- 作者:原田 伊織
- 発売日: 2015/01/14
- メディア: 単行本
関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
官軍・長州軍に参加した被差別部落民隊に対する差別。
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ロシア海軍の蝦夷地・北方領土における犯罪行為で、平和ボケしていた日本人は外国の侵略で祖国を奪われるという恐怖に震え上がり国防意識と攘夷意識に目覚めた。
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2017年9月号 SAPIO「歴史の真実
今こそ教科書から消えた歴史を直視せよ!
明治維新という過ちを総括せずに日本の再生はあり得ない 原田伊織
明治維新が素晴らしいものであるとの〝常識〟に疑義を呈したのは『明治維新という過ち』の著者で作家の原田伊織氏だ。氏は明治維新がその後の軍部の台頭を招き、また『官軍史観』が現代社会を歪めていると指摘する。
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多くの日本人は、『明治維新=無条件の正義』であり、この〝偉業〟がなければ封建的な日本は近代化を果たせず、西洋列強の植民地になったと信じている。
だが歴史の実相は異なる。明治維新とは長州藩、薩摩藩の下級武士が主導した軍事クーデターに過ぎず、政権を強奪した薩長は『勝てば官軍』とばかりに歴史を書き上げた。我々が習うのはその『官軍の書いた歴史』である。
公教育を通じて、勝者の歴史物語を国民に刷り込ませるのは世界各国に共通する現象であり、ことさら批判する気はないが、官軍史観は現代に多くの『目に見えない歪み』をもたらしている。
150年前の出来事によって我々は何が見えなくなったのか。その呪縛から解放されるためにも『維新の真実』を知る必要がある。
『尊王攘夷』は方便でしかない
学校で習う明治維新には数えきれないほどのウソがある。
たとえば、『尊王攘夷』だ。明治維新と言えば、黒船襲来に危機感を抱いた長州藩と薩摩藩らが『尊王攘夷』を旗印に〝日本の夜明け〟を求めたイメージが強い。
だが薩長は政権を奪うため、方便として『尊王攘夷』を利用しただけだ。そもそも幕末は、諸大名から幕臣まで尊皇意識は浸透しており、武家は『尊皇佐幕』が一般的であった。朝廷内の倒幕派公家も少数派だった。
そこで倒幕を企む公家の岩倉具視や薩摩の大久保利通は謀略をめぐらす。何と天皇の政治的意思を表明する『勅書』を偽造したのだ。
慶応3年(1867年)10月14日、徳川慶喜討伐の勅書(討幕の密勅)が薩摩藩と長州藩に下された。
天皇の直筆はもちろん、摂政の署名や花押もない真っ赤なニセモノだったが、まさか勅書が偽造されたとは思わない徳川慶喜は先手を打って『大政奉還』を断行し、勅書による『討幕』の大義名分を消滅させた。朝廷に統治能力はないので、大政奉還をしたところで結局は徳川が実権を握り続けると踏んだのだ。
ほとんどの公家や武家が『天子様』を敬うなか、偽の勅書を作るなど大罪中の大罪である。この一件は、岩倉と長州・薩摩がいかに天皇を軽んじていたかを示す。
また、維新後に彼らが異常な西欧化を推進したことから『攘夷』が方便だったことも明白だ。
学校教育では大政奉還の後、『王政復古の大号令』が発せられて明治維新が成立したことになっているが、これも官軍史観によるウソである。
慶応3年12月9日、朝議を終えた摂政以下の公家が退出した後、薩摩をはじめとする5藩の藩兵が御所9門を封鎖。親幕府的な公家衆の参内を阻止したうえで満15歳の明治天皇を臨席させて、岩倉が『王政復古の大号令』を発した。幼い天皇を人質にした軍事クーデターにより、薩長主導の天皇親政が宣言されたのだ。
だが、この強引な手法は尊皇意識の高い諸藩の藩主や武家の猛反発を招き、慶喜の反転攻勢もあって、朝廷は徳川政権への大政委任の継続を承認した。『大号令』は事実上失敗したのだ。
そこで薩摩の西郷隆盛が利用したのが、後に『赤報隊』の隊長となる相楽総三ら無頼の徒だ。彼らは幕府との戦争を引き起こすためのテロ集団だった。
西郷から幕臣や佐幕派諸藩を挑発することを命じられたテロリスト達は、江戸で放火、略奪、強姦などあらゆる悪行を行った。日本橋の公儀御用達播磨屋、蔵前の札差伊勢屋などの大店に鉄砲を持った彼らが毎晩のように押し入り、家人や近隣住民を惨殺して三田の薩摩藩邸に逃げ込んだ。
江戸の市民はこのテロ集団を『薩摩御用盗』と呼んで怖れ慄き、夜の江戸から人影が消えた。
度重なる挑発に堪忍袋の緒が切れた幕府は薩摩藩邸を砲撃した。当時はちょうど王政復古の大号令が失敗した時期にあたり、『討薩』を願う幕臣から圧力をかけられた慶喜は、大坂城から『討薩表(とうさつひょう)』と掲げた部隊を京に差し向けた。これに薩摩が〝待ってました〟とばかりに砲撃を加えて勃発したのが、戊辰戦争の先駆けである『鳥羽伏見の戦い』だ。
