🌏14)─2─賊軍・奥羽越列藩、会津藩、長岡藩は明治維新・近代化という空気の生贄にされた。~No.47 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本民族の歴史とは、思想・哲学・イデオロギーではなく、敗者の物語、滅びの文学、怨霊鎮魂の宗教経典、人の道を教える道徳訓戒集である。
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 日本民族の歴史には、勝った者と負けた者はいたが、イデオロギー的正義はなく、よって善人も悪人も存在しない。
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 日本の物語は、死んだ弱者・敗者に同情し生き残った強者・勝者を憎む判官贔屓で、儒教朱子学の勧善懲悪は江戸時代からである。
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 明治時代以降の西洋礼賛作家による時代劇・時代小説は、江戸時代を暗黒時代として明治維新・近代化を「時代の夜明け」と表現した。
 その代表作が、徳川幕府新選組を悪として描いた大仏次郎の『鞍馬天狗』であった。
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 勝者が歴史を書く為に史書にはウソが多い。
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 2021年6月18日号 週刊朝日司馬遼太郎もうひとつの幕末史 
 敗者たちの戊辰戦争
 司馬さんは会津藩松平容保を主人公にした小説『王城の護衛者』を書くなど、東北への思いが強い。容保や原敬山本五十六の『戊辰戦争』を語り、東北人へエールを送る講演となった。
 ……
 ですから私はずいぶん前から、東北びいきなんです。好きというのはなかなか直らないもので、今日は、その東北びいきの立場から、戊辰戦争の話をしたいと思っています。
 まず奥州が戊辰戦争に負けた理由なんですが、これははっきりしています。要するに鉄砲が悪かったんです。
 薩摩の銃は新式の元込(もとごめ)銃です。東北諸藩の銃は、火縄銃によく似たゲベール銃でした。まだ火縄銃を使っている藩さえありました。鉄砲の精度からすれば、とても比較になりません。奥州の鉄砲10丁があつまっても、薩摩の鉄砲1丁に勝てたかどうか。
 これでは勝負にならない。
 では薩摩や長州はなぜそんなに洋式銃を買い込んでいたんでしょうか。やはり私は彼らが脅威を感じていたからだと思います。長崎や対馬、そして鹿児島、山口にいると、外国の船舶を目のあたりにする。このままでは日本は植民地になってしまうと肌身にしみました。
 外国が侵略してきたら、各藩がそろって戦わなくてはならない。そのためには火縄銃ではだめだ。西国の雄藩は洋式にしようと躍起になって走り出した。
 日本は大きい国なんですね。その西国の肌身に迫る切迫感が東北には伝わりませんでした。やはり東北は日本の奥座敷なんでしょうか。それもずいぶん大きな家の奥座敷です。玄関口の騒ぎがなかなか伝わらない。知的情報としては、これまでのゲベール銃が役に立たないことは伝わっていても、切迫感はなかった。銃を全部変えようというところまではいかなかった。
 もっとも薩摩藩全体が幕府を武力で倒そうとは思っていませんでした。保守派もいました。しかし、国元の薩摩にいる大久保利通、そして京都にいる西郷隆盛の2人は、はっきり思っていました。2人は早い段階で鳥羽伏見の戦いを想定します。鳥羽伏見が、戊辰の幕開けですね。
 京都の薩摩藩邸にいる西郷は、大山巌という自分のいとこに鉄砲の買い付けを命じます。大山巌日露戦争のときの陸軍の総司令官です。京都から横浜まで1年間に20回以上も往復させて、新式銃を買わせた。どうして西郷はそんなにお金を持っていたんでしょう。盟友の大久保が国元の金庫からひそかに運んできていたんです。島津の殿様はそんなことは知りませんでした。
 何丁買ってきましたと、西郷は懐からソロバンを出し、帳尻があっているか、いつもソロバンをはじいたそうです。
