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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
2022年8月号 WiLL「歴史の足音 中村彰彦
『上野の宮さま』は奥羽越列藩同盟の盟主か
江戸の上野の山にある徳川家の菩提寺は、東叡山寛永寺。徳川家康を祀る東照宮の地日光には3代将軍家光の代に日光山輪王寺が建立され、後水尾天皇の第三皇子・守澄法親王(しゅちょうほっしんのう)が門主となって寛永寺に住(じゅう)した。江戸っ子たちに『上野の宮さま』と呼ばれて親しまれた存在がこれだが、幕末の『上野の宮さま』は伏見宮家出身の公現(こうげん)法親王23歳であった(のちの北白川宮能久{よしひさ}親王)。
長く行い澄ましていた公現法親王は、鳥羽伏見の戦いに敗北して江戸へ東帰し、寛永寺大慈院に謹慎した最後の将軍慶喜に頼まれ、慶応4年(1868)2月中に駿府に出かけた。京から東海道を下ってこの地まで来ていた新政府軍の大本営大総督府に対し、慶喜を寛大に処置してほしい、と申し入れるためだ。
しかし、大総督府は聞く耳を持たず、親王の駿府行きはまったくの徒労に終わった。ところがその供として同行した高僧の中に、これを強く不快に思った者がいた。輪王寺執当(しつとう)職(事務統括者)の覚王院義観(ぎかん)。金子劇蔵という俗名通り気性の激しい義観は、上野の山に集まりつつある彰義隊に対し、これ以降、
『法親王を奉戴して義挙あらむ』(『海舟日記』同年閏4月29日の項)
と吹きこみはじめた。むろんこれは、慶喜が引退して水戸へ去った以上、旧幕臣たちは上野の宮さまを担いで薩長と雌雄を決すべきだ、とするアジテーションだ。
さらに義観は、新政府にもっとも憎まれている在国の会津藩主松平容保をも主戦論に同調させるべく、閏4月中に会津へ密使を派遣。その密使には、公現法親王からの令旨(りょうじ)が托されていた。令旨とは親王、法親王、女院など天皇以外の皇族が発する命令書のことだ、よく知られてた例はふたつある。
ひとつは平安末期の治承4年(1180)4月、後白河上皇の子であるが親王宣下を得られなかった高倉宮以仁王(もちひとおう)が発したもので、これは平氏追討のための挙兵を募る目的であった。もうひとつは、南北朝時代に後醍醐天皇の護良(もりよし)親王が討幕のために発した令旨である。
対して上野の宮さまの令旨は、松平容保・養子喜徳父子に挙兵して幼主明治天皇をあやつる薩長芸土四藩の罪を正せというもの(芸は芸州藩、土は土佐藩)。上記四藩のリーダーや岩倉具視らを、唐の玄宗皇帝の時代に反逆を企てて殺された安禄山・史思明になぞらえていた。
では容保たちはこれにどう反応したかというと、山川健次郎監修『会津戊辰戦史』は、『主従感銘せしも道路閉塞せしにより奉答せざりき』の一行で片付けている。会津藩大内宿には以仁王を祀る高倉神社があるので、容保以下が令旨の意味に通じていなかったとは考えられない。この令旨が胡散臭く感じたので無視することにした、ということであろう。
たしかにこの令旨は、本文中でこれは輪王寺宮の朝命だとしながら、執達者(通達人)を義観ともうひとりの執当職龍王院堯忍(ぎょうにん)とし、このふたりの署名と花押しかなかった。のちに堯忍は令旨作成に関与しなかったことが判明するので、この令旨は義観が勝手に作った偽文書と判定できる(『龍王院堯忍伝』、山崎有信『彰義隊戦史』所以)。容保は戊辰戦争を南北朝の動乱のように大規模で長期的な戦いにしてはならないと考える良識派であったから、いくさを煽る令旨などは無視したのだ。
というのに彰義隊は義観からこれとほぼ同じ内容の令旨を受け取り、5月15日に開戦して1日にして潰滅。公現法親王一行は戦火の中を市谷に逃れ、25日、まだ品川沖の錨地を動かずにいた旧幕府海軍の『長鯨丸』『朝陽丸』に助けられて28日には水戸藩領の平潟港に着いた。
