🕯184)─2・D─日本人は宗教をもたない野蛮な民族である。〜No.386 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 宗教を持たない人間、宗教を否定する人間は、「人間ではない」、狂人、異常者、犯罪者、文化を持たない野蛮人、獣、マルクス主義者・共産主義者無政府主義者である、それが世界の常識である。
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 2023年8月20日 YAHOO!JAPANニュース 福島民報「宗教をもたない野蛮な民族か
 近代のはじまりに、なぜ、日本という国だけがアジアのなかで唯一、欧米列強の植民地にならなかったのか。この問いはおそらく、近代の黄昏[たそがれ]を生かされながら、日本文化のアイデンティティの再編を求められているわれわれにとって、とても魅力的なテーマではないか。
 わたしは偏狭なナショナリズムには距離を置いてきた。日本が特殊な国であると言い立てるつもりはないし、いたずらに「日本の誇り」などを語りたいわけではない。「クール・ジャパン」とか浮かれ騒いでおいて、その実、日本文化への敬意など持ち合わせない人々がたくさんいる。だから、日本のアニメや漫画に溺れたり、夢中になったことがない頭でっかちの人たちに、日本文化の将来を託すことはできない、などと言ってみたくなる。アニメ映画には、われわれが大切に継承すべき文化や風景が繊細かつ愛[いと]おしげに描かれている。
 ところで、幕末・維新のころに日本を訪れた異邦人が残した紀行文に関心を覚えてきた。それは読み物として面白いし、かれらの観察には教えられることが多い。とりわけ、イザベラ・バードの『日本奥地紀行』はお気に入りの一冊だ。そこに描かれていた日本の宗教事情の報告にはそそられる。われわれ自身が言語化できずにいる無意識の位相が、鮮やかに浮き彫りにされている。
 バードは敬虔[けいけん]な国教会派の牧師の娘であったが、宣教師としての教化を任務としていたわけではない。それでも、日本でキリスト教の普及を阻むものは何か、という問いを抱えていた。日本人はキリスト教の道徳観を心底嫌っている、と感じていた。犠牲、原罪、永遠の命といったキリスト教の核心をなす観念にたいして、厳しい忌避感が示されることにも気づいていた。
 日本人には原罪という観念がないから、キリスト教の教えがその人間観を変えるには長い時間が必要だ。血の贖[あがな]いの教えといったものは、あらゆる命への畏敬や慈愛を説いてきた仏教とは対極的であるし、神道にはそもそも来世に関する教えは見られない。仏教が約束するのは、輪廻[りんね]転生による終わることなき生と死の連鎖であった。日本人は犠牲と永遠の命を拒んでいる、とバードは考えていたのである。
 西洋による植民地化は、つねにキリスト教の浸透・教化を伴うものであった。いわば、日本人の宗教観がそこに大きく立ちはだかることを、バードは冷静に予感していたのだ。欧米列強が日本を植民地として支配することに失敗した背景には、こうした「宗教戦争」の影が見え隠れしている。日本人は無神論で、宗教をもたない「野蛮な」民族だと決めつけて、かれらは安堵[あんど]を得ようとした。しかし、日本人の多くは、唯一絶対の神をいただく宗教とは異なるが、豊かに宗教的な人々だと、わたしは信じている。震災後に被災地を訪ねる巡礼の日々に気づかされたことだ。多神教的なもうひとつの宗教が、生と死の風景のなかに見え隠れしていた。(赤坂憲雄 奥会津ミュージアム館長)
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 戦後民主主義教育における宗教に対する基本方針は、政教分離の原則に基づき教育現場から宗教を排除する事であった。
 超エリート層と言われる超難関校出の高学歴な政治的エリートと進歩的インテリ達に、マルクス主義的反宗教無神論信奉者が多い。
 現代日本では、神殺しや仏殺しが行われ、「宗教は悪として」、死ねば生きていたという存在そのものが無として消え去り全てがあてにできないと子供達に教えたれている。
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 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人奴隷交易で大金を稼いでいた。
