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・ ・{東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本神道は、多神教として、道教、異民族神話、仏教、東方キリスト教のネストリウス派、ゾロアスター教などを内包している。
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日本の過酷な自然環境では、非常に不条理がまかり通っていた。
人の為に尽くそうが、良い行いをしようが、災害から逃れることは出来ない。
悪人が生き残る事もあれば、善人が死ぬ事もある。
日本では、災害がなくなるという奇跡は起きず、災害から救われる事もない。
不条理な自然環境の中で生き抜く為に、諦めて災害を受け入れ、人としての良心を信じて前に進むしかなかった。
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日本神道の八百万の神とは、原始宗教として生まれて現代宗教として奇跡的に残っている自然の精霊信仰と地母神信仰である。
言葉や文字で観念的な教理・教義にまとめる事ができない、自然物や自然現象に恐怖と敬意を抱く自然信仰。
長い年月の風雪に耐え朽ち果てないモノ、人の力では克服できないモノ、人が死んでもそこに存在し続けるモノに対し、人智を越えた底力への畏れ。
姿形の美しい若しくは奇っ怪な形をした、大く高い山、巨岩、巨樹、大きな川若しくは狭い川の激流などに、精霊の姿を見、精霊の霊力を感じた。
日本神道は、人智の及ばない底力を持ったモノに精霊を神として崇めた。
神を心で感じる事で、親しみと温かさで癒やされ慰められ励まされ、心を平安に保ち安どし、日々の安心や安全を得た。
それは、観念的理屈ではなく情念的感応である。
感じる者には感じ、感じない者には感じない。
神の座を清浄に保つべく祓い清め、有りの儘の美しさを護る為に、我欲に固まった穢れた心卑しい人間の立ち入りを禁止した。
縄文時代の主食は肉食であったが、弥生時代の主食は米であった。
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本居宣長は、善き神も悪しき神も等しく祀る事こそ神道の真髄であり、善人も悪人も分け隔てなく弔い慰霊する事が惟神の道であると説いた。
「神は、理の当不(あたりあたらず)をもて、思ひはかるべきものにあらず」
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日本には、日本古来の文化や伝統や宗教や習慣はほんのわずかでしかなく、大半が海の向こうから外国人によって伝えられていた。
日本の文明や文化は外国から輸入したもので、日本人の心や精神は外国人から教えられたモノである。
日本列島にあったのは、光と水と緑の自然だけであった。
列島には、日本はなく、日本人もなく、日本らしさもなく、何もなかった。
では、日本とは何なのか?日本人とは何なのか?
全てが、海の向こうから流れてきた。
そこには、ナショナリズムを満たすオリジナルティーはなく、安心できるアイデンティティーもない。
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日本は多神教として、神仏習合の思想で、古来の八百万の神々と外来宗教の仏や神を受け入れて神社や寺院で祀った。
「本地垂迹説」
日本の天皇中心神話は、ギリシャ神話からメソポタミア神話や東南アジア諸神話そして揚子江流域神話など数多くの神話との共通点を持つ、雑種性の強い民族中心神話である。
閉鎖的日本神話からは、朝鮮(韓国)神話や黄河流域神話は排除されている。
高天原が朝鮮半島にあるはずがなく、あるという者は何も理解できない無知な馬鹿である。
天皇の重要な祭祀は、無私無欲で、国民が飢えることなく安寧に過ごせるように、祖先神と自然神に五穀豊穣の祈りを捧げる事である。
