💖16)─3─戦時下で。東慶丸はトルコの港湾都市イズミルでギリシャ人やアルメニア人を助けた。大正11(1922)年。〜No.64 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 昔の日本人は、危険なリスクを拒絶して口先だけで誤魔化す甘っちょろい現代の日本人とは違い、危険を厭わず命も身体も張り自己犠牲的に人助けを行っていた。
 現代の日本で反対され否定される集団的自衛権には、同盟国・友好国、友人・親友・戦友と共に命をかけて戦う、と同時に敵味方に関係なく戦場で全ての人に対して歴史的な平和貢献や人道貢献を行う事も含まれている。
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 軍国日本、日本人軍国主義者は人道貢献として戦場で難民・被災者を助け、助けられた、トルコ、ポーランドアルメニア、メキシコ、その他は恩を感じ感謝の言葉を述べて親日国・知日国となったが、中国、北朝鮮・韓国、ロシアは恩を感じず感謝の言葉も述べず反日国・敵日国・侮日国を止めず悪態を続け口汚く批判と非難を繰り返している。
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 2022年5月21日 MicrosoftNews 読売新聞「100年前に「日本船がギリシャ難民救った」はホントか…欧米の新聞で紹介、現地でアニメ化も
 © 読売新聞 トルコの港湾都市イズミル=村田教授提供
 1922年(大正11年)、戦下のトルコの港湾都市で、日本船が多くのギリシャ人ら難民を救った――。そんな人道支援が当時、欧米の新聞などで紹介されたが、日本では公的な記録や報道が乏しく、史実かどうかも不明となっている。今年で100年の節目を迎え、研究者が情報を求めている。
 第1次世界大戦(1914~18年)で、現在のトルコを支配していたオスマン帝国が敗北。戦勝国となった隣国ギリシャはトルコ西部の港湾都市イズミルギリシャ名・スミルナ)を占領し、ギリシャ・トルコ戦争が勃発した。しかし、後にトルコ共和国を樹立するムスタファ=ケマル率いる革命政府の反撃にあい、22年9月、スミルナはトルコ軍によって奪還された。
 当時の欧米の新聞は、スミルナで火災が発生し、逃げ場を失ったギリシャ人やアルメニア人を日本船が助けたと報道している。日本は同戦争で中立の立場だったが、他国の船が自国民の救助を優先する中、日本船は積み荷を捨ててまでして難民を乗せ、トルコ側の引き渡し要求にも応じなかったという。
 この出来事を研究する村田奈々子東洋大教授(ギリシャ近現代史)には、ギリシャ人から「『日本人に救助された』と祖父母に聞いたことがある」などの情報が届く。同国ではアニメの題材になるほど有名な話だが、日本の情報は少ない。村田教授は「現地で口頭で伝わる事件が史実だと証明するには、日本側の資料が不可欠」と話す。
 村田教授によると、当時の欧米の新聞には「Tokeimaru」と記されており、当時、日本の海運会社が所有していた「東慶丸」という船が、スミルナからアテネ近くに出港した記録も確認された。今年になって22年9月の日本の海運雑誌で「日比左三」という船長の名前も突き止めた。
 歴史的な人道支援では、1890年に和歌山県沖で遭難したトルコ船の船員らを助けた「エルトゥールル号遭難事件」や、第2次世界大戦中にナチス・ドイツに追われたユダヤ人にビザを発給した杉原千畝の活躍などが広く知られるが、スミルナの出来事は未知の部分が多い。村田教授は「100周年のタイミングを機に、関心を持ってもらえれば」と話している。
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 2021年9月15日 東京新聞「100年前、日本の商船がトルコ軍の包囲から難民800人を救った?ギリシャアルメニアに残る伝承
 エーゲ海を望む港町で100年前、ギリシャアルメニアの難民800人余をトルコ軍の包囲から救出した日本の商船があったとされる。史料が乏しく、事実と認定するにはなお課題が残るが、両国では日本人船長を「民族の恩人」として英雄視する声が高まっている。 (アルメニアの首都エレバンで、小柳悠志)
 トウケイ丸について語るバルダニャンさん=エレバンで(小柳悠志撮影)
 エレバンの日本学者アンナ・バルダニャンさんは「戦争中、難民に手を差し伸べるのは命懸けだったはず」と言い、伝承を次のように説明した。
