🌏14)─2・C─新政府軍に参加した農民兵「維新勤皇山国隊」。戦う庶民。~No.47   

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本の風土・国土・山河の至る所に、勤皇、尊皇が存在する。
 現代日本には、天皇家・皇室を否定し、勤皇、尊皇を潰し消滅させようとする日本人が存在する。
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 維新勤皇山国隊行列
 概要
戊辰戦争のおり、山国村の豪士83名が官軍募兵布告に応じた義勇隊で、農兵隊ながら慶應4年11月5日、錦の御旗を護衛して凱旋した故事にちなむものです。京都時代祭りの魁として知られています。毎年10月に行われる山国神社の「還幸祭」で山国隊軍楽保存会による行進が行われます。
■日時・場所:10月10日/山国神社
 (一財)都市農山漁村交流活性化機構(まちむら交流きこう)東京都知事登録旅行業第2-5925号
〒101-0042 東京都千代田区神田東松下町45 神田金子ビル5階
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 2018年10月20日 産経WEST「維新農民兵「山国隊」100年ぶり参加 22日の時代祭 明治150年、奉納演奏
 地元の祭りで行進する山国隊軍楽保存会。150年前の幕末の姿を今に伝える=14日、京都市右京区京北
 22日に行われる京都三大祭の一つ、時代祭で、行列の先頭を歩く維新勤王隊列の由来となった「山国隊(やまぐにたい)」が約100年ぶりに祭りに参加する。山国隊は、丹波国・山国村(現京都市右京区京北)の農民らが組織した農兵隊で、戊辰戦争(1868年)の際に新政府軍(官軍)の一員として出陣した。明治150年にあたる今年は隊結成150年の節目。山国隊の姿を今に伝える地元の保存会は「参加がかないとてもうれしい。精いっぱい務めたい」と意気込んでいる。(田中幸美)
 山国隊は慶応4(1868)年、西園寺公望の呼びかけに応じて東征する官軍に協力するため結成。甲州勝沼の戦いでは新選組局長・近藤勇が率いる隊を破り、宇都宮・安塚の戦いでは旧幕府軍から猛攻を受けるも耐え、撤退させるなど活躍した。
 明治28(1895)年に時代祭が始まった頃には、元隊士らが行列に参加していたが、財政上の理由や農繁期と重なることなどから大正6(1917)年を最後に参加を取りやめた。隊列は山国村出身者が多く住む市内の朱雀学区(中京区)に引き継がれ、大正10(1921)年からは同学区が維新勤王隊列として祭りに参加している。
 維新勤王隊列は祭列の中で唯一演奏を伴って練り歩くが、明治2(1869)年に山国隊が東京から京都に軍楽行進曲を演奏しながら凱旋(がいせん)したときの様子を再現している。
 祭りからは撤退したものの、地元では「山国隊軍楽保存会」を作るなどし、小太鼓や笛からなる軍楽の伝承に取り組んできた。
 会員は約370人に上り、当時の衣装を整備保存し、地元の祭りに鉄砲隊を含む行列を参加させるなど、山国隊の志を引き継いでいる。
 山国隊結成150年の節目の今年、参加希望が主催者に受け入れられ、101年ぶりに登場することに。祭列が出発する前に京都御苑上京区)の建礼門前で行われる行在所(あんざいしょ)祭で会員約40人が鼓笛の奉納演奏を行う。
 来年以降も参加するかどうかは白紙だが、保存会の内ヶ島正和会長(69)は「150年目の歴史を新たに作りたい。山国隊は後世に伝えなくてはならない京都の財産」と話している。
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 明治維新とは、武士による変革ではなく、下級武士と庶民が起こした革命である。
 庶民は戦争も辞さずとして、下級武士と共に江戸時代後期から軍事侵略しようと押し寄せてきたロシアから天皇と日本国と日本民族を守ろうと武器を取って立ち上がった。
 昔の日本人は、死ぬ覚悟で大陸における積極的自衛戦争を始めた、それが明治の近代化である。
 その意味で、現代の日本人と昔の日本人は違うのである。
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 江戸の庶民の中には、賊軍・幕府軍に参加して官軍・朝廷軍と戦った庶民もいた。
 その代表格が新選組であった。
