🕯123)─1─弥勒菩薩に日本は救いを求め中国・マルクス主義は弾圧した。~No.264No.265 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 儒教共産主義は、民衆救済を説く弥勒菩薩救済を革命宗教・邪教として弾圧していた。
 中国や朝鮮では、儒教による仏教弾圧が繰り返されていた為に、有力寺院のは皇帝権力のおよばない・儒教支配から逃れるように田舎の山地に逃げ込み「●×山▲□寺」と名乗っていた。その代表が曹洞宗嵩山少林寺(すうざん しょうりんじ)であった。
 仏教が京・都・都会の世俗を嫌って山地僻地に寺院を建立したのは、日本と中国・朝鮮では意味が違っていた。
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 弥勒菩薩(みろくぼさつ)、梵: maitreya(マイトレーヤ)、巴: metteyya(メッテイヤ、メッテッヤ)は仏教において、釈迦牟尼仏の次に現われる未来仏であり、大乗仏教では菩薩の一尊である。
 弥勒は音写であり、「慈しみ」(梵: maitrī, 巴: mettā)を語源とするため、慈氏菩薩(“慈しみ”という名の菩薩)とも意訳する。
 三昧耶形は蓮華上の塔、賢瓶(水瓶)。種子(種子字)はयु(yu)。
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 旺文社日本史事典 三訂版 「弥勒信仰」の解説
 弥勒信仰 みろくしんこう
 弥勒菩薩に対する信仰
 弥勒は浄土である兜率天 (とそつてん) で天人のために説法しているが,56億7000万年ののち,この世に現れて衆生を救済するとされている。そこから弥勒兜率天に往生しようとする上生信仰と,弥勒の下生に合わせて現世に再生したいという下生信仰とが盛んとなった。上生信仰は古代に行われ,下生信仰は中世〜近世に行われた。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
 世界大百科事典 第2版 「弥勒信仰」の意味・わかりやすい解説
 みろくしんこう【弥勒信仰】
 インドに成立し,東南アジア・東アジアの諸民族に受容された弥勒信仰は,未来仏である弥勒菩薩(マイトレーヤMaitreya)に対する信仰で,仏教に内包されたメシアニズムである。弥勒菩薩釈尊入滅の56億7000万年後に,弥勒浄土である兜率天(とそつてん)よりこの世に出現し,竜華樹の下で三会にわたって説法し,衆生救済を果たすと信じられている。インドにおける弥勒信仰の前身の一つは,ヒンドゥー教における救済者カルキの存在である。
 出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
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 日本民族は、陰徳の救済と仏教の救済など多種多様の救済に縋(すが)って生きていた。
 陰徳の救済は、御天道様救済、大国主命救済、鎮守の森、八百万の神々の救済。
 仏教の救済は、釈迦如来救済、弥勒菩薩救済、阿弥陀仏救済、薬師如来救済、大日如来救済、毘盧遮那仏救済、観世音菩薩救済、鬼子母神救済、諸仏救済。
 日本の自然には、至る所に人智を超えた救済がヒッソリと佇んでいる。
 無宗教有神論者の日本人は、渡来した普遍宗教キリスト教ユダヤ教イスラム教の神にさらには見た事も聞いた事もない希少宗教の神や仏に対して、子供の様な無邪気さで、こだわりなく救済を求めて祈りを捧げていた。
 日本の神仏救済は、宗教や経済だけであって政治や軍事には関与しなかった。
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 2023年7月14日6:04 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「120年に1度しか咲かない「竹の花」は不吉な前兆? 日本に残る弥勒信仰