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 キリスト教朝鮮人テロリストは、日本人の共産主義者無政府主義者テロリスト同様に昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。
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 日本民族は、絶対神や救世主による福音、奇蹟、恩寵、救済そして死後の復活、天国での永遠の命など信じていなかった。
 その意味で、日本民族には狂信的宗教・カルト宗教や宗教原理主義などは無縁であった。
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 2022年10月25日 東洋経済ONLINE「「日本人は無宗教」と信じる人が気づいてない真実
自然宗教神道の国教化、心学…特有の3つの事情
 宗教にすがる女性
 信仰や信心は、わたしたちが思っている以上にわたしたちの深層で作用している(画像:metamorworks/PIXTA
 「宗教」「信仰」というキーワードが、旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)の問題をきっかけに改めて世間の興味を引いている。しかし、それは多くの場合、特定の宗教を信じている信者としての立場というより、どちらかといえば「無宗教」という立場からではないかと思われる。
 なぜなら、日本人の7割以上が信仰や信心を持っていないと公言しているからだ(統計数理研究所「国民性調査」2013年)。2018年に行われた調査では、「何らかの宗教を信仰している」(冠婚葬祭時だけの宗教を除く)が36%、「信仰している宗教はない」が 62%という結果も出ている(NHK放送文化研究所「ISSP国際比較調査」2019年)。
 確かに「日本人は無宗教である」というフレーズをよく耳にする。アメリカの調査機関ピュー・リサーチ・センターの調査によれば、日本は人口に占める「無宗教」の割合が高い、世界でも有数の国とされる。
 「無宗教」とは一体なんなのか
 だが、この「無宗教」というカテゴリーが曲者で、実はここには「何らかの精神的な信仰を持つ者」が多数含まれている。それは、既成の宗教などとは無関係な信仰であり、日本では民間信仰、民俗宗教などといった呼ばれ方をしてきたものだ。21世紀に入ってから、「SBNR」(Spiritual But Not Religiousの略で、「無宗教型スピリチュアル層」のこと)という新語も登場し、拡大する「無宗教」層の実態把握の動きも進んでいる。
 では、一体「無宗教」とは何なのか。時に、特定の宗教にハマる人々を揶揄(やゆ)したり、幽霊は科学的ではないと批判したりする人々が「無宗教」を主張していたりする。けれども、そんな人々であっても、人生の重大事において神社で願い事をしたり、占いを信じたり、験(げん)を担いだり、悪いことをしたらバチが当たると考えたりといった心性と同居していることが少なくない。
 これは恐らく、わたしたちが「宗教」という定義を狭く捉えてしまっているせいだ。そのため、安易に自分たちを「無宗教」というカテゴリーに分類して、「宗教」から何の影響も受けていないというような無自覚な意識を作り出してしまっている。
また、そこには「自分たちのほうが迷信にとらわれずに自由な立場である」といった優越感が潜んでいる場合すらある。最悪なのは、それが特定の宗教を差別したり、逆に、無自覚さが災いして問題のある宗教に取り込まれたりするなど、トラブルの遠因になることである。
 なぜこんなにも複雑になっているのか。ここには日本特有の事情がいくつか絡んでいることが推測される。さしあたり主な論点を3つ提示できるだろう。以下は、それぞれが独自に作用しているというより、部分的に相互にリンクしていたり、重複したりしている。
(1)「自然宗教」=開祖も経典も教団もない自然発生的な宗教の重視
(2)「神道の国教化」=明治以降、神道を非宗教化したことによる影響
(3)「心学」=江戸時代に始まった儒教的な側面を持つ通俗道徳の流行
