💖11)─1─マルタ島の偉業。日本欧州派遣艦隊は地中海の守護神である。~No.46 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 世界は、非白人非キリスト教国・日本の戦争勝利への貢献と人道に対する貢献を認めて、5大国の一員として国際連盟常任理事国に就任する事を要請した。
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 中国共産党政府は、如何なる些細な世界貢献もした事がないのに、国連から台湾を追い出して常任理事国の椅子を強奪した。
 国連は、非人道的犯罪行為を繰り返す中国共産党政府の「人道に対する罪」を糾弾しないどころか、非人道的犯罪行為を黙認(承認・追認)している。
 国連の権威とはその程度であり、国連憲章は意味を成さないお飾りに過ぎない。
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 国際連盟常任理事国入りした日本の方が、中国共産党よりも遙かに平和と人道に多大なる貢献をした、誇るべき素晴らしい国であった。
 ただし、褒められるべき日本人は当時の日本軍将兵であって、集団的自衛権を否定する現代の平和志向の日本人ではない。
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 当時の世界は、宗教的白人至上主義が支配していた。
 日本は人種差別撤廃の主張ではなく集団的自衛権の発動が認められた。
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 日本海軍は戦争貢献をした。
 日本陸軍は人道貢献をした。
 日本皇室は日本赤十字社と協力して国際貢献をした。
 軍国日本は、悪い事もしたが良い事も沢山してきた。
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 日本軍人は、例外なく靖国神社の祭神として祀られている。
 人道貢献・戦争貢献・国際貢献を遂行中に戦死した日本軍将兵は、靖国神社の軍神として祀られた。
 靖国神社は、戦争美化の宗教施設ではなく、戦争貢献・人道貢献・国際貢献で戦死した戦死者を顕彰する宗教施設である。
 それが、靖国神社の心・志・精神であった。
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 日本は、人道貢献と戦争貢献が認められて国際連盟常任理事国に就任した。
 戦争貢献とは、地中海・インド洋などでの活躍で連合国の早期勝利に貢献した事である。
 人道貢献とは、ポーランド人戦争難民孤児・ロシア人戦争避難学童・ユダヤ人及び白系ロシア人戦争難民の救出・保護・輸送、パリにおける重度戦傷者の治療・看病、敵軍ドイツ軍兵士捕虜に対する人道的配慮などである。
 日本軍将兵は、祖国を遠く離れら異国の土地で、人道貢献の為に自己犠牲を惜しまなかった。
 国際貢献及び人道貢献は、日本天皇・皇室が切望した事であり、全てに直接・間接で皇族が関与していた。
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 2018年7月号 歴史街道第一次大戦終結から100年
 〝地中海の守護神〟と称された日本海
 〝地中海の守護神〟──第一次世界大戦において、日本からはるか遠く離れたマルタに派遣され、世界各国から称賛された男たちがいた。
 日本海軍の第2特務艦隊である。その中には、若き日のあの名将もいた。
 井上和彦
 日本海軍、地中海へ
 ……
 1914年(大正3年)6月28日、『サラエボ事件』を発端に、翌7月28日、第一次世界大戦が勃発した。
 連合国側には、大英帝国、フランス、ロシア帝国イタリア王国大日本帝国、そしてアメリカなど多くの国々が参加し、対する中央同盟国側にはドイツ帝国オーストリア=ハンガリー帝国オスマン帝国ブルガリア王国が立った。
 日英同盟に基づいて参戦した日本は、ドイツの植民地であったマリアナ諸島パラオなどを占領、さらに青島(チンタオ)でドイツ軍と戦った。そして1917年(大正6年)1月、イギリスの要請に基づいて、地中海などへの艦隊派遣を決定する。その任務は、ドイツとオーストリア=ハンガリー帝国の潜水艦から連合国の輸送船を守るというものであった。
 編成された3つの特務艦隊のうち、地中海に派遣されたのが、佐藤皐蔵(こうぞう)少将率いる『第2特務艦隊』である。
