🏞65)─2─江戸中期の日本経済は世界第2位のGDP。~No.273  @ 

 江戸中期の日本経済は、一ヵ国のみで世界規模に近い経済文化圏を国内で形成し、西洋情勢と密接に繋がっていた。
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 江戸経済は、正統儒教の中華経済圏(中国・朝鮮)と切り離され、オランダを通じてキリスト教の西洋経済圏と繋がっていた。
 徳川幕府鎖国政策で、日本人の海外渡航と外国人の自由な来航というヒトの往来を禁止していたが、モノとカネによって日本経済が世界経済と繋がる事は許していた。
 特に、日本人を奴隷として売買する事を黙認したキリスト教を徹底して弾圧し、完全に排除しようとした。
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 日本の総人口は、1600年頃の江戸初期で約1,200万人であったのが1800年頃の江戸末期には約3,000万人に微増していた。
 江戸は人口微増時代で、人口の増加によって生産と消費が増え、供給と需要を賄う交通・運輸・輸送などの社会基盤の整備が進み、ヒト・モノの移動が活発化するや商いを円滑にする為に金融・情報伝達・サービスなどが発達し、日々の生活で娯楽を楽しむゆとりが生まれ世界的な芸能・芸術・工芸品などの伝統的文化が生み出された。
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 日本経済は、江戸時代に近代化への基礎・基盤を築いていた。
 日本の近世は、近代の一歩手前まで来ていた。
 明治の文明開化である殖産興業・近代教育・富国強兵は、江戸時代で既に完成していて、その成功は奇跡ではなく当然の当たり前の結果であった。
 日本の軍国主義ヘの道は、江戸時代に造られていた。
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 江戸時代の経済発展、GDPの伸び率は、イギリスに次いでオランダを抜いて世界第2位であった。
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 1945年には約7,000万人に、1990年頃には約1億2,000万人に人口が爆発していた。
 戦後復興、高度経済成長、バブル経済は、人口爆発で作れば飛ぶように売れるという消費の拡大で成功した。
 消費者の激増が、大量生産・大量消費を生み出した。
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 江戸時代の経済システムは、日本人が独自に考えたのではなく、戦国時代に日本に逃げて来た隠れキリスト教徒であるユダヤ人商人が伝えたユダヤ商法を使いながら改良し発展させた日本式システムである。
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 江戸時代の日本人と現代の日本人は別人であり、当時の日本人が優れているから今の日本人も優れているとは限らない。
 優れた部分が受け継がれるのは、ほんの極僅か、奇跡的な部分のみである。 
 むしろ、愚かな所や駄目の所の方が苦労もなく簡単に受け継がれる為に、加速度的に劣化と退化して行く。
 日本人は、歴史を鑑とせず、歴史を教訓とせず、歴史から学ぼうとはしない。
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 日本人は、真実を架空に近い時代劇に求めて、事実に基づいた歴史から目を逸らしている。 
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 日本は、大陸の果て、地の果て、最果てにある、辺境の地で、辺鄙な地で、人が住む生の陸と人が住めない死の海の縁(ふち)・縁(へり)・端(はし)・渚・境目にあり、南北に長いだけで何もない不毛の閉鎖された孤立列島であった。
 そこは、甚大な被害を引き起こす自然災害が多発する無慈悲な環境で、何処にも逃げ出せない絶対絶命の地理であった。