 時は第1次大戦後の1922年9月。トルコはギリシャと戦いを繰り広げ、港町スミルナ(現イズミル)に迫った。街が火に包まれる中、トルコと敵対するギリシャ人やアルメニア人は窮地に陥り、岸壁に殺到した。
 当時のギリシャ主要紙によると、スミルナに寄港していた日本の商船「トウケイ丸(原文はTokei Maru)」は、ギリシャ人らを保護。船長は追ってきたトルコ兵に対し「難民に手を出せば、日本への侮辱とみなす」と言い渡し、難民の引き渡しを拒んだ。難民乗船のため、海に積み荷を捨てたとの説も残る。
 命を救われたギリシャ人はこの恩を語り継いだ。現地報道によると、子孫らの団体は2016年、在ギリシャ日本大使館に対して謝意を伝えた。同大使館も救出劇を史実として、トウケイ丸の物語を公式サイトで紹介している。
 ギリシャでは救出劇が短編アニメとなり、今年4月にはアルメニアでも放送された。バルダニャンさんは「日本人船長の人道的な偉業は永く伝えられるべきだ」と語る。
 ただ、この伝承を研究してきた東洋大村田奈々子教授(ギリシャ近現代史)は「歴史的事実と断言するには史料が足りない」と慎重だ。伝承に尾ひれが付き、独り歩きすることも懸念しているという。
 日の丸を掲げスミルナに停泊中のトウケイ丸とされる写真。イタリア語で説明書きがある=アンナ・バルダニャンさん提供
 村田教授は二十数年前、留学先のギリシャで「日本船が難民を助けた」との言い伝えを聞き、史料発掘に乗り出した。日本の船名録にTokei Maruと似た「東慶丸」が実在することを突き止めた。またこの船がスミルナを出た後、ギリシャアテネ近くに渡ったことを英国の保険会社の情報紙で割り出した。ただスミルナ停泊の日付が当時の報道と異なり、東慶丸が該当する船か決め手はない。
 一方、駐スミルナ米総領事が当時、米国務省宛てに「日本船による難民救助」を報告し、スミルナに停泊したトウケイ丸とされる写真も残っている。村田教授は「難民が語り継いだ話もリアリティーがあり、救助が架空とも思えない」としている。
 トルコ対ギリシャの戦いで日本政府は中立の立場だったため、仮に日本船がギリシャ人を救助した場合、公表しにくい状況でもあった。村田教授は「日本側で乗組員の手記が残されていれば、史実と認定できる」と新史料の発見に期待する。」
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 1922年にギリシャ人らを救った日本船の逸話、日経新聞に掲載
 2018.10.14
 Author永田 純子
 第一次世界大戦(1914‐1918)後、当時のギリシャ王国とトルコとの間で起こった希土戦争(1919‐1922)の末期である1922年(大正11)9月、スミルナ(現在のトルコ・イズミル)の港に戦火に追われ逃げ惑うギリシャ人、アルメニア人らを積荷を捨てて救助した日本船があったという、今に伝わる逸話を2018年10月12日付の日本経済新聞が伝えた。
 戦争の混乱のさ中の出来事であり、また戦火により数多くの資料が失われたことから、ただ彼らを救った「Tokei-Maru」という船名とその顛末のみが現在に至るまで世代を超えてギリシャ人らの間で語り継がれていた。
 ギリシャ北部の大都市テサロニキでは2016年6月日本人船長の功績を顕彰する記念碑が設置されたほか、逸話はギリシャ人監督によりアニメーション作品として映像化されており、100年あまりに渡る文字通り知られざる歴史にギリシャでも今再び光が当たりつつある。
 ギリシャ・テサロニキに設置された記念碑
 12日付の記事では、当時の事情を知る日本人からの情報を求めている。
 今年2021年に20周年を迎えたGreeceJapanへ、皆さまのご支援を賜りたく思います。次の時代へギリシャと日本の関係を繋いでいくため、皆さまのお力添えをお願いいたします。」
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 2022 モラロジー道徳教育財団
 菅野倖信(すがの よしのぶ)
 ㈱オリエンタルプロセス代表
 モラロジー研究所特任教授
 菅野倖信 – 日本だけが我々を見捨てなかった~エーゲ海で難民を救った日本人~
 『島国日本だけが我々を見捨てなかった。「ありがとう日本!」~エーゲ海で難民を救った日本人~』
 アルメニアという国をご存知ですか?