 今年の春は、「竹の花が咲いた」というニュースが話題になった。「天変地異の前触れ」ともいわれるこの伝承は、どこから来たのか。戦後民俗学の泰斗・宮田登が語る(『弥勒講談社学術文庫より一部改編の上引用する)。
 [写真]竹林
 民間伝承としての竹の花
 民間伝承に「竹の花が咲けば凶年」という言い方があった。これは竹の花、あるいは笹の実異変といわれている。
 木村博氏の研究によると、「竹の花が咲くと飢饉がくる」とか「竹の花が咲けば世の中が悪い」とか「竹に花咲けば、竹が枯れるし、飢饉がきて、流行病がはやる」、「笹の実がなる年は飢饉だ」といった伝承が、全国各地で広く聞かれるという。
 植物学の上でも、竹の開花と結実の現象は、いささか異常と考えられている。竹の花は咲くとすぐに枯れる。枯れ出すと、その付近一帯が全面的に枯れる(木村博「「竹(笹)の実異変」の民俗」『日本民俗学会報』四五)。二十年に一度か、あるいは六十年に一度ぐらい竹に花が咲くといわれている。
 枯れ竹のありさまを見ると、あたかも稲穂が枯死した格好に見える。それを見て、竹に花が咲くと稲穂が枯れてしまうという予想に連なる。だから飢饉の前兆になるわけだ。この状況は、古代にあっては天変地異に属し、陰陽師たちの注目するところであった。
 『酉陽雑俎』(ゆうようざっそ)には、「六十年一易根、則結実枯死」と記し、中国では六十年周期説の考えもあったようである。
 飢饉の年に弥勒菩薩が現われる?
 ところで竹の花が咲くということは、笹の実のなることを意味した。飢饉であれば、一方では笹の実が救荒食にあてられることになり、むしろ飢饉時の人々を救うことが期待されたのである。つまり稲穂は稔らないで、笹の実がなることは、稲の力が竹の花や笹の実に奪われてしまうということになる。笹の実異変とか、竹の花異変という言い方を、農民たちはするわけだが、そういう危機状況に当然弥勒菩薩が現われて来るという考えが生じたのだろう。事実、山形県には、弥勒が竹に花を咲かせ、笹の実を与えてくれるという俗信があった。
 この「飢饉の年」に弥勒が現われるという考え方は明らかにメシア思想を意味していることになる。農耕社会全体が危機状況に陥った時に、弥勒菩薩が現われて救ってくれるだろう。だから飢饉の年がすなわち弥勒の年になるという説明になるわけである。
 このことは終末の時期になって、弥勒菩薩が現われるというメシア思想の表現になる。第一番目の分類で、稲米がたくさん稔り豊穣の世界になってほしいという願望がまず基本にあった。しかし、実際の農民の日常生活の中において、これは擬似ユートピアといえるものである。実際の日常の農耕社会は、必ずしも豊穣の世界にはならず、飢饉という相対立する要素が強く表出するという現実が存在するわけである。そうした時期にはそうした危機状況を避けなければいけない。そこでどうすればいいのかというと弥勒菩薩を迎えて、救済してもらうという考え方が当然生じることになる。
 したがって、飢饉の年には弥勒菩薩が現われるということは、理屈の上ではおかしくないわけであった。豊穣の世界が﹁弥勒の世﹂であるという考え方と、飢饉の年が弥勒の年になるという言い方とは民衆意識の上で矛盾しないことになる。
 ここではっきりしていることは弥勒菩薩が出現するという信仰的事実である。弥勒菩薩が出現して飢饉を救ってくれる。だからその年こそ「弥勒の年」だと考える。この「弥勒の年」がさらに具体的になると巳の年に当たるという考え方を持つに至る。
 「弥勒の年」に対するより具体的考え方として巳の年という十二年に一度ずつ現われる年を考えるのは、日本の弥勒信仰の一つの特徴と言えるであろう。
 学術文庫&選書メチエ編集部
