⛵34〕─1・A─沖縄の御嶽信仰と南方の貝文化が日本・朝鮮・アイヌに広まった。〜No.115No.116No.117     

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   ・   ・  【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】 ・   
 朝鮮の『三国史記』は、1145年の高麗時代に書かれた最古の歴史書である。
 日本の神話及び歴史書である、『古事記』は712(養老5)年に、『風土記』は713(養老6)年に、『日本書紀』は720(和銅5)年にそれぞれ完成した。
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 日本の最高神は、伊勢神宮に祀られている女性神天照大神である。
 女性神天照大神は、天皇家・皇室の祖先神である。
 女性神天照大神を正統な最高神としているのは、2000年近く日本民族が信じてきた日本中心神話と天孫降臨神話による高天原神話である。
 天皇・皇族・皇室の正統性は、最高神である女性神天照大神の血筋・血統である。
 皇室の世襲制の正統性も、最高神である女性神天照大神の血筋・血統である。
 天皇制度を打倒し、天皇を廃絶し、皇室を断絶する、と言う事は、そういう事である。
 そして、女系天皇即位や女系宮家創設は世襲の正統性である血筋・血統を消滅させる事を言う。
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 日本の敵は、統一新羅と唐(中国)であった。
 国防の最前線は、新羅朝鮮半島を統一してからは百済任那から半島南部の海岸線に後退し、対馬が最前線基地となった。
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 日本天皇に忠誠を誓い日本国に貢献したのは、帰化人であって、渡来人ではい。
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 古代の日本には、朝鮮半島や中国大陸から数多くの戦争避難民や環境被災民が逃げ込んできていた。
 歴代天皇は、逃げて来た難民達を分け隔てなく温かく受け入れ、関東各地に土地を与えて定住させ、自分達が信じる神を神社に祀る事を許した。
 古代の日本は、あらゆる面において柔軟で多様性に富んでいた。
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 親日派知日派百済、古新羅高句麗渤海
 反日派敵日派、統一新羅、高麗、李氏朝鮮大韓帝国
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 2019年7月5日号 週刊金曜日「神社の起源を問う──  岡谷公二氏に聞く
 朝鮮半島、沖縄、日本列島をつなぐ『神の森』の系譜
 ──フランスの文学と美術がご専門。なぜ神社にご関心を?
 岡谷 私は『専門』というのが嫌いでして、大学ではフランス語やフランス美術を教えていましたが、20代から全国の島めぐりをしていました。最初は伊豆七島。それから約60年が経ちますが、北海道以外、列島にあるすべての島をめぐり歩きしました。
 御嶽との出会い
 ──タヒチに見せられた画家ポール・ゴーギャンのようにですか。
 岡谷 そう。作品と生き方に傾倒していたゴーギャンがきっかけです。1961年(昭和36年)に当時まだ米軍政下にあった沖縄に初めて渡航しました。パスポートが必要で、鹿児島からほぼ一昼夜かけて那覇に着いた。それから最南端の島、波照間島(はてるまじま)で御嶽に出会ったのです。
 御嶽というのは、沖縄の島々のどこの村にも必ず一つはある聖地のことです。聖地といっても、あるのは深い森だけ。クバ(檳椰{びろう})やヤラブなどの南方系の木々に覆われています。そこに神が祀られている。奧に『イベ』『イビ』と呼ばれる神聖な場所があって、そこには『ノロ』あるいは『司(つかさ)』と呼ばれる神女しか入れません。男はダメです。社殿のようなものはなく、小さな祠(ほこら)がある場所もありますが、それすらないところが多い。その森の木を伐ることも、枝を折ることも許されません。