 最初の議論の前提として、一般的に、宗教とは、「人知を超えた存在に対する信仰と、それに伴う儀礼や制度」と定義することができるだろう。神や仏といった名指しできるものや、超自然的な力や秩序の存在などを根拠に、生のあり方を説く信念の体系といえる。
 まず「無宗教」を解き明かすうえで、有力な手掛かりを提供してくれるのが、宗教学者の阿満利麿(あまとしまろ)が唱えた「創唱(そうしょう)宗教」「自然宗教」という区分けである(『日本人はなぜ無宗教なのか』ちくま新書)。
 「創唱宗教」と「自然宗教
 「創唱宗教」とは、特定の人物が特定の教義を唱えて、それを信じる人がいる宗教のことで、教祖と経典、教団が三位一体で成り立っている宗教をいう。キリスト教や仏教などの伝統宗教から新興宗教までがその範囲に入る。
 他方、「自然宗教」は、「いつ、だれによって始められたかもわからない、自然発生的な宗教のこと」で、教祖も経典も教団もない。祖霊信仰やアニミズム(精霊信仰)などがそれで、身近な例として厠神(かわやがみ、便所の神)や道端にあるお稲荷さんの祠(ほこら)などがわかりやすい。
 阿満は、「『無宗教』とはいうが実際は『自然宗教』の優越、それが日本人の宗教心の内容」だと指摘する。その代表例に初詣とお盆を挙げる。多数の人々が神社に初詣に出かけ、お盆の時期には故郷に帰る。これこそが「日本人の多くが『自然宗教』の『信者』である証拠」だというのだ。本人たちにその自覚がまったくなかったとしても、お盆の帰省の原点に祖霊信仰がある限り、「『自然宗教』の重要な行事」だと述べる。
前述した通り、「自然宗教」は教祖も経典も教団もない宗教だが、これらは年中行事を繰り返すことで、生活に強弱を付け、心の平安を確保していた。そのため、「とりたてて特別の教義、つまり『創唱宗教』を選択する必要はなかった」と結論づけている。「ここに『創唱宗教』という意味での宗教には無関心で、『無宗教』を標榜してなんら疑わない理由がある」(以上、前掲書)という。
 宗教がその国の慣習、文化に溶け込み、生活の中に定着すると、ことさら宗教ととらえ直す契機が失われるからである。この無意識化こそがかえって強力な宗教として水面下で機能していることの表れであるともいえ、「宗教」と聞けば「創唱宗教」を思い浮かべがちになっている社会背景だと分析している。
 このような「宗教」のカテゴリーに対する認識は、おおむね明治以降に出現している。
 「神道の国教化」という難題
 それが制度として先鋭化したのが、当時の国家による「神道の国教化」政策であった。いわゆる岩倉使節団が欧米諸国訪問で、キリシタン弾圧を激しく批判され、信教の自由を承認せざるをえなくなった後、天皇の支配者としての正当性を築くための神道の国教化という難題にぶち当たった。
 紆余曲折を経て、編み出された苦肉の策が、「神道非宗教説」である。神道を国家の祭祀を担う神社神道と、布教・教化を担う教派神道に分けることで、前者を「非宗教」、後者を「宗教」と位置づけ直したのであった。歴史学者安丸良夫によると、これにより「皇祖・皇統や国家に功績あった人々、また祖先への崇敬」といった「国家的神々の受容と信教の自由とは矛盾しないのだとする」(『神々の明治維新神仏分離廃仏毀釈岩波書店)ロジックが完成したのである。
 阿満の「創唱宗教」「自然宗教」の区分に従えば、神道はもともと「自然宗教」だが、様々な時代において仏教や儒教などの「創唱宗教」の教義を取り込んでいる。さらに厳密にいえば、仏教には祖霊信仰という「自然宗教」が含まれてもいる。明治維新後のおよそ80年もの間、神社神道は、安丸のいう「国家的神々」を崇拝する場として機能し、「宗教ではないが、礼拝の対象」となり、人々の慣習として少しずつ浸透していった。
概念的にも「宗教」の定義に値するのは、キリスト教や仏教など高度に体系化された教義を持つものとされていた事情もあった。加えて、神仏分離と神社合祀などの政策により、「国家的神々」にそぐわない神仏や民間信仰などはことごとく一掃された。そうすると、当然ながら「宗教」が意味するものは、実質的に「創唱宗教」だけとなる。
 わたしたちが「宗教」と捉えるものが、創始者の名前が明らかで組織化された教団があるものとみなしやすく、それ以外のものが意識に上りにくいのは、「自然宗教」の優越や、近代化に伴う「神社神道の非宗教化」などに、その歴史的な起源を求めることができるというわけである。
