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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本の国家仏教は百済仏教で民間仏教は新羅仏教。
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新羅といっても、古新羅と統一新羅が違う。
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現代の韓国・北朝鮮は、親日派・知日派の古朝鮮・古新羅・百済・高句麗・渤海などとの繋がりは乏しく、むしろ反日派・敵日派の統一新羅・高麗・李氏朝鮮・大韓帝国などとの関係の方が多い。
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ヤマト王権と百済との主要な交易路は、北九州から瀬戸内海に入る航路ではなく、出雲に上陸し中国山地を越えて吉備に出てそこから舟で瀬戸内海を東進して難波に上陸し、川船に乗り換えて奈良・大和に入国する道であった。
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ヤマト王権・大和朝廷の日本を統一を妨げる反天皇反日本勢力が、国内外に数多く存在していた。
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6世紀前半 継体天皇の御代。筑紫国造磐井は、新羅と共謀してヤマト朝廷に対して反乱を起こした。
九州は、関東や東北地方と同様に独立志向が強く、中央のヤマト王権に逆らう地方王朝が数多く存在し、度々ヤマト王権に対して反乱を起こしていた。
九州北部では、新羅の支援を受けた反天皇反日本勢力が反乱を度々起こしていた。
新羅の水軍や海賊は、北九州から能登にかけての日本海沿岸に侵略を繰り返していた。
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大和朝廷は、地方の反乱を迅速に鎮圧する為に奈良を起点とする棒道(軍事道路)を整備していた。
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日本全国に、反ナラ反ヤマト王権反ヤマト大王の大小数多くの王朝が点在していた。
原因は、弥生の大乱の後遺症であった。
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日本天皇・大和朝廷が行った暴力的日本統一は正当か不当・犯罪か。
日本武尊の熊襲討伐。
崇神天皇60年 出雲振根による弟の飯入根の討伐伝承。
雄略天皇7(推定463)年 吉備氏の乱。
継体天皇21(527)年 九州北部。磐井の乱。
養老4~5年(720~21年) 九州南部。隼人の反乱。
宝亀5(774)年~弘仁2(811)年 東北。蝦夷征討。大和・蝦夷38年戦争。
延暦8(789)年 英雄・アテルイ。
多くの人間が、日本の統一を望まず、ヤマト王権・大和朝廷による統一国家を否定し、ヤマト大王・大和天皇を唯一の統治者にする事を拒絶し、地方を守る為に武力を用いて命をかけて戦っていた。
現代ても、日本の国土には反天皇反日本の怨念が潜んでいる。
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820年 嵯峨天皇。弘仁新羅の乱。大和朝廷は、新羅系渡来人が駿河・伊豆で起こしたは反乱を鎮圧する為に軍隊を派遣した。
半島系移住者は、関東に十数万人が、日本全国では数十万人以上が広く住み、飛鳥・斑鳩時代から移住してきた半島人(弥生系渡来人)の子孫の数は100万人台にのぼっていた、と思われる。
当時の日本に住む人の総人口は、600万人~700万人。
大和天皇は懐柔策として、帰化人の祖先を氏神として祀る神社を各地に建立する事を許し、その外来系氏神に神位を与えて日本の神に加えた。
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2020年8月号 月刊誌ムー「文=古銀剛
『日本書紀』成立1300年
謎の渡来人『秦氏』と光明神ミトラの暗号を解く!!
神道の最高神『天照大神』は仏教のメシア『弥勒菩薩』だった!!
日本人ならだれでも知っている天照大神の天岩屋(あまのいわや)神話が、じつは、仏教伝来後に成立したものだった!?
『日本書紀』に残された謎の言葉を手がかりとして、日本史上最大のタブーを暴き、秘められた弥勒(みろく)=メシア信仰の系譜を浮き彫りにする!
序章 『日本書紀』が1300年後に明かす衝撃の真実
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第壱章 天照大神と天岩屋神話をめぐる深いミステリー
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第参章 九州北部の岩窟信仰と弥勒崇拝の謎
岩屋・岩窟が目立つ九州北部の聖地
九州北部には、修験道の霊山として古来、知られてきたところが多い。たとえば、福岡県中部の宝満山({ほうまんざん}竈門山{かまどやま})、同県南東部の求菩提山(くぼてさん)、福岡県と大分県にまたがる英彦山(ひこさん)、大分・国東(くにさき)半島の六郷満山(ろくごうまんざん)などがそれである。これらの霊山は山岳そのものが崇拝の対象となり、山伏(やまぶし)たちによって渡渉(としょう)され、また厳しい修行の霊場ともなってきた。
実際にめぐってみるとよくわかるが、これら九州北部の霊山には、共通してひとつの大きな特徴がある。山容が複雑で奇峰(きほう)や奇岩に富み、山中には岩屋・岩窟の類が明らかに多い。そしてそうした岩屋・岩窟には必ずといっていいほど仏像が祀られ、ときには寺社が建ち、信仰上の重要な聖地となっているのである。
このことは何を意味するのだろうか?