軍事クーデターに失敗して不利な立場にいた薩長は、江戸市中で仕掛けたテロを契機にまんまと戊辰戦争に突入し、結果的に討幕を成し遂げた。
吉田松蔭の侵略膨張主義
……」
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9月号 WiLL「歴史の足音 中村彰彦
幕末長州藩の『差別の論理』
息子の使った高校の日本史の教科書を眺めていたら、長州藩の奇兵隊はゴシック体で表記され、欄外には左のような注がついていた。
『高杉晋作が藩庁に建議し、1863(文久3)年みずから中心となって、正規の藩兵(正兵)とは異なり、門閥・身分にかかわらない志願による奇兵隊を組織した。長州藩では、その後も農商民を加えた諸隊があいついで組織され、これが討幕運動の軍事力となった』(山川出版社『新詳説日本史』)
こう書かれると『諸隊』もすべて『門閥・身分にかかわらない』組織だったように読めてしまうが、そんなことはあり得ない。
奇兵隊では幹部たちによる隊士たちの月俸のピンハネが当然のこととされていた、と元奇兵隊士三浦梧楼(ごろう)は『観樹将軍回顧録』に書いているし、のちに諸隊が『脱隊暴動1件』といわれる大騒動を起こしたのも、幹部たちの不正腐敗に端を発していた。
『長州諸隊』と総称される部隊は、時山彌八『もりのしげり』(大正5年〈1916〉刊)所収の『旧長藩諸隊表』によると山伏隊、撰鋭隊、膺懲(ようちょう)隊など161隊あった(離散集散あり)。そのなかで『門閥・身分』による差別が歴然としていたことを示すには、これら諸隊のうちには被差別部落民によって組織された部隊もふくまれること、それは隊名からすぐ知られたことを指摘すれば充分であろう。
では、その部隊名と時山彌八の解説文を抜き書きする。
『〈維新団〉熊毛(くまけ)郡屠勇ノ団結ニシテ遊撃軍ニ属ス
〈山伏茶洗(ちゃせん)組〉編成年月慶応二年春頃 茶洗は非人穢多ノ種類ナリ人員44人ヲ以テ組織セリ、四国戦争(幕府による第二次長州追討戦=筆者注)ノ際芸州口二戦フ
〈一新組〉編成年月慶応二年五月頃 三田尻屠勇ノ二隊ニシテ御楯隊二属ス』
長州諸隊は総じて『○○隊』『××軍』という部隊名なのに、右の部隊は『──団』『──組み』という語編成になっている。これが差別意識でなかったら何だというのか。
これら3隊のうち維新団については田中彰『高杉晋作と奇兵隊』(岩波新書)に記述があるので、次にこれを掲げる。
『隊員数は150〜170名程度で、この隊は黄色地に「游維新団」と書かれた楯をもっていた。遊撃隊(軍)付属の隊の意である。維新団の隊員は、頭にかぶる笠から衣服まですべて黒一色で、絹や舶来の毛織物でつくったゴロ服を着たり、笠その他に飾りをつけることなどはいっさい禁じられていた』
それにしてもなぜこの時期に長州藩がこれら3隊を編成されたのかといえば、同藩の攘夷体質にその根っこがある。文久3年(1863)5月から下関で異国船の無差別砲撃をおこなった長州藩は、『馬関攘夷戦』と見得を切ったまではよかったが、6月1日から5日にかけて米仏海軍の報復攻撃に大惨敗。緊急に銃隊を組織する必要に迫られ同年7月、左のような『部落民登用令』を出したのだ。
『山口近郷の穢多中品行方正強壮勇敢健歩才気の科目に応ずべき者を採用して攘夷の事に従はしめ居常一刀を帯し胴着を被ることを許す』(末松謙澄『修訂 防長回天史』第4巻)
では、その戦いようはどのようであったか。
『維新団や一新組などは、四境戦争の芸州口で果敢に戦い、維新団は戦死2・負傷12、一新組は戦死・負傷者それぞれ2,山代茶洗組は慶応2年8月9日の解体までに44名が従軍し、2名が戦死、12名が負傷した、といわれている』(『高杉晋作と奇兵隊』)
第二次長州追討戦における芸州口の戦いは、関ヶ原の合戦とおなじ装備と陣形で出動した彦根藩井伊家の軍勢が、洋式軍服姿の長州兵のゲベール銃で次々と打ち倒され、
『戦争といわんよりほとんど遊猟の感なきにあらず』(戸川残花『幕末小史』)
といわれう一方的な戦いとなった。上記の3隊はこの戦いに奮闘し、『防長市民一同』と称された諸隊の勝利に貢献したのである。あたかも第二次大戦の欧州戦線における日系人部隊のように。
ただし、長州藩はそのあと方向を誤った。慶応元年(1865)8月以降、諸隊の戦死者は下関の桜山招魂場(今の桜山神社)その他の招魂場に祀られた。この招魂場こそは、後の東京招魂社すなわち靖国神社のルーツである。
『しかし、この招魂場にはさきの被差別部落民の戦死者は祀られることはなかった。それは戊辰戦争の旧幕府軍戦死者が、のちに靖国神社の祭神に加えられなかったことに通ずる』(『高杉晋作と奇兵隊』)