 「石門心学」という根源的な思考
 しかしながら、これだけでは「無宗教」にまとわりつくグラデーションを解明したことにはならない。概念上の認識や、国家政策の名残に還元できない、根源的な思考がかなり前から人々の生活に存在していた点に目を向ける必要がある。その糸口になるのが、江戸時代に急速に広まった民衆思想。一介の商人に過ぎなかった石田梅岩(ばいがん)が創始した「石門(せきもん)心学」だ。
 「自然のはからい」を重視する古来の文化や、儒教・仏教・神道が対立することなく併存可能とする「三教合一論」などに基づいて作り上げたものだが、評論家の山本七平は、「しかし彼の思想の骨格は、あくまでも当時の庶民のもの」だと強調する(『日本資本主義の精神 なぜ、一生懸命働くのか』PHP文庫)。庶民のための生活哲学、道徳教といわれるゆえんである。
 山本によると、梅岩は、「人間の性=本心は、呼吸のごとく宇宙の継続的秩序と一体化しており、その秩序によって人が生かされているのだから、これは『善』いわば一種の『絶対善』であると考え、それが人間の本心の基本であるから、その本心の秩序通りに各人が生きれば、それがそのまま社会の秩序となると考えた」(『勤勉の哲学 日本人を動かす原理』PHP文庫)という。
 山本は、これを自然的秩序に順応するための一種のプラグマティズム実用主義)だと述べる。梅岩の思想が非常に面白いのは、前記の「三教」が上手く使い分けられており、「いわば神が中心で、規範としての儒があり、仏には儒との合一性を基本とした一種の心理療法的効果しか認めず、いわば『薬効』しか期待していなかった」(前掲書)ところにある。
 要するに、それらは信仰の対象などではなく、「役に立つものが真理」という実用性が重視されていた。梅岩は、キリスト教的な唯一絶対神は信じてはいないが、各人が自然的秩序を体現する「内なる仏性」(「人間性」とも言い換えられる)を持っており、儒教的な「天」という非人格的な宇宙の秩序を信じていた。「すなわち宇宙の秩序と内心の秩序と社会の秩序は一致しているし、また一致させねばならない、という発想」(『日本資本主義の精神 なぜ、一生懸命働くのか』)であった。
 その根本から大きく外れていなければ、「三教」も、他の宗教や外来思想も「薬=方法論」として取り入れたというわけである。ここに山本は、「七五三は神社で、結婚は教会で、葬式はお寺で、でいっこうに差し支えない」といった日本的価値観の源流をみる。
 前出の安丸も山本の説に近く、梅岩を「極度に唯心論的」と論じている(『日本の近代化と民衆思想』平凡社ライブラリー)。梅岩がキツネやタヌキが人を化かすといった呪術を否定したエピソードを紹介し、これを「『心』の無限性・絶対性」を信じる「唯心論」の裏返しと考えた。
 取り上げた論点はほんの一部に過ぎないが、このような多面性を踏まえると、「日本人は無宗教である」という紋切り型の論評は、留保が必要といえそうだ。
 信仰や信心は身近なところにある
 もちろん「宗教」概念をめぐる問題もあるが、歴史的経緯を一瞥しても、簡単に判断を下せるものではないことが理解できるだろう。特に明治以降、宗教由来のある価値観が、ある時期を境に非宗教的な装いを施され、知らないうちに生活の中に根を下ろしていった例、あるいは「神」や「天」という文言が消えただけで、内実はそれらの秩序を暗黙のうちに序列化して、社会関係を拘束している例は枚挙に暇がない。
 重要なのは、多かれ少なかれ信仰や信心は身近なところにあり、わたしたちが思っている以上にわたしたちの深層で作用しているということだ。筆者は、たまたま宗教2世であったために自分が何を信じているのか自問する必要に迫られることが多かった。今もその過程にあるといえるが、すべてを把握することの困難さを感じてもいる。日常生活でそのような機会は滅多に訪れるものではない。
 けれども、わたしたちを突き動かしているもの、価値判断の拠り所としているものが、どこからやって来たものかを知ろうとすることは、自分たちの社会に底流する「何か」について再発見を促す好機になるだろう。
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 nippon.com「宗教から日本を読み解く
