🏯33)─1─八百屋の小倅が姉の玉の輿で譜代大名に大出世し子孫から老中を出した。~No.62No.63 ④ 

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 日本の由緒ある世襲の名家・権門の権勢は、娘・女性の出世で決まった。
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 これぞ江戸時代のシンデレラストーリー!八百屋の娘・お玉が歩んだ人生が華麗で素敵すぎ!
 Japaaan
 2019年10月26日(土)08:37
 これぞ江戸時代のシンデレラストーリー!八百屋の娘・お玉が歩んだ人生が華麗で素敵すぎ!
 身分の低い女性が身分の高い男性と結婚する。そんなドラマのようなシンデレラストーリーを実際にやった方が江戸時代にはいました。
 その人物の名前はお玉で、後に徳川綱吉の生母・桂昌院(けいしょういん)として知られるようになります。
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 桂昌院/Wikipediaより
 今回は玉の輿の語源にもなったお玉のシンデレラストーリーを紹介します。
■元は八百屋の娘
 お玉は諸説ありますが、寛永4年(1637)に京都にある八百屋の娘として生まれたとされています。お玉がまだ幼い時に父が他界し、母は武士である本庄正宗の元へ奉公に出ます。
 そこで母が正宗の目に留まり再婚することになり、お玉は武家の娘になりました。
 そして、お玉が13歳の時徳川家光の側室・お万の方の部屋子(召使い)として仕えるために京都から江戸へ行くことになります。
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 高富藩(たかとみはん)は、美濃国(現在の岐阜県山県市高富)に存在した藩。藩庁は高富陣屋に置かれた。
 藩史
 第5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院の異母兄・本庄道芳の孫・本庄道章が宝永2年(1705年)3月に1万石の大名として高富に入ったことから(正式に高富に陣屋が移ったのは宝永6年(1709年))、高富藩が立藩した。これはもちろん、綱吉と桂昌院の縁故のためである。
 元来、本庄家は江戸定府で、その出自や立地から京都の公家衆との付き合いも多く、小藩に見合わない出費が多くあった。そのため第8代藩主・本庄道昌の時代から財政窮乏が始まる。第9代藩主・本庄道貫は厳しい倹約令を出し、百姓に対しては植林を薦める一方で莫大な献納金徴収を図ったが、この藩政改革は失敗した。そのため、今度は年貢増徴政策、藩札の発行から京都の豪商を財政顧問として招いての藩政改革を図ったが、これも年貢増徴に反対する百姓の反対で頓挫する。道貫はその後の安政5年(1858年)にも藩政改革を図ったが、同年8月26日に道貫が死去したため、またも頓挫した。
 その跡を継いだ第10代藩主・本庄道美の時代になると藩財政は完全に破綻し、慶応4年(1868年)には藩内で打ちこわし、百姓一揆が起こった。この頃、高富藩は20万7400両もの借財を抱えていた。藩内の庄屋をはじめとする豪農にも多額の借財があったが、その大半は後の版籍奉還で証文のまま終わっている。1万石と言えど、知行地の本領が美濃、分領は遠く関東にあるという事情も、藩財政の窮乏の原因であるようである。
 明治2年(1869年)の版籍奉還で道美は藩知事となり、明治4年1871年)の廃藩置県で高富藩は廃藩・高富県となった。明治5年(1872年)、高富県は岐阜県編入された。
 歴代藩主10人のうち、6人が幼少、もしくは病弱で嗣子がなく、たびたび縁戚関係やあるいは他姓の末期養子を迎えていた。
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 宮津藩(みやづはん)は、江戸時代、丹後国にあった藩の一つ。京極高知の代は丹後一国を領したため丹後藩とも呼ばれた。藩庁は与謝郡宮津城(現在の京都府宮津市)に置かれた。
 略史
 松平(本庄)家の家祖・宗資は第5代将軍・綱吉の生母・桂昌院の異母弟ということで大名に取り立てられ、宗資の子資俊より松平姓を許された。同家は7代続き、うち2人が老中、1人が寺社奉行と幕閣の中枢に進出している。慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは幕府方として戦ったが敗戦し、以後は明治政府に恭順した。
 明治4年1871年廃藩置県により宮津県となり、豊岡県を経て京都府編入された。藩主家の松平(本荘)家は明治2年華族に列し、明治17年1884年)に子爵となった。
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 ふるさとミュージアム丹後
 名称 
 特別展『“玉の輿”大名家の栄光と苦悩―徳川綱吉桂昌院宮津藩本庄松平家―』
 会期 
 令和3年10月23日(土)~12月12日(日)
 開館日数 44日間(会期51日のうち) 休館日 毎週月曜日
 開館時間 
 午前9時~午後4時30 分
 ※10 月23 日(土)・30 日(土)、11 月5日(金)~7日(日)は午後8時まで開館
 ※夜間開館期間中は当館周辺のライトアップを実施
 会場 
 京都府立丹後郷土資料館(京都府宮津市字国分小字天王山611-1)
 主催 
 京都府立丹後郷土資料館
 開催趣旨