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 日本民族日本人は、日本列島に流れついた漂流民・南方系海洋民を元に、大陸での生存競争に負けて逃げて来た弱者・敗者の揚子江流域の民と北方系草原の民が雑居し雑婚して生まれた、特殊な知恵も技能も持たない、その日暮らしに満足するだけの平々凡々とした、粗野で泥臭く野暮ったく智恵少なく教養の乏しき野蛮な雑種の混血民族に過ぎない。
 日本民族日本人とは、気弱な、弱者であり、敗者であり、貧困者であった。
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 日本は、輝かしいグローバルでもないし豊かな中央・都市でもなく、うらぶれたローカルであり貧しい地方・田舎であった。
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 2018年2月号 新潮45「歴史再考 6  中野順哉 
 幕府から独立した『金融システム』の誕生
 デフレ、インフレと大混乱を引き起こした江戸中期、もはや幕府は組織を存続させるだけで手いっぱいに。そこに浮かび上がるのは、大坂商人の存在だった。
 江戸時代も18世紀後半に入ると、行政から独立した『経済システム』が世を支配するようになる。もうどんな将軍が選ばれようとも、どんな政策が選択されようとも、『社会』は大して変わらなくなる。教科書でもお馴染みの『OOの改革』の連続も、支配力を失ってゆく幕府の遠吠えだと言えよう。
 『経済システム』は当時のベンチャー企業を後押しし、人々に自由な経済活動の場を提供していった。例えば『千歯こき』。木組みの上に櫛状の鉄の歯が据え付けられている農具だ。これによって脱穀の能率は格段に上がった。当時米の生産は増産傾向にあり、戦もないので人口も増える──増産と人口増加のイタチごっこの中で、千歯こきは売れ筋の商品となった。
 この農具の一大生産地は鳥取県中部の倉吉。その規模は全国シェアを総なめするほどであった。幕府や藩の財力ではこのような巨大な設備投資は不可能である。公的な書類こそ発見されてはいないが、別の力が動いていたことは明らかである。今回はそれを追いかけてみたい。
 貨幣量の不足で
 17世紀の末から18世紀全般にかけての経済上の問題は貨幣量の不足であった。貨幣の方がモノより貴重になる。つまりデフレである。デフレをもっとも喜ぶのは高利貸しだ。皆お金を貸してほしいので利子率はどんどん上がってゆく。それも行き過ぎれば幕府が取り締まるが本筋だが、官吏も手元不如意である。袖の下を握らされると弱い。組織は徐々に腐敗し、機能不全を起こしていった。
 そこで登場したのが五代将軍徳川綱吉の抜擢した萩原重秀であった。彼は改鋳を断行し貨幣量を増やす。ただこの英断も幕府財政の改善には大きな効果があったが、デフレ改善にはさほど影響を与えなかった。一気に金銀の含有量を減らせば、逆に極端なインフレを起こして社会は混乱する。また幕府内での利権との戦いもあったろう。そのため改鋳が相当骨抜きにされたのだ。
 しかし当事者である商人にしてみれば『はいそうですか』と暢気なことは言っていられない。どれだけ売っても、貨幣が手元にもどって来ないために『黒字倒産』する店も出てくる。働けば働くほど首を締めるという矛盾が心理的にも経済発展を停滞させてしまう。
 願いは一つ。どんな形であれスムーズな決済を可能にして欲しい。幕府にそれが出来ないなら、各藩でそれを行って欲しい。そこで脚光を浴びるのが『藩札』である。これによって多くの商人が救われた。それは同時に幕府の経済的支配力の更なる低下を意味していた。危機感を抱いた幕府は宝永2(1705)年に藩札の調査を行い、2年後には使用を禁止している。
 数年後に綱吉は死に。甥の家宣が6代将軍になる。家宣のブレーン新井白石は荻原重秀を政界から追放し、あろうことか貨幣の質を元に戻す。藩札を禁止された上に貨幣量を再び減らされたのではたまったものではない。更に享保元(1716)年、紀州徳川家より吉宗が8代将軍になると、税収を安定させる目的で米の増産に着手する。その結果生産過剰となり米価は下落。相対的に貨幣の価値が上がりデフレに拍車がかかる。
 では物価を決定していた大坂の堂島米市場は何をしていたのかというと──ここも主である淀屋が幕府よって取り潰されることで組織が腐敗していた。米の派生商品であった『米切手』という証券を売買するマネーゲームに興じていたのだ。そこで得た強力な資金力で問屋集団は生産者と地方商人を支配してゆく。生産者には前払いをする。多少安く買いたたいても相手は銭にしたいので従う。また卸し先の地方商人は即金で支払えないので年末などにまとめての『後払い』。利子率も問屋主導でどんどん上昇してゆく。当然その矛先は大名貸しにも向けられ、地方行政はそれこそ借金地獄に叩き落とされる。
