💄25)─2─江戸時代の民族病は遊女が広めた梅毒で、江戸は性病大国であった。〜No.52No.53 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本民族は、生まれながら、祖先が犯した悪因・悪業によって魂も血も汚れた悪人であった。
   ・   ・   ・   
 PHPオンライン衆知「妙にハイテンションに、会話が一方的に…知らず知らずに現れる「あの病気の兆候」
 2020年01月31日 公開
 小野寿々子(ライター)、屋代隆(医療監修:自治医科大名誉教授)
 日本では江戸時代に蔓延
 梅毒。最も有名な性病のひとつであり、昔話の中でショッキングな絵面やエピソードとともにその名を目にすることも多いだろう。
 特に江戸時代、遊郭を中心に驚異的に蔓延し、遊女の梅毒罹患率は3割とも5割とも言われた。
 その印象からひと昔もふた昔も前の病気だと思いがちだが、梅毒は決して過去の病気ではない。今また静かに、そして急速に感染を広げているのは医療関係者の間では周知の事実だ。
 かつては不治の病であった梅毒も、1940年代のペニシリン普及以降、発症は劇的に減少し、今は早期に治療をおこなえば治癒する病気となった。彼女のように第4期にまで進行するケースは極めて稀である。
 第4期梅毒とはつまり末期梅毒であり、感染後10年以上経過した状態と分類されている。末期に至るまで、彼女はなぜ10年以上も治療することなく放置したのか…。
 答えは実にシンプルだった。自分が梅毒に感染していることにまったく気づいていなかったから。これが梅毒の恐ろしさだ。
 早期にはしこりや発疹といったわかりやすい皮膚症状が出現するが、身に覚えがなければ性病感染など疑いもしないだろう。ヘルペス等の単なる皮膚炎と勘違いしがちな上に、これらの症状は治療しなくてもやがて自然に消失する。
 無症状の時期と長い潜伏期を持つのがこの病気の厄介な特徴であり、感染の自覚がないゆえに検査も治療もおこなわず進行させてしまう。
 その結果「極めて稀」な第4期神経梅毒となった患者。それが彼女だ。
 その末期梅毒患者の近親者として重篤な症例を目の当たりに見たことが、私が梅毒をテーマの作品を書くきっかけとなった。
 できるだけ多くの人、特に若い女性の目に触れてほしいという思いから、活字ではなく漫画という媒体を選んだ。
   ・   ・   ・   
 日本民族は、梅毒、結核脚気を患い生き残った子孫である。
 江戸時代に梅毒が蔓延していたのは、キリスト教儒教・仏教のような性愛に対する宗教的禁欲がなく、日本神話に基ずく性愛に対する自由と開放が原因であった。
 日本仏教は異端仏教で、中国仏教や朝鮮仏教・韓国仏教とは違う。
 キリスト教は、現代キリスト教と中世キリスト教は違い、韓国キリスト教は異端キリスト教である。
   ・   ・   ・   
 江戸時代の庶民は、自分を素直に受け入れる快楽主義であって、自分を偏見で抑える禁欲主義ではなかった。
   ・   ・   ・   
 江戸時代の日本人は好色であったが、現代の性犯罪者や異常性愛者のような病的狂人的犯罪的な日本人はいなかった。
 性愛が自由で開放されていた江戸時代では、西洋や中華(中国・朝鮮)はもちろん現代日本のような性犯罪は少なかった。
   ・   ・   ・   
 2023年8月22日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「“性病男子”が大流行!? 外国人が驚いた「近世日本の貞操観念」とは
 『花柳病豫防ニ關スル調』内務省衞生局
■「性病大国」だった日本
 近年、「何々男子」という呼称の増加に歯止めが聞かず、主に流通しているものだけでも100以上にのぼると聞いたことがあります。こうした表現はすでに明治時代にはありましたが、当時、もっとも有名な「何々男子」とは、「花柳病男子」だったかもしれません。