 宮津藩本庄松平家は、宝暦8年(1758)以降明治維新まで宮津藩主を務めました。本庄氏は藩祖・本庄宗資が江戸幕府5代将軍徳川綱吉の母である桂昌院の弟であったため、綱吉に取り立てられ大名となります。桂昌院はもと“玉”という名前で、一説では八百屋の娘とされています。そこから将軍の側室まで登り詰めたことから、桂昌院は“玉の輿”の代名詞として知られます。また、宗資は桂昌院・綱吉のもとで寺社や朝廷儀礼の再興などに大きく関わりました。
 2代資俊の時代にはさらに松平姓を与えられ、以降歴代藩主は松平姓を名乗り、幕府の要職に就くような家格にまで登り詰めます。その一方、このことが藩財政の悪化やそれに伴う一揆の発生といった、江戸時代後期における本庄家の苦悩の要因にもなりました。
本展示では、近年新たに発見された宮津藩本庄家関係資料を紹介し、激動の時代を生きた本庄家のあゆみを紐解きます。
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 本庄 宗資 (ほんじょう むねすけ、寛永6年(1629年)頃 - 元禄12年8月16日(1699年9月9日))は、江戸時代前期の譜代大名下野国足利藩主、のち常陸国笠間藩初代藩主。本庄松平家初代。はじめ公家の家臣(青侍)だったが、徳川綱吉の生母桂昌院の弟にあたるため、桂昌院の庇護を受けて大名に立身した。
 生涯
 摂関家の一つ二条家家臣の本庄宗正の次男。母は鍋田氏の娘。徳川綱吉の生母である桂昌院徳川家光側室・お玉の方)は異父姉である。正室は隠俊実・二条家家司の娘。子は村上常勝(長男)、本庄資俊(次男)、富田知郷(四男)、牧野康重(五男)、娘(六角広治室)、娘(興津忠閭室)、娘(大沢基明室)。通称は平四郎(へいしろう)、次郎左衛門(じろうざえもん)。官位は従四位下、侍従、因幡守。
 京都に生まれ、明暦2年(1656年)12月に姉・桂昌院の子である館林藩徳川綱吉に仕えるようになり、館林藩奏者番などを勤めた。寛文8年(1668年)に初めて将軍徳川家綱御目見し、延宝8年(1680年)、綱吉が家綱の没後に将軍となると、綱吉の嫡男・徳松に従う形で江戸城へ移り、切米800俵の幕府御家人に列した。この御家人というのは『寛政重修諸家譜』にある記述であるが、甥と叔父の関係にある綱吉と御目見できない関係とは考えがたく、旗本の誤りではないかと考えられる。いずれにしてもこれ以降、将軍綱吉とその生母桂昌院は、親戚の宗資を引き立てようと加増が繰り返される。
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 本庄宗資(読み)ほんじょう・むねすけ
 朝日日本歴史人物事典 「本庄宗資」の解説
 没年:元禄12.8.16(1699.9.9)
 生年:寛永6(1629)
 江戸時代の幕臣,大名。通称は平四郎,次郎左衛門。太郎兵衛宗正の子。5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院 の弟。その関係から,明暦2(1656)年綱吉に召し出され,廩米800俵を給されて神田館の奏者衆,のち寄合となる。延宝8(1680)年綱吉の将軍家相続に伴って幕臣に列し,翌天和1(1681)年1200石を加増されたうえ廩米を改めて2000石を知行。3年3000石加増。翌貞享1(1684)年寄合となり,従五位下因幡守に叙任。元禄1(1688)年5000石を加増されて1万石の大名に取り立てられ,翌2年にも1万石加増。3年従四位下に叙され,5年に綱吉および桂昌院が宗資の屋敷を訪れた際,2万石を加増されて常陸国笠間城主となる。7年に綱吉,桂昌院の訪問があった際にも1万石を加増され,計5万石を領す。同年侍従に進む。桂昌院の縁者で,幕臣や大名に取り立てられた家は兄道芳系と宗資系の2系統があり,道芳系は孫道章 の代にようやく1万石の大名となった。これに対し,宗資系は子資俊の代にも2万石を加増されたうえ,別に孫宗長も2万石の大名に取り立てられた。この差は道芳が早くに没したためでもあるが,道芳が桂昌院の異母兄であるのに対し,宗資の方は同母弟であったことにも起因するものと思われる。宗資は桂昌院の縁により異数の出世をしたが,才智発明で仁心があったという。
 (深井雅海)
 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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 桂昌院像(長谷寺蔵)
 桂昌院廟(善峯寺)
 桂昌院(けいしょういん、寛永4年(1627年) - 宝永2年6月22日(1705年8月11日))は、江戸幕府3代将軍・徳川家光の側室で、5代将軍・綱吉の生母。通称は玉。光子。『徳川実紀』によれば、父は北小路(本庄)太郎兵衛宗正(宗利)。母は鍋田氏。兄に北小路道芳(後に本庄姓を賜り本庄道芳)、弟に本庄宗資がいる。
 生涯
 京都の大徳寺付近で産まれる。『徳川実紀』によれば、父は関白・二条光平の家司である北小路(本庄)太郎兵衛宗正だが、実際の出身はもっと低い身分であるという噂が生前からあった。桂昌院と同時代の人物の記録では、朝日重章の日記『鸚鵡籠中記』に、従一位の官位を賜ったときに西陣織屋の娘であるという落首があったことが記されており、また戸田茂睡の『御当代記』に畳屋の娘という説が記されている。黒川道祐の『遠碧軒記』人倫部は二条家家司北小路宮内が「久しく使ふ高麗人の女」に産ませた娘とする。死後やや経ってからの『元正間記』には大根売りの妹、さらに後の時代の『玉輿記』には、父は八百屋の仁左衛門で養父が北小路太郎兵衛宗正という説が記されている。遺骨検分をした人類学者の鈴木尚は、本庄宗利(宗正)の後妻(八百屋の未亡人)の連れ子説をとっている。
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