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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
中華世界は、古代から、嘘、不正、裏切りの犯罪地帯であった。
弱肉強食が絶対正義であった。
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中国は、日本の人道貢献や善意・誠意を全て踏みにじった。
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日本人は、嘘をつかれても、騙されても、裏切られても、中国人を信じた、中国人を信じたいと願い続けた。
が、中国人を信じ切る事は叶わなかった。
しょせん、中国人は信じるに値しなかった。
中国人は、日本人の人道貢献を侮辱し、日本人の誠意を踏みにじった。
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中国とは、忘恩の国であり、人でなしの国であり、信用できない国である。
中国を信じた軍国主義日本人は、最も愚かな人間である。
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中国を信用する者は、馬鹿である。
日本の善意や配慮は、中国では一切通用しない所か裏切られ踏みにじられるだけであった。
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中国は、自分が利益を上げる為に日本から得られるモノがあるうちは和やかに友人として近づき、色んな事を学ぶ為に優等生のふりをして安心させる。
日本から奪えるモノがなくなり、日本人の利用価値がなくなり、そして全ての面で日本を超えたと確信した時、豹変し凶暴な暴徒として襲いかかってくる。
日本人は、真の中国人を知ろうとはしなかった。
自分と同じ、一般常識を持った人間であると信じたかったし、誰が何と言おうとも信じ切っていた。
日本の愚かさは、生来、中国人を理解できない事にあった。
それが、日本の悲劇の原因であった。
日本人は、中国人に騙される。
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儒教が支配する中華世事においては、史実に基づいた正しい歴史などは存在せず、自分に都合の良い歴史認識のみが存在する。
歴史とは、政治・外交・軍事に恣意的に利用する教養としての道具にすぎない。
つまり、中華世界の史書は出来事を元にした想像の作り話であり、記念碑の碑文もまた本当の事は書かれていない。
劉知幾「史書に載せて出鱈目な話を作り上げる」
都合の悪い事を隠す為に、ありもしない美談を歴史として書き残す。
自国を偉大に見せる為に、他国の美点を歪曲し捏造して悪し様に貶す。
儒教は親孝行として、子供の正直とは親の悪事を隠す事であり、親を庇う事で人徳が宿ると教えている。
歴史と歴史認識は、日本では一体であるが、中国や韓国・北朝鮮では別物である。
中国や韓国・北朝鮮では、歴史より歴任認識の方を優先する。
日本は現実に起きた史実としての歴史を重視するが、中国及び韓国・北朝鮮は事実ではなく解釈としての歴史認識を重視する。
日本は自分の不利な出来事を素直に認めるが、中国及び韓国・北朝鮮は自分の不利な事は何があっても決して認めない。
ゆえに。日本と中国及び韓国・北朝鮮が、歴史と歴史認識を話し合っても相互理解はできず、分かり合う事なく永遠に平行線を辿る。
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1876(明治9)〜78年 華北の大旱魃。犠牲者は、900万人〜1,300万人。
被災者は、自分一人が生き残る為に、食糧を持っている相手を襲って奪った。それが、知人であっても、家族であっても、容赦しなかった。被害は、地方の貧困階級に特に多かった。
宣教師は、生き地獄と化した被災地の惨状を世界に伝えた。
隣国の日本は、被災者救済の為に、国内で多額の義捐金と食糧などの支援物資を中国に送った。
明治政府は、西南戦争などの士族の反乱を鎮圧する為に苦しい財政から軍資金を支出して他国の救済どころではなかったが、国際信義と人の善意から義援金を捻出して送金した。
世界から近代国家として認知して貰い、不平等条約を改正する為に、自国民に犠牲を強いても、国際法や国際ルールなどを徹底して遵守していた。
日本人は、「体面」を保つ為に、他人の目や他人の評価を病的に気にする。
国家の体面・名誉の為ならば、公権力を行使して自国民を犠牲にする。
国家は、国民を犠牲にする。
それが、日本の姿である。
日本政府は、森有礼を天津領事館に派遣して救済業務所を設置し、天津周辺に避難してきた7万人以上の被災者の救護にあたった。
当時の権力者は、下級武士出身の大久保利通内務卿であった。官僚主体の専制政治を行ったとして、国民の間では人気が無かった。