その後、一行は磐城平(いわきたいら)藩の城下──会津鶴ヶ城──米沢と転々とし、7月2日、仙台に入った。途中で義観と堯忍も合流を果たしたが、義観がまたしても策動したのは10日のこと。青葉城へ登城し、仙台藩主伊達慶邦に会見した義観は、またしても令旨を発して『薩賊』を討てと命じたのだ。藤原相之助の労作『仙台戊辰史』に全文が掲載されているこの令旨は、容保父子宛のそれと同じ表現が頻出(ひんしゅつ)することから同一の執筆者の手に成ると容易に察せられる。
ちなみにこの5月中に陸奧・出羽・越後三ヵ国の諸藩は仙台・米沢両藩の主唱により、朝敵と名指された会津・庄内両藩の救済を目的として奥羽越列藩同盟を誕生させている。その諸藩の代表からこの同盟の盟主となり、諸軍を統率してほしいと依頼されたとき、公現法親王は、自分は僧であって軍旅のことは習ったことがない、という理由でこれを謝絶していた(『北白川宮能久親王伝』、『彰義隊戦史』)。
というのにこのときも、義観は親王の考えを同盟の代表たちにねじ曲げて伝えるという悪僧ぶりを発揮し、その心をこう代弁した。
『余の素志は二三陪臣の国命を逆乱するを座視するに忍びず(略)、故に奸を除き国を匡(ただ)すの盟主と成るは義に於て必ずしも辞せざるなりと』(『会津戊辰戦史』)
さて、今回のようなことを論じたのは、幕末史について発言する人の中に義観の独断専行癖に気づかず、公現法親王が実際に奥羽越列藩同盟の盟主になったかのように書くものが今も存在するからだ。たとえばウィキペディア『奥羽越列藩同盟』の項の書き手など。諸史料をよく読み込めば、親王の令旨と称する文章は偽文書だとすぐにわかりそうなものなのだが」
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皇族には役割で二つに分かれる。
1つは、天皇の近縁皇族で皇位を継承する可能性がある親王・内親王などの皇子・皇女である。
もう1つは、天皇の遠縁皇族で帝に即位する可能性がない諸宮家と退位して重祚(ちょうそ)の意志のない上皇家・法王家などである。
近縁皇族は、最高神・女性神に仕える唯一直系の世襲家族として一子相伝の秘儀で宮中祭祀を主祭し、天皇の御威光・御稜威・大御心そして神聖不可侵の神の権威を護り、個人的な自我を捨て、私的な欲を捨て、俗事の権力・権威を遠ざけ、政治・経済・軍事などに一切関与しなかった。
遠縁皇族は、俗世の権力・権威と私的欲得で結びつき、政治・外交・経済・軍事、学問・文化など多方面で積極的に参加していった。
俗に言う「菊のカーテン」とは、近縁皇族を護り存続させる為の歴史的文化的宗教的な防御装置であり、俗欲に塗れた遠縁皇族を世俗から守る事ではなかった。
明治維新後、近縁皇族が皇室となり、遠縁皇族は華族(貴族)となった。
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最初に靖国神社の祭神として祀られたのは、官軍として戦って亡くなった倒幕派の勤皇・尊皇の志士達で、彼らは貧しい下級武士や身分低い庶民つまり下層民として生きてきた下賤の出身者であった。
明治維新とは、表向きは武士による武士の改革であったが、実は下級武士や庶民による日本改造である。
その証拠に、約700年間日本を支配してきた職業戦闘集団であった武士階級は解散消滅し、代わって高級官吏登用試験(日本式科挙)に合格した優秀・有能な下級武士や庶民の出身者が国政・外交・国防を動かし始めた。
国会開設後の選挙でも、由緒正しく血筋の良い旧名門士族ではなく、旧下級士族や庶民の出身者が選ばれることがあったし、日本国籍朝鮮人も総選挙だ代議士に選ばれていた。
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日本は建国物語として、世界のいずれの国とも違い、特殊・特別で、1,神の民族神話、2,人類の文明発展・進化・進歩の物語、3,人間の英雄伝説の3つを持っている。
神の宗教的民族神話とは、古事記と日本書紀を正統根拠とする天皇神話、つまり天皇の祖先である女性神を最高神として崇める高天原神話・天孫降臨神話・諸神話である。
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神代の民族固有神話を持っている国家や国民は、古代の古層を受け継ぐ日本以外に存在しない。