 対処として幕府は大坂の『米切手』取引お抑制に動く。また吉宗の引退の後、田沼意次という傑物が陣頭指揮をとり改善をめざす。種々の株仲間を認めて各種の起業や新規商人の参入をしやすくしたり、秤量貨幣の銀貨を名目貨幣化することで供給量を増やそうとしたり、各地の干拓蝦夷地の開発をすすめたりと、次々に改革を断行するが、組織はすでに利権保持の空気で充満していたため末端で施行されない。道半ばで意次は失脚させられ、松平定信が組織迎合策に舵を切ってしまう。もはや幕府は日本の運営云々するどころではなく、組織を存続させるだけで手いっぱいであったのだ。そこに登場するのが独立した『経済システム』。正確には金融システムだ。
 淀屋と堀尾家
 幕府から独立した金融システムの正体とは何か。浮かび上がってくるのは『消えた淀屋』の存在である。
 私も大阪人ゆえに贔屓があるのだろうと言われればそれまでかもしれない。確かに大阪には荒唐無稽と言われかねない独自の歴史観がある。例えば豊臣秀頼。正史では大坂の陣切腹をしたことになっているが、大阪の『歴史』は簡単に英雄を殺さない。真田幸村が設けた抜け穴を通って兵庫県の大物浦へ。そこから舟で薩摩に落ちる。かの地で再起の機会をうかがい、後日、秀頼(あるいはその子)が天草四郎と名を変えて島原の乱を起こすという。
 また徳川家康については悲惨な話が多く、少なくとも2、3度は殺されている。大坂の陣でも後藤又兵衛に槍で突き殺され、その遺骸は堺の南宗寺に葬られたとされる。
 同じように『幕府(=東・江戸・武士)によって葬られた大店(=西・大坂・商人)』という構図のもと、淀屋は幕府によって取り潰される前にそれを予見し、後の再興のために番頭の暖簾分けを許した。番頭は自身の故郷に淀屋の娘を伴って戻り新店舗を立ち上げ、当地の鉄屋との間に血縁関係を築く。その鉄屋の娘が入内。子が天皇として即位し討幕運動へと発展してゆく。そんなストーリーである。とても魅力的な話であるため先人の研究などを含め検証を試みたが、実話として成立させるには相当な飛躍が必要であった。やはり物語は物語としてそっとしておく方が良い。
 ただ気になった点がいくつかある。中でも一番引っ掛かったのは、番頭が新店舗を立ち上げたのが倉吉だったということだ。また倉吉の鉄屋との縁も合わせて考えると、先述の千歯こきの投資との関係が浮かび上がる。そこで今一度倉吉に渡った淀屋に残された系図を紐解いてみることにした。
 倉吉の新店舗は牧田淀屋という。牧田淀屋の初代当主hs暖簾分けされた仁右衛門だが、二代目は養子をもらっている。名を孫三郎、後に多田屋治郎右衛門を名乗る。治郎右衛門の出身は河村郡とされている。かの地に多田という郷は確かにあった。しかしこの時代には消滅している。わざわざ『多田』を称したのは、『多田』が『多々良』=『たたら』=鉄との関係を示す『慣例』に則ったためであろう。つまり牧田淀屋は早々に鉄に関わる人材をリーダーとして迎えたのだ。
 これが偶然でなく暖簾分け当初からの目的であったと仮定すれば、そこにもう一つ興味深い伏線が見えてくる。支店とは言え牧田淀屋は『淀屋』である。養子をもらうことにしても相当の大店でなければ釣り合いが取れない。倉吉の鉄の大店と言えば『大鉄屋』の名があるが。この店の番頭格の人間が、淀屋の番頭の養子になると考えれば非常に釣り合いのとれた構図が出来る。
 『大鉄屋』の当主は堀尾與左衞門と言った。かつての松江藩の領主、堀尾吉晴の子孫だ。吉晴は息子を早くに亡くし、孫の忠晴に家督を継がせた。しかし忠晴にも男子が生まれずそのまま他界したために御家は断絶していた。與左衞門はその忠晴の妹が伯耆国大庄屋に嫁いで得た子で、この時点では大鉄屋の娘を娶り当主となっていた。
 実は淀屋と堀尾家には関わりがあった。淀屋の『地元』である淀城に石川憲之という城主がいたのだが、彼は堀尾家の再興に力を注いでいた。というのも憲之の祖父は堀尾吉晴の娘を妻とし、父も堀尾忠晴の娘を娶っている。姓こそ違え憲之は紛れもなく堀尾家の人間であったのだ。
