💍35)─4─巧妙な後継ぎルールの御影で男系天皇が126代も続いた。〜No.134No.135 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 イギリス王家など西洋の王家における王位継承権は、自国民だけではなく他国の王侯貴族や資産家市民にも潜在的に存在し、歴史的事実として他国の征服者・侵略者が国王として統治していた。
 フランスの庶民出身将軍が、他国の王女と結婚し他国の国王に即位していた。それが他国人を民族差別しない女系王家の真の姿である。
 日本の皇室のみが、日本民族日本人の皇族にしか皇位継承権を認めていない。
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 継承権の正統性は、皇室は神話であり、西洋の王家は法律であった。
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 即位の正当生は、西洋の王家は軍事的勝者であり、皇室は話し合いによる合意であった。
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 現代の日本人は、日本史はおろか世界史も理解できない。
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 2023年11月7日9:17 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「なぜ天皇は126代も続いているのか…「日本の天皇」にあって「中国の皇帝」になかった巧妙な後継ぎルール
 出典=『嘘だらけの日本古代史』
 なぜ日本の天皇は126代も続いているのか。憲政史家の倉山満さんは「中国の皇帝は、あらゆる中国人に権利があったので、王朝交代が頻発した。これに対して日本の天皇は『男性排除の原理』によって、安定的に継承されてきた」という――。
 【図表】敏達系と用命系と蘇我氏
 ※本稿は、倉山満『嘘だらけの日本古代史』(扶桑社新書)の一部を再編集したものです。
■皇族の数は、多すぎても少なすぎても困る
 第二十二代清寧天皇から第二十三代顕宗天皇、第二十五代武烈天皇から第二十六代継体天皇への皇位継承に際し、皇族の数が少なすぎる為に大変な苦労をしました。だから、今後は皇族数を確保しなければならない、と誰もが考えました。
 その後、継体天皇は子宝に恵まれました。すると、今度は皇族が多すぎて困る時代が到来します。
 皇族の数は、多すぎても少なすぎても困るのです。令和の現在は、極端に皇族数が少なすぎるのでわかりにくいですが。また天皇が実際に最高権力を握っている時代とは違うのだから、皇位をめぐる争いなど起きようがないと思うかもしれません。では、失礼ながら簡単な未来想定をしましょう。
 悠仁殿下がご即位された時、絶対に子供が生まれる保証など、どこにもありません。もっとひどいことを言えば、悠仁殿下は殺人未遂事件にも遭われています。言ってしまえば、皇室を滅ぼしたい輩は悠仁殿下に狙いを定めればよい、という状況です。いろいろな意味で、悠仁殿下をお支えする宮家が無ければなりません。
■イギリスをまねるより、古代の知恵を生かしたほうがいい
 だから、旧皇族の男系男子孫の皇籍取得が政府から提言されています。その提言に従い、三~四家の新たな宮家が創設されたとしましょう。その後で、悠仁殿下に皇子が産まれれば、新宮家からの皇位継承はなくなります。つまり、「あなた方は国民としての自由を捨て、皇位を継がれないかもしれませんが、悠仁殿下の盾となってください」と言うに等しい話なのです。
 私は政府が提言している旧皇族の男系男子孫の皇籍取得に賛成ですが、それさえやればバラ色の話などと考えていません。大変な話であり、この案を成功させるためには多くの関門を越えねばならないと思います。
 だからこそ古代史に関し、本書『嘘だらけの古代日本史』程度の知識を知っておいていただきたいのです。第4章は「皇族が多すぎて困った時代」の話です。
 そもそも論です。皇位継承資格者が多すぎて、ありがたみがあるでしょうか。現代のイギリスには、二〇一三年の王位継承法改正で性別に関係なく長子相続する、つまり女系継承が認められています。
 さらにカトリック教徒にも継承権が認められたりなどして、一説に王位継承者が五七五三人いると言われています。その中には単なる一般人もいます。「日本をイギリスのようにしよう」と主張する人がいますが、何の為に?
 そんなことより、古代の知恵です。
■なぜ中国は王朝交代が頻発したのか
 王様とは、本来は権力を振るう人のことです。いちばん偉くて権力をふるう人の候補が多すぎると王位をめぐる争いが激烈になります。その典型が中華帝国でした。
 中華帝国においては、中国人全員に皇帝になる資格がありました。前漢の初代皇帝である劉邦(紀元前二五六または二四七~同一九五)は農民の生まれでした。また、明の初代皇帝である朱元璋(一三二八~一三九八)は流民の生まれでした。
 それどころか外国人にも、中華皇帝になれる資格がありました。元はモンゴル人の帝国でしたし、清は満洲人の帝国でした。ちなみに女性で中華皇帝になったのは、唐を周に改めて帝位に就いた則天武后(そくてんぶこう)(六二四~七〇五)ただ一人です。女性にも皇帝となる資格があったということであり、「中華帝国の皇帝の候補者は全人類だった」ということになります。
 だから中華帝国は権力争いがことのほか激烈であり、王朝が滅ぼされて新王朝に取って代わられるということが繰り返されました。ただし、取って代わって王朝を築いた人間は帝位を世襲にします。
 なぜかといえば、世襲であれば、いちばん偉い人の数が絞られるからです。資格者が多すぎるのは不安定になるので、前近代では戒められました。世襲とすれば安定し、近代になると世襲されて続いてきた王室は、伝統として有り難みがある、と解釈されました。
 したがってイギリスのように王位継承者が五〇〇〇人以上いるのは、有り難みがない、ということになります。多すぎず少なすぎずという状態を続けなければいけないので皇位継承問題はたいへんなのです。
■「男性排除の原理」によって安定した皇位継承が図られた
 ここで、おそらくは誰もが疑問に思うことです。「なぜ天皇は男がなるのが普通なのか」。この答えは実は簡単で、「男の側室には意味がないから」です。
 本当の意味での「女系」は、母から娘、母から娘とひたすら続けていかなければいけません。男は子供を生むことはできませんから、男の側室には意味はありません。だから男が皇位を継いでいくのです。
 そして我が国では、男は皇統に属していなければ天皇どころか、皇族にもなれません。生まれながらの人でなければ、どんなに武力や財力があろうとも皇族にはなれないのです。つまり皇室は、男性排除の原理によって皇位継承の安定を図ってきたのです。
 ときどき、「皇室の存在そのものが差別の根源であるから、男女平等を皇室に適用しろ」と言い出す人がいます。しかし、それを言うなら、「男が皇后になれないのは差別ではないか」と言わなければ、おかしい話になります。
 皇位継承問題と男女平等は関係ありません。これは女系派でも、所功、笠原英彦のような見識のある先生は、固く戒めています(所功皇室典範と女帝問題の再検討』(國民會館、二〇〇二年)四四~四五頁。笠原英彦『女帝誕生 危機に立つ皇位継承』新潮社、二〇〇三年、一八五~一八六頁)。
継体天皇崩御後に起きた皇位継承の重大危機
 では、本筋に。
 第二十六代継体天皇は、豪族たちが「この人に天皇になってもらおう」と話し合う、群臣評議によって即位が決められた、豪族連合政権の首班のような立場の人です。政権は不安定ですが、仕事はちゃんとやっています。
 朝鮮半島は日本と目と鼻の先の要衝です。この地が安定しないと、敵に攻め込まれます。古代日本人は、東北よりも先に朝鮮経営に取り組みます。従わない東北人より、攻めてきかねない半島(とその先の大陸)勢力への対応の方が重要ですから。教科書には、時の大政治家だった大伴金村が賄賂をもらって朝鮮半島の領地を現地朝鮮人に売り飛ばしたなどという話が載っていたりするのですが、本書ではマイナー・エピソードなので放っておきます。
 メインストリームは皇位継承です。継体天皇崩御し、長男が継承して第二十七代安閑天皇となります。継体天皇が即位してからの年数です。「二十五年春二月七日、継体天皇安閑天皇を即位させられた。その日に天皇崩御された」(前掲『日本書紀(上)全現代語訳』三六九頁)という経緯で、譲位の即日崩御と解釈できます。これが譲位の初例だと言う人もいます。
■徹底的に男系を補完した
 安閑天皇立太子の時に四十八歳だったと伝わりますが、立太子と呼ばれる儀式が本当にあったかどうかは不明です。当時は天皇が「次はおまえだ」と言えば、儀式などしなくてもそう言われた人は皇太子でした。当時どころか、近世でもそんな事例がありますが、その話は続々編の『嘘だらけの日本近世史』を出せた時に!
 安閑天皇即位の際の年齢は、六十六歳です。当時の天皇は終身制でしたから、かなりの年齢になってから即位するという状況もありました。皇后は春日山田皇女です。第二十四代仁賢天皇の娘であり、姉の手白香皇女継体天皇の皇后でした。姉妹で、継体天皇安閑天皇親子に嫁いだわけです。
 安閑天皇には子供がおらず、安閑天皇の弟が継いで第二十八代宣化天皇となるわけですが、宣化天皇の皇后もまた仁賢天皇の娘である橘仲皇女です。仁賢天皇の曾祖父である仁徳天皇の仁徳朝の血をひたすら女系でつなげようとしています。
 宣化天皇にも息子がおらず、弟が継いで第二十九代欽明天皇となります。欽明天皇の皇后は宣化天皇の娘である石姫皇女で、徹底して女系で男系を補完しているということがわかります。
■男系男子への執念、女系は最後の手段
 さて、しつこいですが、こういうことを言う人がいます。