 第2特務艦隊は、当初、巡洋艦『明石』を旗艦とし、松下良蔵中佐が司令を務める第10駆逐隊の駆逐艦『梅』『楠』『桂』『楓』、横地錠二中佐を司令とする第11駆逐隊の駆逐艦『松』『榊(さかき)』『杉』『柏(かしわ)』の計9隻で編成されていた。
 この第二特務艦隊に課せられた任務は、マルタ島を根拠地として、英国海軍および連合国海軍と連携しながら、地中海におけるオーストリア=ハンガリー帝国およびドイツ帝国の潜水艦Uボートの攻撃から船舶を護衛し、被害を受けた船舶の乗員の救助を行うというものであった。つまり、〝エスコート〟(船舶護衛)と〝レスキュー〟(海難救助)だったのである。
 当時、地中海にはドイツとオーストリア合わせて約40隻もの潜水艦が展開していたとみられ、甚大な被害が出ていた。
 1916年(大正5年)の下半期だけで250隻以上もの船舶が潜水艦による攻撃の犠牲になっており、その被害は増える一方であった。
 世界海難史上に輝く偉業
 1917年2月、佐世保などから出港した第2特務艦隊は、その二ヶ月後の4月13日にマルタへ到着し、グランド・ハーバーに入港した。
 第2特務艦隊の護衛ルートは、マルタを拠点に、エジプトのアレクサンドリア、南フランスのマルセイユギリシャのサロニカ、イタリア南部のタラントなど、地中海の港を結ぶ広範囲の航路であった。
 4月24日、第2特務艦隊に英輸送船トランシルバニア号の護衛任務が与えられた。
 駆逐艦『松』と『榊』は、トランシルバニア号を護衛してマルセイユに入り、その地でトランシルバニア号がアレクサンドリアに届けるための陸兵と武器を積載。
 5月3日、『松』と『榊』は再びトランシルバニア号を護送して、マルセイユを出港した。
 だが翌午前10時20分、イタリアのサボナ沖で、敵潜水艦の放った一本がトランシルバニア号の左舷後方に命中した。
 『松』と『榊』は、トランシルバニア号のもとに駆けつけ、ただちに救助活動を開始した。『榊』は敵潜水艦を索敵し、『松』はトランシルバニア号に横付けになって乗員の救助にあたったのである。
 雷撃を受けて、パニックに陥ったトランシルバニア号の兵士達は、われ先にと、横付けした『松』の甲板に次々と移乗した。
 こうしてトランシルバニア号の甲板にいた兵士らの約半数が『松』の甲板に乗り移ったそのちき、さらにもう一発の魚雷がトランシルバニア号に命中したのである。
 だが救助活動は続行された。
 この救助活動の末、800名を超える乗員を救助した『松』は、すみやかにトランシルバニア号を離れ、今度はそのまま敵潜水艦に対する攻撃を開始。代わりに、それまで敵潜水艦への索敵と攻撃を行っていた『榊』が、すかさずトランシルバニア号の左舷に横付けし、残りの乗員の救助にあたった。
 これは、イギリスをはじめ各国海軍では考えられないことであったという。ひとたび被雷(ひらい)した船に横付けして救助活動を行なえば、その艦も敵潜水艦のターゲットになるからである。だが日本海軍は、そんなリスクをものともせず、人命救助のために命をかけて救助活動を実施した。
 『松』と『榊』は、その後も救助活動を続け、イタリア駆逐艦などの協力を得て、トランシルバニア号の乗員3,266人のうち、約3,000人を救助したのである。
 二発の魚雷に直撃されたトランシルバニア号は沈没したが、敵の攻撃にさらされながら沈没したが、敵の攻撃にさらされながら沈没する船舶から、その乗員のほとんどを救助したという海難救助の例は他になく、世界海事史上に燦然(さんぜん)と輝く偉業でった。
 『松』と『榊』の乗員は、救助活動をしただけでなく、溺者(できしゃ)に自らの食糧や衣料をも差し出して手厚く看護した。
 そして救助を終えた両艦は、イタリアのサボナの港に救助者を送り届けたが、休息のために上陸した日本海将兵は、人々から『英雄』として大歓迎を受けたという。
 感動的な救助活動の噂が、すでにサボナの港町に広まったのだ。
 5月6日、『松』と『榊』がサボナからマルタに向けて出港しようとしたとき、救助されたイギリス軍兵士や市民らが港に詰めかけ、威風堂々と出港してゆく二隻の日本艦に、感謝の言葉を投げ手を振って別れを惜(お)しんだという。
 『松』の乗組員だった片岡覚太郎中尉は、その感動の様子をこう記している。
 ≪港口の鎮(し)まらぬ前にと、6時半水先案内人(パイロット)が乗る。7時に榊がまず出て、松も次いで出港、海岸には救助された英国の陸兵が黒山のように集まって別れを惜しむ。陸の方を見ると、海岸の通、山際(やまぎわ)の高い道、二階、三階の窓、縁側(ヴェランダ)、悉(ことごと)く人をもって満たされ、帽を振り、手巾(ハンカチ)を振り、心なき子供まで手を挙げて出港に景気を添える≫(『日本海軍地中海遠征記』)