 そもそもこの姻戚関係を築いたのは徳川家康であった。徳川家の権威を何よりも大事に考える綱吉に再興を願うなら、この『理由』だけでも十分説得力はあった。また堀尾家の旧領松江を目下治めているのは、綱吉が嫌う越前松平家の系統。彼らから領土を取り上げ綱吉が再興された堀尾家を入れることは、幕府にとっても魅力的な案であった。
 ただ憲之にはストレートに実行できない事情があった。それは祖父が大久保忠隣の次男であるということ。忠隣は松平忠輝を新将軍にしようと、伊達政宗などと秘密裡に派閥を形成しようとしたことで家康から政治生命を奪われている。そこをつつかれると憲之も弱い。成否は五分と五分。確実に御家再興を実現するためには幅広い根回しが不可欠であった。淀城城主であった時期に財界のドン=淀屋と関係を持ち、当主重當が援助してくれれば運動資金の工面や朝廷への根回し、借金をしている大名、幕府首脳陣への圧力など様々な『力』を得ることが出来る。憲之は進んで重當に接触しようとしたことであろう。
 その努力が功を奏してか、貞享3(1686)年に綱吉は憲之の三男・勝明による堀尾家再興を認めた。一連の運動に淀屋が関わったとすれば、この時に淀屋の『縁故バンク』の中に『堀尾家』が含まれたことになる。そしてこの『堀尾カード』を使って暖簾分けを企画したとすれば、牧田淀屋の二代目が多田屋=『大鉄屋の番頭格』であったことも計画としてとらえることが出来る。因みに元禄元年に石川勝明が急死することで、堀尾家の再興自体は消滅している。
 鉄の可能性と投資
 元禄時代に入って淀屋と将軍家の関係悪化は先鋭化していた。荻原重秀は新興勢力の住友と共謀し別子銅山から採れる銅をもって淀屋とオランダ東インド会社との間に割り込んできた。この『攻撃』は相当に効果があったのであろうが、銀から銅へという移行自体は経済の自然な流れでもあった。貨幣の質よりも量に問題が出てきている。世界中の商人が必要とするのは、地金の価値以上に産出量の安定と維持。であればより希少性の低い鉱物の方が『可能性』がある。淀屋が敏感に反応したとしても不思議はない。銅よりも希少性の低い鉱物──目をつけたのが鉄である。
 さすがに鉄自体には銀や銅に対抗できる力はない。ただ地金に魅力はなくとも加工後の需要には『伸びしろ』がある。この鉄に投資を呼びかけて貨幣を集め、それをもとに『預かり証』を発行すれば藩札とは全く別次元の貨幣供給が可能になる。これこそが淀屋の暖簾分けの目的であった。
 堀尾家の『大鉄屋』とこの新規事業を組み立てる──実行は元禄9(1696)年。実はこのタイミングにも淀屋の優れた感覚が働いていた。
 淀屋はオランダの東インド会社を通して、ヨーロッパの事情をほぼオンタイムで理解していた。幾度かオランダがイギリスと戦争をし、結果的に国力を随分落としていることも知っていた。両者の戦争の背後にはユダヤ人2派の対立があった。オランダのユダヤ人は中継貿易を志向し、イギリスのユダヤ人は植民地主義を目指していた。淀屋は当然オランダを支持する。そこでオランダに最新鋭の兵器として『米切手』のシステムを伝えた。
 オランダではそれを受ける形でアムステルダム銀行が『預かり証』を発行し始める。当時まだイギリスの金融システムは原始的で、商人は頑丈な金庫でお金を管理する段階であった。戦で負けても金融力によって最終的にオランダが勝てば植民地主義などという、およそ商売の倫理としては認められない思想をおさえられる。そんな期待があった。
 結果オランダは命脈を保った。経済的にも優位に立てる可能性が出てきた。しかしそんんな余裕が出てくるとイギリスのユダヤ人を追放することを考えるようになったのだ。選んだ戦法がオランダ総督によるイギリス王室の乗っ取り、いわゆる『名誉革命』である。この革命はイギリス議会の意思でもあったが、積極的に進めたのは在オランダのユダヤ人層。革命成立後、多くのオランダ系ユダヤ人金融業者がロンドンに移り住んでいったことを見ても明らかだ。
 しかしこの乗っ取りは大きな足かせとなってオランダの軍事行動を封じてしまう。抜け目なくフランスはオランダに宣戦布告する。危機を乗り越えるためには、イギリス議会の条件を次々と飲んでいくしかない。気がつくと制海権までイギリスに奪われてしまっていた。更には淀屋が授けた『預かり証』のシステムまで取り上げられてしまう。これが1694年のイギリス国立銀行イングランド銀行の設立であった。