 私は偶然、禁を犯して御嶽の奧に入ってしまった。不思議な場所でした。その何もない豊かさに心が満たされ、むしろ何もない所に強い宗教的な意思を感じて深い感銘を受けました。それで御嶽に見せられ、各地の御嶽をめぐりました。そして自然に神社の成り立ちへと関心が移っていったのです。
 私が最も足繁く通っているのは宮古島です。民俗学者谷川健一氏が創始した『宮古島の神と森を考える会』の副会長を仰せつかっており、毎年11月に会合があるのですが、もう20回以上訪れています。宮古島では全島でほぼ900ヵ所の御嶽の所在や立地、祭神、祭祀などの記録が残っています。
 柳田・折口説の矛盾
 ──90歳になられるということですが、そのフットワークと旺盛な探究心に敬服いたします。では、その御嶽が神社の原型なのでしょうか。
 岡谷 100年近く前に民俗学者柳田国男が、御嶽は古神道の面影を残しているとし、弟子の折口信夫も『神道の一分派か、むしろ原始形式』として、それが現在の定説になっています。しかし私は少し違う、その説には矛盾があると思っています。
 確かに、古代の列島本土の神社には、御嶽と同じように社殿がありませんでした。『万葉集』で『社』を『もり』と読ませていることからもわかります。古来、社殿のなかった神社としては奈良県桜井市の大神(おおかみ)神社、奈良市春日大社などが知られていますし、現在でも若狭(福井県大島半島の『ニソの杜(もり)』とか、社殿のない神社や聖地は各地にたくさんあります。
 神社に社殿がいつから設けられたかは、実は正確にはわかっていません。文献では『日本書紀』の斉明天皇の条、659年に〈出雲国造(いずものくにづくり)〉に〈神の宮〉を造られたとの記述があります。ただ、それより100年以上前(6世紀半ば)の仏教伝来後、寺院が各地に建てられ、それにならって神社にも社殿が建てられていったという説が有力のようです。外から客が来た時に見栄えがいいように、一種の見栄で建てたのかもしれません。
 柳田・折口説の矛盾というのは、沖縄の歴史と関わりがあります。沖縄のあちこちに村落ができたのは12世紀から13世紀ごろで、その頃に鉄と稲も入ってきます。沖縄はそれ以前、漁労と採集による『貝塚時代』が長く続きました。列島本土からの渡来も12世紀以降だとされています。『鉄と稲』が入って村ができなければ御嶽は始まりませんから、御嶽の誕生もそのころであったろうと思われます。だとすれば、本土と同じように社殿がなければおかしいし、『神女』ではなくて男の神職でなければおかしい。つまり、本土の人たちが沖縄に古神道を持ち込んだのではないということです。
 ただ、列島本土も社殿ができる前は神職は女性でした。社殿ができてから男が取って代わった。また、先に述べたように、社殿がなくて森自体が聖地であったことも、御嶽と神社は共通しています。さらには、御嶽も神社も先祖の墓であるということです。これは単に偶然ではありません。今は神社には社殿と男の神主、御嶽は森だけで祭りをするのは女性です。

 済州島に残る『堂』は神木にも注連縄を張って聖地を作ります
 済州島に残る『堂』
 ──御嶽と神社ないし神道は何らかの関係があるが、別のルーツがあるのではないかということですね。
 岡谷 そうです。のちに韓国最大で最南の済州(チェジュ)島に行ったことがその疑問を解く大きなきっかけになりました。16年ほど前、ハングルを少々習ってから成田空港を発ちました。約2時間で着き、沖縄よりも近い。以来、済州島にはもう7、8回通っています。
 朝鮮半島と日本列島にはともに、神が天から降りてくる『天孫降臨』の建国神話がありますが、済州島の神は地中から現れます。山の麓から3人の神が現れ、浜に流れ着いた日本の王女3人と結婚し、島を三つに分けて建国したという創世神話が『高麗史』に記されています。済州島と日本との関係を示していて、実に興味深いものです
 その済州島に『堂』と書いて『タン』と読む聖地があります。欅(けやき)や榎(えのき)を神木(しんぼく)にした小さな森で、島全体に250ヵ所以上ある。その聖地を取り仕切っているのは女性です。しかも、作り方は少し違いますが、マツリの時は神主の家の周りに注連縄(しめなわ)を張りめぐらせて結界を作る。神木にも注連縄を張って聖域を作り、中へみだりに入れません。日本と同じです。
 ──まさに柳田の言う『古神道の面影』そのもののようです。それは済州島だけにあるものですか?