つまり、天皇の御稜威・大御心とは国を護り民族を守る事につきる。
農耕漁労の日本民族は、祭祀王の天皇を中心とした相互補完共生による隣保扶助の運命共同体を形成していただけに、世界中の農耕民族とは違って限られた農耕地をめぐる殺し合いは少なかった。
天皇神話による神道は、如何なる「血」も穢れとして忌み嫌った。
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聖武天皇は、東大寺を建立し大仏を鋳造するにあたり、帰化系の神様であった宇佐八幡から八幡神を守護神として招き、鎮守の神として手向山八幡宮に鎮座させた。
大仏殿の西にある勧進所には、仏僧の姿をした「僧形八幡神坐像」が安置されている。
神の裔・天皇の権威によって、日本古来の在来神とインド生まれの外来仏の習合と分裂を繰り返すという曖昧関係が解消され、神仏一体化で宗教対立は消滅した。
八幡神を東大寺に招いたのは、八幡神を信仰していた最先端の鋳造技術を持った帰化人系熟練技能者の手助けを必要としたからであった。
朝鮮半島や中国大陸に比べて日本には、鋳造技術など多くの最先端技術や高度な技術がなかった。
神仏習合の真の目的は、日本列島に住む日本人と帰化人・渡来人とを和合させ、他者に対する偏見をなくし、違う事で起きる排除・排斥などの差別をなくす事であった。
多様性で宗教対立を消滅させ平和的に共存共生させえたのは、神の血筋を有し絶対中立性を体現する天皇の美徳があったっばこそである。
司馬遼太郎「八幡様の大本は大分の宇佐八幡宮なんだ。もともと渡来系の神様で、宇佐の境内はちょっとエキゾチックな感じがするね。その八幡様が清和天皇のときに飛んできて、京都の石清水八幡宮ができた。さらに鎌倉に飛び、鶴岡八幡宮に鎮座された。神様って移動されるんだよ」
「いまも八幡神は仏教のお経を聞いている。場所は、奈良の東大寺である。ここに、8、9世紀からと思われる『八幡殿講問』とい、ふしぎな法要がつづいている」
「法要のなかでは『和光同塵(わこうどうじん)』を略して『和光』という言葉が出てきます。華厳には、1つの塵の中に塵の数ほどの世界があるという考え方があります。和光同塵はもともとは中国の道教の言葉です。仏が威光をやあらげ、世塵に舞い降りてくる。世俗の世界に現れ、私達を救うといった意味ですね。ひらたくいえば、『八幡神よ、あなたは和光同塵の論理によって、仮りに仏になり給うたのです』ということになる」
上司(かみつかさ)永照(東大寺教学執事)「(上司)海雲から、東大寺のおおらかさも感じられていたと思いますよ。融通無碍も華厳の言葉ですね。2つ以上の異なるものが、お互いに関係しつつ妨げない。神も仏もどちらが上ではなく、どちらにも親しみを持って、この司馬さんの文章はできているのかなと思います」
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2016年1月22日号 週刊朝日 「宗教と日本人を語る司馬さんの気迫 山折哲雄
……
司馬さんは『この国のかたち』の冒頭で、『日本人は、いつも思想はそとからくるものだともっている』と書かれています。なぜそうなのか。(対談は)そこから入っていったと思います。東大寺の境内を歩くたびに『日本の思考の形の一つはここからはじまったとおもわざるをえない』と表現したのは、日本の国づくりの出発点が東大寺にあると思われたからでしょう。聖武天皇時代につくられた東大寺は普遍思想の中心にあった。普遍思想は国づくりの基本中の基本です。明治維新直後に伊藤博文はヨーロッパで政治、経済、宗教、文化などのシステムを勉強して、明治近代国家の青写真を描き始めます。そのときにヨーロッパ近代社会を支えるキリスト教に当たるものは日本の伝統的な宗教にはないと思って皇室の問題を持ち出した。『大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す』という明治憲法の第一条を出して、伊藤は枢密院かどここで演説しています。この演説の内容に国学派が乗じて廃仏毀釈の考えを打ち出す。私は宗教的権威を巧妙に天皇権威に結びつけたことが、後の統帥権問題に関わってくると思っています。この統帥権問題で日本は大きくつまずくわけです。