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 7月18日6:00 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス 学術文庫&選書メチエ編集部「混迷する日本を救う仏さま…蘇我馬子藤原道長も惚れ込んだ弥勒信仰とは 戦後民俗学の泰斗・宮田登が語る
 弥勒菩薩半跏像(広隆寺蔵)
 © 弥勒菩薩半跏像(広隆寺蔵)
 広隆寺中宮寺の半跏思惟(はんかしい)像として有名な弥勒(みろく)は、釈迦、阿弥陀と並んで、この世に現れて人々を救うとされる。古代から日本各地に広がり、弥勒の石像は蘇我馬子の屋敷の一角に安置され、藤原道長はいずれ弥勒の浄土になる金峯山に経典を埋めたという。柳田国男は『海上の道』で、弥勒と関わりの深い鹿島踊り(茨城)と沖縄のつながりを考えている。
 このように、弥勒信仰は、歴史的に様々なかたちで注目されてきた。なかでも戦後民俗学の泰斗・宮田登は、柳田を継承し、弥勒信仰を通して日本文化の原型を描いている。ここでは、弥勒信仰がどのようなものか、その一端を紹介しよう(『弥勒講談社学術文庫より一部改編の上引用する)。
 仏教の中に弥勒信仰
 弥勒信仰は本来、仏教上の表現である。しかし、これが日本化する過程で、日本の民俗宗教として発現したプロセスについて、私自身今までいろいろと指摘してきた。そこで民俗語彙としてわざわざミロクという仮名の表記をとり、その性格についてとらえる必要性が一方にあることは明らかだった。
 ところで、仏教の中に弥勒信仰が大きな位置を占めていることについては、従来の研究史が示している。周知のように、仏教自身はインドに起こった世界宗教の体系を持つものであり、これが東漸して六世紀ごろに極東地域の日本列島の内部に入りこんできたのであった。
 六世紀に弥勒信仰が入ってきたという事実を考えるとき、仏教自身の多くの宗教的要素の中で、特に弥勒信仰を取り上げるに当たって重要な点は、ここに仏教には珍しいメシアニズムの考え方がみられるということである。
 それはどのような内容かというと、簡単に言って五十六億七千万年後に、いわばキリストに当たる弥勒仏がこの世に出現してきて、悩める衆生を救うという、きわめて明快な教えなのである。将来、必ず出現するであろう弥勒菩薩に対する信仰が、日本の民間社会に受容されてどのように展開するかは、日本人の宗教のあり方を考えるに当たってきわめて興味深い問題である。
 この未来仏信仰の教えは、仏教が移動・伝播する折に、それぞれの民族に受け止められる段階で、さまざまな形態を示してくるわけなのである。
 「弥勒の世」の言い伝え
 そこで、弥勒信仰の伝承態について日本の具体的な事例をあげてみよう。『人類科学』6に九学会連合で調査した石川県能登地方の報告がある。この中で和歌森太郎氏が弥勒信仰の伝承資料を紹介している。
 すなわち、奥能登地方においては、人々の冗談口に「おまえのようなやつは弥勒の世になっても借金は返すまいから貸さない」あるいは「おまえのようなやつは弥勒の世でも来ればいざ知らず、そうでもなければ金を貸せない」と言ったりするという。
 それで借金証文を書くときに、「弥勒の世が来たら返すと書こうか、立山に麦が生えたら返すと書こうか」といったいやがらせの文章が認められたりする。あるいは、「こんなうまいことは弥勒の世にもないことじゃ」と言ったりするという。
 ここであげられる「弥勒の世」という言い方は、仏教の中にある弥勒という言葉をそのまま使っているけれども、ごく素朴な民衆意識の表われといえる。要するに「弥勒の世」というものがどこかに存在するらしいと考えているけれども、「弥勒の世」がいつ来るのかはよくわからないままで想像している。しかし、いつかは来るらしいとは考えている、ということがこの伝承によってある程度わかる。
 「立山に麦が生えたら返す」ということは現実にはありえないことだ。立山というのは高山であるから、頂上に麦ができることは不可能に近いが、「弥勒の世」の出現の具体性はそれと同等に思われている。