 岡谷 いや、こうしたタンはかつて、済州島だけでなく半島の全体にありました。しかし、古代の新羅や高麗(こま)では仏教を国教にし、その後の李朝500年(1392年~1910年)では仏教に代わって儒教を国教にしました。その過程で『堂』信仰は迷信治され排除され、衰えてしまった。その後の日本統治下では『セマウル(新しい村)運動』という農村振興策があり、1970年代の朴正熙(パクチョンヒ)大統領下でもセマウル運動が展開され、『堂』信仰は弾圧されて姿をけしてゆくのです。今や半島本土ではほとんどなくなった。
 しかし、ムーダンと呼ばれる巫女の舞や済州島の風の神の祭り『ヨンドンクツ』(迎燈祭)は習俗として現在も残っています。この祭りは北九州の祭りによく似ています。
 
 貝の道に沿って『神の森』も広がっています
 『貝の道』と文化圏
 また、『貝の道』があります。弥生時代(紀元前10世紀頃から紀元後3世紀頃まで)の北九州や山陰、瀬戸内海沿岸の遺跡から出土した貝が、琉球以南のサンゴ礁海域でしかとれないゴホウラ、イモガイであることが九州大学医学部の永井昌文教授の調査(1969年)でわかりました。弥生以前、つまり縄文時代から、この貝の道に沿って行き来があったということです。
 8世紀以降はヤコウガイも加わります。奄美以南の海域に棲む大きな巻貝で、奈良の正倉院にはヤコウガイを用いた螺鈿(らでん=らでん)製品が何点も存在しています。
 ──縄文時代と言えば1万年ほど前。はるか遠い太古から交流があったというのは驚きですね。
 岡谷 貝の道はまた、朝鮮半島にも繋がっていました。たとえば、新羅の都である慶州の古墳からはイモガイ製の馬具が次々と発見されています。これらのイモガイは古代、九州の豪族を介して半島に運ばれた琉球産の貝である可能性がきわめて高いと見られています。つまり、古代から『貝の文化圏』が存在し、当然ながら貝だけが運ばれるのではなく人も運ばれ、祖先を祀るという習俗も伝わっていきます。実際、貝の道に沿って『神の森』も広がっています。
 薩摩の『モイドン』、九州西部の『ヤボサ(ヤブサ)』。モイドンの『モイ』は森という意味で、『ドン』は『西郷どん』などという『殿』『様』という意味。つまり、モイドンは『森様』という村落の聖地です。ヤボサも広く分布していますが、祭祀は大国主命(おおくにぬしのみこと)や大己貴命(おおなむちのみこと)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)など出雲系が圧倒的に多いのです。そして、琉球には『藪佐(やぶさ)』という地名が多い。
 『堂』が沖縄の御嶽、日本列島の神道、神社のルーツだとは断言できませんが、しかし、とても関係が深いことは確かです。
 ──貝の道が『神の道』でもあった可能性があるということですね。
 スサノオ新羅出身か
 ──スサノオの話が出てきましたが、スサノオヤマタノオロチ退治の神話で知られる日本の神とされています。しかし、『日本書紀』には『新羅にいた』と書かれていますね。
 岡谷 そう。『日本書紀』巻一『神代(上)』に、息子の五十猛(いそたける)とともに新羅国の『曾尸茂梨(ソシモリ)』にいて出雲国に来たと記されています。ソシモリとは『王都』すなわち新羅の都・慶州とされていますが、慶尚南道(けいしょうなんど)の牛頭山(ごずさん)との説もあります。『日本書紀』で新羅国の名が初めて見えるのがこの記述で、まさに神代の時代から新羅と日本とは深い関係にあるわけです。日本では、仏教が伝えられた百済との関係が濃いように思われがちですが、文献では新羅の方が500年ほど早く出てくる。新羅にもっと関心を持つべきですね。
 実際、朝鮮半島の東南部にあった新羅は距離的にも列島に近く、海流に乗って北九州や日本海沿岸の地域に渡来できます。敦賀半島福井県)の敦賀市には『白木』という地名があり、そこには『白城(しらき)神社』がありますし『信露貴彦(しろきひこ)神社』もある。今庄(いまじょう)にはその名のとおり『新羅神社』があります。
 ──素戔嗚尊は日本の神ではなく、実は新羅の神だった?
