🕯97)─1─仏教は女性蔑視・女性差別の宗教である。~No.211No.212 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 仏教といっても、日本仏教と中国仏教・朝鮮仏教とは根本的に違う異質な仏教である。
 日本仏教は、ある意味、異端の仏教である。
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 女性差別・女性蔑視は、仏教、ユダヤ教キリスト教イスラム教など多くの普遍宗教に存在する。
 仏教とユダヤ教キリスト教イスラム教の違いは、奴隷制度であった。
 キリスト教は、異教徒非白人の日本人を奴隷として売買する事を容認していた。
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 仏教を否定する反宗教無神論の日本人達。
 日本で静かに進む共産主義者マルクス主義者)による神殺し・仏殺し。
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 『華厳経』「女人(にょにん)は地獄の使(つかい)なれば、能(よ)く仏の種を断つ。外面(げめん)菩薩に似て、内心夜叉(やしゃ)のごとし」
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 2019年6月18日 朝日新聞「女性は仏になれない…仏典に残る性差別 どうすれば
 有料会員記事
 中塚久美子
 #MeToo運動や大学入試における女性差別の表面化を機に、ジェンダー平等の意識が改めて高まるなか、仏教界でも差別との向き合い方が問われている。受け継がれてきた経典には、現代の目で見ると差別的な記述がある。教えをどう捉え、現代社会とどう折り合いをつけていくのか。各地の住職らによる模索も始まっている。
 「経典の差別展」女性差別を外す 東本願寺「時期尚早」
 真宗大谷派の本山・東本願寺京都市)が昨年12月~今年2月に開いた企画展「経典の中で語られた差別」で、世界人権問題研究センター(同市)の嘱託研究員、源淳子さん(71)が準備した女性差別に関するパネルが、同派の意向で展示されないことになった。
 外されたパネルは、女性は修行しても仏になれないとする「女人五障(にょにんごしょう)」、女性は親、夫、子に従うべきだとする「三従(さんしょう)」の教えのほか、女性は男性に生まれ変わって成仏できる「変成男子(へんじょうなんし)」思想を紹介するもので、現代の目線で見ると差別的な内容だ。古代インド社会の女性差別観が仏教に流入したものという。
 源さんは「仏教の名の下による思考停止ではないか」として、公開質問状を出して外された理由をただした。5月下旬に開かれたシンポジウムで示された宗務総長名の回答は、「(経典などは)著された時代社会の状況が色濃く反映されており、現代を生きる私たちにとっては受けとめ難い表現がある」「正式な見解を見い出せるように、継続した研究を進める」などとした。源さんは「どう取り組むのか注視したい」と話した。
 経典は仏教の開祖・釈迦が説い…」
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 『仏教における女性差別を考える』
 親鸞ジェンダー
 源 淳子著
 四六判 173頁 2020.02
 978-4-87154-176-3 あけび書房 税込1,650円
 寺に生まれ、仏教研究者、そしてジェンダー研究者である筆者。
人間親鸞をこよなく敬愛するがゆえに、宗教的自立を探究するがゆえに、親鸞における、そして仏教界における女性差別を鋭く問いただす。
日本人の女性差別観の根本を明らかにする画期的な一冊。
 目次:
第1章 東本願寺ギャラリー展での女性差別問題
 ① 経緯
 ②「大谷派女性差別を考えるおんなたちの会」シンポジウム
 ③ 真宗女性のつながり
第2章 わたしのターニングポイント ―フェミニズムとの出逢い
 ① 専業主婦
 ② フェミニズムとの出逢い
 ③「女人五障」
 ④「変成男子」
第3章 ジェンダーの視点で学んだわたしの課題
 ① 家制度
 ② 檀家制度下における業論
第4章 「女人禁制」
 ① 穢れ
 ②「女人五障」も「女人禁制」
第5章 親鸞思想とわたし
 ① 親鸞との出逢い
 ② 世俗と仏法
第6章 宗教的自立
 ① 宗教的自立を阻むもの
 ② 宗教的自立とは
 著者紹介:
 源 淳子 (ミナモト ジュンコ)  