 花柳病男子とはなんなのでしょうか。平たくいうと、「性病持ち」という意味です。江戸時代から日本は外国人が驚愕するような「性病大国」でしたが、性病の温床となっていたのは、芸者や遊女といったプロの女性たちでした。
 彼女たちと、その職場をまとめて花柳界と呼んだのですが、そこに好んで出入りする殿方と、彼の恋人や妻である女性を中心に、性病の輪が広がっていったのです。
■「性病男子の結婚禁止」を訴えた平塚らいてう
 日本における元祖フェミニスト平塚らいてうは、女性たちの身を守るため、「花柳病男子」の結婚を法律で禁じる結婚制限法を作ってほしいと訴えました(雑紙『改造』大正10年2月号)。当時の医療技術では、梅毒、淋病などほとんどの性病を治癒させることは不可能だったからです。まぁ、ほとんどの性病が投薬で治療可能になった現代でも、配偶者が性病だと発覚すれば、夫婦関係に大きな波風が立つものかもしれませんが。
 興味深いことに、明治時代以前においては、花柳病になったところで、まったく深刻視されることはなかったようです。おおらかだったのか、諦めてしまっていたのか……。「皮癬(ひせん)七度、梅毒(かさ)三度」ということわざまであり、「人間生きていたら、皮膚病には7回なって、梅毒には3回くらいなるもんだよ」といった意味でした。明治時代以前、梅毒は「かさ」などと呼ばれましたが、「かさ」とは「かさぶた」の「かさ」で、そういう皮膚疾患を伴う症状が出る時期があるがゆえです。
 「皮癬」もただの皮膚病ではなく、ある種の性病を指しているかもしれません。実は欧米においても、梅毒と、その他の性病が別の病気であると判明したのは19世紀も半ばになってからのことでしたから……。
■「性行為=恥」の普及で性病が「恥ずかしい病気」に
 日本では梅毒になっても仕方ないとあきらめる時代が長く続いていましたが、明治時代になると、外国から輸入された「性行為は恥ずかしい行為」という認識が強くなり、性病は「性行為で感染する恥ずかしい病気」として忌み嫌われるようになります。
 抗生物質が発明されておらず、もしくは普及しておらず、性病に効くまともな薬がなかった当時、どのような治療が施されていたのでしょうか。欧米では水銀を皮膚に直接塗りたくって、包帯で巻き、暖炉の前にいると、異臭を放ちながら皮膚が溶けて、梅毒の「かさ」もなくなるという恐ろしい水銀治療が存在しましたが、つらいだけで効果はなかったようです。
 日本でも、文明開化の後も花柳病は治療不可能だったので、予防策が講じられたわけですが、「サーナー」なる商品名で女性器内部に塗る殺菌クリームは普及したものの、効果はうすいものでした。陸軍衛生課が作製した「星秘膏」も兵士たちの必須薬とされましたが、内容は抗真菌薬にすぎず、カンジダ系の病気なら効いたかもしれないという程度。梅毒患者については、ペニシリンが普及した昭和期に激減したようです。
 現代日本では梅毒の再流行が問題になっていますが、「花柳病男子」もしくは「花柳病女子」という言葉が復活しないように祈るばかりです。
 画像…『花柳病豫防ニ關スル調』,内務省衞生局,1936.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1880950 (参照 2023-08-01)
 堀江宏樹
   ・   ・   ・   
 BEST!MES「杉田玄白もお手上げ!? ~江戸時代に大流行した梅毒~
江戸時代の感染症 ~其の2・梅毒~
 瀧島 有
 2020.06.06
 新型コロナウイルスが猛威を振るっているが、対抗するワクチンがなく対症療法しかできない現状を鑑みると、人類は新種のウイルスの前では丸裸であるといえよう。だがその対症療法すら満足にできず、いまよりもずっと無防備だった江戸時代、人々はどのようにして流行する感染症と戦ってきたのだろうか。江戸文化研究家の瀧島有氏が解説する。