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日本民族は、数万年前の石器時代・縄文時代から日本列島に住んでいた。
天皇家・皇室は、数千年前の弥生時代・古墳時代に、内戦や争いを避け平和と安定を取り戻し、幸せと豊かさを求めたムラ論理で、古代の有力豪族達による長老者会議において衆議の結果として「天皇下駄論」・「天皇人身御供説」・「天皇生け贄説」で作られた、責任を押し付けて逃げるという無責任な生存論理である。
その神聖不可侵の裁可者・天皇という地位を護る為に考え出されたのが、「政治的無答責の君主」、つまり政治権力も宗教権威も持たない天皇の権威つまり「天皇の御威光」である。
祖先と国と民族に対して重い責任を負うのは、益荒男・日本男児の責務であって、手弱女・大和撫子ではなかった。
故に、日本天皇は、最高神の女性神による民族神話、神話宗教、血筋・血統の家世襲で万世一系で受け継ぐ事で正統性を与えられていた。
民族神話で正統と認められた宗教的万世一系の男系父系天皇制度とは、いつ終わるか分からない弥生の大乱に辟易とした古代日本民族が、争いを避け、起きた争いを短期間で終わらせ、偽りでもいいから平穏無事を維持する為の歴史的叡智である。
つまり、白黒を、善悪を、正邪を、ハッキリ区別しない為の宗教的正統な万世一系の男系父系天皇制度であった。
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天皇下駄論・天皇人身御供説・天皇生け贄説とは、日本民族にとって面倒な事や厄介な事を困った事を「否応もなく」天皇と皇族に引き取って貰う事である。
つまり、押し付けられる損な役回り・貧乏くじを嫌だと言わず拒否せず無条件に「引き受けて貰っている」、「やって貰っていただいている」、という事である。
それが、天皇の御威光、天皇の権威、天皇の御稜威・大御心である。
日本民族が天皇・皇族・皇室を護ったのは、「責任逃れをする為に犠牲を強要していた」からである。
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歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、相撲取り、その他)、その他である。
日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中にはより過激に無政府主義やマルクス主義に染まっていった。
江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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徳川幕府は、目の見えない視力障害者・検校が行う高利貸しを保護していた。
検校の中には、御家人株を買って子供を武士にし、上司や同輩に賄賂を贈っていた幕臣にしていた。
百姓や町人も、金を使って武士の身分を手に入れ、才覚で町奉行や勘定奉行などの役職について出世した。
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数千年前の弥生時代・古墳時代から、日本国・日本民族を1つにまとめている3つの力が存在している。
1つ目が武力の政治権力、2つ目が経済力の宗教権威、3つ目が文化力=畏れの天皇の御威光・権威・御稜威・大御心であった。
日本の歴史において、政治権力と宗教権威は人間の強欲・私欲・個人欲で栄枯盛衰を繰り返し目まぐるしく入れ替わっていたが、その中で文化力の天皇の御威光だけは変わらなかった。
そんな文化力の天皇の御威光を滅ぼうと忍び寄ってきたのが、キリスト教の宗教とマルクス主義・共産主義のイデオロギーであった。
そして、現代日本人は日本のグローバル化の為にローカルな日本の文化力をゴミのように捨てようとしている。
反天皇反民族反文化的行動を行っている日本人の多くが高学歴な知的インテリや進歩的インテリ達である。