 日本人と宗教―「無宗教」と「宗教のようなもの」
 社会 文化 暮らし 2014.03.03
 島薗 進 【Profile】
 しばしば、日本人は無宗教といわれるが、実際はどうなのか。「宗教のようなもの」という観点から、日本人と宗教の関わりを読み解く。
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 大きな反響を呼んだ『日本人はなぜ無宗教なのか』
 1996年に宗教学者・阿満利麿(あま・としまろ)氏が『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書)という本を出した。これは英語や韓国語にも翻訳されるなど非常に大きな反響を呼んだ。阿満氏によると、日本人は無宗教だと言われてはいるものの、それは「創唱宗教」と比較しているからではないかという。創唱宗教とは、特定の教祖がいて明確な教義を持つ宗教を指す。キリスト教にはイエス・キリストが、仏教にはゴータマ・ブッダが、イスラム教にはムハンマドという教祖がいる。他方、ヒンズー教神道には特定の始祖がいない。また民間信仰にも特定の始祖は存在せず、いわば無名の人たちによって自然に実践されてきたものである。
 日本の宗教は創唱宗教から大きな影響を受けてきた。6世紀に流入した仏教は、19世紀の中ごろまではもっとも影響力の大きい宗教であった。今でも日本人の多くは仏教の様式でお葬式を出し、あるいは仏像に親しみ、中には阿弥陀仏観音菩薩地蔵菩薩を見分けることができる日本人もいる。毎年お墓参りをする人は国民の過半数を大きく超えており、墓前で手を合わせるのは仏様への礼拝の方法である。 
 19世紀の後半からは、そこにキリスト教の強い影響が加わった。しかし、学校や学問を通してキリスト教が及ぼした文化的影響は大きいものの、宗教集団としてのキリスト教は日本の全人口の1%程度にとどまっている。神道に目を向けると、中には創唱宗教になったものがある。19世紀の中ごろに中山みきという農婦が始めた天理教がその一例だ。新宗教の中には神仏習合の宗教の影響を受けたものが多い。19世紀の中ごろまでは神道といっても仏教と切り離せないものが圧倒的に優勢であり、それほど仏教の影響は大きかった。
 自然宗教がベースとなった日本人の信仰
 しかし、上記のように創唱宗教の影響もある程度はみられるが、概して日本人の信仰のベースは自然宗教だと阿満氏は述べている。人々は土地や家の神々を礼拝するが、教義はあまり発達していない場合も多い。「無宗教」とは何かを考えてみると、広い意味で神道といえるかもしれないし、民間信仰といえるかもしれない。まずは自然宗教の影響があり、その後に創唱宗教の影響を受けたにもかかわらず、それがしっかりとは根付いていない。そのため強い創唱宗教に出会うと何か戸惑ってしまい、自分は創唱宗教にはなじめないと考える日本人は多い。それが、狭義の「宗教」(創唱宗教)を信じていないという意味で、多くの日本人が自らを「無宗教」と言う理由になっている。
 これが、阿満氏の『日本人はなぜ無宗教なのか』の主な論旨である。同書が刊行されたのは1996年。前年の1995年にはオウム真理教事件があった。同教団の信徒には20代の男性、とりわけ大学生や大学院生が多く、コンピューターグラフィックスや医学、自然科学などの高度な専門知識を備えた若者たちもいた。彼らがオウム真理教に傾倒していったのは、日本が「無宗教」だったからだろうか。
 この問いに、阿満氏は「自然宗教」の存在を説くが、自然宗教は必ずしも昔のものではない。自然宗教自体は原始人以来の宗教であり、それがもっと発達して崇高な智慧をもつ段階になって生まれたのが創唱宗教だという考え方もある。世界の文明はこの高等な創唱宗教に基礎づけられて進んできたという理解である。日本でいえば、自然宗教というのは仏教が入ってくる前の宗教を指す。
 神道自然宗教に近い宗教ともいえるだろう。1980年代にオウム真理教がマスコミで騒がれるようになる前、「アニミズム」という言葉が流行していた。神道というと、何か日本のナショナリズムと結びついて外国人を排除するようなニュアンスがあるが、神道アニミズムと表現すれば印象が変わってくるだろう。日本という国家ができる以前、古代からあった神道を「古神道」というが、日本人の中には自分の中に根付いているものはそのようなものではないかという考え方も見受けられる。しかし、宗教学の専門家からすると、そうした考え方は現代人が都合よく考え出したものにすぎないと感じられる。