 おそらく「弥勒の世」という世界が存在するとしても、実現は不可能ではなかろうか、と人々が想像していたことは重要な民俗的事実である。はかないものであるけれども、日本列島の中にある「弥勒の世」は一種の幻想的なユートピアであったろうということである。
 上の資料では「弥勒の世」が具体的にどのような構造であるかという点は、一向に表現されていないが、やがてこういう世界は現われて来るだろうという点に大きな特徴がある。
 富山県高岡市でも「弥勒さまの世になっても」という言い方をときどきするという。それは「弥勒さまの世」になったら、何かいいことがあるだろうと考えているらしい。しかし、一方では、そういう世界はなかなか実現しにくいというふうにも考えているのである。
 民俗的な弥勒伝承についてみると、人々が日常的に使っている冗談のような会話の中で、意識のうちに明確な未来の世界というものは描かれていないということが、ほぼわかる。ただ、「弥勒の世」がやって来るだろうという意識は民衆の中に常に連続しているということが指摘できるのである。
 「弥勒の世」への幻想
 次に、弥勒伝承の中であげられる事例として、山梨県西八代郡で採集されたもので一人の老人が次のように言っていたという。それは「弥勒の世ではだれも働くことを知らないで、木の枝などにいっぱい実った果物が、自然に落ちてくるのを待って拾って食べているのだ」。
 これは「弥勒の世」ではだれも働くことを知らない。ただ呆然と坐っていると、自然と木から果物が落ちてきて、それを食べて生きてゆける、という非常に楽天的な発想でありあくせくと働かないでいいような世界を考えているらしい。
 ところで群馬県下で「弥勒の世はありますか」と聞くとその答えが、「弥勒の世」は小正月行事と関連することを示している。毎年の小正月に当たる正月十五日前後に予祝儀礼が集中していることはよく知られている。現在では農村地帯でしか行なわれていないが、この儀礼の中でいろいろな飾り物を並べ立てて祝う儀礼がある。
 たとえば繭玉などに代表されるが、一年間にこれだけたくさんのものが稔みのって欲しいという意図のもとで作られる。群馬県や長野県などの養蚕地帯では、繭玉がたくさん生産されるようにというので、米粉で作った団子を丸めて木の枝にさし、部屋いっぱいに飾り立てる。また、そのほか果物類、野菜類などその土地でその時点に生産されるものをなぞらえて形に作り、朴ほおの木のような比較的柔らかな質の枝に差して飾り立てるのである。
 正月十五日前後に、農家に行くと、茶の間の天井の一角にそういう飾り物がたくさん飾られている様子をたとえば「弥勒の世」のようだ、と言っている。
 これは民間伝承として繰り返し行なわれてきた儀礼で、文献の上で何時の点から起こったと記されていることではない。しかし、要するに農民社会の中で「弥勒の世」を想像してみるとこういうように考えられていたのである。それは実現は困難であろうけれども、結局豊穣の世界だと思われている。その点は、きわめてはっきりしている。
 五穀や繭玉が豊かに稔っている世界、それをあらかじめ祝い、類感呪術を働かせている。現実にはそうではないけれども、そういう形になって欲しいんだという願望に基づいて、作りあげた世界になるわけである。(後略)
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 中世日本における死生観(2)― 弥勒信仰から阿弥陀信仰へ
 2022年9月12日
 いまや日本人の死生観は様々であり、明確に「これ」ということはできません。しかし、多くの人にとって「聞いたことがある」「そういえばこんな感じ」といった共通の認識があるのも事実ではないでしょうか。
 そうした共通認識のベースとなっているのが平安末期から鎌倉初期にかけて広まった思想や宗教、文化です。今に続く日本中世における死生観を見ていきましょう。