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 しょせん、戦後民主主義教育を受けた現代の日本人には江戸時代後期から明治初期の歴史が理解できない。
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・悪党・野伏せり、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持ち命を犠牲にして天皇を守ろうとした「帰化人」は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否し自己益で天皇を殺そうとする「渡来人」は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激な無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
 マルクス主義共産主義階級闘争史観やキリスト教最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 戦後のマルクス主義者・共産主義者は敗戦利得者となって、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳し、民族主義天皇主義を日本から消滅させるべくメディア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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 少数の高学歴出身の裕福資産家・AI強者 vs. 多数の低学歴出身の貧困労働者・AI弱者。
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 2023年10月11日 MicrosoftStartニュース 京都新聞戊辰戦争戦った農兵隊の「山国隊」、住民らが再現し行進 軍楽演奏し6キロ練り歩く
 太鼓や笛を響かせながら、勇壮に行進する「維新勤王山国隊」(京都市右京区京北比賀江町)
 © 京都新聞社
 京都市右京区京北の山国神社一帯で8日、戊辰戦争で新政府軍として幕府軍と戦った農兵隊「維新勤王山国隊」を再現した行進が行われた。小雨の中、太鼓や笛で勇壮な音色を響かせ、羽織はかま姿の若者らが秋の里山を練り歩いた。
 行進では、戦いを終えて帰郷した時に演奏したという軍楽を再現し、同神社の例祭に合わせて毎年披露している。新型コロナウイルス禍で2年間休止したが、昨年再開した。
 今年は、住民ら約60人で隊列を組んだ。錦の御旗を掲げ、当時の衣装に扮(ふん)した鼓笛隊や鉄砲隊が同神社を出発し、近隣の神社を巡った。みこしは担がず、雨よけカバーをして車に載せて巡行したが、山国隊は出発を早めるなどして当初通り約6キロの行程を終えた。
 太鼓を担当した京都京北小中6年の児童(12)は「去年は雨で行進を途中で取りやめたけど、今年は全て歩けてよかった。(太鼓を掛けた)肩が痛かったけど楽しかった」と話した。
 恒例の「山国さきがけフェスタ」もあり、神社参道に納豆もちや農産品、木工製品などの特産品が並び、観光客らが買い物を楽しんだ。
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 花園大学
 2018.11.28お知らせ
 「魁!山国隊プロジェクト」軍楽行進を学生がサポートしました。
 花園大学京都市右京区京北地域との地域連携企画「魁!山国隊プロジェクト」
 軍楽行進をサポートするスタッフとして学生が参加しました。
 花園大学京都市右京区京北地域との地域連携企画「魁!山国隊プロジェクト」の最後を飾るイベントは、商店街軍楽行進。学生8名が大学の赤いジャケットを着て参加しました。
 このプロジェクト全部の企画・監修をされた花園大学の松田教授もかけつけてくださいました。
 ぽかぽか陽気の11/25(日)、幕末維新の時代に官軍に加わり活躍をした山国隊が三条名店街と新京極商店街を約40分ほどかけて軍楽行進しました。
 花園大学の学生8名は、観光客などでごった返す商店街の真ん中を、軍楽行進する山国隊のサポート役として参加、花園大学が監修した「山国隊」のリーフレットを配布したり、通行客からガードしたり、しっかりお役目を果たしました。
 威勢のいい大太鼓・小太鼓・笛などで奏でる軍楽と行進は注目を浴び、海外からの観光客も配布したパンフレットを見ながら、珍しそうに写真やムービーを撮影する人たちでいっぱいになりました。