公伝に先駆けてあった民間レベルの仏教伝来
『日本書紀』によれば、日本にはじめて仏教が伝来したのは欽明天皇の時代の西暦552年のことである。朝鮮半島の百済国の聖明王(せいめいおう)が天皇のもとに使者を遣わし、仏教の功徳を讃える上奏文とともに仏像・経論などを献じたのである。ただし年代については、仏教伝来に関するもうひとつの重要史料『元興寺伽藍縁起幷流記資財帳(がんこうじがらんえんぎならびにるきしざいちょう)』などにもとづき、538年とするのが現在では定説となりつつある。
もっとも、これは仏教の国家間の正式な伝来すなわち『公伝(こうでん)』の最初であって、民間レベルでは、これ以前から渡来人などを介してすでに仏教は日本に伝来していた、と考えのがなかば常識となっている。
……
6世紀前半には仏教が伝わっていた英彦山
英彦山の基礎史料のひとつである『鎮西彦山(ひこさん)縁起』は、開山伝説について、およそ次のように記している。
『継体天皇25年(531)、北魏の僧・善正(ぜんしょう)が来日して英彦山に入り、岩窟に籠(こ)もって修行した。
すると、たまたま山中で猟をしていた豊後国日田郡藤山村(大分県日田市)の猟師・藤原恒雄と遭遇し、彼に殺生の罪を説き聞かせた。しかし、恒雄は善正の戒めを聞かずに猟を続け、1頭の白鹿を射た。そのとき、空中から3羽の鷹が現れ、傷ついた鹿を檜(ひのき)の葉に浸した水を含ませると、鹿は蘇って逃げ去った。
これを見た恒雄は鷹が神の化身であることを悟り、自らの殺生を恥じて弓矢を捨て、家財をなげうって岩窟の傍らに祠(ほこら)をたて、善正がもっていた異国の神様を祀った。そして善正の弟子となり、忍辱(にんにく)法師と名乗って練行(れんぎょう)を重ねた』
つまり、英彦山は継体天皇(欽明天皇の父)の時代の531年に中国からの渡来僧・善正上人によって開山され、おれが豊後国(豊国)の住民である藤原恒雄=忍辱法師に引き継がれたということになる。神仏習合の色合いが非常に濃い伝承となっているが、忍辱法師が英彦山の岩窟のそばにたてた祠とは、寺院の原型のようなものと考えられよう。
『鎮西彦山縁起』は元亀3年(1572)の奧書をもつが、仏教民俗学者の五来重(ごらいしげる)によれば、平安時代中期以前にまで成立がさかのぼる『熊野権現御垂迹(すいじゃく)縁起』に典拠があるという。『熊野権現御垂迹縁起』によれば、熊野三所権現は唐の天台山から飛来した神で、はじめは英彦山に天降り、そこから伊予、淡路、紀伊をへて熊野に移ったが、英彦山に天降ったのは甲寅(きのえとら)年すなわち継体朝の末年にあたる534年だったという。
こうしたことから、英彦山で6世紀前半にはすでに仏教が信仰されていた可能性が極めて濃厚なのである。
正史に記録された豊国法師と法蓮の活躍
英彦山2世となった忍辱法師のその後については、『鎮西彦山縁起』はさらに興味深い伝承を記している。用明天皇(在位585~587)が重い病にかかったとき、忍辱法師が朝廷に招かれ、天皇に仏法の深奧を説いてその臨終に奉仕したというのだ。
じつは、『日本書紀』にもこれと符合する記述がある。用明天皇2年(587)4月条に、天皇が病気になって仏教に帰依することを望むと、『豊国(ほうこく)法師』が招かれて内裏(だいり)に入ったと書かれているのだ。豊国法師とは豊国(豊前・豊後)にいた法師ということだろう。だとすれば、彼は忍辱法師と同一人物だったとしても不思議ではない。