……
司馬さんは『空』の思想を常に求めていた。その人間の原風景を求めて、モンゴルやアイルランド、東北といった辺境の地に足を運び、旅をされたのだと思っています。それと『海』ですね。『この国のかたち』の最後は歴史における海軍。小説の主人公も坂本龍馬をはじめ西郷隆盛など黒潮文化の影響を強く受けた人が多い。権威に対抗する黒潮文化圏が司馬さんは好きだった。日本民族の源流は黒潮にのって旅をつづけてきたと考えられていたのではないか」
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平安時代末頃 日本で、人類史上あり得ない様な常識離れした宗教大変革が起きた。
それが、「神仏習合」である。
密教は、インドの仏教がヒンドゥー教やゾロアスター教などの異教を教義や宗教儀式に取り入れる事で誕生し混合仏教であった。
密教は日本に伝来し、空海の真言宗と最長の天台宗として広まった。
宗教界・精神界の越えがたい排他的垣根を消滅させて何となく混ぜ合わす霊力を持つ密教は、日本で独自の発展を遂げ、日本のみで開化した。
密教は、この世とあの世に無限に存在する仏と日本の八百万の神々を曼荼羅という一つの中に取り込み、外来宗教の新層と在来宗教の古層を和解させ、両者が対等な関係で並立できる様に異化のまま調和をもたらした。
普遍宗教の発展に伴う異教に対する態度は、敵対宗教として根絶するか、下級宗教として吸収し同化して消滅するかであった。
皇室神道の天照大神系伊勢神宮と神社神道の大国主命系三輪神社は、異なる宗教との対立やもめ事を避け、お互いの得意神域での棲み分けをする為に神仏習合を受け入れた。
こうして、日本から、抜き差しならぬ不寛容な教義の優劣を争う神格論争は消滅した。
その重しとして置かれたのが、神聖不可侵の神格を持った祭祀王・天皇制度である。
その証が、日本(中心)神話の皇室に流れる神代から続く血筋である。
神仏習合できたのは、神道も仏教も多神教であったからである。
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日本中心主義は、寄せ集めに過ぎない。
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歴代の男系天皇は、日本国家と日本民族の安全と発展を祖先神・天皇霊に祈り続けた。神代から続いている万世一系の男系天皇の最重要な国事とは、そういう事である。そしてこの国事は、血がつながっている男系天皇しかできない、神聖な国事である。
現代の反天皇派日本人であるマルクス主義者日本人は、「血」を根拠とした行為は非科学的であり、無意味であるとして完全否定している。
吉田兼好「唐(元・中国)からのものは、薬の他はなくても、不自由はしないだろう。書籍は国内にすでに充分に広まっているから、書写すればすむ。困難な海路を渡って無用なものをわざわざ運び込むのは、愚かな事である。『遠くにあるものを宝とせず』とか、『得難き宝を貴ばず』などという言葉もあるということだ」(『徒然草』第120段)
常識ある島国のサムライは、日本を侵略しようとしている大陸と半島との友好を好まなかった。戦わない為に人的交流を盛んにするという考えを、愚劣な欺瞞であるとして最も嫌悪した。
島国日本は、中国と朝鮮と手切れをして、自己の意識でアジア文明世界から孤立した。
金儲けを企む欲得な個人的日本人は、国禁を破り、同胞の血が幾ら流され、多くの同胞の命が奪われようとも、同胞の犠牲者を愚か者とせせら笑いながら半島や大陸との行き来を続けた。
そうした日本人は、何時の時代にも存在して大金を手にして、裕福な暮らしを満喫していた。
だが、そうした「不誠実」な忠誠心なき日本人を、「誠」を第一とするサムライは最も憎んだ。