 西郷隆盛という人はソロバンが上手な人でした。べつにソロバンが好きだったのではなく、当時、薩摩の下級の侍たちは藩からもらっている石高、お米だけでは食べていけませんでした。西郷家は兄弟も多く、西郷は長男です。なんとか早く就職というか、お役について役料をもらおうとした。だいたい侍というのはソロバン仕事を嫌がります。地味な仕事ですからね。
 西郷はソロバンを習って、18歳のときにソロバンをはじく仕事につきました。これが家計を楽にし、さらには西郷が世に出るきっかけになりました。
 こうして京都に積み上げた銃器が、戊辰戦争で火を噴きます。
 鳥羽伏見の戦いなど、幕府方の人数は、薩長、土佐よりも圧倒的に多かったのに負けてしまう。戦火は広がり、東北に及んできて、白河口で激戦となります。奥州のお侍さんは強かったそうですね。強かったと思います。
 しかし、戦死者の数は10倍で足りるでしょうか。これはひとえに薩摩の最新兵器にやられた。負けたのはそれだけの理由です。しかし考えてみれば、西国の雄藩が時勢に鋭敏だったのも、東北の諸藩が奥座敷にとどまっていたのも、ひとつの風土ですね。多様性のひとつでした。
 江戸文化の良さは多様性にありました。たとえば小さな藩というのは、一生懸命に学問をしました。
 山陰の津和野藩がそうですね。
 ここは頭上の台地に強大な長州藩がそびえています。長州が怖くて仕方がないんですが、戦っても勝てる相手ではない。そうなら学問をしようということになり。明治の森鷗外西周を出すことになります。
 宇和島藩もそうです。仙台の伊達家の分家ですね。10万石のご家中は大変学問が盛んで、幕末には西洋技術の導入に熱心な藩でした。ついには蒸気船まで自力でつくっています。
 ……
 戦争に負けて東北人は考え始めます
 もう少し戊辰の話を続けます。
 大正デモクラシーの時代、総理大臣になった人で原敬がいます。南部藩の出身です。
 原敬の家は南部藩重臣でした。おじいさんは家老職もつとめています。南部藩が降伏したのちのことです。ある日、少年だった原敬は報恩寺という寺の周りを何度も歩き回ったそうです。その日、この寺で戊辰戦争の責任をとって、筆頭家老の楢山佐渡切腹することになっていました。
 南部藩はいわば義理で戊辰に参加し、痛烈な罰を受けた。南部藩は無念でした。尊敬する家老が切腹する時間に、原敬は寺の周りを歩き続けた。
 その日の痛切な思いが、その後の原敬の精神の何事かを形成したに違いありません。原敬が総理大臣になる前に、山県有朋という人物が、ローマ法王のごとく君臨していました。ご存じのように、長州の足軽出身です。内務官僚もにぎり、陸軍をにぎり、双頭の鷲のごとく君臨していた。
 その山県の家に原敬があいさつに行かなくてはならなくなり、行くと果たしてなにか嫌なことを言われた。その場で言い返すほどのことでもなく、黙っておったんですが、お腹の中ではこう言ったそうです。
 『この足軽め』
 やはり原敬にも戊辰戦争は濃厚にありました。
 太平洋戦争に反対し続けたのは海軍だったと言われています。全海軍が反対したわけではなく、主に反対したのは海軍の中の東北人ですね。アメリカの生産力のデータ、アメリカ海軍のデータなどを見て、日本は身を動かしてはだめだと、はっきりした結論を持っていた。そういう考えを持っていたのは東北出身の海軍軍人に多かった。なにかハイカラな感じがします。米内光政もそうですし、井上成美もそうです。長岡の山本五十六もそうでした。
 ……
 長岡藩が官軍と戦った北越戦争は、戊辰戦争のなかでも激戦でした。 
 当時の横浜にいた外国人たちの間で、明治政府の信用が非常に落ち込むほどの激戦でした。長岡藩および会津藩が勝つと思っていた外国人たちも多かった。長岡藩を率いていたのは、総督(筆頭家老)の河井継之助です。この人は、ひとつの民族の歴史のなかで何人も出てこないほど、政治感覚の鋭い人でした。この人が長岡藩を一所懸命、近代化した。しまいには藩士に刀を捨てさせることまでして、小さいながらも強力な、近代的な軍隊をもつ藩になりました。武装中立を貫くのを夢見ていましたが、戊辰戦争が起こった。負けることは分かっていたのに、応ぜざるを得ない状態に追い込まれた。奮戦しましたが、ついに敗れます。河井継之助の一生は水の泡と消えました。長岡藩が降伏する前に、河井は戦死します。
 山本五十六は太平洋戦争に負けると分かっていましたが、真珠湾攻撃だけは勝つ可能性につながると考えた。