……
英彦山にはその後、忍辱法師の流れを汲んで、英彦山を霊山として確立させた、優れた僧侶が登場した。それが法蓮である。……
……
法蓮の名は『日本書紀』に続く正史『続日本紀』にもみえていて、大宝3年(703)条によれば、彼は医術の功を認められて朝廷から『豊前国の野40町』を施され、養老5年(721)条によれば、医術によって民の苦を救ったことを賞されて、『宇佐君(うさのきみ)』の姓(かばね)を賜ったという。医術も得意とした『豊国法師』の系譜を継ぐ法蓮が7世紀初頭にかけて実在し、英彦山を中心に活躍していたことは間違いない。
九州北部に浸透していた弥勒信仰
ところで、仏教伝来以前に九州北部や英彦山に伝来していた仏教とは、どのような性格の仏教だったのだろうか。いい換えれば、善正や忍辱、法蓮たちはどんな『ほとけ』を拝んでいたのだろうか。
どうやらそれは、釈迦如来でも薬師如来でもなく、弥勒菩薩だったらしい。傍証をいくつかあげてみよう。
……
弥勒の痕跡はまだある。豊後国宇佐郡に所在する宇佐神宮は英彦山と非常に関係が深い神社で、八幡神(八幡菩薩)を祀る宇佐神宮は欽明天皇32年(571)の創祀(そうし)と伝えられている。はやくから神仏習合がすすみ、8世紀初頭には社殿とともに神宮寺(神社に付随して建てられた寺院)が建てられているが、その寺は弥勒寺(弥勒禅院)と称した。現存せず、寺跡しか残っていないが、この弥勒寺の初代別当つまり最初のトップに任じられたのは、ほかならぬ法蓮であった。
古代の九州北部では弥勒信仰が隆盛し、なかでもその中心にあったのが英彦山であり、そこは弥勒の聖地として信仰されたのである。そして、ここがポイントになるのだが、そこには同時に岩窟を聖地とし、また修行場とする岩窟信仰が盛んなところでもあった。
では、この弥勒信仰は具体的にはどこから伝来したのだろうか?そして、弥勒信仰と岩窟信仰の重なりは何を示唆しているのだろうか?
第四章 大和朝廷の弥勒信仰と御窟殿の正体
九州を横断した新羅の王子アメノヒボコ
第弐章でも触れたが、日本に正式に仏教が伝来したのは538年もしくは551年で、百済の聖明王から欽明天皇に仏像と経典・仏具が贈られたのがきっかけであった。
このことから、日本は歴史的には新羅よりも百済との結びつきが強いと思われがちだ。たしかに、日本は4世紀から7世紀にかけて百済と同盟的な関係を築いていた。しかし正確にいうと、百済と良好な関係にあったのは、『日本』ではなく、奈良にあった『大和朝廷(倭国)』であり、日本列島全体が百済と親密であったわけではない。
たとえば九州北部の場合は、新羅とは距離的に近く、対馬海峡を挟むものの、船を使えば容易に往来できるので、百済より新羅との関わりのほうが古来、圧倒的に深かった。
試みに、いくつか証拠をあげてみよう。
『古事記』や『日本書紀』によれば、垂仁天皇の時代、新羅の王子アメノヒボコが故国日本に帰った妻の後を追い、神宝を携えて来日し、最終的に但馬国に出石(いずし)に住み着いたという。このアメノヒボコ伝説は、かつて新羅の人々が日本に渡来して但馬に住み着いた事実を説話化したものと考えられている。
……つまり、九州北部は新羅からの渡来人にとっては日本への玄関口の役割を果たしていた。
豊国は新羅系渡来人の拠点か?