我々日本人にとって馴染みの薄い国かもしれません。
アルメニアは、1991年ソ連の解体とともに独立し、自由主義国家になった国です。
 アルメニアの人々は、日本とは地理的な距離の長さにもかかわらず、親日の方が多いのです。なぜでしょうか。
 それは、100年前に、日本とアルメニアギリシャに、ある歴史的秘話が存在していました。
 1919年から3年間続いたギリシャ・トルコ戦争の終盤となる1922年9月8日、ギリシャ系とアルメニア系の難民は、政府からの援助を得られないまま、トルコ軍によりトルコ西部の都市、イズミルへ追いやられていました。
戦争末期の混乱下とあって、他国の船が自国民を中心に救出する中、当時イズミルに寄港していた日本の商船の船長だけが、難民救出に動いたのです。
 当時、船には絹やレースなど貴重な商品が満載されていたのですが、船長は船員と共に積み荷の大部分を海に投げ捨て、難民を乗せるスペースを確保。
その後、難民を船に乗せ、ギリシャの海岸まで無事輸送しました。
この日本人船長の勇気ある決断により、800人の難民が命を救われたのです。
 救われた難民の証言の数々は、船上での日本人の礼儀正しさや、親切さを非常に鮮明に表しています。
 尚、その日本人船長の名前は、いまだに不明のままなのです。
 驚くことに、ギリシャでは100年近く前の出来事ながら、今でも日本人船員の慈悲深さを示すこの出来事が忘れられていません。
 人から人へ、世代から世代へと語り継がれ、今日まで守られているのです。
驚くことに、ギリシャ人の中には、「ココロイタイ」という日本語を知っている人が多くいます。
 外国で聞く日本語としては、かなり奇妙な言葉です。
 あの時、日本の船に救助されたギリシャ人が、日本人船員の話すた「ココロイタイ」(心が痛みます)(心の痛みはいかばかりでしょう)という表現を覚えていて、口伝えに今のギリシャ人に伝わっているのです。
 2016年7月、ギリシャ難民の団体「エスティア」により、敬意を示すプレートが、ギリシャの西林日本大使に授与されました。
 当時ニューヨーク・タイムズ紙もこの件を大きな記事にしています。
 しかし、なぜか日本では、外務省がギリシャメディアの関連記事を紹介しているだけで、日本のネット上にさえほとんど情報がありませんでした。
この歴史は秘話を、最近になって主にアルメニアのインターネットサイトが取り上げており、アルメニア人とギリシャ人の間で大きな反響呼んでいます。
 この船長と乗組員たちの勇気と行動力、そして人心救済を最優先したとっさの判断力と、正義感が日本中の人から人へと広がればと願います。
 (菅野倖信メールマガジン:「特選やさしさ通心№029」より)」
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 NHK 国際ニュースナビ
 日本の船が人々を救った? 100年前の「救出劇」の真相は?