 かつて世界最強のロシアのバルチック艦隊を撃ち破って世界中を驚かせた日本海軍が、今度は地中海での見事な救助活動で、世界の人々に再び感動を与えたのだった。 
 この地中海における日本海軍の武勇とその偉業に英国内は沸(わ)き立ち、当時海軍大臣で後に首相となるウィンストン・チャーチルから、マルタの特務艦隊司令部に感謝の電報が届けられた。
 またイギリス国王ジョージ五世は、その人命救助の功績をたたえ、駆逐艦『松』『榊』の横地錠二中佐以下の士官7人、下士官20人に、勲章を授与したのである。
 さらに驚くべきは、封鎖大臣ロバート・セシルが日本海軍の偉業と功績をイギリス下院で報告するや、議場は歓呼(かんこ)と拍手に包まれ、着せずして日本語で『バンザイ』が唱和されたという。
 魚雷の盾になってまで・・・
 1917年5月29日、武勲艦『松』『榊』に、イギリス病院船と商船を、マルタ島からクレタ島へ護衛する任務が与えられた。
 両艦がこの病院船を無事クレタ島に送り届けるや、引き続きこの船を、ギリシャのサロニカまで護衛してほしいとの要請があった。そしてそのミッションをこなしてマルタへ帰還する途上で、武勲艦の『榊』を悲劇が襲った。
 6月11日、アンチキセラ海峡で、『榊』が敵潜水艦に魚雷攻撃を受けたのだ。その結果、前部火薬庫が大爆発を起こして、艦橋から前部艦体が吹き飛ばされてしまったのである。
 この攻撃で、艦橋にいた艦長の上原太一中佐、機関長の竹垣純信中佐のほか、准士官2名、下士官28名、水兵ら27名の合計59名が戦死し、重軽傷者は16名に上った。
 地中海で活動した日本艦隊は、洋上にて敵潜水艦を発見するや、勇猛果敢に爆雷攻撃を行ない、敵の魚雷を受けて航行不能になった輸送船を、敵潜水艦と交戦しながら、自ら魚雷の盾となってまで守り通した。
 日本海軍は、他国の海軍艦艇には真似(まね)できない〝挺身(ていしん)護送〟を行ったのである。
 各国海軍は、自らを犠牲にしてまで輸送船を守り抜く日本海軍の勇敢な護衛の姿にいたく感銘を受け、畏敬の念を抱いたという。
 こうして日本艦隊は、1918年(大正7年)11月までに、実に348回の出撃を行い、788隻の輸送船や病院船などを護送し、兵員70万人の輸送を助けた。そして敵潜水艦の攻撃を受けて海に投げ出された、連合国の兵士や看護婦ら約7,000人を救助したのである。
 日本の第2特務艦隊は、その見事な護衛ぶりから、いつしか〝地中海の守護神〟と呼ばれるようになった。輸送船の船長の中には、日本艦隊の護衛がなければ出港しないとまで言い出す者もあつたというから、その信頼の高さをうかがい知ることができよう。
 第2特務艦隊には護衛の依頼が殺到し、その結果、司令官・佐藤少将は各国から勲章を授与される栄誉に浴したのだった。
 終戦後、残存するドイツ潜水艦Uボートが戦利品として戦勝国に分配され、日本海軍は数隻のUボートを半年かけて日本に回航した。その任務に就(つ)いた士官の1人が、誰あろう第2特務艦隊所属の駆逐艦『楓』の航海長・山口多聞大尉(大正7年12月昇進)──後のミッドウェー海戦で武名を轟(とどろ)かせせる、第二航空戦隊司令長官・山口多聞提督でった。
 山口多聞提督の自筆による『藻塩草(もしおぐさ)』に、このUボート回航のときの心情がこう記されている。
 
 旧独潜水艦に乗り組みて地中海を引揚ぐるに際し
 去年の夏目指し求めしあだ船に今翻(ひるがえ)る日の大御旗

 そして山口多聞大尉は、駆逐艦『楓』の航海長として地中海に向かうときの高ぶる心情を、こう記していたのである。

 地中海出征に当たりて覚悟を決める
 武士の矢猛心の雄々しさは散るを求める花にぞありかる

 英連邦戦没者墓地の一等地
 『榊』の59名の戦死者は、クレタ島の英海軍墓地に仮埋葬された後、一周忌にあたる1918年6月11日に、マルタ島のカルカーラにある〝Commonwealth War Graves〟(英連邦戦没者墓地)に埋葬された。
 英連邦戦没者墓地の入り口には、『旧日本海軍戦没者墓地 1914−1918 Japanese War Graves』という黒い石板が掲げられている。
 この厳(おごそ)かな墓苑(ぼえん)には、様々な形状をなした墓石や墓標が並び、ところどころに戦没者を悼(いた)む赤いポピーの花輪が捧げられている。そしてオリーブなど地中海地方独特の木々が風に揺られて擦(す)れる葉音が、この墓地を訪れる参拝者を賑やかに迎えてくれる。
 この地を訪れた私は、視界に入る墓石の一つ一つに心を込めて目礼し、鎮魂を祈りつつ墓地の奥へ進んだ。