また日本列島各地には、新羅系渡来人が自分たちの祖神を祀ったことにルーツを持つと思われる新羅系神社が点在しているが、そのなかでも有力で歴史が古いものは圧倒的に九州、とくに北東部に多い。古代には豊国({とよのくに}豊前国・豊後国)と呼ばれるところで、現在の福岡県と大分県にあたるエリアである。
……
そして豊前国には全国の八幡宮・八幡神社の総本宮である宇佐神宮があるが、宇佐神宮の神官一族のひとつである辛島氏は豊前国宇佐郡に住み着いた新羅系氏族と考えられている。宇佐神宮の祭神である八幡神のルーツに対しても、渡来人の信仰との関わりが取り沙汰されている。
また、渡来人といえば大和朝廷に強い影響力をもった秦氏が有力だが、秦氏の出身地は新羅とする説が有力だ。『隋書』倭国伝には『筑紫国に秦(しん)王国がある』という謎めいた記述があって論争の種となっているが、これを『九州北部にかつて秦氏の本拠地があったことを示している』とする解釈がある。秦王国は、半島と畿内への中継点のような場所だったのだろう。
さらに、英彦山を中心とする九州北部に特徴的な岩窟信仰や弥勒信仰、摩崖仏(まがいぶつ)などは、新羅のそれとの親近性を如実に示し出しているといえる。ちなみに、英彦山の北岳からは7世紀後半~9世紀に新羅で制作されたとみられる金銅如来立像(こんどうにょらいりつぞう)が見つかっている。
英彦山の開山も新羅系渡来人か?
つまり、古代には新羅人は九州北部へ頻繁に往来しており、もちろん住み着く者もあった。新羅と九州北部は同じ文化圏に属することになったのだ。
これらのことからすれば、おのずと次の結論が導き出される。英彦山を中心とする岩窟系弥勒信仰は、新羅系渡来人の信仰を源泉としていた──。
ちなみに、第2章で英彦山が中国・北魏からの渡来僧・善正によって開山されたという伝説を紹介したが、この善正も広い意味では新羅系渡来人であった可能性が高い。というのも、歴史的にみると、百済は南朝の宋と結びつきが強かったが、それに対して新羅は、北朝の北魏とつながりが深かったからだ。善正はおそらく布教のために北魏から高句麗を経由して新羅にいたった僧侶で、さらに東へ布教しようという熱意を抱いて、新羅から海を渡って九州へやってきたのだろう。
だとすれば、善正が将来し、その弟子・忍辱法師が英彦山の岩窟に祀った『異国の神』とは、弥勒半跏思惟像(みろくはんかしいぞう)だったのではないだろうか。
英彦山を中興した法蓮が籠もった般若窟(玉屋窟)には、弥勒半跏思惟像が祀られたのではないだろうか。
忍辱法師や法蓮は、弥勒の化身としての『花郎(ファラン)』になることをめざして英彦山で修行に励んだのではないだろうか。
大和朝廷も席巻した弥勒信仰
九州北部に対して、一見すると、飛鳥地方や大和朝廷は新羅との関係は薄い。
だが、弥勒信仰に関していうと、それは飛鳥や朝廷にも早くから影響を及ぼしている。
『日本書紀』によれば、敏達天皇13年(584)、鹿深臣({かふかのおみ}甲賀氏)が百済から弥勒石像を将来した。その後、この像は朝廷の有力者・蘇我馬子の手に渡り、馬子はこれを自宅近くに造営した仏殿に安置したという。この弥勒石像については、小型の半跏像と推定する学説がある。
推古天皇31年(623)には新羅から来た仏像が葛野(かどの)の秦寺({はたでら}京都・太秦{うずまさ}の広隆寺の前身。秦氏の氏寺)に納められた。この仏像は有名な弥勒半跏思惟像(宝冠弥勒)のことと考えられている。
前年に聖徳太子が没しているので、日本の代表崇拝者であった聖徳太子の冥福を祈って新羅から贈られたものとする見方が有力である。
聖徳太子が母のために斑鳩(いかるが)に建立した伝えられる尼寺・中宮寺の本尊である菩薩半跏像(飛鳥時代作)は、寺では如意輪観音像として伝えられているが、おそらく本来は弥勒菩薩像として造像されてものだろうといわれている。
仏教公伝で百済から贈られた仏像も弥勒像だった!?