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世界の王侯貴族は他国からの軍人征服者であったが、日本の天皇は民族の伝統・文化・宗教の権威者であり保護者であった。
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戦後のマルクス主義者・共産主義者は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳すべくメデイア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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日本民族は、血の繋がった祖先から命・魂(霊魂)、身体、心、志、気持ち、気概を受け継いで産まれ生きてきた尊い人であって、全知全能の唯一絶対神が自分に似せた姿に土塊・塵・ゴミをこねて形を整え命・魂を吹き込み祝福した貴い土人形ではなかった。
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日本人とは、日本列島に住む全ての人間の事で日本民族の事ではない。
帰化人は日本民族の一員とされたが、渡来人は日本人と呼ばれても日本民族から排除された。
何故なら、帰化人は利他として天皇に忠誠を誓い日本国の為に働いたからであり、渡来人は自利として天皇への忠誠を拒否し日本国に叛き自分の為のみに働いたからでる。
昔の歴史は帰化人の神話・物語であったが、現代の歴史は渡来人の話である。
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日本民族は自分の父母・祖父母・曾祖父母・祖先を、「家の神様」として神棚に祀り、「家の仏」として仏壇に納めた。
家の神様や家の仏様は、必ずしも血縁者だけではなく血の繋がりのない赤の他人の他家からの養子も入っている。
日本の世襲とは、そういう意味である。
日本民族の宗教とは、自分につながる祖先を祖先神・氏神様として祀る人神崇拝宗教つまりローカルな家・家族・一族限定宗教であって、天地創造の絶対神の福音を信じる信仰宗教・啓示宗教・奇跡宗教・救済宗教といった人種・民族といった枠組みを超えたグローバルは普遍宗教ではない。
その象徴が、最高神である女性神・天照大神を祀る天皇家・皇室である。
日本の宗教では、仏教が伝来するまでは人が死んで行く死後の世界はなかった。
天上界の高天原も地下界の黄泉国も、死ぬ事がない天孫系(天皇系)の天つ神が住む世界であり、死んでしまう八百万の神である国つ神が行ける世界ではないし、ましてや人が死んでいく世界でもなかった。
死んでしまう国つ神や人は、死んだら神域である鎮守の森・ご神体とされる高い山・大岩・巨木・海の向こうに宿り、家の近く・家族の近くにある地元の氏神神社に鎮座した。
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祖先霊・祖先神・氏神の人神信仰は、命と魂、血と身体、遺伝子とDNAを受け継ぐ事である。
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人は、二人の両親から産まれてくる。
日本民族の祖先な数は?
日本人の命が尊いわけ。
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祖先神・氏神の人神信仰とは、純血の血縁ではなく、混血の地縁である。
一人の日本人には、二人の両親がいた。二人の親には、四人の祖父母がいた。四人の祖父母には、八人の曾父母がいた。
14世代前では、8,192人。
23世代前には、419万4,304人。
25世代前では、1,677万人。
27世代前では、1億3,422万人。
だいたい約700年前の鎌倉時代で、当時の日本の総人口は700万人から1,000万人。
30世代前には、5億3,687万912人。
40世代前には、5,497億5,581万3,888人。
50世代前には、562兆9,499億5,342万1,312人。
100世代前の、祖先の人数は?