 真珠湾攻撃を立案して実行し、そして最終的な敗北を知ることなく戦死します。なんだか似てますね。……やはり戊辰は尾を引いています。
 東京というところに渦巻いている文化を見続けているのが、日本の地方人のくせでした。しかし、東北の選ばれた人たちというのは世界を見ていたんじゃないかと思うときがあります。
 太平洋戦争に負けたとき、マッカーサーに『日本人の精神年齢は12歳だ』と言われましたね。腹が立ちましたが、たしかにそのころの日本人が持っていた世界認識というのは、非常に子供ぽいものでした。世界の一員とか、世界市民といったセンスは全くありませんでした。太平洋戦争に負けてから、われわれはようやく世界の中で一人前の顔ができるようになったという感じがあります。
 戦争に負けるということは大事なんですね。徳川家康が言っています。勝つを知って負けるを知らない人はだめだと。家康はよくわかっていた人でした。苦労人で、勝ったり負けたりを繰り返し、そして最後のほうになってだんだん勝つ態勢ができ、ようやく天下を握った人の言葉です。
 もちろん戦争というのは、しなければいいに決まっています。しかし負けてよかったというのではなく、負けたおかげでましになったというか、わかったこともある。東北の戊辰戦争でいえば、負けて東北人は考え深い人間になった。全員がそうなったわけじゃありませんが、東北の選ばれた人たちは考え深くなったんじゃないか。
 最後に、会津藩のことを話さなくてはなりません。
 戊辰戦争というのは、結局、革命戦争でした。革命戦というのは、皇帝の首をはねなくてはなりません。フランス革命でルイ16世の首をはねるように、徳川慶喜の首をはねる必要がある。
 今のようにマスコミがない時代です。時代が変わったのだと宣言するためでした。攻め上がってきた西郷にとって、慶喜の首は絶対の目標でした。
 これは徳川慶喜が憎いというわけではありません。西郷という人は礼儀正しい人でした。のちに江戸城を受け取りにいくときでも、西郷は刀を全部渡して、丸腰で行っています。 ……
 ところが徳川慶喜は才人です。逃げて逃げ逃げまくる。政治能力も、政治感覚も、歴史感覚も、すべてを使って逃げまくります。
 出身の一橋家は水戸学を奉じています。後世に賊名を残すことを、なにより慶喜は恐れました。しまいには恭順、恭順で、江戸城にいても危ないと考え、水戸に帰ってしまう。
 しかも江戸城は西郷、勝海舟の話し合いで無血開城です。これでは世の中が変わったと、なかなか世間に納得してもらえない。だいたい自分たちが納得できません。
 革命の血祭りが必要でした。振り上げた刃の相手の慶喜は逃げた。そこで刃は松平容保に向けられました。
 会津若松こそ、いい面の皮であります。だいたい会津藩は、幕末に松平容保京都守護職になったときに、この結果が分かっていた。
 時勢が沸騰している時代でした。攘夷浪人が集まり、雄藩の外交官が暗躍している京都です。とてもそんな政治的な仕事はできませんと、主従ともに断るのですが、聞き届けてもらえませんでした。人一倍徳川幕府に忠誠心の強い藩でしたから、ついに京都に行くことが決まる。これで会津藩も終わりだという気分があったのでしょうか。松平容保重臣たちも運命を思って泣いたと伝えられています。
 火中の栗を拾うといいますね。
 まさに京都守護職となった松平容保がそうでした。容保は自分の手を火の中に入れ、その焼け焦げるにおいをかぐことになります。新選組を手先に使ったものですから、ますます長州の恨みを買っていきました。
 本来、容保という人は、若くて容貌がやさしげで、誠実な人でした。京都に行って、孝明天皇の大変な信頼を得てしまいます。孝明天皇という人は、強烈な徳川びいきでした。天皇みずからが、勤王ではなくて佐幕だったんです。
 暴れ者の長州は好まれず、会津藩が数千の軍を率いて京都に来たのを非常に喜ばれていた。
 孝明天皇は喜びのあまり、おまえを二なき者だ、信頼しているという、御宸翰(ごしんかん)を書いた。
 容保は感激しました。この人のためならと、『蛤御門の変』などで容保は活躍します。孝明天皇はやがて急死し、明治天皇の時代になります。
 それからは世の中が急速に変わっていきます。鳥羽伏見の戦いに敗れ、大坂の天保山から船に乗って江戸に帰ると、江戸城の雰囲気は容保に冷たいものでした。慶喜は水戸に帰ってしまい、自分も会津若松に帰るしかなかった。こうして、戊辰から明治に至るまでの会津の悲劇が始まります。
