🌈27)─1─日本民族は戦死した味方も敵も平等に弔い供養した。円覚寺と元軍の戦士。〜No.53No.54 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 同じ日本人と言っても、昔の日本民族と現代の日本国民は別人である。
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 時の権力者は、世襲制執権で18歳の北条時宗であった。
 現代日本が嫌う世襲制が全て悪い訳ではなく、大人や子供といった年齢ではなく、問題は「個人」としての心と志、気概と覚悟、決断と実行・行動があるかどうかである。
 昔の精神論は正しく、現代の精神論は間違っている。
 鎌倉武士団が蒙古・高麗連合軍を撃退したのは、奇跡的な幸運の「神風」ではなかった。
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 2022年11月号 Hanada「蒟蒻問答  堤堯/久保紘之 
 『国葬反対派』はバカか売国奴
 反対派は絶対に納得しない
 ……
 堤 日本人は『死ねばみんな仏になる』と考えている。北条時宗が作った北鎌倉の円覚寺は、蒙古襲来による殉教者を、敵味方の区別なく平等に弔(とむら)うために建てられた。そういう死生観を持っているんだよ。
 だけど、朝日や毎日は、亡くなって仏となった安倍をなおも叩き続けている。このやり口は、なにやら日本人離れしている。中国人は死者の墓を暴いて死体を鞭打つ。中国人が代わりにやっているんじゃないか?
 久保 鄧小平は『墓はいらない』といっていたけれど、これは死後、墓を暴かれて、きっとろくな目に遭わないと考えたからです。」
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 円覚寺
 鎌倉幕府第8代執権で元寇を二度にわたって退けた北条時宗の招聘で南宋より来日した臨済僧、無学祖元が弘安5年(1282年)に開山した鎌倉の名刹円覚寺元寇で犠牲となった兵士の霊を弔うために建立され、後に鎌倉幕府の祈願所、北条家の菩提所となりました。
 弘安4年(1281年)、無学祖元は、元軍の再来を1ヶ月前に予知し、時宗に「莫煩悩」(煩い悩むなかれ)と書を与えています。
 その翌年、創建されたのが円覚寺です。
 鎌倉五山第二位で臨済宗円覚寺派本山。
 境内は白鷺池(びゃくろち)、総門、三門、仏殿、法堂跡、唐門、大方丈が一列に並んでいます。
 これは建長寺などと同じ禅宗様式の伽藍配列(がらんはいれつ)。
 白鷺池と総門の間の境内を横須賀線の線路が縦断していますが、横須賀が軍港として開港するときに大船から明治22年6月16日開通の横須賀線を軍事優先で通した名残りです。
 円覚寺開山の無学祖元(仏光国師)が白鷺に姿を変えた鶴岡八幡宮の神霊に導かれた場所が白鷺池と伝えられていますが、その神聖な場所も、線路敷設の埋め立てで、大きく変容しています。
 創建以降も応安7年(1374年)の大火、大永6年(1526年)の里見義豊の兵火、永禄6年(1563年)の大火、元禄16年(1703年)の元禄地震三浦半島突端が1.7m隆起)と度重なる火災、地震で往時の堂宇は残されていません。
 国宝の舎利殿、鐘楼、そして北条時宗の廟所も
 現存する建物は、天明3年(1783年)頃に再建された三門、室町前期の建築で寺に残る最古の建物である舎利殿(神奈川県唯一の国宝建築)、北条時宗の廟所のある塔頭(たっちゅう)のひとつ、佛日庵(ぶつにちあん)などです。
佛日庵の茶室では抹茶と落雁を味わえます。
 鎌倉幕府9代執権の北条貞時が寄進した梵鐘(国宝)がかかる鐘楼近くには東慶寺方面を一望にする展望地もあるのでお見逃しなく。
 また墓地には映画監督小津安二郎の墓もあり、今でも映画関係者の参詣があります。
ちなみに墓には「無」と刻まれています。
 1月1日〜8日・10月1日〜5日を除く毎朝5:30〜6:30(11月〜3月は6:00〜7:00)に座禅会、毎月第2・第4日曜日の9:00〜11:00には日曜説教座禅会も執り行なわれています。
 いずれも予約不要で無料。
 かつて夏目漱石島崎藤村もここに参禅した歴史ある坐禅会です。
 円覚寺
 貞享2年(1685年)に刊行された江戸時代の地誌『新編鎌倉志』に描かれた円覚寺の境内。
 明治の廃仏毀釈の荒波を切り抜け、多くの塔頭が現存しています。
三門は天明5年(1785年)再建なので、『新編鎌倉志』の記された時代には三門跡となっています。
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 18歳の北条時宗は、祖国防衛戦争として、蒙古(中国)・高麗(朝鮮)連合の大軍団・大軍船の侵略から日本を守った。
 日本を守って戦ったのは10代から30代の武士団であった。
 昔の日本の大人や年寄り達は、鎌倉幕府第8代執権である18歳の北条時宗の命令に従い命を捨てて祖国防衛戦を行った。
 戦争には、正しい戦争、正義の戦争、死んでもおこなわなければならない戦争がある。