一部の右翼的新聞社は、貴重な財源を、他国の救済に使わず税を納めている自国の貧民救済に使うべきであると猛反対した。
大久保利通内務卿は、明治天皇の大御心・御稜威は中国人被災民の救済にあるとして、強権を発動して反政府系新聞を弾圧した。
国内では、政府への不満が渦巻、新たな騒動が起きようとしていた。
1878年 大久保利通は、反政府派によって暗殺された。
竹橋事件における近衛兵の反乱
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ウィキペディア
インド大飢饉(英語: Great Indian famine of 1876–1878)とは、1876年から1878年にかけて、イギリス領インド帝国で発生した大飢饉のこと。およそ525万人が餓死したといわれている。
概要
1876年から1879年にかけては、干魃やエルニーニョ・南方振動などにより、インド、中国、ブラジル、北アフリカその他の国々で飢饉が発生した。中国北部では130万人が死亡し、インドでは525万人が死亡した。
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日清戦争は、日本と清国の戦争ではなく、日本軍と李鴻章軍との戦争であった。
それ故に、清国軍も他の漢人高官私兵も戦闘には参加しなかった。
中国近代化は日清戦争の敗北から始まり、清国は近代化の為に日本に支援を要請した。
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中国から感謝されたという話は、聞いた事がない。
中国とは、しょせんその程度の国である。
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1900年 義和団事件。ベルツ日記「ドイツ皇帝は、清国派遣軍の出発に際して一場の演説をされたが、その演説がまた、あらゆるドイツ人を赤面させずにおかないものなのである。皇帝はこういわれたそうだ『捕虜は無用だ、助命は不要だ!』と。……相手の清国の罪のない人たちを──たとえ武器をすてた場合でも、かまわないから──殺してしまえと命令しているのだ!こんな文明にへどが出る!」
西洋からすれば、中国人などのアジア人は人間以下の家畜とされ殺しても罪には問われる事はなかった。
英タイムズ紙「籠城の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせた」
義和団と清国兵は、北京の外国人居住区を襲撃して、外国人を虐殺し暴行し強姦した。
日本、イギリスなど8ヶ国の公使館は、救援部隊が到着するまで女子供の居留民を守る為に立て籠もった。
総勢約400人は、清国軍や義和団の猛攻に耐え抜いた。
その中でも日本人の奮闘振りは、目を見張った。
8ヶ国連合軍は、北京に突入して籠城戦を耐え抜いた外国人団を救出した。
ロシア軍やドイツ軍は、勝利者として、獣模様になって占領地で略奪や強姦を働いた。
日本軍は、軍律を厳しくして略奪や強姦を厳しく戒め、逃げてきた中国人達を保護し、故宮の財宝を略奪から守り清朝に返還した。
日本軍兵士は、西洋兵士達以上の紳士として、潔癖を旨とするサムライとして行動していた。
日本軍に助けられた中国人達は、日本軍に感謝した。
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日露戦争後。
日本に留学してくる中国人は急増し、1905年には8,000人を越え、翌06年は1万人から3万人に達した。
日本は、清国留学生を受け入れ、国家の近代化の為に必要な行財政・司法・軍事・医学・科学・教育など多方面を教えた。
日本陸軍は、西洋列強の侵略から中国を自力で守るべく、清国軍を近代化して強化する為に軍事顧問を派遣した。
北京大学創設するにあたって、有能な教師や技術者を送り出し、一時は1,000人を超した。
日本人は、中国への親近感や中国人への同情心から官民挙げて支援し、協力し、指導した。
中国人留学生達は、日本語を習得して、和製漢語で近代を学び、古典的儒教漢文を捨て近代的日本文式漢文を取り入れた。
中国が編み出した借用語では、近代を学ぶには不十分であった。
それが、現代中国語の基になった、日本に留学した魯迅らが始めた白話(口語)である。
西洋列強に解体され植民地化されかけた中国は、日本から和製漢語と白話という日本言語文化のエートスを滅亡ぎりぎりの瀬戸際で学んで生き残り、近代国家として再建できた。
黄文雄「それはつまり異文化摂取の姿勢における、融通無碍な日本人と自国文化に固執する中国人のさである。『新造語』とは日本人が西洋文化を自分の血と肉にしようとする意欲の表れである。『借用語』とは『中体西用』という、極めて傲慢にして安易な中国人の姿勢の表れかもしれない。
その差がそのまま、日中両国の近代化の差になって現れたと言っていいだろう」(『近代中国は日本がつくった』)
