・ ・ ・
関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
2022年2月6日 MicrosoftNews 文春オンライン「夫を追って日本へ…ドイツからやってきた美人令嬢に待っていた“暗転”の瞬間
小池 新
「寝巻ははだけ短刀で突き刺された惨状は…」《新聞掲載差し止め》襲われた国際的大物の令嬢と“酷すぎる現場” から続く
当時日本と交戦中だったドイツの海軍大臣の娘が殺された1917年の「イルマ殺し」事件。微妙な国際的背景におかれることになったため、事件の新聞記事の掲載を差し止めるなど、日本政府には動揺が走った。
なんとか執念の捜査で犯人は捕まり、報道が解禁されると、夫婦の悲劇は愛の美談として世間に広まった――。
◆ ◆ ◆
「彼女は背が高くすらりとした美人だが…」
報道が解禁された4月10日付各紙には夫妻の出自も載っている。東日を見よう。
〈名門の出なる ザルデルン夫妻=イルマは不評判の女
ザルデルン夫妻はともに名門の出で、ザルデルンの父はドイツの参謀総長だったこともある。また、イルマは元ドイツ海軍大臣の娘にて美人の評判高く、夫が青島開城と同時に日本に俘虜となると、跡を慕って日本に来たもの。彼女は自分がドイツの名門の出なのを鼻にかけ、日本人を「黄色い小猿」と侮り、寄留届なども容易に差し出さなかった。その筋から数回説諭を受け、持て余されていたこともあった。家庭経済については口やかましく、出入り商人を困らせ、極めて不評判の女だったという。〉
こうした人物評価は他紙にも見られる。時事新報は「なかなか傲慢の風あり」と記述。4月11日付東朝も「彼女は背が高くすらりとした美人だが、やや驕慢のふうがあり、雇い人や近所の人からよく言われず、素行がおさまらないとの評判があった」と書いている。
1カ月の生活費は100万円超!?
同紙には、1カ月の生活費が400円(現在の約108万円)とも。気が強く、自己主張が激しかったうえ、「捕虜の妻のくせに」という視線もあったのだろう。黒田静男「地方記者の回顧(大正時代 月曜附録から学芸欄の創設)」には「若くて美しい異邦の女性はゴシップのタネにもなっていた」ともある。しかし、それだけではなかったようだ。
なぜ彼女は日本に来ることになったのか
1914年7月に始まった第一次世界大戦に日本が参戦したのは同年8月。主戦場は遠いヨーロッパだったが、当時結んでいた日英同盟の信義を守り、日本の地位向上を図るのが目的とされた。しかし実体は、アジアと太平洋でドイツが持っていた権益の獲得と、日露戦争の結果として得た満州(中国東北部)の権益問題に決着をつけるのが狙い。
唐突な参戦で、「元来紛争の当事国でない日本が参戦したプロセスには強引なところがあったのは否めず」(奈良岡聰智「第一次世界大戦と対華二十一カ条要求」=筒井清忠編「大正史講義」所収)、という。
福岡県・久留米市で編成された陸軍第18師団は9月2日に中国・山東半島北岸に上陸。進撃を続け、1914年11月7日、膠州湾口のドイツの租借地・青島要塞を陥落させた。
© 文春オンライン 青島陥落の祝賀紙面(九州日報)
「開戦の当初より、敵は決死防戦の意思を有しなかった」
日露戦争従軍体験を描いた「此一戦」で知られる海軍大佐・水野廣徳は「大正戦役史」 (「明治大正国勢史第2巻」所収)で「欧州本国の戦局に何ら重大なる影響なく、かつ早晩陥落の運命にある青島要塞を死守するため、これら有要の人物を犠牲とするは、ドイツ将来の大局上得策にあらずとの見地に基づき、開戦の当初より、敵は決死防戦の意思を有しなかったということである」としている。
日本では各地で「青島陥落」の提灯行列や祝勝記念の大売り出しが行われるなど、さまざまな祝賀行事が盛大に行われた。
日本軍の捕虜となった青島のドイツの将兵はワルデック総督以下4715人(俘虜番号を付された俘虜)。当初、日本国内12カ所の収容所に収容された。その第1陣として福岡、久留米、熊本の各収容所に送られる1200人余りが福岡県・門司港に着いたのは11月15日。
「青島俘虜来!」「青島俘虜来る」とほとんど同じ見出しの11月16日付福岡日日と九州日報は、いずれも捕虜を載せた輸送船の写真入りで、社会面の大半をつぶして報じている。
記事の中身も「上甲板には将校のみ打ちそろって至極愉快げに私語するさまは大国民だからか、無邪気ではないか」(福岡日日)、「これらの俘虜がガヤガヤとしゃべる声が随所に起こって、そのうるささは言葉にならず、ある者はビスケットをかじり、ある者はパイプをくわえ、悠々としてタバコをふかし……」(九州日報)と、当時の日本人から見れば、捕虜とは思えない陽気で屈託のない表情が描かれている。
「文明国からの『お客さん』」