 古代出雲研究者の水野祐(2000年没)は、『スサノオ』の本名は『スサヲ』あるいは『スソウ』で、いずれも古朝鮮語の『巫(ふ)』を意味すると言いました。『巫』は『かんなぎ』とも読みますが、神を祀り、神に仕える人のこと。『巫女』というに『巫』は女性で、男性は『覡(げき)』と言います。水野は『スサノヲノミコトは巫覡(ふげき)の神』であり、新羅の王号の一つ『次々雄(ススング)』と素戔嗚は同義なので、素戔嗚は新羅の神であることは確実だとしています。江戸時代の学者・籐貞幹(とうていかん)もまた素戔嗚を新羅の王だとしていますね。
 鉄の先進地、近江と出雲
 ──それで、かどうか。列島各地には素戔嗚を祭神とした神社や新羅系の神社が多いですね。
 岡谷 素戔嗚を祭神としている神社は全国各地にありますし、全国に400社ほどあるといわれる白鬚(しらひげ)神社も新羅系渡来人が祀った神社であることが定説になっています。『白鬚』といのは古代からの名前ではなく、『比良神』『比良明神』と言われていた記録があり、『ヒラ』は『シラ』であり、新羅の最初の国号が『斯盧』と書いて『シラ』ないし『シロ』です。琵琶湖の湖の中に、三尾山(みおさん)を背にして厳島神社と似た白鬚神社の大鳥居が立っていますが、ここは琵琶湖周辺の最古の神社とされっています。近江(滋賀県)は古代から磁鉄鉱の産地として知られ、『続(しょく)日本紀』にも703年の記述をはじめ、『近江の鉄』の記述がいくつもあります。琵琶湖の西岸は最も早く鉄資源の開発された地域でした。現在でも『たたら跡』として、多くの製鉄遺跡が残っています。
 その採鉄・製鉄技術をもたらしたのが日本海から越前国福井県)に入り、山一つ越えて近江に来た新羅系渡来人だとされています。琵琶湖東岸には、百済寺など百済系の寺院がありますが、神社は新羅伽耶(かや)系が圧倒的に多い。琵琶湖南西の山の中腹に、天台寺門宗の総本山として知られる三井寺園城寺{おんじょうじ})がありますが、ここにはかつて新羅神社、新羅明神と呼ばれた『新羅善神堂』があり、北の隅には『新羅の森』と呼ばれる巨木の生い茂る森があります。
 また、琵琶湖の北側には周囲6キロメートルの小さな湖、余呉(よご)湖がありますが、ここには『日本書紀』の垂仁天皇(実在したとすれば3世紀後半から4世紀前半ごろの人物)の時代に渡来したと記されている新羅の王子『天日槍(あめのひぼこ)』を祀る『新羅崎(しらぎざき)神社』があります。
 ──新羅との関係の深さは、ただならにものがあるようですね。
 岡谷 素戔嗚もまた『鉄』と関係がありますね。先ほどの『日本書紀』の記述の続きでは、出雲国に来た素戔嗚は『簸川({ひのかわ}現在の斐伊川{ひいかわ})』にある『鳥上(とりかみ)の峯(たけ)に到(いた)る』とあります。『鳥上の峯』というのは現在の鳥取県島根県との県境にある船通山(せんつうざん)とされていますが、このあたりは古くから砂鉄の産地です。素戔嗚はその鉄を求めて半島から渡来し、おそらく砂鉄技術者を多数引き連れて川を遡(さかのぼ)り、鉱山を確保したということでしょう。素戔嗚がヤマタノオロチを退治し、蛇の体内から『草薙剣(くさなぎのつるぎ)』を取り出したという伝説は象徴的です。このように出雲は早くから新羅伽耶の人々が入り込み、鉄産業、須恵器(すえき)、医薬など先進技術の根拠地だったと思われます。
 出雲には、927年完成の『延喜式(えんぎしき)』神名帳に『韓国伊太氐(からくにいたて)神社』が6社載っています。この『韓国伊太氐』という名称の神社は出雲にしかありません。現在もいくつか残っている韓国伊太氐神社の祭神は明証されていませんが、五十猛つまり素戔嗚の子だとされています。ところが、『出雲国風土記』にはその名がどこにも見えません。ある時期から、新羅の影響を消そうとしたのではないかと思われます。実際、『続日本紀』を見ても、新羅がよく書かれているのは天武天皇(在位673年~686年)の前後だけで、あとは蕃国視(ばんこくし)、つまり野蛮な国だとされる記述が多いのです。
 ──『日本書紀』の執筆者には百済からの渡来人が多くいます。
 白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)で百済・倭連合軍は新羅・唐連合軍に敗れました。その時、百済人が大挙して列島に渡来し、たくさんの人が朝廷に入りました。その人たちの中に『記紀』の書き手がいました。当時の漢文の知識は倭国の人より百済人の方がずっと上でしたから。実際、『日本書紀』には『百済本記』の記述の引用が見られます。