■長いと数十年にもなる無症状潜伏期間
 今回は当時の名医が「患者の7~8割がこの病だ」と嘆息した、「梅毒」についてです。
 梅毒と聞くと、パッと思い浮かぶのは「性病」の2文字ではないでしょうか。しかし梅毒という病気は性病というよりもれっきとした「感染症」であり、しかも下手すると死に至るのみならず、母から子へと遺伝する場合もある(先天性梅毒)という恐ろしい病気です。うぅ~ん……親の罪が子供にも及んでしまうとは……。
 にもかかわらず性病のイメージがあるのは、感染経路が「それ」だからでしょう。「そういう接触」で触れ合う粘膜や器官などからやってきます。そういう場所の小さな小さな傷口などからスルッと静かに密かに……。
 一向に来てくれなくて構わないんですが、本当にコソッと入ってきて血液内に居座ります。なんかもっと正々堂々と表から来ればいいのに……などと思わなくもないのは私だけでしょうか。だからといって表から来ていいってものではありませんが……。
 それはさておき、この「梅毒の菌=梅毒ポレトネーマ・パリダム」、拡大するとバネみたいに綺麗な螺旋状のウィルスですが、実は自然界では人間の体内でしか生きられず、人間のみに生息する菌です。人間の体外に出たら急死するので、日常生活やトイレ・入浴・物に触るなどで感染することはありません。というより、できないんですね。人間に住んだ途端、急に元気を出して数年~10年もしぶとく生きるのだから、困ったものです。
 いや、10年以上生きるかもしれませんが、肝心のお家たる患者さん(人間)がウィルスの侵食によって10年ぐらいで死去させられてしまうので、住居のほうが先に消滅・滅亡しちゃう。それで住人の細菌もいなくなる、という感じでしょうか。もっとも現在はそこまでの重症にはなりにくく、途中で治癒するのが普通ですが……。
 しかも厚生労働省「梅毒に関するQ&A」によると、感染後、一定の抗体はできるものの、再感染を予防できるわけではないとのこと。つまり「また梅毒に感染しなおし」てしまう。書いていて心中複雑ですが、そういう厄介な細菌が、この「梅毒ポレトネーマ」なのです。
 梅毒トレポネーマの電子顕微鏡像(ネガティブ染色)(提供:国立感染症研究所
 では実際にかかるとどういう感じで苦しんでいくのでしょうか?
 効果的な治療方法がなかった江戸時代では、数年~10年ぐらいで死去に至っていました。なぜこんなに長い期間の幅があるかというと、魔の潜伏期間がこれほどの長きにわたる場合があるからなのです。詳しくは後述しますが、「潜伏梅毒」といって、発症後にいったん軽快し、無症状となる期間が数年にわたることがあるからです。
 ここでミソなのが、あくまで軽快するだけで、梅毒トレポネーマが体内からいなくなったワケではなく、居座り続けているということです。こうなるともはや「共存・共生・ある意味では戦友」という感じでしょうか。現代では抗生物質などがあるので重症にはならないのが一般的ですが、江戸時代や戦前は良い薬が無いため、死に至ることも多い恐ろしい感染症でした。
 それでは梅毒の進行具合を詳しく見ていきましょう。先述の厚生労働省「梅毒とは」や国立感染症研究所のHPによれば、およそ次のように分けられます。
 ●第Ⅰ期
 感染してから3週間ぐらいの期間。
 菌が侵入した部位(陰部、口唇部、口腔内)に塊(硬結)や潰瘍ができます。また、股の付け根の部分のリンパ節が腫れることもあります。
 ところがこれらの症状は痛くなくて、無治療でもすぐ消えて潜伏梅毒と化すため「気付かない」場合もある(この「消える」っていうのがなんかイヤですよねぇ。卑怯というか、何というか……)。
 ●第II期