指数関数的な増加。
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祖先のうち一人でも欠ければ、今の命は存在しない。
今の命が断たれれば、この後の命は存在しない。
それが、命の重みである。
そして、日本の家である。
昔の日本人は、「命の継続性」という家の枠で、自分と家族の幸せの為に命を守りながら努力して生きていた。
ゆえに、「命の絆」が断ち切られる「死」を穢れとして恐れた。
この世は、生きるに値する。
命は、等しく尊い。
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日本民族の宗教とは、亡き家族の魂を仏として弔って拝み、祖先の霊魂を祖先神・氏神の人神として祀り崇拝する事で、そこにあるのは「畏れと加護の慎み」であって「奇跡と恩寵の信仰」ではない。
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祖先神・氏神の人神崇拝とは、永遠の命、生命の連続、命の継続として、祖先から子孫への絆であった。
日本民族は、家族・自分の欲得としての短期的願望と家・子孫の理想としての長期的願望を持っていた。
日本民族は、多神教崇拝宗教の信徒であって一神教信仰宗教の信者ではない。
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日本民族の言霊信仰とは、民族中心神話に基ずく自然崇拝であり、宗教的精神的な自然への畏怖つまり畏れと敬い事である。
それは、数千年前の弥生時代・古墳時代から断絶する事なく繰り返されてきた正統世襲男系父系天皇による一子相伝の宮中祭祀、さらには数万年前の石器時代・縄文時代からの日本民族が受け継いだ自然の精霊と生命の永遠に対する崇拝宗教につながっている。
日本民族の伝統宗教とは、精霊崇拝宗教、八百万神の神話宗教、祖先祭祀宗教であって、信仰宗教、啓示宗教ではない。
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小林武彦(東京大学定量生命科学研究所教授)「いま、私たちが存在するのは、過去に夥しい死に支えられているから。生き物にとって死とは、進化を実現させるためにある。変化と選択を繰り返して進化し、生き残った末裔が私たちなのです。自分も生まれてきた以上は生を謳歌し、命を次の世代につなぐためにも〝利他的に〟死んでいかなければならないのです」
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靖国神社の心・志・精神は、戦前の軍国日本にはあったが、戦後の平和国家日本にはない。
が、1980年頃まではあったが、1990年以降から消え始め、2020年以降には消滅した。
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諫山創「人はいずれ死ぬ。ならば人生には意味がないのか?死んだ仲間もそうなのか?あの兵士たちも、無意味だったのか?いや違う‼あの兵士に意味を与えるのは我々だ‼あの勇敢な死者を‼哀れな死者を‼想うことができるのは生者である我々だ‼我々はここで死に、次の生者に意味を託す‼」(『進撃の巨人』)
同じ自殺行為といっても、カミカゼ特攻とイスラムテロリストの自爆テロとは根本的に意味が違う。
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映画・スペック「生と死を峻別する事に意味はない。
他者が認ずれば死者とて生命を持ち、
他者が認ずる事なければ生者とて死者の如し」
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イザベラ・バード「わたしは死んだ過去の時代の霊魂が私の背後に近づいてくる、と感じた」(伊勢神宮参宮して)
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H・P・ラヴクラフト「人類の感情の中で、何よりも古く、何よりも強烈なのは恐怖である」
人類は、恐怖に打ち勝つ為と真理を究める為に宗教を編み出した。
最強の恐怖とは「死」であり、究極の真理とは「生」である。
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マンガ「アシュラ」 原作 ジュージ秋山
私は お前に教えられた。
それは
命喰らわずして生きられぬ人の性(さが)である。
海に生まれた命を奪い
野山に育つ命を奪い
人は生きて行く。
罪を背負い
それでも与えられた命の限りを生きようとあがく。
だからこそ
この世は美しい。
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石原慎太郎「(靖国神社参拝について)根本を云えば、民族としての〝垂直の情念〟をどう認識するかということなんだ。国の礎として斃(たお)れた死者の存在を抜きにいて今生きている我々の価値観だけで国家民族の命運を決めていいのか。その慮(おもんばか)りと畏怖が今の日本人にはない。
〝死者の不在〟ということを強く感じるね。今の日本には死者の居場所がない。それぞれの家庭を見ても仏壇なり、神棚なり、壁に掛けた写真でもいい、死者たち、亡くなった両親や祖父母、曾祖父さんや曾祖母さんの占める場所があるかね。核家族が当たり前になって家の中で身内の死を見取ることもない。死は病院の中にしか存在せず、家の中には生者しかいない」
「靖国参拝は政治じゃないんだよ。参拝は殊更(ことさら)なことじゃないし、褒められる事でもない。ただある少年の日に米軍機を追撃して私を守ってくれた、芋畑で仰ぎ見た戦闘機のパイロットがそこにいるかもしれず、確かなことは女房の親父や多くの親戚が私にとってあそこにいるといことなんだ」
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