 石板が案内する旧日本海軍戦没者墓地は、この英連邦戦没者墓地の一等地にあった。
 〝大日本帝国第2特務艦隊戦死者之墓〟
 ひときわ大きな四角錐(しかくすい)の墓石に刻まれたその文字が目に飛び込んできた時、私には胸に迫るものがあった。
 桜を象(かたど)った装飾金具がはめ込まれた石柱が墓石を取り囲み、質素ではあるが、どの墓石よりも威厳がある。そして石碑の側面には、乗艦していた艦艇名と共に、78名の戦没者の官職氏名と戦没年月日を刻んだ銅板がはめ込まれていた。この墓石は、第二次世界大戦でドイツ軍の爆撃による被害と老朽化のため、1973年(昭和48年)に原形通りに再現して建立されたものだという。
 私は、聳(そび)え建つ墓石に靖國神社の御神酒を注(そそ)ぎ、墓参した者全員で国歌『君が代』と『海行かば』を奉唱(ほうしょう)した後、深く頭(こうべ)を垂れて、七十八柱英霊に感謝と鎮魂の誠を捧げたのだった。
 忘れられた日本近現代史の栄光の記憶──地中海で大活動した大日本帝国海軍第二特務艦隊──これによって日本は世界の五大国に列せられ、欧米列強諸国と肩を並べる一等国となったのである。
 2018年(平成30年)、今年は、第二特務艦隊が大活躍した第一次世界大戦の、終戦100年かつ戦勝100年という記念すべき年である」
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 2014年8月3日 msn産経ニュース「【鼓動】「地中海で戦ったこと忘れないで」甦る日本艦隊への評価 地中海の小国マルタ 第一次大戦開戦100年
 第一次大戦中、日本の艦隊が本拠地としていたマルタ・ヴァレッタの港(内藤泰朗撮影)
 地中海に浮かぶ小島マルタで第一次世界大戦中、英国の同盟国として参戦した日本海軍の功績を評価する動きが広がっている。忘れ去られた史実に光を当てようという試みだ。第一次大戦の開戦からちょうど百年となるのに合わせ、現地を訪れて日本人の足跡を探った。(マルタ 内藤泰朗、写真も)
 戦利品はUボート
 マルタの港に停泊する日本海軍の艦船。敵から接収した潜水艦Uボートの甲板に並ぶ水兵たち。マルタの首都バレッタにある国立戦争博物館には、そんなモノクロ写真が展示されていた。「1917〜19年のマルタにおける日本帝国海軍」と題するコーナーができたのは数年前のことだという。
 英国はドイツとの戦況が悪化する中、日英同盟を結んでいた日本に地中海への艦隊派遣を要請した。17年3月に駆逐艦8隻を派遣し、6月には先遣隊がマルタに到着した。
 英国は当時、同盟国でありながら影響力拡大を図る日本を警戒し、不信感を解いてはいなかった。しかし、博物館にあった解説は、「日本艦隊の艦船数は最大時には17隻に達し、日本の海上支援の意義を否定する英国の見方は今日までになくなった。日本は大戦で重要な役割を果たした」と評価していた。
 「誇らしい物語」
 18年春には、ドイツが欧州の西部戦線で大攻勢を開始し、英軍は中東などに展開する部隊を大量輸送する必要が出てきた。日本の艦隊は、788隻の連合国側の輸送船や病院船を護送し兵員70万人を輸送。敵のUボートと35回交戦し、駆逐艦「榊」が魚雷攻撃を受けて大破し、艦長ら59人が死亡するなどの犠牲も出た。
 一方で日本艦隊は、Uボートの攻撃を受けた船から7千人以上を救出。人々に感謝され、戦後はUボート7隻を戦利品として日本まで運んだという。
 「日本艦隊の働きがなければ、英国は苦境に追い込まれていたかもしれない。そうした史実が知られていないのはおかしいと思い、コーナーをつくった。日本が地中海で果たした役割を忘れてはいけない」。国立戦争博物館のデボノ学芸員(35)が強調した。
 第一次大戦に関連する小説を多数出版している英国出身の作家、C・W・ニコル氏は、編集に当たった「日本海軍地中海遠征記」(片岡覚太郎著)で、艦隊の地中海派遣は「日本人だれもが誇らしく思っていい物語だ」と記している。
 薄れる存在感
 日本人水兵たちが眠る旧日本海軍戦没者墓地は、バレッタの港を望む小高い丘にある「英国軍墓地」の一角にあった。
 白い慰霊塔には66人の名前が刻まれ、清掃も行き届いていた。第二次大戦の爆撃で破壊されたが、戦後に再建され、今も多くの日本人が訪れるという。昭和天皇も皇太子時代の21年に訪問された。
 第一次大戦戦勝国となった日本はその後、孤立の道を歩んで米国と衝突。第二次大戦では、かつて共に戦った英国やマルタとたもとを分かち、敵同士となった。