福岡到着の際、博多駅前には数万人の群衆が集まった。その“歓迎”ぶりを九州日報は次のように記している。
〈この日、俘虜到着の時間を新聞で知った市民は2時間前、すなわち(午前)6時前から博多駅に押し掛けて行き、景勝の地を占めようとひしめき合い、駅前の広場は真っ黒い人だかり、というよりは、さながら人の海と化し、電車の進行もできないほどになった。駅前より旧柳町に至る沿路十数町の間は見物の群衆で堵を築いている(大勢の人が集まって人垣を作る)中に、駅から呉服町に至る間はことに見物の群衆があたかも潮のごとく、呉服町電車交差点は見渡す限り人の海で、竪町通りまた非常な人出があり、狭隘な竪町通りは、沿路の各戸とも室内電灯のひもを延ばし、軒先に電灯をかざし、俘虜の顔のしわ一つも見逃さないと顔の先に突きつけて見入り、押されて泣く子どもがあれば踏まれて叫ぶ婦人もあり、2階も3階も、見える限り人がいないところはないありさま。〉
福岡日日はその後「俘虜物語」「俘虜珍談」というコラムを連日のように掲載。九州日報と合わせて、捕虜に関する話題を時には面白おかしく取り上げている。
内海愛子「日本軍の捕虜政策」は、日清戦争から日露戦争、第一次世界大戦まで、日本軍の捕虜となった外国人を取り上げた第1章に「文明国からの『お客さん』」というタイトルを付けている。ドイツ人捕虜についても、多くの日本人にとっての印象は(少なくとも当初は)その通りだったのだろう。
「集まって見物するようなことは、彼らにとって非常な侮辱と不快を感じさせるので注意するように」
板谷敏彦「日本人のための第一次世界大戦史」によれば、日本の陸軍はドイツ陸軍を範としたので、エリート将校はドイツ留学を希望。医学、化学、工学などでも留学生はドイツを目指した。日本人にとってドイツは親しい国だったとしている。
「捕虜に対する待遇は寛大であった。希望者には毎週火・金の2日に午後2時間、市内の引率外出を認め、散歩、買い物をさせたし、日・木曜には郊外散歩と称して郊外に遠出させていた」(「福岡県警察史」)。収容所の高級副官は「市中散歩の際などで物珍しさに集まって見物するようなことは、彼らにとって非常な侮辱と不快を感じさせるので注意するように」などと市民に要請した。
「福岡では外人の口に合うパンがないというので、毎日神戸からわざわざ取り寄せて出していた」
鬼頭鎮雄「はかた大正ろまん」によれば、捕虜は賓客のような扱いで、将校は日中の外出は自由。料理屋はもちろん、遊郭に行く者もいた。「食事がまた大変なことだった」「ワルデック総督以下将校63名のパンは、福岡では外人の口に合うパンがないというので、毎日神戸からわざわざ取り寄せて出していた」という。「第二次世界大戦を経験した世代の人々には、このような捕虜の待遇は理解できないものがあろう」と「福岡県警察史」は述べている。
捕虜は大阪や名古屋などでも歓迎の大群衆に囲まれた。しかし、「日本軍の捕虜政策」は「例外は福岡だった」と書いている。「青島の攻防戦で多くの犠牲者を出していたこともあって、道の両側に立っていた人たちから侮蔑の言葉や小石が投げられた」と。
「ドイツ兵捕虜と家族」も「ワルデック総督ら青島のドイツ主要幹部が収容されたうえ、当初収容人数が多かったことから久山(又三郎・陸軍中佐)所長の管理は非常に厳しく、任期中の処罰者も多いとしている。青島戦のころの地元紙には、18師団兵士の戦死のニュースがあふれている。
しかし、紙面では「侮蔑の言葉」や「小石」が投げられた光景は見られない。記者が見なかったのか、市民が捕虜を受容する姿に美化したのか。
「敵とはいえ、ずいぶん気の毒な身の上であります」
その捕虜の中にザルデルン大尉もいた。瀬戸武彦「青島(チンタオ)をめぐるドイツと日本(4)独軍俘虜概要」=「高知大学学術研究報告第50巻 人文科学編」(2001年)所収=の捕虜名簿には「Siegfreid von Saldern(ジーグフリード・フォン・ザルデルン)」として次のように載っている。
「海軍砲兵中隊長、海軍大尉(封鎖指揮官・繋留気球隊長)。8月6日、軍艦エムデンが露艦リャザンを捕獲して青島に入港する際、砲艦ヤーグアル搭載の汽艇で迎えて無事入港させた。10月初旬、繋留気球に数回乗り込んで日本軍の偵察を試みたが、周囲の山にさえぎられて目的を果たせなかった」
同論文の青島ドイツ軍部隊編成によると、海軍歩兵第3大隊の砲兵中隊長で左地区を担当していた。
青島陥落から年が明けた1915年1月25日付の読売「よみうり婦人附録」面に「獨逸海相の令嬢は 俘虜大尉の妻 福岡収容所の悲劇」というベタ(1段)記事が載っている。
ザルデルン大尉が「さる6日の午後、最愛の妻と面会を許され、俘虜連中の羨望の的となったという話ですが」と前置き。その後、妻から「門司を引き払って同じ福岡に家を構え、できれば一緒に暮らしたい」と手紙が来た。