 ……
 亡くなられて、はじめてそれが孝明天皇の御宸翰だったことがわかりました。いかに容保が悔しかったかがわかります。精神の安らぎがなかった晩年だったかもしれません。歴史の中で自分が置かれている場所というのが、きわめて不満足な位置だと思っていたのでしょう。自分が置かれるべき歴史的な場所は本来違う。御宸翰はその証拠なんだと言いたかったのでしょう。
 その容保の無念を思いますとですね、たしかに明治維新は革命でした。革命には革命の敵がいります。しかし日本中、どこにも革命の敵などいなかったんです。
 やはり日本はそういう国ですね。加害者であって被害者であるような社会で、フランス革命のようなわけにはいきません。容保の場合、仮の革命の敵にされてしまったということで、会津の悲劇というのはそういうことです。それ以上にあまり悲劇的に考えないほうがいい。
 東北人の悪いくせは、悲劇主義を持ちすぎるところにありますね。ときにはマゾヒスティックになったりする人までいます。東北はつまらない目にあってきたとか。たしかにつまらない目にあってきましたが、あまり言わないほうがいい。
 そうじゃないほうが偉大なる東北ができあがる。大きな国土ができがる基になるんじゃないかと思うです。
 昔から東北びいきとして、東北という歴史と伝統のある風土に自信をもたなくて、どうして東北が存在できるのかと、いつも思っています」
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 『平家物語祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
 遠くの異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱忌、唐の禄山、これらは皆、旧主先皇の政にも従はず、楽しみを極め、諫めをも思ひ入れず、天下の乱れんことを悟らずして、民間の愁ふるところを知らざつしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。
 近く本朝をうかがふに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、これらはおごれる心もたけきことも、皆とりどりにこそありしかども、間近くは六波羅の入道前太政大臣朝臣清盛公と申しし人のありさま、伝え承るこそ、心も詞も及ばれね。
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 現代の日本人は、戦後の歴史教育という嘘を教えられて民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力を奪われた為に、捏造・歪曲・改竄された嘘の真実を信じ込んで現実に起きた歴史の事実を正しく理解する事ができない。
 特に、リベラル派戦後民主主義世代の頭脳は反天皇反日本の歴史教育で修復不可能な状態まで洗脳され壊されている。
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 現代の日本人には、江戸後期・幕末・明治維新明治新政府日露戦争まで存在した尊皇攘夷は理解できない。
 それは、マルクス主義者・共産主義者、左翼・左派・ネットサハ、リベラル派・革新派はもちろん右翼・右派・ネットウヨク、保守派も同様である。
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 政治家、官僚、経営者・企業家、学者、メディア関係者など高学歴教養人の多くが司馬遼太郎歴史小説を読むが、それはしょせん「論語読みの論語知らず」である。
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 西国の倒幕派・官軍はテロリスト集団で、東北の佐幕派・賊軍は常識集団であった。
 天皇は、倒幕派にとって道具・象徴であり、佐幕派にとって帝・天子様であった。
 日本が2つに分裂して内戦が起きたのは、清国におけるアヘン戦争ではなくロシアの日本侵略が原因であった。
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 日本人は恩義を忘れず義理堅い、はウソである。