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三種の神器の「勾玉」は、胎児がモデルと言われている。
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第14代仲哀天皇(192〜200年。日本武尊の第二王子)皇后・神功皇后の、父は第9代開化天皇玄孫・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は天日矛裔・葛城高?媛(かずらきのたかぬかひめ)である。ただし、母方の祖先は朝鮮からの帰化人とされている。
夫の仲哀天皇と共に、大和朝廷に刃向かう北九州の豪族を討伐し、反大和勢力の後ろ盾となっている朝鮮諸王朝を懲らしめるべく軍隊を集結させた。
仲哀天皇の急死後、住吉大神の神託により、妊娠(後の応神天皇)したまま海を渡って朝鮮半島に出兵した。
新羅は、倭国軍と戦わずして降服し、「倭国の犬」となり朝貢する事を誓った。
高句麗と百済も、倭国軍に敗れ、「倭国の犬」を誓って朝貢を約した。
世に伝わる、三韓征伐である。
神功皇后は、朝鮮王族の血筋ゆえに、朝鮮を征服し統治する権利がある。
朝鮮征討を成し遂げて帰国して、第4皇子応神天皇(270〜310)を生んだ。
大和で。香坂皇子や忍熊皇子が、神功皇后とその日嗣の御子(応神天皇)に対して反乱を起こした。
畿内の豪族達も、朝鮮の血を引く神功皇后に不満を持ち、大王家・皇室の血筋から朝鮮の血を排除する事を大義名分として反乱に参加した。
神功皇后は、武内宿禰や武振熊命の助けを借りて反乱を平定した。
敗れた豪族達は、神功皇后の呪術に恐れおののき、神功皇后を「祟る神・鬼」として敬い従った。
『日本書紀』では、201年から269年まで、摂政として政事を執り行なったとされている。
神功皇后は恐ろしい「祟る神・鬼」とされて、武内宿禰と共に住吉大社三大神の1柱(祭神)として、さらに応神天皇と供に宇佐八幡三神の1柱として、人々の信仰を集めている。
日本の信仰の一つに、祟りを起こして自分や家族や社会に災いをもたらす「怨霊・鬼」を信仰するという形態がある。
優れた天皇や皇族は、死後、霊力の強い世にも恐ろしい「祟り神・鬼」に変身すると信じられていた。
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第15代応神天皇14年(435年頃) 西域の弓月君の子孫とされた秦氏一族は、最先端技術を持った職人集団として日本に渡来し帰化した。
秦氏は、東方キリスト教一派であるネストリウス派(景教)の信者とされている。
中国では、景教を大秦教といい、キリスト教会を大秦寺と呼んでいた。
山城国(現在の京都)を本拠地として定着し、広隆寺を氏寺とし、伏見稲荷大社や松尾大社に氏神を祀った。そして。秦の始皇帝を大酒神社に、ダビデ王を大避神社に祀ったといわれた。
秦河勝は、第33代推古天皇(女帝)の御代に聖徳太子(第31代用明天皇の皇子)に仕えた。
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712年 第43代元明天皇(女帝) 『古事記』は、キリスト教の「父と子と精霊」という三位一体説と同じ、アメノミナカヌシとタカミムスビとカミムスビという原初三神あるいは造化三神の三柱の神、アマテラス(天皇家の祖先神)とツクヨミとスサノオの三貴子の神話を書き記した。
アマテラスは太陽である昼を、ツクヨミは月である夜を、スサノオは荒ぶる神として混沌を、それぞれ支配した。
720年 第44代元正天皇(女帝) 『日本書紀』は、ペルシャ人の吐火羅と舎衛が渡来して「善(光)と悪(闇)の戦い」という二元論を教義とするゾロアスター教(拝火教)を伝えたと記述している。
そして、第37代斉明天皇(女帝)は彼等を歓迎して盂蘭盆会を行ったと記している。
神の裔・万世一系の男系天皇(直系長子相続)は、これらを基にした天孫降臨神話で日本の正統な統治者とされている。