大尉は「来てはいけない」と返事を出したが「敵とはいえ、ずいぶん気の毒な身の上であります」と結んでいる。この時点では門司に来ていたようだ。
さらに脱走事件の翌年1916年3月26日付東朝には「父は獨逸新海相 娘は福岡の俘虜夫人」という「福岡特信」の記事が。海軍大臣就任のタイミングで話題に取り上げたとみられる。この段階では既に福岡に来ている。
父の帰国の勧めを振り切って日本に来たイルマ
同記事には、情報源がどこかは分からないが、2人の軌跡が書かれている。それによれば、カペレ新海軍大臣の愛娘で、美人のイルマには多くの男性から結婚の申し込みがあった。父は、貴族の家に生まれ海軍大学を優秀な成績で卒業したザルデルン大尉に白羽の矢を立てた。大尉は青島に派遣されてイルマと共に赴任。2人の子どもができたが、青島陥落で捕虜に。イルマは父の帰国の勧めを振り切って日本に来た――。
「夫が収容されている須崎裏からさして遠くもない福岡市外住吉町大字住吉に家を借りて住んでいた」(「福岡県警察史」)。4月10日付の新聞にも家や家族の状況が書かれている。
「イルマ夫人は一昨年(1914年)中、夫ザルデルン大尉の後を追って上海より福岡に来たり、1週1度の逢瀬と平和克服とを楽しみに、人里離れた福岡市外住吉町簑島土手の深野別邸を1カ月35円(現在の約12万円)で借りた」(福岡日日)
「イルマの家は元・愛知県知事(元・福岡県知事)深野一三氏の所有で、(敷地は)那珂川を望む3000坪(約1万平方メートル)以上。大正4年以来借り受け、長男ジェルベスター(11)、次男オルスト(8)、家庭教師ドイツ人ヨハナ・バルクネールらと共に住み、邸内の一棟に厨夫・北條歌三郎夫婦を住まわせていた。凶行当時、長男は帰国し、家庭教師は松山におもむき、家には次男とイルマのみだった」(東日)
「許可を得て週1回、愛児の手を引き収容所に面会に通うイルマの姿に…」
当時の日本人の感覚からすると、捕虜の妻が夫の収容されている国に来て、定期的に面会することは考えられないが、4月10日付報知で俘虜情報局(捕虜の情報・連絡を担当するため1914年9月に設置された官庁)事務官・篠崎惣太郎中佐は「ドイツ捕虜の細君はだいぶ日本に来ている。久留米に8人、松山に1人、福岡に1人で、その福岡のが先に惨殺されたイルマ夫人である」と語っている。
「夫ザルデルン大尉と琴瑟(きんしつ=琴と大型の琴)すこぶる相和して(非常に夫婦仲がいい)いたことは、はるばる異郷へ、捕らわれの身となっているのを慕って来たことからも知れよう」とも。「許可を得て週1回、3歳になる愛児ベタホルストの手を引き、収容所に面会に通うイルマの姿に同情のまなざしが注がれ、博多っ子の人気が集まっていた」と「福岡県警察史」は書いている。
新聞報道の人物像とはかなり印象が違うが、新聞がそう報じるようになった原因は、捕虜収容から1年余りたった1915年11月の事件だったと思われる。
捕虜脱走事件が発生「ドンタク騒ぎに紛れて…」
〈俘虜五名逃走 海軍少佐ザクセー以下皆将校
福岡俘虜収容所須崎裏町収容所に収容中だったドイツ俘虜将校、海軍少佐ザクセー以下4名(5名の誤り)がさる13日より一昨20日正午までの間に逃走、行方をくらました大椿事があり、収容所では前記5名の逃走を感づき、にわかに狼狽(ろうばい)して取り調べに従事するとともに、福岡憲兵分隊及び福岡警察署では巡査の非常召集を行い、目下大々的活動を開始し、行方捜索に全力を注いでいる。〉
同年11月22日付九州日報は社会面トップでこう報じた。記事は「ドンタク騒ぎに紛れて」の中見出しを挟んで続く。
〈逃走した俘虜は前記ザクセー海軍少佐をはじめ、陸軍中尉ケンペー、海軍中尉ストレーラー、海軍少尉モッデ、陸軍少尉ユンクスラルンの5名。うちケンペー中尉は6尺9寸(約2メートル9センチ)の大男で、ワルデック総督、ザクサー参謀長と共に須崎裏、日本赤十字社福岡支部跡に、また他の4名は物産陳列場跡に収容されていた。彼ら5名の逃走はかねてから計画していたもののようだが、逃走決行の時日は目下のところ詳しく分からない。収容所では13日、俸給を下げ渡しており、当日までは5人とも確かにいたが、20日正午に至り、柳町収容所に収容中の俘虜連5名がひそかに逃走したことを話し合っているのを、収容所所員が感知し、大いに驚いて人員検査をした結果、初めて逃走の事実が確認された。5名はたぶん19日夜か、または20日午前12時(正午)ごろ、福岡の奉祝どんたくの混雑に紛れて須崎裏収容所の裏手から船で逃走したらしいが、いずれの方面へ逃走したかは手掛かりがないようだ。〉
「彼らは博多駅から堂々と汽車に乗り、逃走した」