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 いつの時代でも、東北は救われない、報われない。
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 東北は幾度も日本を救ったが、関東以西に住む裕福な日本人ら東北人に恩を感じるどころか不当な偏見・差別・イジメで返してきた。
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 昔のテレビや映画では、東北人を標準語が話せず聞くに耐えないド田舎言葉の「ズーズ-弁」を話す教養度・文化度が低い日本人と表現して嘲笑って優越感を満足させていた。
 それが、日本人の本性である。
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 日本の儒教中華主義における夷狄=外国とは、琉球アイヌは将軍のもとにご機嫌伺いに伺候して来る無害な隣人であったが、中国や朝鮮の儒教諸国、ロシア・イギリス・アメリカ・フランスなどのキリスト教諸国は侵略してくる危険性な敵であった。
 尊皇攘夷で排除すべき夷狄とは、無害な隣人ではなく、侵略してくる外敵である。
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 日本民族とは、日本列島に流れ着いた、漂着した、逃げてきた、逃亡してきた、その他雑多な理由で移り住んだ人々が乱婚を繰り返して生まれた血が汚れた混血の雑種民族である。
 日本民族にとって海から訪れる人とは、東と南から訪れる善の賓(まれびと)神か西と北から訪れる悪の災神、忠誠の帰化人か反逆の渡来人であった。
 日本民族がこよなく愛し憧憬する外国とは、中国・唐王朝玄宗皇帝時代と仏教の聖地である天竺のインド・ガンダーラチベット中央アジア(現ウイグル)であり、それ以外の時代や国・地域は魅力を感じず嫌いか無関心である。
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 日本民族尊皇攘夷運動は、江戸後期から日露戦争までが前半で、シベリア出兵から太平洋戦争敗北までが後半である。
 ある意味、日本民族が生存する限り日本天皇と日本国を護るという尊王攘夷運動は存在し続け、現代日本でも存在する。
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 尊皇の対とは、民族中心神話・血の神話(Y染色体神話)における、最高神の女性神天照大神の血・命・身体、心・志・気概を正しく受け継ぐ正統な血統・皇統である万世一系の男系父系天皇である。
 その尊きY染色体神話の血筋は、石器時代縄文時代の太古の人々まで繋がり、その源流は長江・琉球で、さらに遡れば、現生人類・ホモサピエンスとして南方海洋そしてアフリカである。
 つまり、日本列島に住む日本民族Y染色体は一筋・一系しか存在しない。
 それ故に、Y染色体尊皇神話とは世界に一つしかない貴重にして絶滅危惧種ジャポニカ・ジャパン物語(日本民族物語)である。
 愛国皇国史観である、神国日本、神州不滅、惟神の道、その他、はここから生まれた。
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 日本人による東北への偏見・差別の最たる例が、東日本震災における東北魂・東北熱・東北根性・東北人は我慢強いなどという忍耐を強いる精神論的報道と福島第一原子力発電所事故における放射能に関する科学的根拠を無視した悪意あるデマ・風評被害である。
 それは、リベラル・革新の左翼・左派・ネットサハでも保守の右翼・右派・ネットウヨクでも同罪である。
 現代日本人の心には、民族特有の同情心や惻隠の情などなく、排他的不寛容な私利・自愛・個人欲に毒されおぞましいほどに穢れている。
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 日本民族は、「勝てない強敵・大軍・多勢だから戦わない」という事はあり得ず、「弱兵で小勢の為に戦えば負けて死ぬ」事が分かっていても、戦争しか手段がないと覚悟したときは戦争を始めた。