 「宗教のようなもの」としての儒教
 日本人の宗教について、以上のように、無宗教自然宗教かということで日本人の特徴を捉える考え方がある。もう一つの見方として、「宗教」そのものにはなじみの薄い日本人でも「宗教のようなもの」にはいろいろな形で親しんでいることに着目することもできる。
 たとえば儒教だ。日本人は礼儀を大切にする。日本人は誰に対してもお辞儀をするが、これは儒教の影響が大きいと考えられる。また、日本人は敬語を使う。中高生や大学生でも先輩に対する言葉遣いと後輩に対する言葉遣いが大きく異なるが、それは「長幼の序」を重んじているからだ。死者への礼を尊ぶのも儒教の特徴である。葬式や墓参りは仏教の領分だと述べたが、実はそこに儒教の影響が加わっているともいえる。儒教が「宗教」であるかどうかは、「宗教」をどう定義するかによって異なるが、「天」の「命」を尊ぶこと、祖先から子孫へと受け継がれる命の連続を尊ぶこと、儀礼によって聖性を付与された秩序を尊ぶことなどに宗教性を見る立場がある。また、東アジアでは「道」という言葉が西洋由来の「宗教」にあたる言葉だと考えられる。17~18世紀の日本人にとっては、仏教も儒教も人に「道」を教えるものであった。
 漫画『バガボンド』に見る「孤独」-「道」に惹かれる現代日本
 儒教は「宗教のようなもの」の代表的な例だが、明治維新以降、現実社会では見えにくいものになってしまった。しかし、他にも「宗教のようなもの」の例は多い。たとえば、漫画『バガボンド』(井上雄彦作、講談社刊)は、2013年10月までに36巻刊行されており、1998年に雑誌で連載開始以降、発行部数は国内6000万部以上にのぼる。主人公は16~17世紀の武士、宮本武蔵で、彼は浪人の身ながら剣術の達人であり、また武士道の書も著した人物である。原作は1935年に吉川英治が新聞で連載した小説『宮本武蔵』。小説は人気を博し映画化もされた。
 2013年10月に刊行された『バガボンド』第36巻(井上雄彦作、講談社刊)Ⓒ I.T.Planning,Inc.
 なぜ、これが現代の若者に人気なのかというと、一つには「孤独」が印象的に描かれていることがある。『バガボンド』の主人公は武士だが、主を持たない浪人という身分のため、ある意味では自由である。故郷を離れて全国を歩きながら戦い、あらゆる強い敵を見出して戦いを挑んでは勝ち続ける人生だ。そして、勝つ時はいつも命がけである。よって、死というものを常に意識せざるを得ない。主人公は生きていることの意味が分からないと感じており、絶えず敵に勝たなければならない意味や、敵と戦うこと自体の意味を自問しながら生きている。勝つということ自体が目的になっているという世界観が、現代人の心にも強く訴えかけてくるようだ。
 2003年公開の米映画『ラストサムライ』などの影響もあって、近年では武士道という言葉の人気が高まっている。武士道とは、命を賭けて戦い、主君のためには命を投げ出してもかまわないという覚悟で毎日を生きる世界だ。絶えず死を意識するということが重要な要素となる。そのような思想系譜に人々は強く惹かれるのである。何のために生きているのかということの手がかりを探して、武士道に一つのヒントがあると感じているようにも思われる。こうしてみると、日本人の中には、宗教自体には距離を感じてしまう人でも、「道」といわれるといろいろな形で関わってくる人が多い。
 たとえば、東京大学の宗教学科に進学している学生の多くは音楽や芝居などの芸術に親しんでいる。また、合気道弓道といった武道をしている人も非常に多い。筆者がこれまで接してきた例では、高校や大学に入ってから武道に親しんで、武道で感じたものを深めたいということで宗教学科に入ってきたという学生がかなりいる。若い層ばかりでなく、晩年になって陶芸をしたり、茶道をしたりするなど、技芸の道に入って心の安定を求める人も多い。捉えどころのない、漠とした「宗教」を極めようとするのではなくて、もっと身近な「技」や「道」を通して心の平安を求めようとするのである。具体的で身近なものを通して精神的な価値を身に着けていこうとするのは、日本文化の一つの特徴であるといっていい。