新京極商店街ろっくんプラザのPRブースでは、クロモジを使った学長ハーブスィーツのレシピを配布しました。
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 2023/09/22
 第28回山国さきがけフェスタ(2023年10月8日)通常の形に戻して開催(京都京北)
 DATE
 10月8 2023 - 10月8 2023
 TIME
 10:00 AM - 4:00 PM
 山国神社
 山国
 山国さきがけフェスタ
 山国隊
 今年は神輿も通常通り巡行&山国軍楽隊も行進
 山国神社の例祭に合わせ、例年10月の第1日曜日に開催される「山国さきがけフェスタ」。今年は10月8日(日)、コロナ以前の元の形に戻り山国神社の還幸祭の神輿巡行、山国隊の行進が盛大に開催されます。
 「山国隊」は、明治維新に貢献した農兵隊で、平安神宮の創建と平安遷都1100年祭を奉祝する行事として毎年10月22日に行われる、京都三大祭りのひとつ「時代祭」の武者行列維新勤王隊列の先頭(魁=さきがけ)として知られています。 錦の御旗を護衛し、鼓笛による勇壮な軍楽を響かせながら行進する光景は時代祭を象徴する人気の行列です。山国さきがけフェスタでの維新勤王山国隊行進と神輿巡行は13時から行われます。
 また、地元産品の即売会、ゲーム、コスモスの花摘み体験、クイズ大会、振舞い鍋、お楽しみ抽選会などのイベントも盛りだくさん。ご家族、ご友人をお誘いあわせのうえ、ご来場を心よりお待ちしております。
 ※当日はJR西日本バス周山バス停から山国まで往復の臨時送迎があります。
 錦の御旗を掲げ、明治維新に貢献した農兵隊「山国隊」を再現
◆維新勤王山国隊行進
 山国隊は幕末の戊辰戦争時、山陰道鎮撫総督・西園寺公望の檄文に呼応した丹波国桑田郡山国郷(現京都市右京区京北)の郷士83名が因幡鳥取)藩に附属して参戦し、農兵隊ながらも慶応4年(1868年)11月25日、錦の御旗を守護し京都へ凱旋した農兵隊です。この行進は地元の山国隊軍楽保存会が、明治2年(1869年)鼓笛にて軍楽行進曲を演奏しながら京都に凱旋したときの様子を再現しています。維新勤王山国隊行進は山国神社の還幸祭の奉納行事のひとつになっています。
 勇壮華麗な神輿巡行、前日いは宵宮祭りも
◆神輿巡行
 例祭の前日の宵宮祭(神幸祭)には、山国神社参道には松明が並び、幻想的な雰囲気の中で神輿の巡行が行われます。例祭(還幸祭)当日は、正午から神事が行われた後、町内の各社を巡行し御霊神社へ神輿が発御します。コロナ以前、元の形に戻っての勇壮華麗な神輿巡行は還幸祭のクライマックスです。
 <還幸祭渡御/神輿巡行・維新勤王山国隊行進>
・山国神社(13:00発御)
・稲荷神社(14:10頃)
八幡神社(15:10頃)
天満神社(14:25頃)
日吉神社(15:05頃)
・御霊神社(17:30着御)
 <臨時送迎(周山~山国)スケジュール>
○周山⇒山国(往路)
 10:00/10:08
 10:58/11:06
 12:25/12:33
○山国⇒周山(復路)
 13:50/13:58
 15:20/15:28
 ※周山で京都駅方面のJRバスと接続します(合同庁舎前でも停まります)
 ※山国では少し余裕を持って臨時送迎場所にご参集ください
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 保津川遊船企業組合
 621-0005 京都府亀岡市保津町下中島2
 京都・亀岡 保津川下り
 歴史ブログ
2021年10月12日「魁!山国隊 シリーズ1 〜保津川に繋がる人々の心情と誇り〜 
 毎年、10月22日に行われる京都三大祭の一つ時代祭。(葵祭祇園祭時代祭
 残念ながら今年も中止ですが…
 その時代祭の先頭を歩くのは「維新勤王隊」といい、錦の御旗に陣羽織、笛と太鼓を鳴らし行進する姿は、まさに祭の魁(さきがけ)といえます。
 この維新勤王隊列のモデルは、「山国隊」といいます。
 山国隊は、戊辰戦争(1868年)の際、丹波国・山国村(現京都市右京区京北)の農民らが組織した農兵隊で、新政府軍(官軍)の一員として出陣した隊です。
 淺川道夫・前原康貴 著
 『丹波・山国時代祭「維新勤王隊」の由来となった草奔隊』
 この著書では、
 山国隊結成から、その活躍、そして時代祭へ…
 その一連の歴史が詳しく調べられています。
 今日は、こちらの書籍から、同じ保津川流域に繋がる船頭として、筆者なりに山国隊について迫ってみたいと思います!!