 父親の代から在マルタ日本名誉総領事を務めるミフスッド氏(70)は、墓地や日本ゆかりの場所を案内しながら、マルタで日本の存在感が薄れ、中国が電力エネルギーや港湾分野に投資して急速に影響力を拡大していると明かした。
 「日本と歴史的なつながりがあるマルタに、もう少し足を運んでほしい」。名誉総領事の日本人に向けたメッセージだ。
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 マルタ共和国
 「地中海のへそ」と呼ばれる南欧の小国。人口約42万人。総面積は、淡路島の半分に当たる316平方キロ。地中海貿易で繁栄しイスラム帝国支配下に置かれたが、16世紀に聖ヨハネ騎士団(後のマルタ騎士団)の所領に。18世紀末にはナポレオン軍が一時占領。19世紀初頭に英領となったが、1964年に独立。英連邦と欧州連合(EU)に加盟。宗教はカトリックが中心。」
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 2017年5月28日 産経ニュース「【G7安倍晋三首相、島国マルタ訪問 日本の現職首相で初 旧日本海軍戦没者墓地も慰霊 
 会談に臨むマルタのムスカット首相(左)と安倍首相=27日、バレッタ(代表撮影・共同)
 【タオルミナ(イタリア南部)=田北真樹子】イタリアで開かれていた先進7カ国(G7)首脳会議に出席していた安倍晋三首相は27日深夜(日本時間28日午前)、会議閉幕後に地中海の島国マルタを訪問した。日本の現職首相による同国訪問は初めて。首相は、首都バレッタにある首相府でムスカット首相と約50分間会談し、東・南シナ海で海洋進出を強める中国を念頭に、海洋における法の支配の徹底に向けて連携することを確認した。
 ミサイル・核開発を強行する北朝鮮についても意見交換し、さらなる挑発行為には、厳しい措置を含む新たな国連安全保障理事会決議を採択することが重要との認識で一致した。
 マルタは今年前半のEU(欧州連合)議長国。ムスカット氏は「日EUの経済連携協定(EPA)の早期合意を目指す」と述べた。
 首脳会談に先立ち、安倍首相は第1次大戦中に死亡した日本人戦没者の慰霊のため、旧日本海軍戦没者墓地で献花し、黙祷をささげた。
 安倍首相は約4時間のマルタ滞在後、政府専用機で帰国の途についた。」
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 2017年9月号 正論「シリーズ対談 日本はあたたか〜い
 井上和彦×C・W・ニコル
 ……
 C・W・ニコル氏 ……第一次世界大戦のときの日本海軍のお話がありかしたが、ドイツ海軍の潜水艦Uボートの魚雷によって私の祖父の弟が亡くなっています。地中海が『Uボートの池』と恐れられていた時代です。それほど恐れられていた『海の安全』を守ってくれたのは日本海軍でした。
 ……
 捕鯨と海軍、日英の絆
 ……
 見事な日本海軍のスピリット
 ……
 ニコル氏 ……第一次世界大戦は1914年に始まるですが、Uボートがイギリスにとって大変な脅威だったことはすでに述べました。戦列艦『HMSアブーキア』が魚雷の被害を受けたときも巡洋艦『HMSクレッシー』や防護巡洋艦『HMSホーク』などが救助に駆けつけるのですが、その救助中にまたUボートにやられてしまうんです。そこで英国海軍は被害の拡大を避けるためにUボートに沈められても『助けには行くな』と命令したほどの衝撃だったのです。
 井上氏 当時、地中海では英国だけで96隻の船舶を沈められているんですよね。でもそれに親族が乗っておられたとは・・・。
 ニコル氏 はい。水は冷たく海に放り出されると助からないんですよ。それにあの当時はライフジャケットやライフボートなどは全然足りなかったですしね。
 そうした危険な海を日本の特務艦隊が護衛し、75万人の兵隊を無事に守るわけです。貨物船だと767隻。このうち623隻が英国の船でした。小さな艦隊でしたが日本が果たした役割は大きく私は戦争の結果を変えたとさえ思っています。
 特筆すべきは日本海軍の駆逐艦『松』と『榊(さかき)』でした。護衛した大型客船『トランシルヴァニア』が魚雷にやられてしまうんですが、沈み始めた『トランシルヴァニア』からロープなどを使って800人を救助するのです。そこに魚雷が再び命中します。
 ライフボートには40人が乗っていましたが爆発で人間の体がばらばらに吹き飛ばされます。その状況下でも『松』と『榊』の乗員による命がけの救助活動によって結局、2,964人もの兵隊の命を助け、66人の看護婦や36人のクルーを助けたのである。ここで私が強調したいのは日本海軍の行動は英国海軍の命令を無視して行われたことだったんです。