1947年、島根県奥出雲町の浄土真宗本願寺派の寺に生まれる。龍谷大学大学院修士課程修了、大谷大学大学院博士課程満期退学。得度により僧籍をもつ。専門は、フェミニズムの視点で日本の仏教をはじめ宗教における女性差別の研究を続ける。
(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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 BOOKウォッチ
 仏教は「女性差別の宗教」なのか
 2017/9/23
 仏教は女性差別の宗教である、といわれることがある。本当にそうなのか。著者の植木雅俊さんが仏教研究を志したきっかけに、そんな俗説への疑問があった。
 ひとくちに仏教と言っても大乗、小乗、さまざまな宗派があり、女性観には大差がある。研究を進めると、「女性差別」の根拠とされる仏典は、釈尊滅後、権威主義化したいわゆる小乗仏教のものであり、また釈尊が平等を説いていても漢語段階で改変されたものであることがわかった。植木さんは時代をさかのぼり、釈尊のなまの言葉により近いとされるパーリ語の原始仏典をひもとく。
 市井の仏教研究者、数々の受賞歴
 たとえば『シンガーラへの教え』と言うパーリ語の仏典がある。ここでは「夫は妻に五つのことで奉仕しなければならない」と書かれている。それが『六方礼経』として漢訳されると、奉仕するのは妻の側に変わり、「婦(つま)が夫に事(つか)うるに五事あり」と、正反対の話になる。当時の中国は儒教社会。家父長制に適応するようにすり替えられてしまい、それが日本にも伝わっていたことがわかった。
 1951年生まれの植木さんは、中年になってから本格的に仏教研究に取り組み、このところいくつもの出版関係の賞を受賞している。
 九州大学の理学部出身。もともと仏教に関心があり、会社員生活をしながら一念発起、40歳から本格的にサンスクリット語なども勉強した。日本のインド哲学研究の最高権威、中村元・東大名誉教授が創設した「東方学院」に10年近くコツコツ通い、2002年お茶の水女子大で「仏教におけるジェンダー平等の研究――『法華経』に至るインド仏教からの 考察」で博士号を取得。その論文は04年、『仏教のなかの男女観――原始仏教から法華経に至るジェンダー平等の思想』(岩波書店)として出版された。
 08年の『梵漢和対照・現代語訳 法華経』(上・下、岩波書店)で毎日出版文化賞。11年に中公新書で『仏教、本当の教え――インド、中国、日本の理解と誤解』、13年には『梵漢和対照・現代語訳 維摩経』(岩波書店)で「アカデミズムの外で達成された学問的業績」に対して送られるパピルス賞を受賞。15年には『サンスクリット原典現代語訳 法華経』(上・下、(岩波書店)を出版するなどこの10数年、立て続けに仏教関係で画期的な出版を続けている。
 解説を先に読むと理解が進む
 最新作で取り上げた『テーリー・ガーター』は、植木さんが仏教の男女平等思想を研究する中で最も重視した仏典だ。テーリーとは女性出家者(尼僧)の長老、ガーターとは「偈」(げ=詩)のこと。合わせて「長老の尼僧たちの詩」という意味で、紀元前3世紀にインドからスリランカに伝えられたパーリ語の原始仏典の一つ。72人と1グループの尼僧たちが詠んだ522の偈が収録されている。
 尼僧の出身は王族が23人、豪商が13人、バラモン階層が18人、元遊女らが4人など。老いて美貌の衰えを嘆く女性、夫や子供に先立たれた女性、母と娘で夫を共有することになり苦悶する女性、自殺を図ろうとした女性など様々な悩みを抱えた女性たちだ。いずれも釈尊の弟子と なって教えに従い、安らかな境地に達したことを「偈」で語る。
 パーリ語からの逐語訳本としては、すでに中村元による『尼僧の告白――テーリーガーター』(岩波文庫、1982年)がある。ほぼ本文訳のみだが、植木さんの新版は、本文の訳のほかに解説が100ページ以上あり、懇切丁寧な作りとなっている。植木さん自身、「はしがき」で、「インドの二千五百年も前の詩であり、文化の違いから現在の私たちには理解し難い表現も多々あるので、先に『解説』を読んでから『テーリー・ガーター』の本文を読まれた方が理解しやすいかと思う」とアドバイスしている。
 『テーリー・ガーター』は、宗教関係以外でも、看護、医療、ジェンダー論との絡みで引用されることがある。本書は今後、そうした様々な分野でも基本的なテキストとして利用されることになりそうだ。
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 比較宗教(仏教とキリスト教
 仏教の「女性」
 キリスト教の「女性」
 仏教では「女性は女性のままでは仏になれない」。
 キリスト教では?