 その前に、山国隊ができるまでの背景を「山国」という土地の歴史をご紹介します。
 山国という地域は、京都府京都市右京区北部の山間部にある盆地で、淀川水系の上流であり、さらに保津川も遡り、現在は京都市右京区京北に属します。
 古くは、平安京造営の木材を供給していた郷で、古くから皇室との関係が深く、京都で戦乱などがあれば避難場所にもなりました。
 しかし、時代は太閤検地豊臣秀吉の時代)と江戸幕府となり、次第に禁裏直轄(皇室)の荘園(所有地)は解体され、幕府直轄地となったり、寛文十二(1672)年には、梶井宮(大原三千院)の領地となり、また、元禄十一(1698)年、旗本杉浦氏の領地となります。
 ところが、宝永二(1705)、五代将軍徳川綱吉が、草高一万石を朝廷に献納し、山国の一部は禁裏御領地として復活します。
 こうして、皇室御領、梶井宮領、旗本杉浦氏領の三つに分割されたまま、統治が幕末まで続きます。
 山国の郷の人々の心情は、禁裏御領の民である誇りと、それと同時に祖先から受け継いだ山と田畑を取り戻したいという悲願があり、このことが、山国隊が新政府軍に加わった最大の理由と言えます。
 山国の人々の心情根底にある「禁裏御領の民である誇り」を歴史的観点で遡ってみると、
 そもそも、山国のはじまりは、平安時代以前の長屋王出土の木簡に「桑田郡山国里・秦長椋伊賀加太万呂二人六斗」と記された土地で、この木簡が、現在までに残る山国を記した一番古い記録です。
 長屋王は、奈良時代の王族官人で天武天皇の孫、高市皇子の子ですから、「山国」という地名は、平安時代以前からあったということなります。
  長屋王邸宅跡で見つかった「山国ノ里」と記した木簡
 そして、桓武天皇延暦年間の平安建都に時には、山国の材木で大内裏宮殿を造営するため、山国を御杣として、木工寮·修理職の所管地となりました。
⚫︎木工寮とは、主に造営、および材木採集を掌り各職工を支配する役所のこと。
⚫︎ 修理職とは、主に内裏の修理造営を掌る官職。
 すなわち、山国は朝廷が認めた直轄地であり、良質な材木を有する丹波桑田郡・山国荘は、大堰川(保津川)を利用して筏で木材を都まで運ばれる供給地でもありました。
 山国には山國神社という式内社平安時代に編纂された延喜式神名帳に記録された社)であり、大己貴命大国主命)を祭神として祀られた神社があります。神社の御由緒では、宝亀年間(770年-780年)に和気清麻呂(わけのきよまろ)を祭主として祀られた神社です。
 山國神社
 和気清麻呂といえば、奈良時代後期から平安時代初期かけての貴族・政治家であり、怪僧・道鏡の野望を打ち壊し、平安建都(遷都)を進言した人物です。
 淀川や大和川の治水工事にも携わり、延暦12年(793年)には造宮大夫に就任し、平安京の造営・修理の建都事業に尽力しています。
 これは和気清麻呂が、都に木材を運ぶため、大堰川(保津川)の治水工事も携わっていたことを伺えます。
 ちなみに、和気清麻呂は、備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)出身であり、そこには和気川(現吉井川)が流れています。この和気川(吉井川)には天然記念物の淡水魚アユモドキが生息してます。
 このアユモドキは、現在、日本では岡山県の和気川(吉井川)と京都の保津川にしか生息していません。
 もしかすると、アユモドキと和気清麻呂が関係するかもしれません。
 和気 清麻呂(わけ の きよまろ)
 ちなみに、江戸時代、1606年に豪商・角倉了以は、和気川の高瀬舟を見て、保津川開削を考えたと伝わります。
 また、この流域の地域から船頭を呼び寄せていますので、保津川流域と備前・備中の吉井川(和気川)・高梁川の流域は何らかの関係性で結ばれているかもしれません。
 江戸時代における物流は、山国の郷に大きく関わってきます。その出来事が二つ。一つ目は慶長十一(一六〇六) 年、角倉了以により、大規模な保津川(大堰川)開削に施行です。
 これにより丹波~京都の水運一帯は物流と人の往来が盛んとなり、山国の郷の名主たちは、角倉の開削を期に円滑な筏流しのため浚渫工事を繰り返し行い、木材流通は一段と効率を高められたようです。