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736年 『続日本紀』「天平8年1月、聖武天皇は中臣朝名代に従五位下を授け、遣唐使の随員達の労をねぎらわれ、景人皇甫、波斯人李密医らに位を授け」
第45代聖武天皇の后光明皇后(藤原不比等の娘)は、景教からイエス・キリストの慈愛を教わり感動し、進んで病に苦しむ老人の腫れ物に口を付けて膿みを吸い出し、自らの手を汚し汗をかいて慈善活動を行った。
大家族主義における皇道の根本は、自己犠牲的な利他と他愛で、人と人の絆を大事にするやむにやまれない「慈愛の心」である。
この時までの古代神道や古代仏教において、他人を平等・公平に扱う慈善活動は存在しなかった。
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現代の天皇制度廃止論者は、民族の「絆」を持たないだけに、神の裔・天皇の神話と歴史と慈愛の心を完全否定する。
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島国日本は、逃げ出せない自然災害が多発する過酷な閉鎖空間で、倶に生きて死なねばならぬ定めゆえに、円滑な人間関係を続ける事に心を砕き、相手に配慮する「お詫びの文化」と「おもてなしの文化」を生み出した。
「お詫び文化」と「おもてなしの文化」の核は、「和」の心である。
「言い訳」も「説明」もせず自分を殺して相手を受け入れ相手に尽くしきる覚悟が、真の「お詫び文化」と「おもてなしの文化」と言える。
ゆえに、上下関係を絶対視する儒教価値観に支配された東アジア世界では全く通用しなかった。
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日本神話は、上下関係なき家族主義に基ずく国産み神話で、島の誕生から始まる。
日本は、奴隷なき農耕漁労の島国として歴史を紡いできた。
世界の普遍宗教の多くは、神聖な上下関係に基ずく創世神話で、大地の創造から始まる。
世界は、奴隷所有を前提とした遊牧狩猟の大陸国として歴史を刻んできた。
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閉鎖的島国世界に生きる事を定めとされた日本民族は、強欲になりありとあらゆるもの全てを独占する事を邪な心とし、個人欲を抑えて公平に分け合う為に「足るを知る」を信条とした。
逃げ出せない閉塞空間の抑圧された生活では、私の権利と自由を優先する個人主義は忌避され、公という御上を優先する集団主義にならざるを得なかった。
公益を重視する日本的生き方は、有り余る物に囲まれた豊かさよりも物はなくとも心の豊かさを求めた。
金銀財宝を貯め込み豪華な家具調度を揃えるゴージャスな生活ライフよりも、持ち物を最小限にした貧弱な生活の中で心の有り様を重視した生活様式を追求した。
日本文化における幸福感とは、殺風景な閑散とした空間で、心細いほどに物がないなかで味わう空虚さである。
狭い土地から離れられない宿命にある為に、赤裸々な生での人と人が心で絆を結ぶ事が大事であった。
同時に、土足で相手の心を踏みにじらない様に、醒めた目で一歩下がって間合いを取った。
それは、相手の生活空間に土足で踏み込んで騒ぎ立て、相手の心に忖度せず押しかけて情熱を振りまく意欲的な人間からすれば、冷たく薄情に映る。
開放的大陸空間では、ありとあらゆるモノを所有する独占欲と、ない物は行って奪ってくるという征服力は、社会の発展と生活の豊かさをもたらすとして奨励した。
身動きできない島世界では、美しい自然に育まれ愛しい家族に囲まれて生きる事のみを、それだけを無上の喜びとした。
限られた島国であるだけに、今そこにあるモノを如何にそのまま明日に残し伝えるか、その一点に叡智を絞った。
国境を持たない大陸では、今そこが破壊され荒廃し不毛となろうとも気にもせず、踏みとどまって再生の為に努力もせず、明日は別な穏やかで豊饒な土地に移住した。