また、6世紀なかばの仏教伝来時にもたらされた仏像も、じつは弥勒像であった可能性があると筆者は考えている。
……
いずれにしても、6世紀なかばから7世紀初頭にかけて、弥勒信仰は大和朝廷にも深く浸透していたのである。
このことには大和朝廷と友好的な関係にあった百済でも弥勒信仰が隆盛していたことが大きく影響しているのだろうが、6世紀後半から7世紀前半にかけては新羅が日本との外交を重視し、大和朝廷のもとに頻繁に使節を送っていたことも見逃せない。その新羅外交の日本側の責任者が聖徳太子であり、彼を支えたのが新羅系渡来人で、太子のブレーンであった秦河勝であった。
御窟殿に祀られていたのは天照大神ではなく、弥勒だった
そしてまた、中央に先んじて弥勒信仰が広まって根づいていた九州北部からの情報や人間の往来によっても、弥勒信仰は朝廷に伝えられていただろう。
……
6世紀後半以降、大和朝廷には弥勒信仰が徐々に浸透し、宮中には弥勒像が安置されるようにんっていった。安置がはじまったのは、おそらく聖徳太子が活躍した推古朝(592~628年)だろう。宮中の弥勒信仰は救世主としての弥勒の下生(げしょう)を願うという信仰が基盤になっていた……。
この弥勒の祭壇こそが、天武天皇の時代(7世紀後半)に飛鳥浄御原宮にもうけられた『御窟殿(みむろのとの)』の原形であり、天岩屋(あまのいわや)に擬せられる御窟殿に祀られていたのは、じつは天照大神ではなく、弥勒であつた!
すなわち、天照大神とは、弥勒をベースとして7世紀後半に生み出された神だったのだ!
第五章
弥勒から天照大神へ、そして天照弥勒大菩薩へ
インドから大和朝廷に至る弥勒信仰史
ここで、これまでの論旨を整理してみよう。
56億7000万年後に人間世界に降臨し、衆生(しゅじょう)を悟りに導いてくれるという弥勒への信仰は、インドを起源として中国に広がり、5世紀までには朝鮮半島に達した。
朝鮮半島南東部に興った新羅では、弥勒信仰はエリート青年団の首領「花郎」への期待と結びついて特異な発展をとげ、花郎は弥勒像を安置した洞窟で弥勒と一体化する修行に務めた。
このような岩窟信仰と結びついた弥勒信仰は6世紀はじめに秦氏などを介して日本の九州北部に伝播(でんぱ)し、英彦山を中心に岩窟系弥勒信仰が根づいていった。それは徐々に大和朝廷にも伝わり、6世紀後半から新羅からも直接、岩窟系弥勒信仰が朝廷にもたらされた。
やがて宮中でも弥勒像が崇拝されるようになり、宮中の一室には洞窟を模した祭壇がもうけられ、弥勒像が安置された。その弥勒祭壇は7世紀後半の天武朝にはより岩窟をもしたリアルなものに発展し、それが置かれた建物は『御窟殿』または『御窟院(みむろのいん)』と呼ばれるようになっていった──。
天照大神は弥勒をモデルにして創出された
……
筆者の推理を披露しよう。
天武天皇元年(672)の壬申の乱で勝利して即位した天武天皇は、国家の中央集権化を推し進めたが、その一環として、神話も盛り込んだ公的な歴史書の編纂を国家的事業として開始された。すなわち『古事記』と『日本書紀』の編纂である。
当時、天皇家の祖神は『日(ひ)の神』とか『アマテル(天照)の神』呼ばれていた。それは太陽を神格化した、素朴な自然神である。だが、天皇による国家統治を正当化する歴史書をまとめあげるには、天皇家の祖神をめぐる神話は、ありふれた単純なものであってはならいそれを聞く者・読む者のだれをも魅了するような、ドラマチックで文学性にも富んだものでなければならない。『遠い昔、日の神の子孫が天上から地上に降り、天皇になりました』というレベルの単純なものであってはけっしてならない。
そこで、国司編纂事業に従事した朝廷のある人物──仮にX氏としておこう──は、宮中にあった御窟殿と弥勒像に目をつけた。
まず『日の神』と『メシアとしての弥勒』、天武の後を継いだ女帝・持統天皇(天武の皇后)のイメージを融合させて、「女神・天照大神」というキャラクターを創案した。「アマテラス」とはアマテルを敬語的にいい換えたもので、これによって神名に荘重さが加わった。『弥勒上生経』によれば、兜率天上の弥勒の身体は黄金色で、白毫(びゃくごう)からつねに光明をはっしているというので、弥勒はもともと太陽神とリンクさせやすい存在であった。
『天照大神は兜率天になぞらえられる高天原に暮らし、神々を統べている』という設定も練り上げられた。
……
また、天上の神が地上に降臨するという類いの神話は天皇家のみならず日本各地の豪族のあいだで伝承されていたが、X氏はこの降臨神話を『弥勒下生』と融合させ、荘厳な『天孫降臨神話』をも案出した。こうして『古事記』と『日本書紀』が成立した──。
すなわち、天照大神とは弥勒をモデルに創出された神であった。