 井上氏 こうした献身的な救助活動をつづけた日本海軍の第二特務艦隊は最終的に地中海で洋上から7,000人もの人々を救助し、70万人を超える連合国の兵士らを無事に目的地に送り届けたことを考えると、確かにニコルさんが言われるように、日本海軍の船団護衛任務は大陸での戦局を変えるほどの活躍だったといえますね。
 ニコル氏 そう、さきのトランシルヴァニア号の救助では、『榊』と『松』が3,000人近くを助けた報が英国に届くと、国会では『日本の艦隊は地中海で戦っている!』と称賛され、英国の国会議員によって日本語で万歳三唱が起こったほどでした。
 井上氏 感動的な話ですよね。ニコルさんは『特務艦隊』の中で、マルタ島のカルカーラにある英連邦戦没者墓地内の日本海戦没者墓地で日本酒と梅干しなどをお供えし、そのとき、〈この男たちは、故郷からかくも遠く離れて亡くなった。連合軍の勝利に多大な貢献をした。それなのに、ほとんど忘れ去られていた。第二次大戦のために、彼らの物語は歴史にうずめられてしまったのだ。涙が浮かんできた。〉と書かれていますよね。当時、『松』の乗員だった片岡覚太郎中尉(最終肩書は中将)の手記も感動的です。やはりこうした埋もれた史実と感動秘話をもっと現代の日本人は知るべきだと思います。
 いまの日本人はあまりにもこうした歴史を知らなさすぎますね。
 ニコル氏 前に、片岡さんの息子さんにお目に掛かる機会を得ましたが、第一次世界大戦での日本の活動といえば多くの人がドイツ帝国の東アジアの拠点、青島を日本とイギリス連合軍が攻略した話しか知らないんですよね。
 でも実際はそれだけじゃないんです。マルタはもちろんですが、マルタ以外に日本海軍は南アフリカニュージーランド、オーストラリア、カナダの西海岸に至るまで守ってくれていました。歴史に埋もれたままの話は実はまだまだ沢山あるんですよ。
 まだまだ埋もれる戦時の秘話
 ニコル氏 青島攻略戦の前の話ですが、ドイツの巡洋艦『エムデン』があちこちで工作活動をしていましたが、これをオーストラリアと組んで追いかけたのも日本海軍でした。エムデンの捕虜はシンガポールに連れて行かれ、インド兵の監視下に置かれるのですが、逆に捕虜のドイツ人に『お前達は戦争にかり出される』『お前達はいずれ塹壕の中で泥のなかで殺される』などと篭絡(ろうらく)されて、インド兵が暴動を起こしてしまいます。それで女性や子供を含めた23人の英国人とマレー人が殺されてしまうんです。そのときもシンガポールを守るために派遣され、暴動を抑えたのは日本海軍でした。
 カナダの西海岸では規模の小さなカナダ海軍にあれほどの長い海岸線は守れないから、と日本の軍艦、巡洋艦、2隻が入って守ったんですよ。
 井上氏 どれも知られていない話ですね。
 ニコル氏 それから南アフリカ日本海軍が守っていました。ニュージーランドではオーストラリアからの兵隊を船を日本海軍が護衛していたんです。
 井上氏 そういえばかつて安倍晋三総理が、当時のオーストラリアのアボット首相と第一次世界大戦時における日豪両国の協力関係の話で共鳴されていたようですが、まさにこれは日本海軍の特務艦隊がオーストラリア、ニュージーランドの部隊をインド洋まで護衛した時の話でしたね。
 ニコル氏 実は日本海軍の艦船がメルボルンに入港しようとしたら、撃たれたことがあったそうです。大事には至らなかったそうですが、当時のオーストラリアは白豪主義による人種差別が根強かった。日本にはそうした仕打ちがあったんですね。日本海軍は怒ってロンドンに訴えますが、それでオーストラリアと日本との関係が政治的に気まずくなったこともあったそうです。
 そうしたなかで、白人のある婦人が8歳の男の子を連れ、菊の花を手にもって日本海軍を港に出迎えたことがあったそうです。菊の花はわざわざ自宅の庭から摘んだものだったそうです。日本に申し訳ないと心を痛めたオーストラリア人もいたわけです。日本海軍艦艇の艦長はその話を聞き、たいそう感激して母子を鑑のなかに招待したそうです。8歳の男の子に『大砲でもエンジンでも見せてあげる』と聞いたら男の子は『エンジンを見たい』と答え、それでエンジンを見せたそうですが、その男の子は大きくなって英国、カナダへ渡り、カナダで有名なエンジニアになりました。
 井上氏 感動的なエピソードですね。そんな話があるんですか。