 今回は、弥勒(みろく)信仰から阿弥陀(あみだ)信仰への変化についてです。
 前回ふれたように、平安末期には動乱や災害がいくつも重なり、世の中には次第に「末法思想」が広がっていきました。そうした中で心の救いを求める人々に広まっていったのが浄土教です。
 ※浄土教については次回以降、取り上げます。
 そもそも「浄土」とは、大乗仏教において登場した様々な仏や菩薩が住む清浄な世界を指し、いわば宗教的な理想郷です。
 私たちは「浄土はひとつだけ」と思いがちですが、実は仏や菩薩によって様々な浄土があります。それぞれの仏や菩薩が住み、治めている世界が浄土であり、いろいろな名前がついているのです。
阿弥陀如来阿弥陀仏)の「西方極楽浄土
薬師如来(薬師仏)の「東方浄瑠璃浄土
弥勒菩薩の「兜率天(とそつてん)」あるいは「弥勒浄土」
大日如来の「密厳浄土」
・阿閦仏(あしゆくぶつ)の「妙喜浄土」
毘盧遮那仏の「蓮華蔵世界」
・釈迦如来の「霊山浄土」
・観世音菩薩の「補陀落(ふだらく)浄土」
 中国では4世紀から6世紀にかけての北魏時代、これらのうち弥勒菩薩の信仰が盛んで、「兜率天弥勒浄土)」へ往生することが多くの民衆の願いでした。
 弥勒菩薩とは、釈迦の次にブッダとなることが約束された菩薩(修行者)で、釈迦が亡くなってから56億7千万年後にこの世界に現われて悟りを開き、多くの人々を救済するとされる未来仏です。ユダヤ教などにおけるメシア(救世主)に似た存在といえるでしょう。
 弥勒菩薩はこの世界に現れるまでの間、兜率天(浄土のひとつ)で修行しており、この兜率天に往生しようと願う信仰が中国で流行していたのです。
 日本でも飛鳥時代に大陸から仏教とともに弥勒像が伝わり、仏教信仰は弥勒信仰が主流だったといわれます。
 広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像」
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E5%8B%92%E8%8F%A9%E8%96%A9%E5%8D%8A%E8%B7%8F%E6%80%9D%E6%83%9F%E5%83%8F
 しかし、中国では隋や唐の時代になると阿弥陀仏の極楽浄土にとってかわられていきました。
 日本でも平安時代の頃から次第に阿弥陀仏の極楽浄土信仰が優勢になっていきました。
 阿弥陀仏阿弥陀如来)は、過去においては法蔵菩薩として48の誓願を立てて修行をしていました。48の誓願のうち第18願が「阿弥陀仏を念ずれば極楽往生できる」というものです。
 修行の後、法蔵菩薩阿弥陀仏となり、西方極楽浄土に住んで衆生を救済する存在になったわけです。
 高徳院阿弥陀如来坐像」(鎌倉大仏
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E5%A6%82%E6%9D%A5
 なぜ弥勒信仰(兜率天信仰)から阿弥陀信仰(極楽浄土信仰)が優勢になっていったのかについてはいろいろな説があるようです。
 はっきりしたことは分かりませんが大きな理由として、兜率天あるいは弥勒浄土へ往くには座禅などの修業が必要とされたのに対し、極楽浄土へ往くには阿弥陀仏の本願という他力に頼り、念仏を唱えるだけでよいとされたことがあったように思われます。
 動乱や災害がうち続き、明日は我が身もどうなるか分からないような世の中において、一般大衆の心により響いたのが阿弥陀仏西方極楽浄土だったのではないかと思います。
 ご遺骨、遺灰からつくるメモリアルダイヤモンドについて
 くわしくはライフジェムジャパンのホームページをぜひ、ご覧ください。
 http://www.lifegem.co.jp/
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 世界史の窓