天岩屋神話は古いルーツをもつものではなく、7世紀後半につくられたものであった。
正史からは消されていった弥勒の痕跡
しかし、こういう疑問を抱く読者もいるかもしれない。
本当に飛鳥時代に弥勒信仰が朝廷に広まっていたのだろうか。そもそも、宮中に弥勒祭壇など存在したのだろうか。記紀にはそんなことはまったく書かれていないではないか──。
その疑問はもっともだが、筆者はこう考えている。
『記紀のもとになる記録や記紀の草稿には、宮中の弥勒祭壇に関する記述は存在したが、記紀の編纂が進んだ天照神話がまとめられてゆく段階でそれは消された──』
なぜ消されたのか。
理由は簡単だ。弥勒は当時の日本にとって『異国の神』である。そんな異国神が宮中に公然と祀られていたことが明記されてしまうのは、大和朝廷側として都合が悪い。ましてや弥勒が天皇家の祖神のモデルであることが感づかれてしまうことがあっては絶対にならない。
そのため、弥勒に関する記述は、ごく一部を除いて、記紀からは巧妙に消されていった。
仏教公伝時の仏像も本当は『弥勒像』と書かれていたのだが、意図的に、『釈迦像』と書き換えられたのかもしれない。だが、御窟殿の記載だけは、弥勒の痕跡を拭ったうえで、あえて『日本書紀』に残された。──天照神話誕生の秘められた祈念碑として、
そして記紀が成立した奈良時代以後には、宮中から『御窟殿』の影は完全に抹殺されてしまった。
藤原不比等がアマテラス神話を創案した
……
英彦山を中興した忍辱法師は俗名を藤原恒雄といったが、彼は不比等と同族だったのではなかろうか。
ミトラと天照大神の奇妙な符合
インド起源の弥勒(メッテイヤ、マイトレーヤ)への信仰は、当初は救世主(メシア)としての要素は薄かったといわれる。
その弥勒がのちに救世主としての信仰を強めるようになったのは、古くから終末論的救世主思想が広まっていたイランの太陽神・光明神ミトラ(ミスラ)への信仰と習合したためだ、といわれる。
そのミトラ信仰がイランから西へも伝播して、古代ローマ帝国でミトラス教を隆盛させたのはよく知られている話だし、原始キリスト教がミトラ教の影響を強く受けたことも、いまではよく知られていることだろう。
興味深いことに、ミトラス教の神話では、救世主ミトラは岩山から誕生したということになっている。このミトラ神話と、天照大神の岩屋戸神話の符合は、はたして偶然の産物だろうか?
ミトラも天照大神もともに太陽神として崇められていることも、偶然の一致だろうか?
これらのことは、はからずも、天照大神がミトラ=弥勒のバリエーションであることを証ししているのではないだろうか?
パンデミックが預言する天照弥勒大菩薩の降臨
弥勒を救世主として決定づけることになった経典に『法滅尽経(ほうめつじんきょう)』というものがある。インドにはこれに対応するサンスクリット本が見つかっていないため、中国で作られた偽経(ぎきょう)だと推測されているのだが、この経典は弥勒信仰だけでなく、末法思想をも広まるうえで大きな影響を及ぼしている。
『法滅尽経』とは、ひと言でいえば、釈迦の教えすなわち法が滅びようとするときのありさまを語った書で、釈迦によって予言書というかたちをとっている。そこには正しい仏法が行われなくなる末法の世の恐ろしさが、リアルに描写されている。
……
つまり世が末法に入るとき、天候不順、疫病の流行、大洪水が引き続き、世界は破局に至る。
……
法滅の危機と世界の大破局の末に、メシア弥勒が降臨し、理想的な平和社会が実現されるというのだ。
それは途方もなく遠い将来のことだ。…」
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ヤマト王権・大和朝廷は、日本国を天皇(帝)の権力・権威の下に統一する為には、朝鮮半島の敵対勢力と手を組んで反抗する地方独立王朝を全て征服しなければならなかった。
地方の独立王朝や渡来人達は、朝鮮半島や中国大陸の勢力と結びつく事でヤマト王権・大和朝廷から分離独立しようとしていた。
日本国が1つの統一国家になるか複数の分裂国家連合になるかは、ヤマト大王・日本天皇、ヤマト王権・大和朝廷の双肩にかかっていた。
現代の歴史教育は、天皇勢力の武力による日本統一を侵略行為と否定し、日本国を拒否する地方住民の感情を踏み躙る犯罪行為・悪であると教えている。
天皇制度国家日本の否定、つまり天皇制度を廃絶する為ならば統一国家日本はいらない、と言う事である。
もし、日本が天皇・帝による中央集権的統一国家を暴力的に建国しなかったら、日本は朝鮮半島や中国大陸の諸勢力の影響を受けて離散集合を繰り返し殺戮に次ぐ殺戮という地獄になっていた。