この年の11月10日、大正天皇の即位式があり、各地で祝賀行事が行われた。福岡でも地元名物・どんたくで奉祝してにぎわった。事件はその後も、5人が下関から船で朝鮮半島に渡ったことなど、続報が連日、地元2紙に大きく掲載された。
「福岡県警察史」は「彼らは博多駅から堂々と汽車に乗り、逃走した。モッデ少尉は朝鮮のソウルで捕まったが、他の4人は警戒網を突破して中立国の中国へ逃げおおせた」と記している。
疑われたイルマの関与
問題はこの事件でイルマの関与が疑われたこと。既に九州日報の第一報に「獨探の手引説あり」という見出しが立っている。「独探」とはドイツのスパイの意味。約10年前の日露戦争の際、非戦論をとなえるメディアやジャーナリストらに「露探」のレッテルを張って攻撃する風潮が広がった。ドイツが敵国となったこのころには「独探」という言葉が頻繁に新聞に載った。九州日報の記事は――。
〈須崎裏収容所すなわち赤十字社福岡支部跡にはワルデック総督、ザクサー大佐以下6名、ほかに従卒6名がいる。また物産陳列場跡にはペートケ中佐以下20余名の将校と従卒20余名がいる。物産陳列場には昨今、毎日午前9時交代で福岡連隊から衛兵司令下士(官)1名、歩哨係上等兵1名、卒(一等兵・二等兵)6名、ラッパ手1名の衛兵が詰めきり、衛兵は1時間ごとに物産陳列場の裏と表に歩哨を立てて警戒している。しかし、ワルデック総督以下を収容している赤十字社跡は昼間軍曹1名、夜間柳町収容事務所から下士1名宿直のために来て場内を1回巡視するだけで、極めて開放的。このほか、事務所から将校1名が巡視するはずだが、昨今は静穏に慣れて将校の巡視を怠りがちではなかったかという説がある。
もし彼らが船で逃走したとすれば、勝手を知らぬ彼らのことだから、必ず付近に係留してある漁船を盗みにいくはずなのに、付近に船の紛失した形跡がないことをみれば、5名の逃走はかねて計画し、収容所に出入りする俘虜らと知り合いであろう何者かが独探となって手引きし、巧みに逃走させたものだろうとの説がある。〉
実際は船での逃走ではなかったが、確かに警備はずさんだったようだ。こうした流れからはイルマの名前が浮上するのは避けられなかった。11月23日付福岡日日の初報は、逃走は同月10日から20日までの間だったとして「将校が5名まで逃走し、しかも、いつだったか逃走の日すら判明せず、1日後に初めて発見されたというような事実は未曽有の大事件というべきである」と収容所の姿勢を批判。
続々報じられる「疑惑」
5人は27~28歳から33歳までの血気盛んな青年将校で、「各将校の間に逃亡しようとの密儀をこらし市外住吉町字簑島、深野別邸にわび住まいしているフォン・ザルデルン夫人イルマが、毎水曜日に夫ザルデルンに面会に来るのを利用し、種々これにも密計を漏らして協議した形跡がある」と書いた。
別の面でも「姿をくらますため、それぞれ軍服を脱いで変装したことは明らかだが、右の変装及び私服の調達方はイルマが万事の手伝いをなしたとのうわさがある」と記述。
以後もイルマが逃亡に手を貸した疑惑を報じていく。11月24日付では見出しでも「内にワ総督の密旨あり? 外にイルマ夫人の應(応)援あり」と報道。引きずられてか、九州日報も同日付で「問題のイルマ」の小見出しを立て、シーメンス社の東京支配人がイルマ方に滞在したことを捉えて同様の疑惑を報じた。
前年に日本海軍高官への贈収賄「シーメンス事件」が発覚していたことも輪をかけたのだろうが、100年以上前とはいえ、うわさをそのまま実名報道するジャーナリズムの人権意識には驚かされる。
イルマ宅を家宅捜索、連行…「気丈なイルマは事実を否定して釈放された」
イルマは11月24日、久留米を訪れ、同じ捕虜の妻7人と会合。これもまた「何事を密談した歟(か)」(11月27日付福岡日日)、「俘虜夫人の會(会)合 久留米にて密談」(11月29日付同紙)と書かれた。12月10日、福岡憲兵隊はイルマ宅を家宅捜索。イルマを連行した。
12月11日付福岡日日は「手提げかばん及び雑記帳のほか、数通の手紙を有力な証拠として押収」と書いている。12月14日付東朝も「イルマの取調 シ社支配人喚問か」と報じている。「福岡県警察史」にはこの疑惑の結末が簡単に書かれている。
「脱走の手引きをしたのがイルマではないかと疑われた。家宅捜索、憲兵の取り調べを受けたが、気丈なイルマは事実を否定して釈放された」
事件はイルマにもショックだったようで、「はかた大正ろまん」は「神経衰弱になってしまい、子どもたちを連れて軽井沢に静養に出かけた」との新聞報道があったと記している。夫との面会も一時禁止されたが、疑いが晴れたということか、約半年後に再開された。
「誰一人、福岡市民で泣かぬ者はなかった」のか?
