期と重なる)、ブラジル、チリ、アルゼンチン、オスマン帝国といった13の国々から70人以上の武官を迎えたと記録されている(en:Military attachés and observers in the Russo-Japanese War 参照)。その内、先に日英同盟を結んだイギリスからの派遣が最多の33人となっている。特にイギリスのハミルトン陸軍中将(後の第一次世界大戦ガリポリの戦いで地中海遠征軍を指揮)、ペケナム海軍大佐(後に大将。朝日に乗艦しての報告はフィッシャー提督の目に留まり、ドレッドノートの設計に取り入れられた)、アメリカのマッカーサー陸軍少将(後に中将。マッカーサーGHQ最高司令官の父)、ドイツのホフマン陸軍大尉(第一次世界大戦では第8軍の参謀としてタンネンベルクの戦いを勝利に導く)など後の歴史に影響を与えた軍人も多かった。
 第一次世界大戦では、イギリスの巡洋戦艦クイーン・メリーに乗艦して観戦していた下村忠助海軍中佐がユトランド沖海戦で戦死している。
 観戦武官制度は、第一次大戦後、自動車・航空機などの輸送手段の発達によって戦域が拡大し、1人の士官が戦闘を見ることが不可能になったため、自然に消滅した。
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