 当時の百済人や倭国にとって新羅は敵で、それも打ち負かされた相手でしたから、当然よくは思っていないでしょう。新羅を『蕃国視』しているのはそのためだと思われます。『記紀』はそうした背景を割り引いて読む必要がある。記述をそのまま信じるわけにはいきません。

 伊勢神宮朝鮮半島と関係があると考えられます
 伊勢神宮と韓神山
 ──最後に伊勢神宮のことを伺いますが、こここそが全国8万社近くの神社を包括する宗教法人神社本庁が『本宗(ほんそう)』と仰ぐ、まさに列島の神社の中心地です。ですが、伊勢神宮もまた朝鮮渡来の人と関係があるようですね。
 岡谷 そうです。伊勢神宮朝鮮半島と関係があると考えられます。伊勢神宮の近くに五十鈴川が流れていますが、その五十鈴川に沿って『韓神山(からかみやま)』があります。ここは神宮の神官である禰宜(ねぎ)を代々務めた荒木田家の墓地だっっところで、かつては大きな古墳がありましたが、大正時代の初めの河川改修工事で破壊されてしまったということです。今も山には『韓神社』の小さな社があり、近くの森の中には国津御祖(くにつみおや)神社と大土御祖(おおつちみおや)神社がある。神宮の禰宜の墓があった山がなぜ『韓神山』と呼ばれるのか、祖先を意味する『御祖』の名に冠した神社がなぜ近くにあるのでしょう。私は3年くらい前にここを訪れ、韓神社を守っている地元の方の話を聞きましたが、詳しい話を聞くことはできませんでした。
 そもそも『神宮』という名称自体が、朝鮮半島に現存する最古の歴史書である『三国史記』の新羅本紀に出てきます。485年『春2月』の条に〈神宮を奈乙に置く。奈乙は始祖の初めて生たる処成〉とあって、これが文献による『神宮』の初見になります。このことは作家の金達寿(キムタルス)さんらが指摘しているところです。伊勢神宮の体制が整備されたのは7世紀半ばすぎ、天武天皇の頃とされています。
 ──太古から『貝の道』を通じて琉球と列島、半島の間で交流があったということですが、では神社の起源はいつごろなのでしょう。
 岡谷 700年始めに完成した『記紀』には、伊勢神宮や奈良の大神(おおみわ)神社などの記述が出てきますから、それよりかなり前から神社は存在していたと思われます。神域の近くに古墳つまり墓のある神社がおびただしい数に上っていることから、神社の起源は古墳時代、さらにその前の弥生時代縄文時代にまで遡る可能性もあるでしょう。
 ──『嫌韓』の風潮と日韓の政治的対立が取り沙汰される昨今です。大学で長く教鞭をとられていましたが、若い人たちに古代の神社の話をされましたか?
 岡谷 いや、していません。日本の伝統などと言われますが、こうした半島と列島の歴史をもっと多くの人に知ってもらいたいですね。実は30年近く通った跡見学園女子大学は埼玉県の新座市にあります。そこは古代に『新羅郡』だったところです。
 ──奇縁ですね。興味深い話をありがとうございました。」
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 最初に日本や朝鮮に上陸した文化や宗教は、南方系海洋民の子孫である縄文人が南から船に乗ってもたらしたものである。
 その源流は、神聖な宗教は女性、俗世の政治・軍事は男性という役割を分担していた揚子江流域にあった水稲作漁労の長江文明にあった。
 男尊女卑を原則とする黄河流域で栄えた麦・陸稲作狩猟の黄河文明とは違う。
 日本神道の大本も、長江文明にあった祭祀である。
 天孫降臨神話など日本神話の多くが、長江文明揚子江流域神話に由来している。
 祖先神・氏神の人神信仰も、長江文明の土着民信仰であった。
 長江文明は、現代の漢族系中国人とは無関係であり、むしろ南支山岳地帯で細々と生活する貧しい少数民族に繋がっている。
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 ヤマト王権は、女性神天照大神の血筋・血統を引く特別な一家系の人間のみを大王=天皇に祭り上げ、その特殊な血筋・血統の正統性を守る為に他家を排除する為に世襲とした。
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 女性が司る神聖の宗教と男性が行う俗世の政治・軍事は、対等な地位にあり、お互いが補完し合う並立共存体制であった。
 その代表例が、邪馬台国卑弥呼である。