妻の殺害、夫の自殺という悲劇に、読売新聞西部本社編「福岡百年」は「事件はいくら当局が隠しても、自然に町に流れた。そして、美しくも哀れな夫婦愛に市民たちは同情の涙をしぼったという」と記述。江頭光「ふてえがってえ福岡意外史」も「誰一人、福岡市民で泣かぬ者はなかった」と書いているが、その受け止め方が全てだったとは思えない。
「文明国からの『お客さん』」と大群衆が歓迎したのは一面の国民感情だったが、一方では、異人種に得体の知れない不気味さを感じていたのは間違いない。逃亡事件はその見方に真実味を与えた。
「日露戦争でのロシア軍捕虜に対する待遇がそうであったように、第一次世界大戦のドイツ軍捕虜に対する処遇も、戦後への思惑と日本人特有の武士道精神とがあいまって寛大なものであった」と「福岡県警察史」は書く。
確かに、戊辰戦争に敗れた会津藩出身で「捕虜経験」を持つ松江豊寿大佐が徳島の坂東俘虜収容所の所長として進めた捕虜政策は、書籍や映画「バルトの楽園」にも取り上げられたほど比類のないものだった。
収容所長が捕虜を殴打
しかし、全部の収容所がそうだったわけではない。「日本軍の捕虜政策」は「捕虜が憎んだ『強制収容所』もあった。殴打が行われるなど、厳しい政策をとっていた大阪・松山・久留米・福岡の各収容所である。これらの所長は頑迷で、厳しすぎる規則に固執し、罰則も重かった」としている。福岡の場合は逃亡事件以後のことなのだろうか。
同書は中でも久留米の例を特記している。同書によれば、捕虜の怒りの対象は2代目所長の真崎甚三郎・陸軍中佐だった。同収容所では捕虜の殴打を認め、親族からの小包を放置していたことが主な理由で「真崎は何度も捕虜とぶつかっていた」(同書)。
福岡で逃亡事件が起きたのとほぼ同時期の1915年11月15日、捕虜将校2人と会談中、突然飛びかかって手で打ち伏せた。大正天皇即位の祝賀で捕虜将校にビール1本とリンゴ1個を配ったところ、「本国政府の許可なく受け取れない」と返却してきたことに激高したという。捕虜らしくなく態度が傲慢だという理由だった。
ドイツ将校は全員連名で抗議文を中立国のアメリカ大使館に出している。真崎はのちに陸軍三長官の1つである教育総監に就任。大将に上り詰め、陸軍「皇道派」のリーダーとして二・二六事件の黒幕ともいわれた。
そんな大物軍人の捕虜観が軍全体に影響を与えないはずがない。「日本軍の捕虜政策」は「久留米収容所には、のちのアジア太平洋戦争での捕虜問題の原型があった」と位置付けている。
社説におどった「捕虜論」
青島攻防戦さなかの1914年10月30日の東朝社説は「捕虜論」と題して、欧州でドイツ・オーストリアとイギリス・フランスの両陣営から大量の捕虜が出ていることについて次のように述べた。
〈降伏は武士の絶対の恥辱なるを観念し、むしろ死するにしかずと覚悟するは日本人の真面目(しんめんもく)なり。欧州の諸軍が交戦ごとに多くの醜虜(しゅうりょ=みにくい捕虜)をいだせるは、むしろ日本軍人が嘲笑の資料となすべきものなることを特記して、もって軍人及び一般教育家に警告せんと欲す(原文のまま)。〉
「生きて虜囚の辱(はずかし)めを受けず」と定めた「戦陣訓」が出されるのは二十数年後の1941年だが、既にメディアはこの段階で先取りしていた。イルマ事件について書かれたものには、どこか一種の遠慮というか、後ろめたさが感じられる。手を下したのが日本人だったことが理由だが、それだけではない。
この第一次世界大戦で戦勝国となったことで、日本は世界の五大国の仲間入りを果たす。それは当時の人々にとって誇らしいことだった。しかし、そうなっても、日本人の多くは欧米との文化や生活レベルの決定的な差を自覚していた。
ドイツ人捕虜に対する視線にも、そのあこがれとコンプレックスがぬぐいきれずに出ている。
新聞その他、事件について書かれたものは、日本側の捕虜の扱いが人道的であり、妻を追って自殺した夫の行為を称賛して夫婦の美談とするものが圧倒的に多いが、そこにはどこか居ずまいの悪さが感じられる。事件を通して、国と国民がまだ成熟していないことを悟らされたようにも思える。しかし、国も国民もそのまま背伸びを続け、昭和に突入する。