もし、そこに先住民が生活していたら、親しげに生活の場に入り込み、相手の迷惑を気にせず陽気に騒ぎ立て、乱暴狼藉をおこない征服者として奪い取り、先住民を追い出すか奴隷とした。
それが、大陸史における不撓不屈の開拓精神であった。
故に、人類史では征服と略奪を正当化する個人主義が正道とされた。
大陸の古代文明とは、現代とのつながりが断たれた、破壊と荒廃の亡びた文明である。
人を寄せ付けない不毛な大地に、生命力を失った人工的な遺跡が無惨な残骸として残っている。
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日本民族とは、祖先を神として祀り、祖先神を信仰する、民族中心宗教を共有する民族である。
普遍宗教の様な万民が理解できる教義・教理を持たないだけに、日本民族以外では理解されないどころか、未開な野蛮な自然宗教として忌避された。
神道的日本人は、子供の無邪気な笑顔を至極の宝とし、その笑顔が消えないように、自分を犠牲にしても、あらん限りの努力を払って守った。
子供を生まれたばかりの若々しい生命力に溢れた存在として大事にし、子供には希望に満ちた未来があるとして大切にした。
親は、自分を犠牲にしても、自分の命を捨てても、我が子の命を助けた。
祖先を神として祀る氏子・日本人は、未来に希望をつなぐ子供をこよなく愛した。
愛おしい我が子が、不幸に会わず幸せに暮らせるように、運悪く災難にあっても無事に乗り切れるように、幸せな人生が送れるように、祖先神・氏神に願った。
自分の事以上に、我が子大事であった。
願いは、奇跡でもなく、秘跡でもなく、単なる、加護であり、御利益であった。
子供とは、将来、家の祖先神・氏神として祀られる尊き存在である。
親は、我が子が祖先神・氏神として祀られるような人間にするために、絆的精神主義で厳しく躾け、神として光り輝くように養育した。
子供を祖先神・氏神に育てようとした日本人には、排他的不寛容な絶対神への信仰を守る為に、悦んで我が子を犠牲にし、共に刑場に行くキリシタンの親が理解できなかった。
神道を信仰する日本人は、全ての子供が、笑顔に包まれて幸せに暮らせる様に、虐げられて悲しまない様に、苦しさで泣きじゃくらない様に、神社で祖先神・氏神に祈りを捧げていた。
全ての子供に不幸をもたらす者を憎み、
自己満足で我が子を犠牲にする親を憎んだ。
民族中心宗教を信仰していた日本人は、自分はもとより他人の祖先も例外なく神として祀り、我が子も他人の子も全ての子供を祖先神・氏神から授かった申し子として愛おしんだ。
同時に、自分も子孫から祖先神・氏神として祀られる身であれば、氏子の子孫に恥ずかしくない神であるように心懸けた。
その意味で、命を大事にし、生きる意味を真剣に自分自身に問いかけながら行動した。
つまり、性善説である。
それが、昔の、祖先を神として祀った日本民族の信仰心である。
現代日本では、人は法を破り犯罪を起こす危険性があるとされだけに、こうした素朴な人神への信仰心はない。
例外的に、自分の利得のみを考える宗教家が現れ、「自分は生き神である」とか「自分は救世主である」とか、あるいは「自分は奇跡が起こせる」とか「自分を神仏として信仰すれば如何なる望みもかなう」などと、私財を増やすための宗教団体を立ち上げた。
日本の宗教的心を失った現代日本人が、奇跡を売りもにする利益誘導型宗教組織に騙される。
その被害者数が、年々増加している。
同時に、科学的に目に見え論理的に説明できるモノしか信じない宗教喪失の日本人も増えている。
それが、「死後は、何も存在しない空虚な『無』である」という反宗教無神論である。
キリスト教は、人を神として祀る事を禁止し、人の神を天地創造の絶対神と同列に扱う事を認めなかった。
なぜなら、人とは、創造主の恩寵・恵みでチリやゴミから造られた愚物にすぎないからである。
その人間は不完全な存在として、ややもすると邪な心を抱いて悪に手を染める、迷える子羊とされた。
命を与えてくれた創造者に感謝し、恩返しすることを重要な責務とした。
つまり、性悪説である。