 ここからイギリスの金融家は植民地主義の道を進んでゆくことになる。もちろん日本の幕府も無能な訳ではない。ただこの銀行設立の意味を深く理解出来なかっただけだ。なぜならヨーロッパのどの国もまだ『大国』ではなく、アフリカ、インド、中国と幾度も軍事衝突しながらも一度たりとも勝利したことのない弱小国群であったからだ。朝鮮半島を短期間に制圧し、明国を疲弊させた軍事大国日本が気に留めることなど当時の感覚では全くナンセンスであった。
 しかし金融の可能性を理解していた淀屋は、その後に展開する光景を想像することができた。それをまずは改善しなければならない。そしてイギリスの野望をくじくためにも、出来るならオランダ東インド会社を買収してしまいた。出来るだけ短期間に莫大なお金をつくらなければならない。そのためには何としてでも独自の金融システムを生み出さねばならない。
 理解者は少ない。大きな野望であったにも拘わらず、その船出は暖簾分けという極私的な方法で決行せざるを得なかったのだ。その10年後に大坂の淀屋は取り潰される。諸説あるがその時淀屋の保持していた債権は大きかったが、手持ちのキャッシュ自体は予想以上に少なかったと言われている。倉吉のプロジェクトへの初期投資に回されたとすれば納得がいく。
 『蹴鞠の会』にも招かれて
 淀屋が取り潰された後程なくして綱吉もこの世を去る。と同時に所払いとなっていた淀屋最後の当主廣當は江戸に住まうようになる。期間は7年と長い。逗留先は米津政容の私邸であった。この政容という人物は淀屋にとって親戚筋の人間であったが、綱吉に最もかわいがられた小姓でもあり将軍の今際の際にも傍らに侍ることを命じられていた。いくら親戚であっても淀屋と綱吉の関係を考えると廣當の身柄を7年も引き取ることは難しい。しかしそれが公然と出来た。それだけではなく廣當は高位高官の集う蹴鞠の会などにも頻繁に招かれていたという。次の将軍が廣當を受け入れていた何よりもの証拠と言えよう。
 6代将軍は綱吉の兄の子。4代将軍家綱が亡くなった折、宮家から新将軍を招こうという大老の動きに対し、待ったをかけた派閥は『徳川本家より将軍を選ぶべき』だと訴えた。徳川本家での継承に拘るのであれば、その順番も違えてはならないはずだ。4代将軍の後に嗣子が居ないのであればその兄弟から該当者を考えることになる。末弟の綱吉はその意味では有力候補だが、長弟綱重にも嫡男家宣がいる。彼の方が継承の順位は上であっても良い。『正統』を訴えながら強引に綱吉を選んだ理由。それは家宣が有栖川宮による5代将軍就任に賛成していたからであろう。
 家宣は朝廷との関係が深く、正室は近衛基煕の娘である。また息子家継を帝の娘と婚約させている。もし家継が成人し男子が生まれていれば、有栖川宮以上に宮家色の強い将軍が誕生することになる。こういった動きから考えても、家宣が有栖川宮賛成派であった可能性は高い。家宣のブレーン登用も独特で、有名な側用人間部詮房も猿楽師から大抜擢である。その柔軟な選択肢に『淀屋の当主』があってもおかしくはない。家宣は廣當から意見を吸い上げ、金融力を手にして欧州が危険な存在となることや先代重當の倉吉のプランの真意について知るようになる。
 しかし将軍主導でそれらの改革を実行するには組織がすでに腐敗していた。下手をすると自分の身も危ない。側用人の制度を残して密室の政を行ったのもそこに理由がある。そんな状況下で家宣が選んだ『戦略』は新井白石による貨幣量の縮小策であった。
 デフレは高利貸しとともに、そこから利益を得ている家臣たちが喜ぶ。もちろんこの提案は何の抵抗もなく歓迎された。しかし狙いは別にあった。
 この政策を敢行すれば多くの商人が幕府に失望し、行政から離れた『新たな選択』を自発的に探そうとする。そこに『貸し手』の救世主として牧田淀屋が登場する。当然高利貸しは難色を示すが、淀屋は同時に『大口の借り手』として富裕層に鉄の投資を持ち掛ける。集まったお金をもとに大量の『預かり証』を『藩札』に擬態させて発行し、更に多くの商人の決済を救ってゆく。また新規事業にも積極的に投資し育ててゆく。家宣と牧田淀屋との連携はこのようにして動いていった。
 その効果は50年ほどで全国に浸透していった。例えば両替商の三井と鴻池の利子率の推移を見てみよう。1721年から40年の一般貸しの利子率は三井が5パーセント、鴻池が6.3パーセント、大名貸しについては13パーセントである。これが1780年になると一般貸しの利子率が三井で1.7パーセント、鴻池で3.7パーセント、大名貸しが9.28パーセントに落ちている。1780年代に貨幣量が増えたわけではなく、むしろ松平定信の倹約令のもとで鋳造量は減らされている。つまり幕府は鋳造する貨幣とは違った貨幣が供給量を安定させていることが分かる。因みに倉吉に千歯こきの生産拠点が生まれるのもこの時期だ。