一審、二審とも死刑判決…「顔色変じて土のごとくなり、両眼は血走りぼうぜん」
田中徳一は一審、二審とも死刑判決を受け、二審判決の際は「顔色変じて土のごとくなり、両眼は血走りぼうぜん」(1917年7月5日付九州日報)。そして、事件から1年余り後の1918年3月10日、長崎監獄片淵分監で処刑された。12日付福岡日日によれば、娼妓をしている妹に1通の書き置きを残したという。自分が犯した罪の報いとはいえ、彼の人生も恵まれていたとはいえない。
イルマ殺しで、ドイツ政府は当時中立国だったアメリカを通して日本側に強く抗議した。しかし、ザクサー大佐の報告書に「日本の軍事・民事関係の役所は、これまで全てについて非常に寛大な対応で自由にさせてくれました」とあるように、日本側の事件対応はおおむね良好で、それ以上の国際問題には発展しなかった。
名簿に残された「埋葬地不明」
1917年9月24日付東朝には、社会面ベタで横浜港にオランダ船「オレンジ号」が寄港した記事が載った。まだ欧州で戦争は続いており、オーストリアの中国公使らドイツ、オーストリアの官吏をアメリカ・サンフランシスコに送るための船だったが、記事の最後にこうある。
「横浜よりの乗客としては、先に福岡で凶刃に倒れたイルマの遺児フォルスト・エルデルヒ・フォン・ザルデルンが帰国するため、保母アンナに伴われて乗船した」
報道解禁直後の「婦人公論」1917年5月号で、「情痴文学」の作家として知られた近松秋江は江戸時代の近松門左衛門の「心中もの」やフランスの作家モーパッサンの短編を引き合いに、事件について述べている。
「ザルデルンの妻は人手に斃(たお)れて死んだのであるが、夫が悲歎(嘆)の餘(余)りその後を追ふ(う)て自殺するに到つ(っ)て、それは情死の形式になります」
ザルデルン大尉は遺書で2人の遺骨をドイツの土地に埋葬するよう求めていたが、「独軍俘虜概要」の名簿で大尉の項の末尾には「埋葬地不明」とある。大尉とイルマはどこに眠っているのだろうか。
【参考文献】
▽久留米市文化財調査報告第306集「久留米俘虜収容所Ⅴ ドイツ兵捕虜と家族」久留米市教育委員会 2011年
▽「福岡県警察史 明治大正編」 福岡県警警察本部 1978年
▽黒田静男「地方記者の回顧(大正時代 月曜附録から学芸欄の創設)」 黒田静男記念文集刊行会 1963年
▽ 奈良岡聰智「第一次世界大戦と対華二十一カ条要求」=筒井清忠編「大正史講義」(ちくま新書、2021年)所収
▽水野廣徳「大正戦役史」=「明治大正国勢史第2巻」(実業之世界社、1929年)所収
▽内海愛子「日本軍の捕虜政策」 青木書店 2005年
▽板谷敏彦「日本人のための第一次世界大戦史」 角川ソフィア文庫 2020年
▽鬼頭鎮雄「はかた大正ろまん」 西日本新聞社 1981年
▽読売新聞西部本社編「福岡百年」 浪速新聞社 1967年
▽江頭光「ふてえがってえ福岡意外史」 西日本新聞社 1980年
(小池 新)」
・ ・ ・
ウィキペディア
イルマ殺しは、1917年(大正6年)2月24日に福岡県福岡市で発生した強盗殺人事件である。第一次世界大戦(日独戦争)で日本が交戦中のドイツ帝国の海軍大臣エドゥアルト・フォン・カペレの娘が殺害され、夫のドイツ帝国海軍の軍人が後追い自殺した。
背景
詳細は「日独戦ドイツ兵捕虜」を参照
1914年(大正3年)8月23日、日本はドイツ帝国に宣戦布告し、日独戦争が始まった。日本は膠州湾租借地を攻撃し(青島の戦い)、ドイツ帝国軍は11月7日に日本軍に降伏。アルフレート・マイヤー=ヴァルデック総督以下約4,500名が捕虜(当時の陸軍用語で「俘虜」)となった。後に南洋諸島占領時の捕虜がこれに加わり、捕虜の数は総勢約4,700名となった。
捕虜を収容するために、日本各地の12ヶ所に俘虜収容所が設置された。福岡市にも福岡俘虜収容所が設置され、11月15日に第一陣となる575人が到着した。将校は須崎(現・博多区須崎町)の県物産館に収容され、下士卒は柳町(現・博多区下呉服町)にあった遊郭[注 3]を改装した建物に収容された。11月17日にはワルデック総督ら第二陣256名が到着し日本赤十字社福岡県支部に収容された。