 第Ⅰ期後の4~10週間ほど。
 第I期の症状がいったん落ち着いたのち4~10週間の潜伏期を経て、菌が血液に乗って全身に巡り、今度は全身にうっすらと赤い発疹ができます。脱毛や発熱、倦怠感などの症状も出ることがあります。
 こちらの期間の発疹もまた、治療せずとも消えるので安心しがちですが、実は「抗生物質で治療しない限り、しっかり体内に居座って住んでいる」という、困ったちゃんな菌なのです……。発疹は再発することもあり(その場合は1年以内が多いそう)、しかもこの時期に適切な治療を受けられなかった場合、数年後に複数の臓器の障害につながることがあるとのこと。ひえ~。
 もっとも現代では抗生物質や薬などがあるため、この段階で気付いて治療すれば、これ以上ひどくなることはないようです。
 よって、ここから先のステージは戦前までの患者たちの様子になりますので、参考までに書きますが、まぁ、その、なんと言いますか……。うぅ~ん……切ない……。
 ●潜伏梅毒
 第Ⅰ期と第II期の間の短い潜伏期間、および第II期後の潜伏期間を指します。
最初の潜伏期間は第II期が始まるまでですので分かりやすいのですが、第II期後の潜伏期間(後期潜伏期間)が厄介で、これこそが数年~数十年もあるのです。
 ですので、江戸時代はここで「治った」と思っていたのですが、それもむべなるかな。
 ●晩期顕症梅毒
 長い潜伏期間を挟んで、約30%が晩期顕症梅毒へと発展。再び梅毒が目覚めると、皮膚や筋肉、骨などにゴムのような腫瘍(ゴム腫)が発生。心臓や血管、神経、脳など複数の臓器にも病変が生じ、心血管梅毒や神経梅毒となり、死に至ることも。
■遊女の間では梅毒サバイバーは一種のステイタスだった!?
 さて梅毒には梅毒性脱毛という症状がありまして、これは主に第II期で起こる症状なのですが、江戸時代、吉原などの遊郭ではオソロシイことに、こうなった遊女をこそ「一人前になった」として、給金を上げて遇しました(特に髪が抜け始めると「鳥屋(とや)につく」といったのはある意味言い得て妙で、「髪が抜ける=鷹の羽が生え変わる」ことと掛けたのでした)。
 なぜならその後に来る長い潜伏期間を治ったと勘違いし、「もうかからないから、むしろお客をバシバシとれる」と考えられていたからです(重病人なのにバシバシとれるって……。痩せてきたり顔色悪かったりしてるはずで、明らかに健康とは違うとわかってそうなのに。そこが年季奉公の哀しさよ……)。
 お客たちも「それなら自分がかからないからいい」と思い、そういう遊女は人気がでたとか。知らないとは恐ろしいということの典型的な例と言えましょう。
 とはいえ晩期顕症梅毒ともなると、さすがに江戸時代の人達でも「死のほうが近いな」と分かりました。つまり江戸時代の人の感覚だと、
 「治った! もうかからないぞ!」⇒「あぁ、これは……」
 となるのですから、一足飛びに末期になることに「変だな?」などとは思わなかったのでしょうか。
 さて、どうして彼らにも分かったかというと「鼻声」になることが多かったからで、いわゆる「梅毒声」とされるのがこの状態です。晩期顕症梅毒の症状であるゴム腫とは、硬くて大きなしこりのこと。これが体の組織を破壊するため、進行すればするほどひどい鼻声になったようです。
 それで声が変わってくるわけで、やがて「鼻が欠け落ちる」こととなります。
湯治場にもこの鼻声の人はいたもので、『江戸の医療風俗事典』(東京堂出版)によれば『鼻くたの浄瑠璃を聞く草津の湯』という句が残っているほど。これは「鼻声が酷過ぎて、浄瑠璃も聞き取りにくいほどだ」と言っているのです。
 ということは、もはや末期ですから全身が大変な状態になっているのは想像つきますよね。内臓に腫瘍ができたり、『鼻ならまだしも篇乃古落ち』となる人もいました。
 え? 篇乃古(へのこ)って何かって?