 ニコル氏 あります。日本人には我慢ならない理不尽な話だったと思いますよ。だってオーストラリアの兵隊を守るために自分たちの命をかけて護衛しているのに、その恩恵を受けるオーストラリアの人から大砲を撃たれるのですから・・・。でもそのご婦人の行為はそのような険悪な雰囲気を一変させたそうで、人間の優しさが歴史を変えた出来事といっていい話です。このような歴史のなかに埋もれた話はまだまだ沢山あるのです。
 アファンの森のハプニング
 井上氏 ニコルさんは平成7年(1995)に日本に帰化されたわけですが、日本人になって嬉しかったことは何かありますか。
 ニコル氏 天皇陛下がわれわれの森にいらしてくれたことです。ちょうど森づくりに取り組んで30年目でした。……
 生物の多様性がスゴイ
 井上氏 最後にニコルさんにとって、日本のここが好きというお話をお聞かせ下さい。
 ニコル氏 私はナチュラリストですからその観点でいえば、日本ほどすごい国はなかなかないです。北には流氷があって南にはサンゴ礁がある。こういう島国はほかにありません。森林面積率も国土の67%と高いのですが、そこに植生する木の種類がはるかにヨーロッパより多いのです。
 英国にもともとあった樹木というのは30種類くらいですが、縄文時代の日本の樹木は1,300から1,500と言われています。つまり生物の多様性がすごいということです。この島国にこれほどの人間が暮らしているのに熊も2種類生きているでしょう。英国では1000年前に絶滅していますよ。海にも同じことがいえます。ものすごく面白く楽しい国なのです。
 そもそも私の森づくりは、こうした豊かさで素晴らしい生態系をもっている日本の森が高度経済成長期以降、摘み取られていくことを憂慮して始まったものです。樹齢400年以上のナラやブナ、トチなどの大木が一瞬にして切り倒され、スギやカラマツの人工林になってしまう。その人工林も、またもや経済的な理由で放置され、今や荒れ果てていく光景を目の当たりにし、美しかった本来の日本の森に戻したいという気持ちが高まっていたころに、故郷ウェールズにあった荒れ果てた森をみごとによみがえらせたことを知って決意したものです。アファンの森というのはウェールズにある森林公園になぞらえネーミングで、ウェールズ語で『風の通るところ』という意味です。
 日本には素晴らしい自然、豊かな生態系に加えてなおかつ言論の自由があって宗教の自由があって旅の自由があります。それから、もう戦争を70年もしていない。本当に平和な国ですし、私の感覚でも日本に住んで、嫌な目に遭ったことが全くない。嫌な思いを味わっても面と向かって話せば、だいたい友達になれる。本当にあたたかいのです」
   ・   ・   ・   
 英連邦の一員であったオーストラリアやニュージーランドにとって、日本は日清戦争で勝利して以来の仮想敵国であったが、対抗するだけの海軍力がなく、日英同盟で本国イギリスの同盟国であった為に、表面では友好な態度を示していた。
 ドイツ帝国は、海軍力を増強してイギリスの海外植民地を脅かし、太平洋島嶼植民地に艦隊を派遣した。
 オーストラリアとニュージーランドは、太平洋の海洋安全保障の為に、面従腹背的な欺瞞で日本海軍を利用した。
 日本海軍は、イギリスに対する集団的自衛権として、律儀にオーストラリアの裏庭ともう言うべき赤道以北のミクロネシアの安全を確保するべく軍艦を派遣した。
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 第一世界大戦後。日本海軍は集団的自衛権として連合軍に協力したが、さらなる国際貢献の美名で艦艇削減という屈辱を強要された。
 日本海軍は、日本政府はもとより、助けた連合国からも裏切られた。
 そして、日本は日英同盟解消としてイギリスに裏切られた。
 日本は、何時の時代でも、集団的自衛権を持つて国際社会に貢献しても、イギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどの西洋諸国に裏切れていた。
 連合国兵士を守る為に戦死した日本海将兵の御霊は靖国神社に祀られたが、やはり、その志は見事に裏切られた。 
 靖国神社は、哀れである。
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 日本は、当初欧州戦線に参加する意志はなかったが、日露戦争で助けてくれた同盟国イギリスの要請を受けて参戦を決断した。
 恩義には答えるのが、当時の日本であった。
 日本の参戦は、集団的自衛権の発動であった。
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 世界で地位を築き権利を手に入れる為には、味方・友軍の為に犠牲を出す必要があった。