 仏教とキリスト教の大きな違いの一つは、女性に対する考え方でしょう。
 仏典に、「女性は女性のままでは仏になれない」と書いてあるのを、あなたは知っていますか。女性は救われない、というのではありません。女性は女性のままでは成仏できない、女性のままでは救われない、というのです。
 女性は女性のままでは仏になれない
 「仏教の女性観は、いささかひどい女性蔑視だと思います」
 こう語るのは、仏教解説家として知られる、ひろさちや氏です。氏自身は仏教徒ですが、続けてこう言っています。
 「というのは、仏教においては、まず女性は、女性のままでは仏や菩薩(仏の候補生)になれない、とされているのです。仏や菩薩になるためには、女性は一度男子に生まれ変わらなければなりません。それを、
 『変成男子』(へんじょうなんし)
 と言います。……これは、どうにも言い逃れのしようのない女性差別です」
 この「変成男子」とは、どういうことでしょうか。
 仏教には、もともと女性は修行をしても仏になれない、という考えがありました。仏典にはこう書かれています。
 「悟りに達しようと堅く決心して、ひるむことなく、たとえ測り知れないほどの理知を持っているとしても、女性は、完全な悟りの境地は得がたい。女性が、勤め励む心をくじくことなく、幾百劫(一劫は四三億二〇〇〇万年)・幾千劫の間、福徳のある修行を続け、六波羅蜜(修行の六ヶ条)を実現したとしても、今日までだれも仏になってはいない」(法華経・堤婆達多品)
 さらに、
 「なぜかというと、女性には"五つの障り"があるからだ」
 と述べ、女性がなれないものを五つ列挙しています。それらは、
 1 梵天王になることはできない
 2 帝釈天になることはできない
 3 魔王になることはできない
 4 転輪聖王になることはできない
 5 仏になることはできない
 です。1~4の「梵天王」「帝釈天「魔王」転輪聖王」は、いずれもインドの神々を仏教に取り入れたものですから、現実には問題ないでしょう。しかし最後の「女性は仏になることができない」は、女性信者にとって大問題であるはずです。
 この「女性は仏になれない」という考えは、仏教の創始期からありました。実際仏典には、あちこちに女性を劣等視した言葉が見受けられます。なかには露骨な表現で、
「女は、大小便の満ちあふれた汚い容器である」
 というような、耳を覆いたくなるような表現さえ少なくありません(スッタ・ニバータ)。「汚い容器」であるのは男も同じなのですが、どういうわけか仏典には、男については決してそのような表現がないのです。
 女性が劣った者であり、仏になる能力のない者であるという考えは、仏教の創始者シャカ自身が持っていたようです。実際、シャカは従者アーナンダに対して、
 「女は愚かなのだ……」(増支部
 と語っています。仏教は、インド古来の階級制度である「カースト制」は否定しましたが、女性差別の考えは捨てきれなかったようです。
 女は男にならなければ仏になれない
 そこで困ったのが、後世の大乗仏教徒たちでした。
 大乗仏教は、出家の人間だけでなく、在家の人間も成仏できることを目指していました。
 また男性だけでなく、万人が成仏できることを目指していました。ですから、「女性は仏になれない」という教えは、彼らにとって大きな問題となったのです。
 そこで考え出されたのが、「女が男になる」(変成男子)という考えです。
 女が仏になれないのであれば、一度男に生まれ変わればよい、というわけです。そのため例えば、仏になることを一心に願って修行していたある女性の生殖器が、シャカや人々の見ている前で突然消え、たちまち男性の生殖器が生じた、などというような話も創作されました。
 こうして後世の仏教は、女性も修行を積んでよい、女性も修行を積めば仏になれる、と一応説くようになりました。また「勝鬘経」(しょうまんぎょう)のように、女性信者が仏法を雄弁に語る、という内容の仏典も創作されました。しかし勝鬘夫人の場合でも、仏になれるのは、
 「何度も何度も生まれ変わって後」
 と言われています。つまり、輪廻転生して将来"男"に生まれ変わってから成仏することが、想定されているのです。
 後世の仏教徒の中には、経典の言葉を無視して、「女性は女性のままで仏になれる」と説く者も現れましたが、仏典を見る限りでは、女性のままでは仏になれません。創価大学岩本裕客員教授仏教徒)は、こう述べています。
 「女性も仏になれるという女人成仏の思想は……一度男になった上でなければ成仏できないとされた。これが明らかに、女性を男性より劣等視したものであることは、いかなる抗弁もゆるされないであろう」
 また、こう述べています。