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 現代の韓国でも、日本からもたらされたモノは数多く存在し、日本所縁のモノを排除したら残るモノは少ない。
 それに比べて、朝鮮発祥のモノで日本に根付いたモノはほんの僅かでしかない。
 日本が、朝鮮半島所縁の物で珍重したのは高額で取引されていた高麗人参と高麗青磁・高麗白磁などの陶磁器であった。
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 日本民族日本人、琉球人、アイヌ人は、同じ縄文人の子孫である。
 縄文人は、日本列島を中心に、南は沖縄、北は北方領土4島・千島列島・樺太、西は朝鮮半島南部に広く住み、日本海を主要航路として船で往来していた。
 ただし、日本民族日本人だけは、新たに逃げて来た渡来系弥生人難民との乱婚を繰り返して縄文人の血が薄れている。
 日本民族日本人・琉球人(沖縄県人)・アイヌ人は、ある意味では同じ民族である。
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 弥生系渡来人は、黄河流域民の侵略戦に敗れて朝鮮半島南部に逃げて来た揚子江流域民と土着の縄文系住民と雑婚し混血した子孫つまり、弥生系倭族である。
 弥生系倭族は、北から侵略してきた黄河流域民に敗れ弥生系帰化人として日本に逃げ込み、縄文人と乱婚し混血して倭人となった。
 弥生系倭族は、黄河流域民の子孫である現代の朝鮮人・韓国人とは無関係である。
 弥生系渡来人は、琉球人やアイヌ人とは乱婚で混血しなかった。
 同じ混血の雑種民族である日本民族日本人と琉球人・アイヌ人の違いは、乱婚の回数による。
 縄文人が、弥生系渡来人(倭族)と争う事なく同化できたのは血筋を同じくする同系同族であったからであり、中国人や朝鮮人と同化せず異化のまま乱婚せず交わらなかったのは別の血筋だったからである。
 血筋の違いは、日本民族日本人・琉球人・アイヌ人と中国人・朝鮮人・韓国人との感情、思考、行動、言動を見比べれば明らかである。
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 朝鮮半島所縁の出雲神話は、混血の弥生系倭族に由来する。
 スサノオ神話は、黄河流域民の話ではなく弥生系倭族の話である。
 古朝鮮時代の百済と古新羅は、弥生系倭族の血筋との繋がりを濃かった。
 同じ新羅と言っても、倭族混血の古新羅黄河流域民混血の統一新羅では違う。
 古新羅の建国には、倭人が関わり重要な役割を担っていた。
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 倭族が多く住んでいたのは、朝鮮半島南部の任那諸王国(金官加耶{かや}=伽耶金氏)であった。
 任那は製鉄業が盛んで、優れた職人が多くいた。
 任那新羅によって滅ぼされ、任那人は日本に逃げて帰化人となり、逃げられなかった任那人は新羅人と混血して消滅した。
 日本に逃げてきた任那人は、倭人日本民族日本人)と混血して消えた。
 逃げて来た任那帰化人の御蔭で、日本で製鉄業が盛んとなり、鉄製の武具甲冑や刀・槍などの強度が増して軍事力を強めていった。
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 百済は、新羅・唐連合軍に攻められて滅亡し、王侯貴族や軍人や学者など一部の百済人は日本に逃げ帰化人となり、残った百済人の多くが虐殺された、生き残った者は儒教による地域差別で下賤の身に落とされた。
 高句麗新羅・唐連合軍に攻め滅ぼされ、一部の高句麗人は日本・関東に逃げて帰化し、多くの者は満州に逃げ、逃げきれなかった者は虐殺された。
 一部の新羅人が、日本・関東などに移住して渡来人となった。
 百済人も任那人も、縄文人の血を濃く受け継いでいた。
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 新羅朝鮮半島を統一した後、王国内では激しい主導権争いが起き、権力闘争に敗れた一部の新羅人が日本に逃げ込み渡来人となった。
 統一新羅人は、古新羅人とは違って縄文人よりも黄河流域民の血の方が濃かった。
 新羅系渡来人は、日本天皇に対して反乱や騒乱を起こしていた。
 統一新羅の水軍や海賊は、北九州から北陸までの沿岸を襲い虐殺と略奪を繰り返し荒らし回っていた。
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