 犠牲を出さず権利と地位を要求する者・国は、最低の卑怯者として軽蔑され排除された。
 日本が国家として認められ、朝鮮が国家として認められなかったのは、この為である。
 つまり、国力(軍事力・経済力)と広大な領地や数多い人口ではなく、ただ1つ「信用」である。
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 昔の日本は、自分の命よりも相手への「誠意」を最優先にして、自分の命を捨ててまで相手への「信用」を守ろうとした。
 昔の日本が手にした国際的信用や地位は、軍事力で奪い取ったわけではなく、経済力でカネで買ったわけではなく、「誠意」と「信用」で与えられたものである。
 つまり、世界第2位の経済大国を理由にして国連の常任理事国入りしようとした、心のさもしい現代日本とは違ったのである。
 昔の日本人は「誠意」と「信用」で責任を持って行動していたが、現代の日本は金の力で責任を拒否して行動している。
 世界が愛し信用したのは、昔の日本であって現代の日本ではない。
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 現代日本で安保法制(戦闘に参加できる戦争法制)や集団的自衛権に反対するリベラル派・革新派・エセ保守派には、国際社会における「誠意」も「信用」も否定しかなぐり捨てる日本人である。
 イラン・イラク戦争時の彼らの非人道的薄情な行動を忘れるべきではない。
 だが、彼らは弁舌爽やかで聴衆を魅了して支持者を増やした。
 現代日本は、今や、そうした国に成り下がっている。
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 権利は、犠牲によって与えられる。
 それが、集団的自衛権である。
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 集団的自衛権を認めない日本人に、武士・サムライの子孫を名乗る資格はない。
 百姓でさえ隣村の事には気を遣っていたから、集団的自衛権を否定する日本人は百姓の子孫でもない。
 武士・サムライは、動かず正論・理屈・屁理屈を並べ立て事は、みっともない恥ずべき事だとして最も嫌った。
 百姓は、命を捨てても助けに駆けつけない者は卑怯者として村八分にした。
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 非白人キリスト教国家である日本が、五大国の一員となして白人国家クラブであるの国際連盟常任理事国になれたのは、勝利した連合国に参加したからではなく、集団的自衛権を発動して連合国の勝利に貢献したからである。
 連合軍に参戦した事が常任理事国入りできたのであれば、人口が多い中国(北京政権)がなってもおかしくはなかった。
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 日本が世界的地位を高めた事に危機感を抱いたのがアメリカであった。
 日本にはアメリカに対しては友好だけであったが、アメリカの日本に対する感情は憎悪・嫌悪であった。
 アメリカの対日政策が強硬になっていったのはこの頃からである。
 アメリカ国内での排日運動が激しく広がったのもこの頃からである。
 アメリカは、日本の「信用」を破壊しようとした。
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 ドイツが反日派になったのは、集団的自衛権を発動して敵国イギリスに味方して、日本軍が青島を占領しドイツ船舶を攻撃したからである。
 ドイツは、日本の近代化に協力したのに敵になって攻撃した事を「恩知らず」と憎悪した。
 人種差別主義のヒトラーやナチ党は、保守派・国防軍軍需産業の支持を得る為に反日政策を採用した。
 国際ファシストにとって、軍国日本は敵であった。
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 日本皇室とイギリス王家は、友好的な関係にある。
 昭和天皇とジョージ五世の関係は、師弟のような関係に近かった。
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 ヒトラーフランクリン・ルーズベルト反日派であったが、チャーチル反日派ではなかった。 
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