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 有力説
 安閑・宣化天皇欽明天皇の王朝は対立していた。

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 結論から言うと、「だから何?」なのですが。ちなみに後世でも、源平合戦南北朝の動乱と二つの朝廷が並立したことはあります。
 継体天皇王朝交代説の他に、安閑・宣化と欽明の二つの王朝が立って、対立していたとするSFを唱える人もいますが、どう考えても、継体・安閑・宣化・欽明と連続して仁賢天皇の娘ないし孫娘を皇后としており、仁徳朝とつながっています。
 仮に継体天皇がどこぞの馬の骨だったとしても、皇后が手白香皇女であることで、子孫に対して女系で仁賢天皇の血を補完しているわけです。安閑・宣化・欽明がまったく違う王朝だったとしたところで、仁賢天皇の血が入っていることは間違いありません。どこをどう突かれても万世一系がつながっているようにできています。
 継体天皇が議論の余地なく明らかに皇室とは赤の他人だった時には女系になるという、それくらい女系というのは最後の手段です。

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 倉山 満(くらやま・みつる)
 憲政史家
 1973年、香川県生まれ。中央大学大学院文学研究科日本史学専攻博士課程単位取得満期退学。在学中より国士舘大学に勤務、日本国憲法などを講じる。シンクタンク所長などをへて、現在に至る。『並べて学べば面白すぎる 世界史と日本史』(KADOKAWA)、『ウェストファリア体制』(PHP新書)、『13歳からの「くにまもり」』(扶桑社新書)など、著書多数。

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