 弥勒仏/弥勒信仰/下生信仰
 仏教で未来に衆生を救済する仏とされ、白蓮教などの信仰の対象となる。弥勒仏が現れて民衆を救済するという弥勒信仰は下生信仰とも云い、明清時代に民衆に広がり、清末には白蓮教徒の反乱が起こった。
 弥勒仏は、仏陀(釈迦)の入滅(死去)の56億年7千万年をへて、その教えが滅尽するときに、この世に現れて仏陀の教えを再興し、衆生(大衆)を済度(救済)する未来仏とされた。この弥勒仏を信仰することを弥勒信仰、または弥勒仏が現世に現れることを下生げしょうというので下生信仰とも云う。12世紀の南宋末から中国の民衆のなかにひろがった弥勒信仰は、一種の救世主待望であり、現世に不満を持つ民衆の心をつかみ、しばしば農民反乱と結びついて大きな勢力となった。そのため権力からは邪教とされて弾圧されたので、信者は秘密結社を作って信仰を守った。
 白蓮教とその反乱
 元朝の時代の末期には、もともと浄土信仰から興った白蓮教の教団と、弥勒下生の信仰が結びつき、元末の社会不安の中で、白蓮教徒が反乱を起こし、紅巾の乱といわれる大反乱に転化した。
 元の末期の1351年に紅巾の乱を起こした白蓮教のリーダー韓林児(韓山童の子)は、自ら弥勒菩薩の化身であり、宋王朝の子孫と称していた。白蓮教はペルシア起源の摩尼教の影響を受け、世界を光明と暗黒の二世界にわけ、明を理想としたので「明教」ともいわれ、韓山童は「明王」、その子の韓林児は「小明王」と称した。白蓮教徒であった朱元璋が混乱を平定して建てた国を「明」としたのもそれに依っている。
 大乘仏教と弥勒信仰
 ブッダ(=釈迦)と聞くとガウタマ=シッダールタという実在の個人の名前と思いがちだが、ブッダという語は本来は「覚ったもの(覚者)」の意味の普通名詞であった。初期経典にブッダの複数形はめずらしくなく、如来(真理体現者)という語も同様であった。しかしブッダ如来も次第に釈尊に収斂されていった。初期仏教から部派仏教へと進み、さらに伝統保守を自認する南伝仏教は釈迦仏のみの一仏を守り続け現在に至っている。
 それにたいして大乗仏教では、釈迦仏とは異なる仏をたて、広く信者を獲得した。大乗諸仏は、従来の「さとり-解脱」のブッダに対して、一種のブッダ観の転換がみられ、救済仏としての働きをもつようになった。諸仏の中で代表的ななのが、弥勒仏、阿弥陀仏薬師如来毘盧遮那仏などである。阿弥陀仏は過去世の衆生を救済することを請願し西方浄土(極楽)に住む過去仏、釈迦仏は現世の救済のために現れて人々を救済する現世仏であるのに対して、弥勒仏は現在はトゥシタ(兜率)天にあり、この地上には釈迦入滅後の56億7千万年後に現れる未来仏として信仰されるようになった。現在も仏教寺院には阿弥陀仏、釈迦仏、弥勒仏を過去、現世、来世の三世のいずれにおいても人を救済する三世仏として祀られることが多い。
 弥勒菩薩
 大乗諸仏の代表である弥勒は原語のマイトレーヤの漢訳であるが、それはミトラに由来する。ミトラはイランのミスラ神やインドの一般のミトラ神とつながる。また普通名詞のミトラは親友を意味し、そこから派生したマイトラは友情・親切をあらわす。弥勒仏は仏弟子のひとりであったが現在は兜率天にあってまだ人を救済することが出来ないので、仏の中では真理体現者である如来よりも一段低い菩薩(やがて人を救済することの出来る修行中の仏。観音菩薩地蔵菩薩などと同じ)であるので、通常は「弥勒菩薩」とされる。弥勒仏に対する信仰は、地上にあって苦悩する凡夫が死後に弥勒のいる兜率天に生まれること(上生)を願うことと、弥勒仏の速やかな現世への下向(下生)を祈ることの二種の信仰が弥勒経典に説かれるようになった。<以上、三枝充悳『仏教入門』1990 岩波新書 p.46,131-133 によって構成>
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