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 官軍の首脳部・指揮官の多くは、20代30代の貧しい下級武士・下士郷士(半農半武士)・足軽であった。
 賊軍の多くは、由緒正しい大名や名門の重臣などの高級武士とその家族と家臣や下僕達であった。
 大名や高級武士らは避戦で、下級武士・下士郷士(半農半武士)・足軽は好戦であった。
 明治新政府藩閥政治の権力を握って横暴・専横を極めたのは、薩長などの学識・教養・品格・品位の乏しい下品な下級武士・下士郷士(半農半武士)・足軽、庶民の出身者であった。
 明治の近代化と身分制度廃止によって、武士階級・士族階級が消滅したのは当然の事であり、それは武士が自主的に刀を捨てて廃業したのではない。
 明治新政府藩閥政治を牛耳った権力者は、愛国の尊皇派・勤王派ではなく、天皇明治天皇)を権力行使の為の便利な道具としか見ていなかった。
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 現代日本は、一様、画一、単一、一元、単数、標準語で一つの日本文化しか持っていない。
 昔の日本は、多種、多様、多元、複数で領主事に違う方言・地方語を使い微妙に違った地域文化を持っていた。
 つまり、現代日本の鉄道における主要駅は特徴の乏しい似たり寄ったりの駅舎であるが、江戸時代の城は個性豊かで一つとして同じ天守閣はない。
 昔の日本民族が多様性豊かな複合文化であった証拠は、コミュニケーションが取れなかった方言・地方語が数多く存在していた事である。
 その意味でも、琉球語アイヌ語は日本列島における方言の一つである。
 現代日本語における標準語は、明治新政府が対ロシア防衛戦という大陸侵略の積極的自衛戦争に勝利する為に新しく創った新設日本語である。
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 現代の日本人は高学歴者が多いが本質は幼稚で、当時の日本人の足元にも及ばない。
 つまり、当時の日本人が現代の日本に来ればそれなりの仕事ができるが、現代の日本人が当時の日本に行っても邪魔になるだけで役に立たない。
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 日本民族が怖れたのは、キリスト教の宗教・精神・心の侵略と海外勢力の領土侵略であった。
 徳川幕府明治新政府が怖れたのは、ロシアの日本侵略に協力する清国(中国)・朝鮮の敵対行動であった。
 大正時代から昭和前半の日本政府が怖れたのは、反天皇反日本・反宗教無神論ソ連中国共産党・国際共産主義勢力によるイデオロギ侵略であった。
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 東北諸藩は、薩摩や長州などの西国諸藩に比べて貧しく恵まれず、冷夏による凶作が発生すると食べる物がなくなり夥しい数の餓死者を出していた。
 幾ら金があっても食料がない為に、身分・地位に関係なく、富裕層でも貧困層でも、男女・老人から子供まで、智慧、体力、健康、我慢強さ・精神力そして強運・幸運がなければ呆気なく飢えて死んだ。
 飢えて死ぬ事において、日本では例外なく完全平等であった。
 各藩は、何があってもお家が大事として、主君を守る為に領民を切り捨てた。
 領民は、大名を見限って、食べ物がある豊かな町・城下町や江戸を目指して離村した。
 その結果として、西国は人口が多く、東国とくに東北は人口が少なかった。
 名君と言われた大名は、領民の離村を防ぐ為に、特に年貢(税)を納める百姓を助けた。
 東北雄藩は、数々の深刻な天災の被害で財政逼迫して西国雄藩に比べて近代化が遅れ、その結果、西洋式軍隊の官軍に惨めに敗北した。
 その点においても、東北諸藩は不運であった。
 戊辰戦争時、東北諸藩が敗北したのは国内外の情報に無知で時代遅れだったからではない。
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 戊辰戦争における東北の悲劇は、江戸時代末期のロシアの日本侵略から始まった。
 東北諸藩は徳川幕府の命令に従って、蝦夷地・北方領土南樺太をロシアから守る為に手分けして数千人の軍隊(武士)を現地守備に派兵した。