 そして生産者も商人も利子率の低い両替商を通して自由に決済をし、大坂の問屋たちの支配から解放されていった。更に19世紀に入ると大坂の都市力が低下してゆく。藍をのぞくほとんどすべての商品が、『大坂経由』のケースを減少させるのだ。淀屋のプランは新しいお金の流れを生み出し、幕府も諸藩も大坂も形骸化させ、統一された日本一国としての財政計画を立案出来る状態──その手前まで成長していたのだ。
 一方、イギリスは
 また家宣の時代にも一つの準備があった。新井白石は近衛基煕を通し、東山天皇閑院宮家の創設を進言している。将軍家にも御三家があるように、血統が潰えた時に困らねよう宮家にもストックを増やすことを勧めた訳だが、その後実際に閑院宮家から光格天皇が即位することになる。時期も『金融システム』が浸透した1780年代前後、1779年。興味深いことには光格天皇の母大江磐代は、倉吉出身の医師岩室宗賢と大鉄屋の娘との間に生まれた子である。『淀屋の復活』は大阪人には申し訳ないが、もっと深いところで日本を根底から改造し、あと一歩で世界経済を動かすところまで発展していたのである。
 しかしイギリスの金融家はもっと大胆な手法で巨大化していた。彼らの投資は鉄などという生易しいものではなかった。対象は国。欧州の諸国に投資し内戦を起こさせるという手法をもって加速度的に財を膨らませて行ったのだ。例えばプロイセン、英仏の植民地戦争、ロシアなど。またイギリスはアメリカを得、そのアメリカが独立することで金融家は更に富を膨らませていた。
 その資金力は更にその後100年かけて若者の心に刺激を与え、より広い範囲に内戦の火種を撒いてゆく。青年イタリア党、青年アイルランド党、青年トルコ党・・・日本もその例外ではなく、いくつかの『青年党』が明治維新へと突き進んでゆくことは周知の如くである。
 日本は明らかに後れを取った。果たしてどのような選択肢が残されていたのだろうか。その後の経緯と幕末、明治維新の本質については次回に譲りたい。」
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 日本経済圏の中心が、武士が支配する政治の江戸ではなく、商人が差配する商売の大坂や宗教の京都などの畿内であった。
 商人の大坂や町衆の京都では、御公儀・御上の政治権力は弱かった。
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 江戸時代は、表面的には武士の時代であったが、内実的には商人の時代であった。
 武士は、生産せず富も生み出さない、食って寝る消費するだけの木偶の坊であった。
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 生産して富を生み出したのは、百姓や職人達であった。
 物を売って富を蓄えたのは、商人達であった。
 江戸時代は、身分低い庶民(百姓や町人)の時代であった。
 庶民は、威張ってはいても消費するだけの武士を「穀潰し」と馬鹿にしていた。
 それが、庶民の本音と建前であった。
 武士は、西洋の騎士とは違うし、中華の武官とも違っていた。
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 大坂の豪商達は、藩財政赤字の各大名を金の力で支配していた。
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 江戸経済の特徴は、人口微増の消費拡大に対応するべく、丁稚奉公から育てた優秀な人材を一本立ちさせる為の暖簾分け・独立というベンチャー起業が盛んな時代であった。
 日本には、創業数百年という老舗商店が数多く存在する。
 百姓や工人(職人)の生産現場では、人口微増による消費量増加に対応するべく、生産規模を拡大し生産効率を高め、技術革新に努め世界に輸出できる商品を生み出していた。
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 日本産業活動は、権力を持った御上・御公儀(幕府・大名)主導ではなく、各産業の庶民が自主的に行っていた。