 こうした努力によって保津川(大堰川)の水運はますます利便性を増し、丹波と山城間の交易における山国の存在感は嫌が応にも増します。
 角倉了以蔵(大悲閣 千光寺蔵)
 もう一つは、文久三(一八六三)年、豪商河村与三右衛門の考案により、嵯峨嵐山大堰川から分水して東へと流れて千本三条へ繋がる運河、西高瀬川の開削です。
 文久3年は、徳川将軍・徳川家茂が上洛の年であり、これに伴い西国大名などが物資を西高瀬川に運ぶ利便性があります。ちなみに工事費用は幕府が捻出しています。
 これにより丹波からの流通はなお一層盛んとなり、そのため材木取扱いの出張所を京都に置いて、山国の名主たちの一部はここに駐在していました。
 丹波の材木生産や、諸物産の運送から卸しまでを山国の名主たちが請負っていて、村民も様々な理由で京都へ往来したり、また移住しやすい環境にあったので、山国は京都から遠く離れてはいたものの、時局の動静をいち早く知る立場にありました。
 さて、江戸時代の山国は、皇室御領、梶井宮領、旗本杉浦氏領の三つに分断されたまま幕末を迎えます。
 明治維新という日本史上でも大変大きな転換期に際し、中世以来の山国の名主たちは、祖先から受け継いだ山と田畑をなどの土地を取り戻すことと、禁裏御領の民であるという誇りを胸に持ち、義勇兵として新政府軍に参陣することを決意するのでした。
 (次号続く)
 さいたに屋
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 ウィキペディア
 山国隊(やまぐにたい)は、幕末期に丹波国桑田郡山国郷(現・京都市右京区)で結成された農兵隊。
 因幡国鳥取藩に付属し、官軍に加わって戊辰戦争を戦った。
 沿革
 結成
 平安京造都の木材を供給した伝承をもつ山国郷は古くより皇室との関係が深く、山国一円は太閤検地まで禁裏直轄の荘園であった。しかし幕末には禁裏御料は郷内の半分ほどで、村々の所領関係が異なることは、山国の諸村が一体となり山国神社の宮座を堅持していく上で問題も多かった。そこで名主仲間(宮座仲間)は、かつての荘園「山国庄」の時代と同様に天皇から正式に官位を授かることなどで地域の一円禁裏御料化を目指し、宮座の結束強化をはかっていた。
 このような状況のなか、慶応4年(1868年)1月3日に鳥羽・伏見の戦いが始まった。間もなく山陰道鎮撫総督西園寺公望から丹波に王政復古の募兵があり、前年末頃から御所警備などの勤王奉仕策を練っていた山国では、平安時代以来の皇室との関係と郷中復古(禁裏御料回復)の願いから、直ちにこれに応じて自弁による農兵隊が結成された。
 農兵隊には荘園時代の古例により四沙汰人を置き、第一陣「西軍」・第二陣「東軍」の2軍が目的別に編成され、両軍が慶応4年1月11日山国神社に集結し出陣した。
 西軍 (隊士64人客士12人、沙汰人:水口備前守・藤野近江守)
 山陰道の西園寺との合流を目指したが、道中でこの方面が既に平定されていたことが判明した。しかし鳥取藩の伊王野治郎左衛門(後の久美浜県知事)の仲介もあって、岩倉具視から鳥取藩に付属し「山国隊」と称するようにとの指示を受けることができ、山国隊が誕生した。
 東軍 (隊士27人、沙汰人:鳥居河内守・河原林大和守)
 大坂の征討大将軍仁和寺宮の陣に合流を目指したが上手くいかず、更に「親兵組」と称し御親兵として御所警衛にあたることに拘ったが最後まで不調のまま終った。
 京都出陣と東征
 東征大総督有栖川宮熾仁親王の京都出陣に伴い、山国隊に1小隊東征の指令が下った。慶応4年2月13日、山国隊の1個小隊(隊士28人客士2人)が東山道軍の鳥取藩部隊に加わり、「十三番隊」として京都を出発した。隊は鳥取藩士河田左久馬が隊長となり、原六郎らが司令士として指揮を執った。残りの隊士は京都で御所警備などにあたった。
 河田は鳥取藩の伏見・京都留守居役を兼ね、一刀流を学んだ人物であり、鳥取藩兵参謀と兼務、原は生野の変の生き残りであり、のち鳥取藩に仕官した。
 3月、隊は甲州勝沼の戦いに加戦したのち江戸入りし、翌、4月には 野州・安塚の戦いに参戦した。ここで激戦により最初の戦死者2名(および行方不明者1名)を出す。江戸凱旋後、5月には上野戦争彰義隊と交戦し、ここでも戦死者1名を出した。6月には隊士のうち9名が隊長とともに奥州へ向け江戸を出陣し、常陸平潟に上陸。8月に相馬中村城に入城し、ここで6名の隊士が東京(江戸)に帰営した。残留した隊長・隊士は9月に亘理城、10月に仙台城に入城したのち同月東京に帰営した。明治改元を経た同年11月、隊は有栖川宮の凱旋に随伴して東京を出発、同月25日、京都に凱旋した。