宮脇淳子「藤原正彦先生にという『祖国とは国語』(新潮文庫)エッセイ集があります。『祖国とは国語』はもともとフランスのシオランという人の言葉で、祖国の最終的なアイデンティティは『血』でも『国土』でもなく、民族の言語なのだそうです。二千年間も流浪の民だったユダヤ人が20世紀になって再び建国できたのは、ユダヤ教徒ととにヘブライ語やイディッシュ語を失わなかったからだ、と藤原先生はおっしゃっています。とすれば、漢字以外に共通の言語のなかった中国人が同一民族としての自覚を持てなかったのはうなずけます。その意味で、まがりなりにも中国という近代国家を築けたのは、中国語を変え、近代化に向かわせた日本のおかげだと言っても過言ではありません。
たしかに、日本は古代中国の漢字文化圏から出発しました。しかし、その後、仮名を発明して日本語を豊かにし、独自の文化をはぐくみ、洗練させてきた。そして、最終的には中国を日本の文化圏に取り入れるに至ったのです。いあだに中国人が日本を自分たちの周辺部族のように見ているとしたら事実誤認もはなはだしく、むしろ現代では、しれは逆なのです」
現代中国語の文章には約70%の和製漢字が使用され、最先端の学術語や専門用語のほぼ100%が日本の新造語である。
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清朝末期。日本は、清朝内の改革派の要請を受けて、中国を近代化する為に優秀な人材を派遣し、殖産興業に全面的に協力した。
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1914年 中国は、自国だけの軍事力では山東省と青島のドイツ租界を奪還できない為に、第一世界大戦への参戦を躊躇した。
日本は、同盟国イギリスの要請に従い、集団的自衛権を発動して参戦し、独力で青島を攻略し、ドイツの植民地である南洋諸島を占領した。
1915年 対華二十一箇条の要求。
1917年 中国は、日本の助言に従い、戦勝国の一員になる為に参戦したが、戦闘には参加しなかった。
1919年 福建省を出港した中国漁船は、嵐で遭難して尖閣諸島に漂着した。
尖閣諸島にあった鰹節工場の日本人労働者は、中国人漁師31名を救助して石垣島に送った。
石垣島の島民達は、中国人漁師を手厚く保護し、全員を帰国させた。
翌年 中国駐長崎領事は、「日本帝国八重山郡尖閣諸島」と明記した感謝状を石垣島村長・豊川善佐と鰹節工場経営者・古賀善次に送った。
中国は、琉球と尖閣諸島を日本領であると公式に認めていた。
西原借款。日本は、中国に1億4,500万円を借款し追加借款を含めて約3億円を供与した。
現代の貨幣価値で、約3兆円。
戦後。中国共産党は、返却すべき義務があった西原借款と中国に残してきた日本資産を、強盗団の様に猫ばばした。
中国は、借りたモノや金を綺麗サッパリと返したためしがない。
つまり、感謝の言葉と共に借りた金を全額返還した事は、歴史上、たぶん一度も無い。
5月4日 五・四抗日運動。
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徳富蘇峰「支那人には歴史的に倭奴根性が抜けない。日本に留学した者も沢山ある。併し彼らの中で、日本文化の深層、若しくは日本精神の極致などを諒解した者は殆どあるまい。彼等は只だ欧米の代物を日本の小売店から購(あがな)う為に、日本に留学したる者である」
「(日本の対中外交の失敗)支那人を度(はか)るに、支那の尺度を以てせず、日本の尺度を以てしたからである。兎角(とかく)支那人を日本人同様と考へる為に、何事も皆な的が外れて来た。すなはち一方には支那人の欠点のみを見て、これを侮り、他方には支那人を研究せずして、日本人同様に考へ」
中国人は、アメリカ人やイギリス人は自分達とは全く違った人間といて「白奴」と軽蔑したが、日本人は同じ漢字を使い似た文化や風俗や習慣を持つ最低な「夷狄」つぃて侮蔑していた。
日本人は、永らく中国との国交を持たず人的な交流として行き来していなかった為に、中国人は儒教的生活をする世界一優秀な人々と崇拝していたが、日清戦争後の中国人の実態を目の当たりにして幻滅を感じた。
中華崇拝が空想的思い込みで高く、中国人への憧れが異常なほど強かった為に、目の前に現れた中国人の道徳もマナーもなき傲慢な態度に「中華かぶれ」が覚め、その反動として中国蔑視が生まれた。
中国人は、中華思想から自分こそ世界一優秀な民族という視野狭窄の夜郎自大的優越感を持っていただけに、家臣の様に媚びへつらって動くであろうと見下した日本人が、厚顔無恥に偉ぶっている事に「面子」を潰されたと激怒した。
だが。日本との国力差に開きがある為に、柔やかに笑顔を見せて友好を口にし、国力が超えたと判断すると豹変して全ての約束を反故にして、牙を?いて襲い掛かってきた。
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