 それは江戸時代の隠語で、いわゆる男性器のことです。同じように男性器にもゴム腫ができて、大変なことになってしまうのです。友人(男性)に言ったら「それは男として絶対かかりたくない病気だ!!」と仰け反っていました。
 ここまでくると、長屋の人達なんかはその人に「墨染の衣を着せて、巡礼の旅に出させ」ます。巡礼の旅と言えば聞こえはいいけれど、体のいい追放、追い出しですよね。
 江戸時代、路上での行倒れはわりとありがちなことでしたが、中にはこういう人たちも沢山いたことでしょう。少なくとも墨染めの衣を着た巡礼姿の人を見たら、男女問わず「あ、この人は梅毒なんだな」と分かったはずです。このように長期間をかけ、脳や脊髄、神経などを侵し、やがては死去してしまうのでした。
■官兵衛、清正、利長も梅毒!
 名城公園(愛知県名古屋市)にある加藤清正
 梅毒はそもそも西インド諸島の風土病だったものがアメリカ大陸を発見したコロンブス一行により、まずヨーロッパへ持ち込まれたと推定されています。
しかも感染経緯が「それ」ですから、世界中へ広まるのは簡単なことでした。
 日本皮膚科学会のホームページによると、日本へは室町時代後期の1512年頃、海賊の倭寇が遊女たちと遊んで感染させてしまったのが始まりだろうとされています。その後、江戸時代になってすぐ街道や宿場などを整備したため人馬の往来が激しくなり、遊女と遊んだ亭主が家でおかみさんへ→おかみさんは亭主のいぬ間につまみ食いなどで浮気相手へ→その男性陣が遊郭や岡場所、夜鷹などで遊女や娼婦たちへ……あぁ……ザ・梅毒メビウスの輪
 こうしてあっというまに日本全国へ蔓延したのではないでしょうか。
その患者の大量さたるや、杉田玄白の『形影夜話(1810年)』には『梅毒ほど世に多く、しかも難治にして人の苦悩するものなし』と嘆息せしめ、『毎歳(当時はこの字も使う)千人余も療治するに、七八百は梅毒家なり』と表現されています。7~8割が全員同じ病って、現代なら大問題になるはずですよね!
 杉田玄白は解体新書のメンバーのリーダー的存在で、小浜藩医にして江戸でも開業医をしている、当代の名医の1人でした。当時の梅毒の治療薬としては「山帰来(さんきらい)」なる漢方薬が使われていました。これはユリ科のサルトリイバラの塊茎を使ったもので、室町時代に誕生し、なんと現在も売っています!!