 「僧侶のセックスを解放し、『弥陀の本願(念仏を唱える者を救うという阿弥陀仏の誓い)には、老少善悪の人を選ばず』と唱えた親鸞にしても……女人のままでの成仏に踏みきれなかったのは、仏教の立場から見て、女性はやはり救いがたい存在であったからであろうか。いずれにせよ、仏教がフェミニストでないことは事実である」
 「親鸞」といえば、僧侶として初めて公然と妻を持ち、仏教界としては革命的な生き方をした人です。彼は、阿弥陀仏の救いには人の老若・善悪の別を選ばない、と説きました。
 しかし老若・善悪、そして男女の別を選ばない、とは説き得なかったのです。彼は、阿弥陀仏は女性を「変成男子」によって救う、と説きました。
 仏教の教理によると、「仏」はみな男性なのです。阿弥陀仏も、薬師仏も、大ビルシャナ仏も、その他ガンジス川の砂の数より多いと言われる無数の仏は、みな男性です。「仏」は男性名詞なのです。
 また男性なのは、「仏」だけではありません。「菩薩」もそうです。菩薩は、まだ仏にはなっていないが、仏の一歩手前にある人です。仏の候補生です。
 たとえば「観音菩薩」を見てみましょう。観音像は女性的な姿に造られているので、女性だと思う人もいるでしょうが、じつは男性です。仏教の教理では、菩薩はすべて男性なのです。
 また、仏典には、
 「仏国土に婦女子(女性)はいない」(法華経・五百弟子受記品)
 と書かれています。仏の国である「浄土」に、女性はいないのです。
 仏教は、「人が仏になるための教え」ですから、仏になるためには、女性はまず男に生まれ変わらなければなりません。
 女性は、うまく来世で男に生まれ変わって、男としてもう一度修行すれば、あるいは救われるかもしれない、というわけです。もっともこれは、「輪廻転生」によって来世で別の者に生まれ変わる、というようなことが本当にあればの話ですが。
 仏教の女性信者は、この世で善行を積んで、来世で男に生まれ変わって修行できるようになることを、渇望しました。女性は早く男性になることを夢見たのです。
 仏教は、女性が女性に生まれたことに何かの意味や価値があるとは、見ていないようです。仏典を読んでも、女性が女性に生まれた意味や価値についての言葉を、私たちは何も見いだすことができません。
 女性が女性に生まれた意味
 つぎにキリスト教を見てみましょう。
 聖書によれば、神が人間を男と女に造られたことには、深遠な意味があります。
 聖書は、「神は愛である」と言っています。これは、永遠から永遠まで神が愛のおかたである、ということです。神は、万物が存在する以前から「愛」であられました。
 しかし愛には、対象が必要です。もし人間も世界も、いかなるものも存在しない時から神は愛であったとするなら、神は何を愛の対象としておられたのでしょうか。
 神はご自身のうちに、愛の対象を持っておられたのです。クリスチャンは聖書によって、 「父なる神」と「御子イエス・キリスト」とは一体のおかたで、おひとりの神となっておられることを、知っています。
 つまり、おひとりの神の内に、父なる神と御子キリストとの"愛の交わり"があるのです(さらに聖霊との交わりを加えて、これら三者が一体であることを、神の「三位一体」と言います)。
 この"愛の交わり"は、世界に何も存在しない時から、神の内にありました。そこで神は、人間を「神のかたちに造られた」とき、人間の世界にも"愛の交わり"をお与えになりました。すなわち人を男女に造り、そこに交わりをお与えになったのです。
 ですからキリスト教では、「性」は神の創造によるものとして、本来良いものと見られています。それは、不健全なものに走らない限り、肯定されています。
 また聖書によれば、男と女は神の御前に、人間として平等です。
 「主にあっては、男なしには女はないし、女なしには男はない。それは、女(エバ)が男(アダム)から出たように、男もまた女から生まれたからである。そして、すべてのものは神から出たのである」(コリント人への手紙第一、一一・一一~一二)
 男と女は、お互いに依存し合って存在しており、人間として平等です。そして両者は神から出たのです。
 しかし、かといって聖書は、男女が同じ役割をすべきだとは見ていません。男女は、それぞれ別の働きのために造られました。聖書は、
 「男は神の似姿であり、神の栄光の現われ」(コリント人への手紙一、一一・七)
 と述べ、女については、
 「女は男の栄光の現われ」(同)
 また、
 「助け手」(創世記二・二〇)
 と述べています。「男」は、人間の主体として神の栄光を現わすために造られました。そして「女」は、男から造られた者として男を助け、男と共に人間の創造目的を完成するために、造られたのです。
 ですから、男と女には、それぞれの役割が与えられています。そして神・男・女が"三位一体"となって家庭を形成していくとき、家庭が完成すると教えています。