と、田中彰氏は指摘している。
日本近代史の歪みは、こういったところにも源流があるのであろうか」
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1807年(文化4年)4月23日〜5月1日 文化露寇事件。(シャナ事件・北辺紛争・フヴォストフ事件)。
江戸幕府は、蝦夷地・北方領土をロシアから防衛するべく東北諸藩に派兵を命じた。
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幕藩体制下の百姓・町人などの庶民には、藩の領民という意識はあったが民族意識はなかった。
サムライ・武士には、君への忠誠心はあっても日本という国意識はなく、藩を守ろうとしても日本を守ろうという覚悟はかった。
日本という民族意識からくる国防意識について、持っていたのは少数派で、持っていないどころか無関心だったのが多数派であった。
庶民にとって領主が誰になろうと興味がなかったように、日本を支配するのが日本人ではなく外国人であっても関心がなかった。
つまり、庶民は外国人が日本を支配しても反対も抵抗もしなかった。
太平洋戦争敗戦後の日本を占領支配してGHQに対して、日本人は民族主義から反対も抵抗もせず奴隷の如く従順に従っていた。
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1823年 漁師忠五郎事件。水戸藩領内の漁民は、水戸藩や幕府に見つからないように密かにイギリス捕鯨船と接触していた。
5月28日 水戸藩大津浜事件。イギリスの捕鯨船2隻の船員12名は、水と食糧をえる為に常陸国多賀郡大津は間に上陸し、捕縛された。
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1840年 韮山代官江川太郎左衛門英龍は、海防政策の一つとして、鉄砲を鋳造する為に必要な反射炉の建設を建議した。
1853年 江戸幕府は、黒船来航を受けて反射炉築造を決定した。
1854年 江川英龍は、反射炉築造場所を伊豆下田から伊豆韮山に変更した。
1855年 江川英龍が死去した為に跡を継いだ息子の江川英敏が築造を進めて、1957年に完成した。
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国防強化の為に軍事力と産業力を自主的に高めた西国雄藩が幾つかあった。
1850年 佐賀藩は、武器を生産する質の高い鉄を抽出する反射炉を設け、大砲の鋳造に着手した。
1851年 島津斉彬は、薩摩藩主となり軍備の増強策と殖産興業に力を注いだ。
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1853年7月 ペリー率いる黒船の襲来。
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1861(文久1)年2月 対馬事件。ロシア軍艦ポサドニック号は、イギリスが対馬を軍事占領しようとしていると言い掛かりを付けて、対馬浅茅(あそう)湾に侵入して停泊した。
現実の国際社会において、誠心誠意の話し合いによる解決などは存在しない、解決できる唯一の方法は武力・軍事力だけであった。
平和的な話し合いによる解決とは、滅亡、死滅、絶滅、全滅しかももたらさなかった。
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国防意識・尊皇意識・攘夷意識が最も先鋭化したのが長州藩で、その象徴的人物が吉田松蔭(1830〜59)であった。
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日本は、ロシアの侵略から祖国・日本を守る為に朝鮮や中国を犠牲にするか、朝鮮や中国への信義を守る為に祖国・日本を犠牲にするか。
日本人は、日本が日本でいる為に究極の二者択一を迫られていた。
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長州や薩摩は、勤皇佐幕から勤皇討幕へ暴走した。
勤皇討幕によって、サムライはおろか庶民の間でも民族意識と国防意識が生まれた。
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靖国神社は、陰で長州神社と呼ばれていた。
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靖国神社は、旧幕府軍戦死者と共に非人・エタなど被差別部落民出身の旧官軍戦死者を差別し祭神として祀らなかった。
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