民族宗教を信仰していた日本民族日本人は、2000年という歳月を受け継いできた命・霊魂・心を守る為に、人神信仰を否定するキリスト教を邪教・邪宗門として禁止し弾圧した。
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子供とは、未来を切り開く生命力に溢れ、将来の担い手であるだけに大切にし、そして大人全員で守りそして育てた。
年寄りは、長生きしただけに、生命力が強いと共に運に強く、祖先神の一部に近づいているだけに、全ての人が大切にして面倒を見た。
日本神道は、祖先神・氏神を信仰する家宗教である為に、祖先神・氏神を持たない日本人以外での信者拡大はありえない。
日本神道には、教祖はもちろん訓育者も律法学者もいなければ、神聖不可侵の聖典や経典もなく不磨の教義も不動の戒律もなく、そして異教・異端を討ち滅ぼす烈火の如き布教活動もない。
日本神道は、民族固有の原始宗教である。
民族中心宗教は、祖先神・氏神に祈る事で、恵みとして、たぶん御利益が与えられた。
それは、生者が死者を想う信仰である。
普遍宗教は、絶対神への信仰を契約す事で、恩寵として、奇跡を授かり、神の御子である救世主の出現を待望した。
それは、死者が生き返るという生者による信仰であった。
甚大なる自然災害が繰り返し多発する不安定な日本では、安定して自然災害の少ない大陸の様に、心穏やかに奇跡を信じ、心安らかに救世主を待望するだけの、心清き篤い信仰心が生まれなかった。
日本神道は、民族中心宗教であり、普遍的な世界宗教には絶対になれらい。
もし、国外に神社が建てられてとしても、それは日本民族日本人の宗教施設であって、外国人にとっいて宗教的価値なき建物でしかない。
当然、日本民族日本人がいなくなれば自然消滅するだけの宗教施設である。
神道は、多神教として集団・共同体の宗教である。
キリスト教は、一神教として完全なる個人の宗教である。
イスラム教やユダヤ教も、キリスト教と同じである。
さらに、
日本の祖先神信仰は、儒教的な東アジア(中国・韓国)の祖先崇拝とは全くの別物である。
反宗教無神論の儒教は、日本の祖先神信仰を聖人君主の王道を歪める邪悪な思想として攻撃し、正しき人を邪な道に誘い込む害毒として糾弾した。
儒教は、一族・血縁として家・身内のみの非宗教である。
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神道、中華思想に基づく宗教行事ではなく、ペルシャ(イラン)のゾロアスター教の宗教儀式を多く取り入れた。
但し、預言者及び救世主信仰、最後の審判や善と悪の聖戦や処女受胎や千年王国といった日本風土に合わない教義は排除して、優れた処は素直にそして真剣に学び日本に馴染むように転換して根付かせた。
そして、教えてくれた相手もしくは国に対して恩義を感じ、恩義を忘れる事なく、たえず恩義に酬いるように心懸けた。
神道における宗教儀式は、ゾロアスター教を通じてユダヤ教と類似するところがあるが、けっしてユダヤ教とは関係がない。
神道とユダヤ教は、水と油、天と地ほどの違いがある。
ユダヤ教が油を燃やし天を崇めて生け贄を捧げるなら、神道は水を流して地を血で穢さない様に浄化する。
当然。天皇・皇室と日本民族は、ユダヤ民族・ユダヤ教とは無関係である。
日本民族はユダヤ民族の一氏族であり、天皇の祖先はユダヤ人という説は、悪意に満ちた陰険なる謀略である。
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『論語』八佾(はついつ)「祖霊を祭れば、そこに祖霊が在(いま)すご如し。神々を祭れば、神々在すが如し」
人は、魂と魄(肉体)からなり、死ぬと魂は天空を漂い、魄は墓に安置する。
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奈良・平安時代。
仏教が、支配層の宗教として鎮護国家、現世利益、御霊鎮魂、病気平癒などを主目的で行っているとき、葬儀は良くて土葬で普通は野晒しであった。