北京に住んでいたイルマ・ザルデルン(事件当時30歳)は、夫のジークフリート・フォン・ザルデルン海軍大尉が収容所にいることを知り、12月14日、28歳で3歳の次男を連れて日本に渡った。親子は門司市(現・北九州市門司区)から下関市の知人宅を経て、収容所に近い外住吉町大字住吉(現・博多区住吉)に家を借りて住んでいた。借家は、福岡県知事だった深野一三が老後の隠居に建てた別邸だったが、深野は愛知県知事として転居したため空家となっており、イルマと息子、それに家庭教師の3人住まいだった。収容所では週に1回面会が許されており、息子の手を引いて須崎裏の収容所へ向かうイルマの姿は、市民にも注目の的だった。また、10月には久留米市を訪れるなど、同じように日本に滞在している他の捕虜の家族とも交流があった。
1915年12月、福岡俘虜収容所で捕虜の脱走事件が起きた時には、イルマが背広を調達するなどして脱走の手ほどきをしたと疑われたが、憲兵の尋問や家宅捜索で幇助は確認できず、無実と結論付けられた。しかし、イルマは精神的に追い詰められたらしく、軽井沢に静養している。収容の長期化により、捕虜のうち下士卒は久留米俘虜収容所や習志野俘虜収容所に移され、1916年(大正5年)10月には柳町の収容所が閉鎖されたことから、事件当時の福岡俘虜収容所は須崎の将校収容所のみとなっていた。
事件の発生
1917年2月24日21時頃、強盗が庭に入りこみ、庭の植え込みに身を隠して家の様子を窺っていた。灯火が消えて家が静かになった深夜23時頃、強盗は星明りを頼りに雨戸を外して家に侵入し、応接室の隣にあったイルマの寝室に忍び込もうとした。ここでイルマが物音に気づき、電気スタンドを灯して応接間を覗き込んだところ、強盗を見つけたため大声をあげながら強盗に飛びかかった。イルマは強盗に馬乗りになり抵抗したが、強盗は持っていた匕首をイルマに突き刺した。匕首はイルマの顔に刺さり、今度は強盗がイルマに馬乗りになって首を絞めて殺害した。強盗は格闘中に消えた電気スタンドを点け、コードをイルマの首に巻きつけた後、枕元にあった黒カバンを盗んで裏庭から逃亡した。家庭教師は松山俘虜収容所周辺に住む捕虜婦人を訪ねて不在で、別室で寝ていた6歳の次男は無事だった。
翌2月25日朝5時、離れに家族で住み込みザルデルン親子の世話をしていた主婦がイルマの遺体を発見した。遺体は応接室の倒れた襖の上に倒れており、寝巻は胸までめくれており、下着はつけていなかった。顔は毛髪で隠されており、コードは首に巻き付いたままだった。
捜索
通報を受けた福岡警察署(現・中央警察署)は、イルマの死を福岡県警察部へ報告し、福岡県警察部は内務省に報告した。交戦国の大臣の娘が殺害されたという事態に、成立したばかりの寺内正毅内閣は驚愕した。後藤新平内務大臣には事件の早期解決の指示が下り、政府は連日、谷口留五郎福岡県知事と警察部長を激励した。また、報道管制により新聞記事は検挙まで差し止められた。
現場検証は警察署長が現場に駆け付け、直接指揮する中行われ、イルマの遺体は25日13時から九州帝国大学病院(現・九州大学病院)で解剖された。イルマの死因は窒息死で、顔から胸部、右手に計8か所に刺し傷があり、無数の擦過傷があった。遺体の爪には、2寸(約6cm)の外国人の毛髪が挟まっていた。現場の応接室は照明がついたままで、柱にかけられていた時計は少し傾いたまま、12時25分を指して止まっていた。金の腕時計などの貴金属、カバンに入っていた現金100円が盗まれたほか、遺留品として匕首のハバキが残された。また、現場には血の付いた犯人の指紋が襖などから複数見つかった。
外交問題となることを恐れた政府の圧力や大尉の自殺もあり、イルマ殺しの捜査には拍車がかけられた。捜査を担当した警部は2月26日に結婚式を挙げる予定だったが、犯人検挙まで無期延期となった。しかし福岡市内の宿泊施設や遊郭、料理店に一斉臨検が行われたにもかかわらず、手掛かりは無いままだった。見つかった指紋は、指紋を保管している警視庁や大阪府警察部、各地の監獄に送られたが、該当者は見つからなかった。