 『和漢三才図絵』(1712年)によれば「梅毒の重い者は山に捨てられる風習があったが、土茯苓(どぶくりょう=サルトリイバラ科の植物)を服し、治って帰ってきたことから“山帰来”と名付けた」そうで、室町時代には梅毒の治療に使っていた、とあります。
 その後、中国から「水銀療法」が伝わると、むしろ、その水銀中毒を予防・緩和するためとして使われるようになりました。現在ではこの土茯苓に「抗癌作用がある」ことがわかり、更なる研究が期待されています。
 さて最後に、梅毒にかかった歴史上の人物を列記して終わりにしたいと思います。
 それぞれ詳細は省きますが、秀吉の軍師・黒田官兵衛(黒田考高)、家康の次男・結城秀康加藤清正浅野幸長前田利家の長男・前田利長などなど。結構いますね! また、日本人ではありませんが、非常に有名な作曲家では、ドイツ・ロマン派を代表するシューマンや、チェコ国民楽派を代表するスメタナも罹患しました。
 シューマンは「子供の情景」「トロイメライ」「アラベスク」「謝肉祭」「幻想小曲集」などで有名ですが、彼は梅毒からくる精神疾患&肺炎により、1856年に46歳で死去しています。
 スメタナオーストリア・ハンガリー帝国治下のチェコで生まれ、チェコでは「チェコ音楽の祖」とされています。6つの交響詩から成る「わが祖国」、特にその中の第2曲「ヴルタヴァ(モルダウ)」がとても有名で、「スメタナといえばモルダウモルダウといえばスメタナ」というぐらい、彼の代表曲となっています。しかし最後は梅毒が原因で1884年に60歳で死去しました。
   ・   ・   ・   
 ヘルスケア
 日刊ゲンダイヘルスケア
 人生に勝つ性教育講座
 杉田玄白が嘆いた梅毒流行 貧困と感染症に無知な遊女の末路
 公開日:2021年06月27日 更新日:2021年06月27日 by 尾上泰彦バックナンバー
 夜の吉原(C)日刊ゲンダイ
 日本に梅毒が伝わったのは1500年代と言われていますが、その感染力の強さからたちまち日本全土に広がります。それに拍車をかけたのが、江戸時代に全国各地でつくられた遊郭です。
 万葉集で「遊行女婦(うかれめ)」と記述された遊女たちを管理するため、日本で最初に遊郭をつくったのは豊臣秀吉です。大坂城築城とともに整備された城下町と区別すべく、いまの道頓堀に遊郭を設置しました。その後、京都の二条城のそばにも遊郭をつくります。
 さらに徳川家康は、関ヶ原の戦いで焼失した二条城再建の際に、二条の遊郭を六条に移転させました。これが日本の三大遊郭のひとつ「島原」になったと言われています。
 江戸の吉原は敷地2万坪とも言われる広大な敷地を持ち、最盛期には数千人の遊女がいたとされます。1612年、江戸中の遊女を集めて町をつくることを願い出た庄司甚右衛門という人物がつくったと言われています。ちなみに、大坂の「新町」、京都の「島原」、江戸の「吉原」が日本三大遊郭と呼ばれます。
 江戸時代、遊郭に身を沈める女性は借金に苦しむ女性、とのイメージがありますが、必ずしも正しくありません。売春や盗みを働いた罪として人別帖から除かれ、個人に下げ渡される、奴隷となって奴女郎になった者も少なからずいたと言われています。
 いずれにせよ、遊郭で働く女性たちは短命でした。10年程度働くと借金が帳消しになると言われたそうですが、そこまで生きる女性は少なかったようです。
 それも無理からぬことで、「解体新書」で有名な蘭方医杉田玄白は、自身の患者の7~8割は梅毒であると語っているほど梅毒が日本全国で流行していたのです。「骨から見た日本人」(鈴木隆雄著、講談社学術文庫)によると、江戸市中の人骨調査では江戸の梅毒患者は50%を超えていたと推測しています。ただし、武士が祭られている墓地の骨と庶民のものとは差があり、梅毒罹患者は身分の低い方が多かったようです。 
 いずれにせよ、それだけ江戸時代は梅毒という恐ろしい病が流行していたわけで、効き目のある治療法がなかった当時は、患者は治癒を神仏に祈る以外にできることがなく、「笠森が瘡守に通じる」というので、笠森稲荷には多くの瘡毒(そうどく=梅毒)患者が詰めかけたと言われています。
 性感染症の広がりの根底には、生活のために体を売らなければならない「貧困」と、性感染症への「無知」がありました。それは今も変わりません。いまだに日本を経済大国という人がいますが、貧富の差はどんどん広がっていて、いまや日本人の7人に1人が貧困にあり、ひとり親世帯の半分は貧困だと言われています。驚くべきことですが、「貧困はよその国のこと」「自己責任」と目を背けている間に、貧困は日本に広く深く忍び込んでいるのです。 
   ・   ・   ・