先祖供養するのは、家を残そうとする皇室と極一部の有力貴族や豪族のみであった。
天皇と皇族の遺骨を分骨し、御陵に葬り、大寺院の仏堂もしくは法華堂に納める為に火葬にした。
下級貴族や一般庶民らは、定まった所に定住せず、何らかの原因で流民のように生活環境を変えていた為に家という認識がなく、祖先を祀る信仰もなかった。
当時の日本人は、遺骨に対する特別な感情はなかった。
平安時代末まで、死ねば死体は、金の有る者だけが土葬し、金の無い者は河原に打ち捨てた。
日本に於いて、老後の事や死後の事を心配するという考えは本来なく、孤独死・孤立死・無縁死は当たり前の事で珍しい事ではなかった。
後始末は、生き残っている者が好き勝手に処分するだけの事で、遺骨には興味はなく、位牌も作らなかった。
死んだ者は、身内であろうと誰であろうとその場で忘れられた。
死を直視すれば、死者をこの世につなぎ止め苦しめない事が唯一の弔いである以上、死体を捨てた後は存在していた事など全てを綺麗さっぱりと忘れる事であった。
その不衛生さによって、疫病が蔓延して人々を苦しめ命を奪ったが、犠牲者はやはり河原に捨てられて焼かれる事も埋められる事もなかった。
神道は、霊魂を神として祀っても、死の穢れを浄化する霊力が無かった為に、死を嫌い死体を目の前から遠ざけることしか考えなかった。
仏教は、霊魂を仏に昇華し、死の穢れを清める霊力を持っていた為に、死体を土葬して弔い、希望者には死者を供養する為に火葬して遺骨を墓に納めた。
その意味に於いて、神道は神の前での差別を認め、仏教は仏の前での平等を説いた。
日本の仏教は、葬式仏教として墓地を管理し位牌を守るが、中国仏教・朝鮮仏教など各地の仏教はそうした事は基本的に行わない。
火葬が行われ始めたのは、仏教が庶民の間に広まった鎌倉時代からであるが、それも薪が購入できる金持ちだけであった。
世の終わりという末法思想によって、救われたいという念仏信仰が生まれた。
神道には、世の始まりも世の終わりも、死後の世界も本来なかった。
つまり、わからない事、理解できない事は、摩訶不思議として考えようとはしなかった。
仏教が、世の終わりと死後の世界と仏の救済を持ち込んだ。
後のキリスト教が、天地創造、最後の審判、永遠の命、天国、地獄、ハルマゲドンなどおどろおどろしい恐怖の妄想に対する絶対神の救済を持ち込んだ。
源信の『往生要集』によって、日本人は死後の世界としての地獄の存在に恐怖し極楽に往生する事を願うようになって、日本仏教は異端仏教となった。
日本人の宗教観や死生観を変えたのは、浄土宗の法然と浄土真宗の親鸞の二人とされている。
仏の前では平等を説く法然と親鸞は、弾圧された。
日本人の宗教観を劇的に変化させたのは、浄土真宗の蓮如であった。
何故そうなったのか、それはまだ謎とされている。
現代の日本の宗教観や人生観を作り上げたのは、菩提寺と檀家という関係が成立した江戸時代であった。
先祖代々の墓に墓参りして先祖を供養するという、宗教行事が定着したもの江戸時代であった。
先祖を忘れない死んだ者を供養するという伝統は、わりかし新しい宗教儀式に過ぎない。
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市聖・空也上人『西院河原地蔵和讃』
「賽の河原
かのみどり子の所作として
河原の石を取り集め
これにて廻向の塔を組む
一重組んでは父のため
二重組んでは母のため
三重組んでは故郷の兄弟わが身と廻向して」
日本独自の水子供養の説話である。
幼い我が子を亡くした大人達は、これから長い人生を生き、楽しい生活があったであろうその不憫さを思い、理不尽にも死後の世界に連れ去られた幼児がこの世に心を残し恨んでいると恐れ、助けてやれなかった申し訳なさと、極楽浄土への道が分からず一人彷徨っているであろうという思いから、地蔵菩薩に我が子を救って貰うべく水子供養を行った。
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