 学校で広められた「国家神道
 このように、日本人にとっては「宗教のようなもの」が多くある。そのため、「宗教」であると自覚されにくいものがある。その中でもっとも影響力が大きいのは、「国家神道」だろう。1945年まで、日本の学校では「教育勅語」が尊ばれていた。1890年に当時の明治天皇が、教育の根本精神について国民に授けた聖なる教えである。この後、小学校は天皇の聖なる教えに導かれる場となっていった。それから敗戦までの数十年の間に多くの日本人が神道的な拝礼に親しんだ。伊勢神宮や皇居を遙拝し、靖国神社明治神宮に詣で、天皇のご真影と教育勅語に頭を垂れた。これが国家神道と呼ばれるものだ。この時期には、学校教育を通じて大半の日本人が国家神道に慣れ親しんだといえよう。
 1920年代前半に生まれた筆者の両親の世代は、2月11日の紀元節(※1)に小学校で歌われた次のような唱歌紀元節の歌)を、大人になってからも憶えて口ずさんでいた。
 雲に聳(そび)ゆる高千穂の。高根おろしに草も木も。なびきふしけん大御代(おおみよ)を。仰ぐ今日こそたのしけれ。
 子供たちは「高千穂」とは天照大神アマテラスオオミカミ)の血を引く天孫迩迩藝命(ニニギノミコト)が天下った日向(ひゅうが/宮崎県)の山であると教えられた。「大御代」はニニギノミコトの子孫である万世一系天皇、つまり皇祖皇宗を継ぐ天皇による治世を指す。しかし、この唱歌の中心場面は日向ではなく、後に出てくる飛鳥(奈良県)である。飛鳥といえば7世紀ごろに歴代天皇が都を築き、天皇家の支配が確立した地だ。この唱歌の3番は初代天皇である神武天皇の即位について述べている。 
 天津ひつぎの高みくら。千代よろずよに動きなき。もとい定めしそのかみを。仰ぐけふこそたのしけれ。
 「天津ひつぎ」とは天照大神の神勅によって皇位を継承する者、「高みくら」は天皇玉座を指す。「もとい定めしそのかみ」とは、神武天皇が最初の天皇として祭政一致の統治を始めた原初の時のこと。この神話的存在である神武天皇が即位したとされる場に橿原神宮奈良県に創建されたのは1890年で、教育勅語が発布された同じ年のことだった。
 奈良県橿原(かしはら)市にある橿原神宮
 国家神道は神社よりもむしろ学校で広められた。紀元節に限らず戦前の祝祭日は、おおかた皇居で重要な天皇の神事が行われる日だった。皇室神道神社神道・学校行事が国家神道の主要な儀礼の場であり、子供たちは教育勅語や修身科、歴史といった授業を通して、国体思想や天皇崇敬の教えに親しんでいった。
 国家神道のたどった歴史
 神道についてよくある誤解は、神道とは神社と神職とその崇敬者の宗教だとする考え方だ。これは神道に対する理解としてはあまりに狭すぎる。実は天皇崇敬こそ国家神道の主要な牽引役だったのだ。国家神道は神社以外の場、とりわけ近代国家の国民になじみが深い学校や国民行事、あるいはマスメディアを通して広められた。それは江戸時代に形作られた国体思想をより所とし、国民国家とともに形成された神道の新しい形態ともいえる。
 「国体」とは、広い意味では「国家の政治体制」を意味するが、日本(特に戦前の日本)では、「歴史の始まりから天界の神が遣わした神の子孫である天皇の家系が、変わることなく国民を統治してきた神聖な国家体制」という特別な意味を持つ。そして、この国家体制を持つが故に、日本は世界の諸国にも勝るという信念をも表す言葉である。
 では、神道の長い歴史のなかで国家神道はどのような位置をもつのだろうか。民間の神道神道とも言えないような不定型な民俗宗教と地続きであり、その起源がいつなのかを示すのは難しい。有史以前の弥生時代縄文時代に由来するものもあるかもしれず、これを「古神道」と呼ぶ人もいる。だが皇室神道となると、ある程度その起源を見定めることができる。
 まず、7世紀の終わりから8世紀の初めごろ、天武天皇持統天皇らの時代に唐の国家体制にならって国家儀礼や法体系が整備され、皇室神道の基礎は確立した。しかし、中世の日本では仏教が優勢であり、皇室神道は地域住民の生活とは関わりが薄い目立たぬものになっていた。これを国家の中心に据えようとするのが国体思想や祭政一致論で、江戸時代末期に次第に高揚し明治国家の基本理念となった。
 戦前から戦後へ、国家神道の大転換点