夫の自殺
妻の死は、2月25日朝の点呼で収容されている大尉にも伝えられ、ザイデルン大尉は衛兵の付き添いで現場を訪れた。イルマの遺体は、葬儀を終えた2月26日に九州帝国大学(現・九州大学箱崎キャンパス)の火葬場で火葬された。放心状態だった[12]ザルデルン大尉は、2日後の2月28日未明、ドアの蝶番に電線を引っかけて、首を吊って縊死した。遺書によると、夫婦は結婚に際して、どちらかが死んだときは残りも死ぬという契りを結んでいた。夜が明けた3月1日朝7時に衛兵が自殺を発見し、テーブルの上には軍服が折り畳まれ、遺産や遺品に関する内容と、義父カペレと上官、そして2人の息子に宛てた5通の遺書が載せられていた。大尉の葬儀は収容所の講堂で行われ、軍刀を供えた棺に納められた大尉の遺体も、ドイツ帝国の国旗や鯨幕が張られたイルマと同じ窯で火葬され、遺言どおりイルマと同じ骨壺に収められた。わずか数日の間に両親を失った次男は、久留米市に住んでいた別の捕虜の妻に引き取られた。
犯人検挙
捜査が進む中、現場近くの旅館に2月13 – 19日と23 – 26日に宿泊していた、小倉市(現・北九州市小倉北区)鳥町三丁目の洋服商(26歳)と名乗る男が浮上した。身元を捜査したところ、鳥町に該当する人物はおらず、偽名による宿泊が明らかとなった。さらに、警部は遺留品のハバキに新しい研磨痕を見つけ、市内の研ぎ屋を捜査したところ、事件の前日に30歳前後の男が依頼していたことも明らかになった。
捜査を進めたところ、新柳町の遊郭に洋服商の馴染みの妓娼がいることが判明し、彼が事件翌日に遊郭を訪れ、右手に包帯を巻いて金の腕時計をしており、しばらく遠出すると述べていたことが明らかになった。やがて、妓娼に男から手紙が届き、津屋崎町(現・福津市)に滞在していることが判明。直ちに刑事が津屋崎に派遣されたが、男は既に宿泊した旅館から旅立っており、腕時計も質屋に売られた後だった。さらに、男が腕時計をして写っている写真が写真店の店先に飾られており、刑事たちを呆れさせた。
しかしこの写真から、男の正体は佐賀県兵庫村(現・佐賀市兵庫)の菓子職人で、窃盗の前科を持つ田中徳一(事件当時26歳)と判明した。菓子店を捜査していたところ、田中が3月19日から小倉市鳥町一丁目のパン店で職人として住み込みで働いていることが分かり、4月7日に刑事が小倉市に派遣された。小倉警察署(現・小倉北警察署)の応援を受けてパン店に向かった刑事たちは、日付が変わった4月8日0時15分、映画見物から帰った田中を検挙した。
検挙後
田中の所持品からは、イルマの所持品である黒カバンや金製の腕時計、真珠の付いた指輪が見つかった。前科者の指紋に該当が無いとされた現場の指紋は、現場の指紋のネガと保管されていた田中の指紋を照合したところ、指紋の凸部に付着した血液ではなく、凹部に残った血液を拭き取ったときにできた逆指紋であることが明らかとなり、逆指紋の照合が犯罪捜査で用いられた世界でも最初の例とされている。
犯人逮捕に伴い、事件に関する報道も解禁された。田中には死刑判決が下り、1918年(大正7年)3月11日、田中は長崎刑務所で処刑された。捜査の糸口となる妓娼を発見した巡査には、谷口知事から表彰状と当時としては破格の賞与である80円が与えられた。
福岡俘虜収容所は、1918年3月に最後まで残ったワルデック総督らが習志野俘虜収容所に移され、4月12日に閉鎖された。
海軍大臣の娘が殺害されたということもあり、ドイツ帝国政府は中立国のアメリカを通して日本政府に厳重抗議したが、約1ヶ月で犯人が逮捕されたことや、大尉が遺書で日本の警察の捜査が丁寧であることを明記したこともあり、それ以上の追及は無かった。
2008年(平成20年)、ザルデルン夫妻の子孫から、大尉の上官が作成した遺書の複製や事件の報告、夫妻の葬儀の写真、イルマの妹にイルティス級砲艦「ヤグアル」艦長から送られた手紙、大尉が青島や福岡から送った手紙の史料が久留米市に寄贈された。
・ ・ ・