 女性は、その特有の愛情、やさしさ、感性、その他の資質を生かすべきです。キリスト教は、女性が女性に生まれたことには、大きな意義がある、と主張します。
 女性は女性のままで救われる
 そして、女性は女性のままで救われます。聖書は言っています。
 「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。……もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない」(ガラテヤ人への手紙三・二六~二八)
 救いに至るには、国籍、身分、老若、善悪、また男女の差別はありません。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者」(コリント人への手紙第二、五・一七)です。男も女も、信仰によって同じ救いに入ることができます。
 人は、神の御前に、男も女も同様に罪人です。また誰であれ、人は自分の善行によっては救いに到達できません。同じイエス・キリストの救いが必要です。そして信仰を告白すれば、同じ罪の赦し、同じ永遠の生命、同じ神の子の身分、同じ幸福が与えられます。
 だからこそイエス・キリストは、はじめから、男にも女にも同じように伝道されました。
 サマリヤ地方を通られたときには、井戸に水をくみに来た一人の女に伝道し、彼女を信仰に導かれました(ヨハネ福音書四章)。この女は、五回も結婚・離婚を繰り返し、そのときは六人目の男性と同棲していたのです。
 彼女はある意味では、なかなか本当の幸福をつかめない、かわいそうな女でした。しかしキリストは、この女に目をとめられ、彼女にやさしく、真の幸福とは何であるかについて諭されました。
 彼女が信仰を持ったとき、キリストはそれをとても喜ばれました。その後、弟子たちが町で食物を買ってきたので、その食物をキリストに差し出すと、キリストはすぐに食べようとはされません。
 弟子たちが不思議に思っていると、キリストは、
 「わたしを遣わした方(神)のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です」(ヨハネ福音書四・三四)
 と言われました。キリストは言わば、
"わたしは今、神のみこころを行ない、それによってひとりの人が救われたので、胸がいっぱいで、心が満腹なのです"
 と言われたのです。キリストは一人一人の女性を、つねに大切にされました。女性も信仰を持てば、女性のままで即、救われるのです。
 また、姦淫の現行犯で捕らえられた一人の女が、キリストのもとに連れて来られたときも、キリストは彼女の救いに心を配られました(ヨハネ福音書八章)。
 不倫の現場をおさえられたこの女は、人々の非難と断罪の言葉の中で、うちしおれ、泣きすさんでいました。当時、姦淫を犯した者は、ユダヤの律法により、石打ちによる死刑と決まっていました。
 しかしキリストは、彼女を責めたてる者たちに対して、こう言われました。
 「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」。
 それを聞くと周囲にいた人々は、男と女も、心を刺され、年長者から一人一人出て行き、ついにキリストとその女以外はみな出て行ってしまいました。
 男と女も、人間はみな、罪深さの点で同じなのです。男が清くて、女が罪深いということはありません。ある場合には男の方が、女よりはるかに罪深くあります。
 キリストは、人々が出て行ったことを見ると、彼女に言われました。
 「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」
 こうして、彼女を解放されました。男が救われるのであれば、ましてや女は救われるのです。
 いかなる女性も、神の救いに入り得ない人はいません。男性も同じです。私たちはだれであれ、罪深いからこそ、救われるのです。
 「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」(ローマ人への手紙五・二〇)
 と聖書に書いてあります。救いに値しない人は、一人もいません。どんなに罪の中に深く沈んでいても、そこに届かないほど神の御手は短くありません。
 だれでも、男も女も、悔い改めて主イエス・キリストの御名を呼ぶなら、例外なく、みな救われます。「主の御名を呼び求める者は、誰でも救われる」(ローマ人への手紙一〇・一三)。
 神の救いの家には、すべての人が招かれているのです。
 久保有政著
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