 そして、明治から第二次世界大戦中まで、政府(文部省)は、天皇を崇敬する神道は日本人の習俗であって宗教ではないとした。このため、仏教を信仰していようとキリスト教を信仰していようと、すべての日本国民が神社や学校での国家神道儀礼に参加することを強制された。なお、天皇崇敬の神道とは別に独自の教義を持つ神道宗派は「教派神道」と呼ばれ、宗教として扱われた。
 第二次大戦後、日本を占領統治した連合国軍総司令部GHQ)は日本の軍国主義超国家主義が宗教のあり方と深く関わっていたと考えた。とりわけ政教分離が不十分だった点に大きな問題があったとして早急に手を打とうとした。日本人を無謀な侵略戦争に導いた宗教とイデオロギーの悪影響を取り除かなくてはならないとの判断がそこにはあった。そこで1945年12月15日、いわゆる「神道指令」が、1946年1月1日には昭和天皇による年頭勅書で天皇の神格化を否定する「天皇人間宣言」が下された。
 これをもって国家神道は「解体」されたと理解されてきた。しかし、戦後も皇室神道はおおむね維持された。その後、皇室神道神社神道の関係を回復し、神道の国家行事的側面を強めようとする運動が活発に続けられてきた。そうした広い意味で1945年以後も国家神道は存続している。国家神道はもともと天皇崇敬と結びついた民間の運動に支えられてきた。戦後は民間団体となった神社・神職組織(神社本庁)が国家神道運動の主要な担い手の一つとなった。戦前に比べ薄められてはいるものの、「神の国」の信仰を受け継ぐ国家神道は今もなお多くの支持者を集める。それも信教の自由に属するが、他者の思想信条の自由を抑圧しない範囲にとどめなくてはならない。
 憲法20条「信教の自由」が果たす役割
 戦前の歴史を振り返れば、国民が否応なく国家神道への関与を強いられ、思想や信教の自由を失いかねないという不安にはもっともな理由がある。日本国憲法第20条は「信教の自由」を規定する。第1項「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、 又は政治上の権力を行使してはならない」、第2項「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」、第3項「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と定めている。つまり、誰も国家神道に従うことを強制されてはならないし、国家が神道に特別な地位を与えることがあってはならないことを憲法上明らかにしているのである。
 安倍晋三首相が2013年12月26日に靖国神社を参拝し、あらためて靖国神社の持つ意味がクローズアップされているが、もし靖国神社を国家の公式儀礼施設とするようなことがあれば、それは国民を宗教的な天皇崇敬に駆り立ててきた戦前の体制に近づいていく意味を含むものである。国家神道強化に歯止めをかける上で、憲法20条の規定が果たしてきた役割は重い。無宗教といわれるほど宗教になじみの薄いことが多い日本人だが、国家神道の例に見るように、日本においても宗教は社会や国家と非常に密接な関係にある。その点は見過ごすべきではないだろう。
 タイトル写真=京都・八坂神社の初詣で絵馬や破魔矢を買い求める人々(写真提供:アールクリエイション/アフロ)
 (※1) ^ 1872年(明治5年)制定。2月11日が、日本書紀にある神武天皇即位の日にあたるとして定められた祝日。1948年に紀元節は廃止となり、1966年からは「建国記念の日」として国民の祝日となった。
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 島薗 進SHIMAZONO Susumu経歴・執筆一覧を見る
 上智大学神学部教授、グリーフケア研究所所長。1977年東京大学大学院博士課程単位取得退学。筑波大学哲学思想学系研究員、東京大学文学部宗教学宗教史学科助教授、同大学院人文社会系研究科教授などを経て、2013年から現職。主な著書に『日本人の死生観を読む』(朝日新聞出版、2012年)、『つくられた放射線「安全」論』(河出書房新社、2013年)、『倫理良書を読む』(弘文堂、2014年)など。
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