 キラキラと輝くエーゲ海、圧倒的なスケールの古代神殿、オリンピック発祥の地…
そんなギリシャで多くの人が知っているエピソードがあります。
 100年前、第1次世界大戦後の混乱のさなか、「1隻の日本の船が多くのギリシャ系住民を救った」という話です。ギリシャではことし記念イベントが開かれるなど大盛り上がり。しかし、決定的な資料は見つかっていないとの指摘も。
 いま、当時のことを調べようという動きが本格化しています。
 (イスタンブール支局長 佐野圭崇 / 国際部記者 小島明)
 岸壁に追い詰められた人々の前に現れた“日本船”
 当時の新聞報道などをまとめるとおおむねこのようなことがわかります。
 第1次世界大戦後、敗戦国のオスマン帝国の領土に進駐したギリシャは、トルコ側と領土を巡って争いを続けていました。激しい戦いの中、港湾都市スミルナ(現在のトルコ西部イズミル)では、ギリシャ系などの住民が多く取り残されました。
 炎上するスミルナ(1922年)
 戦場となった街から逃れようと岸壁へと向かった人たちの前に現れたのは日本の船、その名も「Tokeimaru」。その船は、トルコ側の制止を振り切り、数百人の住民を乗せてギリシャへ避難させたということです。
 現在のイズミル(スミルナ)
 アニメ映画にもなった「Tokeimaru」
 Tokeimaruの「救出劇」は2018年に短編アニメ映画として公開されます。
日本人の船長が、岸壁で繰り広げられる惨状に絶句し、乗組員たちに積み荷を捨てさせて難民たちを甲板に招く様子が描かれています。
 アニメのワンシーン
 このアニメ映画を製作したギリシャ人のザホス・サモラダスさん。自身の祖母も同じ時期に現在のトルコ西部チョルルから追われるようにしてギリシャへと渡ってきたといいます。
 Tokeimaruの話を聞いたときに、この話を後世に残すことは使命だと感じたと語るザホスさん。そして今こそ世界で知られるべきだと指摘します。
 ザホス・サモラダスさん
 「かつての難民の話なのですが、ウクライナなど現在も多くの人が争いの結果、住まいを追われています。そんなときに私たちは手を差し伸べられるかという、普遍的なメッセージを持ったストーリーなんです」
 あくまで私の空想です、としながら実写映画化したら、船長役は真田広之さんにお願いしたいですね。と楽しげに話していたサモラダスさん。
 しかし、取材を進める中で私たちは重大な問題に行き着きました。
 実はTokeimaruについての決定的な資料が見つからないのです。
 資料がほとんどなく・・・
 実はこの船についてはたくさんの「謎」につつまれています。どんな船だったのか、いったい誰が船長だったのか、いずれもはっきりとはわかっていませんでした。
 ギリシャ近現代史の専門家・東洋大学村田奈々子教授は、この謎に迫ろうと調査を続けてきました。自身もギリシャ留学中に聞いたこの話がずっと気になり続けていたといいます。
 「日本にとっていい話」であるこの「救助劇」ですが、歴史の専門家として事実認定のためには「証拠」=資料や証言が必須だと考えてきました。
 聞き取りをする村田奈々子教授
 長年さまざまな研究のかたわら続けてきた調査。「救出劇」から100年が近づいてきたこともあり、ここ5年ほど本腰を入れたといいます。
 過去の船の記録を調べたり、船会社への聞き取り調査を行ったりした結果、1922年、東地中海に「Tokeimaru」と響きが似た「東慶丸(とうけいまる)」という船が渡っていたことが判明しました。そして、村田教授は当時の船長が「日比左三」という人物だったことを突き止めました。
 郷土史会も調査に協力
 この話が2022年5月に報道されると、日比姓が多い愛知県の知多半島の「はんだ郷土史研究会」が立ち上がりました。郷土史会のメンバーたちは、「もし地元出身の日比左三さんがかつて遠く離れた外国で人助けをしたのなら、きちんと記録に残し多くの人に知ってもらいたい」として、会報で情報提供を呼びかけたのです。
 郷土史会の尽力もあり、村田教授は、2022年9月、左三さんの親族の日比美榮子さん(85歳)の元を訪ねることができました。
 村田教授が探していたのは「左三さんが当時のスミルナでギリシャ系などの住民を救助した」という記録や、そうした話を聞いたことがあるという証言でしたが・・・。