それは、中国・朝鮮・チベット・ウイグル・モンゴルなどの中華の歴史を見れば明らかである。
反天皇反日的日本人達が望む理想の日本とは、殺戮による地獄のような日本である。
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現代の韓国人窃盗団は、日本全国の警戒心の薄い寺院に押し入り貴重な仏像や仏画など信仰対象物を強奪し、韓国内の闇市で売って金を稼いでいる。
如何に無宗教を自称する日本民族日本人であっても、人が崇め崇拝し信仰している尊い宗教関連聖遺物を盗んで金に換えようなどという「罰当たり」な事は、絶対にしない。
ただし、宗教・神仏を否定するマルクス主義的日本人や日本の宗教を否定するキリスト教原理主義的日本人であれば「罰当たり」をする可能性がある。
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ローカルな古代日本人とグローバルな現代日本人とは違う。
その違いは、天皇・皇室、大王・大王家への想い込みの濃淡である。
特に、神仏を否定し無宗教を自慢する反天皇反日的日本人とは縄文人の子孫である日本民族日本人ではない。
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奈良時代までの日本は、インド、中国、中央アジア、ペルシャ、ローマなどの宗教や知識、技術など多くのモノを朝鮮半島を経由して無条件で受け入れていた。
その仲介をしてくれたのは、親日派・知日派諸王朝であって、反日派・敵日派諸王朝ではなかった。
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日本天皇・日本国・日本民族日本人が感謝するのは、親日派・知日派諸王朝であって反日派・敵日派諸王朝ではない。
ヤマト大王・ヤマト王権は、親日派・知日派諸王朝から受けた恩に報いるべく、滅亡した親日派・知日派諸国の敗者や難民を差別する事なく無条件で受け入れ、差別する事なく土地を分け与え、臣下として姓(かばね)を授け、才能・能力に見合った官位や役職に登用した。
彼らは、帰化人として、日本天皇に忠誠を誓い、日本国の為に命を犠牲にして働いた。
帰化人は、逃げ出してきた半島・大陸に帰還するという望みを捨て、日本国に住み日本人となって異国に骨を埋める覚悟で、祖先の本貫を捨てて日本風の氏姓に改名した。
帰化人と渡来人の違いは、創氏改名したかどうかである。
ヤマト王権は、忠誠を誓う帰化人を身近に住まわせ、忠誠を誓わない渡来人を都から遠ざけた。
事実、忠誠を誓わない渡来人達は反乱や暴動を起こし抵抗していた。
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統一新羅は、日本国への海賊行為で虐殺・強奪・拉致を繰り返す、国交が断絶し、人的な交流が全くない反日派・敵日派の王朝であった。
古新羅は、ヤマト王権・日本国と戦争を繰り返していたが、同時に多方面での交流を続ける親日派・知日派の王朝であった。
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日本国において、戦争を繰り返す国とは仲が悪いとは限らず、戦争しない国とは友人のように仲がいいとは限らない。
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日本天皇・日本国・日本民族日本人にとって、反日派・敵日派の統一新羅・高麗・李氏朝鮮・大韓帝国は、恩を受けた相手でもなければ、感謝すべき相手でもなく、拒否し遠ざけるべき敵であった。
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日本民族日本人と朝鮮人は、同じアジア人といっても別種のアジア人であり、民族・部族においても関係性は薄い。
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日本民族日本人は、乱婚を繰り返して生まれた混血(ハーフ)の雑種民族で、血はよごれに汚れていて、純血種・純種ではない。
日本民族日本人は、アイヌ人・琉球人と同じ縄文人の子孫である。
海洋民の子孫であった縄文人は、日本列島を中心に、南は琉球、北は北方領土・千島列島・樺太、西は朝鮮半島南部に広く住み、東シナ海・日本海を航路として手漕ぎ舟で行き来し、一部は北アメリカ大陸の北部太平洋岸に移り住んでいた。
大陸系漢民族や朝鮮人は、西方草原の民や北方系草原の民が黄河流域に住み着いた種族の子孫である。
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