 だが、東北諸藩の派兵の経費自腹で、幕府から出兵と兵站(兵糧米・軍備調達・その他)の軍資金が支給されるわけではなかった。
 そして、貧乏な東北諸藩は武家諸法度に従って参勤交代の巨額な費用も賄う必要があった。
 それが、常在戦場・臨戦態勢・いざ鎌倉という幕藩体制の実体であった。
 国防の最前線は、アヘン戦争による南ではなくロシアの南下という北にあった。
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 幕府は、専守防衛戦略から、海岸を持つ諸大名に外国との戦争に備えて砲台を建設する事を命じ、砲台の数は全国で1,000基規模に達していた。
 専守防衛の意味は、グローバルな現代の日本人以上に鎖国を貫いた徳川幕府の方が正しく理解していた。
 その点で、徳川幕府現代日本よりも賢かった。
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 水戸斉昭・水戸藩吉田松陰宮部鼎蔵憂国の士は「尊王攘夷」を叫び、夷敵(ロシア)の侵略から日本天皇と神国日本を守るべく東北へ走り、国防強化の為に軍国主義化を急いだ。
 現代の右翼・右派・ネットウヨクが如何に自分の愛国心を自慢しても、彼らの足元にも及ばない。
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 南から来日してきたアメリカ・イギリス・フランス・オランダなどの西洋列強は、目の前の豊かな西国雄藩との交易を求めたが、貧しい東北諸藩など相手にしなかった。
 但し、武器商人である彼らは、大金を出して洋式の銃・大砲・軍艦などを買いに来れば、内戦の危険性を承知で最新兵器を売った。
 つまり、大金が動く戦争がカネ儲けになるの事は歴史的世界経済の常識であった。
 薩摩や長州など倒幕派=官軍が最新式の元込銃や大砲を装備し、仙台や会津など佐幕派=賊軍が旧式の火縄銃・先込銃や大砲を装備していたのはこの為である。
 けっして、東北地方・東北諸藩が時代を読めない時代遅れであった為ではない。
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 薩摩藩長州藩と東北諸藩の違いは、西洋に軍隊と戦争をしたかどうかであった。
 薩摩はイギリスと、長州は4カ国艦隊と、攘夷で戦い敗北して現実を知った。
 東北諸藩は、軍隊を派遣して臨戦態勢を敷いたが実際にはロシアと戦争をしなかった。
 ロシアが日本と戦争をしなかったのは、ナポレオン戦争やトルコ戦争の為であったが、それ以上に反天皇反日本として味方し反乱を起こす売国勢力が日本国内にいなかったからである。
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 現代日本のマルク主義史観とキリスト教史観で意図的に創作された偽日本の歴史は、東北を襲った悲劇という歴史的事実を無意味として切り捨てている。
 現代流行りの左派系時代劇も、戦前の軍国主義国家日本の正当性を証明する事実をタブーとして取り上げない。
 左翼・左派・ネットサハやリベラル派・革新派には、日本の歴史など分からない、理解できない。
 つまり、マルク主義史観やキリスト教史観などのグローバル史観ではローカルな日本民族の歴史など役に立たない。
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 キリスト教の宗教・精神・心侵略を怖れた原因は、中世キリスト教会と白人キリスト教商人が日本人奴隷交易したからである。
 海外勢力の領土侵略を怖れたのは、日本天皇の処刑、神国日本の破壊、日本民族の虐殺である。
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 徳川幕府は、日本国の平和と日本民族の安寧の為に、開国して富み栄える事を諦めて鎖国して貧しくなる事を選んだ。
 つまり、貧乏になり貧困と飢餓で苦しもうと穢れなく「清く・正しく・美しく」生きる事を選んだ。
 現代日本は、徳川幕府の貧しさを受け入れる清貧思想による選択を「愚かな考え」と否定している。
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