 日比美榮子さん
 「結婚のあいさつに左三さんの家に行ったことはあるのですが、当時、左三さんはいらっしゃらなくて・・・留守だったのか、亡くなっていたのかは分かりません。船関係の仕事をしていたとは聞いたことがあります」
 しかし、美榮子さんは、村田教授に見せたいと自宅の仏壇の裏にあったという古いメモを持ってきていました。そこには左三さんの名前とともに上海に住んでいたときの住所や、お盆に左三さんがお金を渡していたことなどが記されていました。そして一連の調査で左三さんが亡くなった日も初めて分かりました。
 そして村田教授にとって、とても興味深い発見が、もうひとつありました。左三さんの妻が残したという手記から、左三さんの母親が熱心なキリスト教正教会の信者だったということがわかったのです。ギリシャ人の多くはこの正教会を信仰しています。
 郷土史会などによると、知多半島では明治時代から、布教が行われ、教会もあったといいます。左三さんが信者だったかどうかは記録・証言も見つかっておらず分かっていませんが、遠く離れたギリシャ知多半島をつなぐ、1つの重要なピースかもしれないといいます。
 東洋大学村田奈々子教授
 「なんとなく立体的に見えてきた部分があるんですよね。あともう少し、あともう少しなんですけど・・・。『困っている人を助けよう』という気持ちがあって、行動した人がいたとしたら、それはいまも100年前も変わらない重要な人道支援ですよね。歴史に書かれなかったら消えてしまう人たちの足跡だったかもしれませんが、もし見つけることができたら、それはちゃんと歴史の中に記述して残していくべきものなんじゃないかと思っています」
 確かな情報を探して
 ジゴマラスさんと話す村田教授
 9月下旬、村田教授の姿はギリシャの首都、アテネにありました。訪れたのは父親が日本船に乗って難を逃れたというイッポクラティス・ジゴマラスさん(78歳)。
 イッポクラティス・ジゴマラスさん
 「私たちも船の名前を聞いたことがありません。父から聞いたのは、日本人の子どもとよく遊んだということです。私たちは日本の領事と船に命を救われたんです」
 村田奈々子教授
 「当時、スミルナには領事はいなかったと思うのですが・・・」
 聞き出せたのは断片的な証言だけでした。100年前にジゴマラスさんの父親が日本船に乗ったのは17歳の時で、さらに40年前に亡くなっていたからです。
 それでもジゴマラスさんは、父親が日本への感謝の気持ちを常に持っていたことをはっきりと覚えていました。
 イッポクラティス・ジゴマラスさん
 「『日本の人たちが私たちを救ってくれたのだから忘れてはいけない』と、私たちの家には日本の国旗がありました。今の私や家族があるのは、遠く離れた日本の船のおかげです」
 新発見に沸くアテネ
 9月、村田教授はアテネで開かれた「救助劇」から100年を記念する催しに講師として招待されました。
 会場に集まった250人の聴衆の前で愛知県での調査結果を報告しました。左三さんの親族に会えたこと、左三さんの母親が多くのギリシャ人と同じ正教会の信者だったことなど、明らかになった新事実の数々にギリシャの人々が時折、歓声を上げる場面もありました。
 会場には、父親が日本の船に救出されたというジゴマラスさんの姿もありました。
 終始、興味深そうに話を聞いていたジゴマラスさん。イベントが終わると村田教授のもとに向かい、感謝の気持ちを伝えていました。
 ジゴマラスさんと村田教授
 当事者の家族にとっても歴史的背景や事実を知る貴重な機会だったといいます。
 村田教授もギリシャの人たちの反応に思いを新たにしていました。
 村田奈々子教授
 「左三さんの個人的な書いたものとかが、何とかして出てこないと。日本に戻ったらいくつか手がかりがあるのでこれから探していきたいと思っています」
 どなたか 東慶丸のことを知っている人いませんか?
 窮地に立たされた異国の人たちに手を差し伸べたとされる東慶丸の乗組員たち。100年の時を超えて、私たちに助け合いの精神を説いているようにも感じました。
 東慶丸のこと、日比左三さんのこと、知っている方はいませんか?
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