 山国凱旋
 明治2年2月18日、山国隊は大勢の見物人・出迎えのなか、鼓笛を奏して京都から山国への凱旋を果たし山国神社を参拝した。2月25日には死者の慰霊祭を行ない、辻村に招魂場(今の山国護国神社)を設けた。
 最終的に山国隊はその活躍とともに、戦死3人、病死3人、行方不明1人という多大な犠牲を出した。また親兵組とともに軍費自弁のためにできた膨大な借金は名主仲間共有の山林を売り払うなどして賄われ、肝心の宮座は維新後間もなく消滅してしまった。しかしこれ以来山国隊は郷土の誇りとされ、山国神社の還幸祭と京都時代祭では山国隊姿の行進を見ることができる。
 還幸祭
 時代祭
 年表
 慶応4年
1月18日 - 岩倉具視の指示で山国隊が誕生。
2月13日 - 山国隊1個小隊が京都を出陣。
2月15日 - 補充6人が合流。隊士34人となる。
2月20日 - 美濃大垣で戦場に臨む決意を示す血判書を作成。
3月3日 - 鳥取藩内参謀の河田左久馬が山国隊隊長を兼務。
3月6日 - 甲州勝沼の戦いに加戦。
3月9日 - ゲベール銃に換えてミニエー銃を付与される。
3月19日 - 江戸入り。
3月24日 - 河田隊長から「魁」(さきがけ)の文字を冠した熊毛の陣笠を支給。
4月22日 - 野州安塚の戦いで激戦。戦死2人、負傷5人、行方不明1人。
閏4月25日 - 江戸に凱旋。錦旗の警衛を任される。
5月15日 - 上野戦争彰義隊と交戦。戦死1人、負傷4人。
6月28日 - 隊士9人が河田隊長と奥州へ向け江戸を出陣。翌29日品川港を出港。
7月3日 - 常陸平潟に上陸。
8月7日 - 相馬中村城に入城。
9月12日 - 隊士3人が隊長と残り、6人は東京(江戸)に帰営。
9月21日 - 亘理城に入城。
10月1日 - 仙台城に入城。
10月21日 - 隊士3人が隊長と東京に帰営。
 明治元年改元
11月5日 - 有栖川宮の凱旋に随伴して東京出発(錦旗警衛)。
11月25日 - 有栖川宮とともに京都凱旋。帰洛(錦旗警衛)。
 山国隊と鳥取藩の関係
 上記のように、かつての荘園「山国庄」の時代と同様に朝廷から正式に官位を授かるための復活運動を行う際、朝廷とのコネを必要とした。そのため、「山国庄」の名主の中で代表格の家筋である水口市之進(水口備前守)の実弟水口正顕が因幡鳥取藩京都上屋敷の呉服所役人若代長左衛門の養子となって若代四郎佐衛門という人物が京都にいたので、慶応2年頃彼を頼った。 若代四郎佐衛門の尽力で翌慶応3年12月10日、従五位下の官位をいただくことに成功した。水口市之進たちはその後も因幡鳥取藩邸に出入りしていた。 上記のように、慶応4年1月11日に農兵隊「西軍」「東軍」が結成され、同18日、「西軍」が因幡藩家老荒尾駿河守に連れられて参与役所に出頭したとき、議定の岩倉具視から「諸君は因幡藩に属して「山国隊」と呼びしばらく待機せよ」と指示された。 慶応4年2月13日、「山国隊」は東山道軍の鳥取藩部隊に加わって京都を出発した。 一見して山城国山国と因幡鳥取藩とは無関係のようだが、以上のような経緯がある。
 エピソード
 京都出陣と東征の前に、藤野近江守こと藤野斎は山国隊の隊員を従え、北野天満宮近くにある椿寺(地蔵院)前の茶畑で特訓を行った。また天満宮には毎日必ず敬礼し、出陣の前にも武運長久を祈願している。藤野の息子である牧野省三大正6年天満宮そばに新居を建て、「暇ができたら山国隊の長征を映画化してみたい」と子の雅弘に漏らしていた。この年、雅弘は父と山国村の藤野の屋敷を訪れたが、そこには従士達の位牌を飾った神殿があり、藤野の墓には「従五位」と刻まれていたと語っている。
 山国隊の指揮を執った鳥取藩士河田左久馬は河田景与と改名して京都府大参事兼留守判官となり、維新後の京都府政と関わりを持つこととなった。
 軍楽隊も編制されており、現代でも「山国隊軍楽保存会」が伝承している。
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