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 朝鮮人の高麗軍は、対馬壱岐・北九州で日本人非戦闘員を虐殺し、数百人の日本人子供を強制連行して国王に勝利品として献上した。
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 マルクス主義のリベラル派と共産主義の革新派そして一部の保守派、左翼・左派・ネットサハ、反天皇反民族反日的日本人らは反宗教無神論者として、数万年前からの民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力を持っていない。
 その証拠が、如何に言い訳しても安倍晋三元総理国葬に猛反対していた事である。
 中国共産党は、安倍晋三元総理を憎んでいた。
 日本人親中国派や媚中派は、中国共産党に忖度して中国の為に行動し、ジェノサイドで迫害・惨殺されているチベット人ウイグル人・モンゴル人・少数民族を見殺しにし、親日知日の台湾を見捨て、嫌中派・中国警戒派を攻撃して、日本の国益に損害を与えている。
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 歴史的事実として、古代から、中国や朝鮮はいつ日本を侵略してくるか分からない「油断も隙もない敵」であった。
 つまり、朝鮮通信使とは友好の平和使節ではなかった。
 朝鮮は、何時、寝首を掻きに来るか分からない「恐ろしい敵」であった。
 これまた歴史的事実として、日本は被害者であって加害者ではなく、中国や朝鮮は被害者ではなく加害者であった。
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 ウィキペディア
 円覚寺(えんがくじ)は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある寺院。正式には瑞鹿山円覚興聖禅寺(ずいろくさんえんがくこうしょうぜんじ 山号: 瑞鹿山)と号する。臨済宗円覚寺派大本山であり、鎌倉五山第二位に列せられる。本尊は宝冠釈迦如来、開基は北条時宗、開山は無学祖元である。
 鎌倉時代の弘安5年(1282年)に鎌倉幕府執権・北条時宗元寇戦没者追悼のため中国僧の無学祖元を招いて創建した。北条得宗の祈祷寺となるなど、鎌倉時代を通じて北条氏に保護された。
 JR北鎌倉駅の駅前に円覚寺の総門がある。境内には現在も禅僧が修行をしている道場があり、毎週土曜日・日曜日には、一般の人も参加できる土日坐禅会が実施されている。かつて夏目漱石島崎藤村三木清もここに参禅したことが知られる。
 歴史
 円覚寺の図(新編鎌倉志)
 鎌倉幕府8代執権北条時宗(1251年 - 1284年)は、国家鎮護のためと文永の役戦没者の菩提を弔うため、円覚寺創建を発願した。寺は弘安4年(1281年)から建立が始められ、翌弘安5年(1282年)に無学祖元(仏光国師)を開山(初代住持)に迎えて開堂供養が行われた。時宗は当時鎌倉にいた中国出身の高僧蘭渓道隆建長寺初代住職)を師として禅の修行に励んでいたが、その蘭渓が弘安元年(1278年)7月に没してしまったため、時宗は代わりとなる高僧を捜すべく、建長寺の僧2名を宋に派遣した。これに応じて弘安2年(1279年)に来日したのが無学祖元である。鎌倉にはすでに時宗の父・北条時頼が創建した禅寺の建長寺が存在していたが、官寺的性格の強い同寺に対し、当初の円覚寺は北条氏の私寺であった。また、円覚寺の創建については、中国に帰国しようとしていた無学祖元を引き止めようとしたという事情もあったと言われる。

 当寺では元寇で戦死した日本の武士と元軍(モンゴル・高麗等)の戦士が、分け隔てなく供養されている。
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 北条 時宗
 生誕 建長3年5月15日(1251年6月5日)
 死没 弘安7年4月4日(1284年4月20日)[1]
 享年34(満32歳没)
 北条 時宗は、鎌倉時代中期の鎌倉幕府第8代執権(在職1268年-1284年)。
 鎌倉幕府執権職を世襲する北条氏の嫡流得宗家に生まれ、世界帝国であったモンゴル帝国の圧力が高まるなかで執権に就任。内政にあっては得宗権力の強化を図る一方、モンゴル帝国(大元朝)の2度にわたる侵攻(元寇)を退けた。官位は、正五位下相模守。贈従一位

 文永元年(1264年)7月、6代執権の北条長時が出家、北条政村が7代執権となり、8月には時宗は14歳で執権の補佐を務める連署に就任する。執権政村や一族の重鎮北条実時と協力して、文永3年(1266年)に幕府転覆を計画していたとされる宗尊親王の廃位と京都送還、惟康親王の擁立などを行った。
 クビライ・ハンがモンゴル皇帝に即位した8年後の文永5年(1268年)正月、高麗の使節が元の国書を持って大宰府を来訪、蒙古への服属を求める内容の国書が鎌倉へ送られる。3月5日には政村から執権職を継承し、時宗は18歳で第8代執権となる。
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