 商人は、役立たずのどら息子を勘当し追放し排除して、優れた才能のある他人を婿養子・養子として跡を継がせた。
 数百年以上続く老舗商店は、初代と血の繋がらない者が当主となっている。 
 商人にとって大事なのは、男子・息子ではなく、女子・娘であった。
 商家は、女系であった。
 養子が見込み違いの無能であれば、勘当し追放し排除して新しい養子を迎えた。
 それが婿養子であれば離縁させ、新しい男を婿養子とした。
 商家の娘は自由恋愛などは許されず、親の言い付けに従い実家・商家の為に何度でも結婚した。
 もし、娘が親の言いつけに背いて自由恋愛として結婚相手を見付けた場合、親は商売を任せられるほどの優れた才能・器量があればいいが婿養子として認めたが、才能も・器量もなければ娘を勘当し追放し排除した。
 優れた商人は、可愛い娘と大事な商いを分けて考え、商いの為ならば親の情を殺して娘を見捨てた。
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 儒教的男系相続の武家は滅んだが、神道的女系相続の商家は滅びなかった。
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 人口微増によって消費者が徐々に増え、物を作って売れ残りが少なく、働けば報われそして儲かった。
 そして、多発する甚大な自然災害や頻発する火事・大火などが消費を後押ししていた。
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 日本には、キリスト教会のような貧困者や困窮者などの最底辺の下層民・下層階級を救済する宗教組織・市民団体がなかった。
 江戸時代は、生きようが死のうが誰も気にしない、ブラックな社会であり、ブラックな職場であった。
 何ら保障のない、自己責任、自己努力、自力救済の冷たい社会であった。
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 人口激減の日本は、人口微増の江戸を参考にはできない。
 人口が減少すれば消費も縮小し、幾ら優れた商品を生産しても買い手がいなければ売れ残る。
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 人口微増の江戸時代は、人生50年時代は若者が多く老人が少ない、10代後半から40代まで一線で活躍する活力に溢れた若々しい時代であった。
 40代や50代で引退・隠居し、残りの人生を趣味で楽しみ死を迎えた。
 人口激減の日本は、人生100年時代は若者が少なく老人が多い、70歳や80歳でも一線で働かねばならない活力が衰弱した老いた時代である。
 その違いは子供の出生率・成長率である。
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 江戸時代は、多産多死の時代で、人口動態の新陳代謝が目まぐるしいほどに激しい時代であった。
 生産と消費の若者が多い時代であった。
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 15〜16歳で嫁に行った女性(少女)は、一生の間に7人でも8人でも産めるだけの子供を産んだが、無事に成人できたのは1人か2人であった。
 場合によっては、親同士の婚姻の取り決めで、7〜8歳の娘を相手方に預ける事もあった。
 江戸時代は、多産時代であっても乳幼児死亡率が高かった為に、人口爆発ではなく人口微増であった。
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 日本の歴史を支配しているのは、キリスト教史観、マルクス主義共産主義)史観、日本人残虐非道の極悪人史観=自虐史観である。
 キリスト教史観は、庶民を生まれながらに原罪・宿罪を持った罪人で正しき道(福音)を知らない子羊・迷い人と呼び、地上に天地創造の唯一絶対神の王国・天国を築く事を「偉大な使命」とし、中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人が行った日本人奴隷売買を歴史の闇に葬っている。
 マルクス主義史観は、庶民を人民と呼び、搾取され虐げられ差別されるだけの貧困階級で、無学文盲で智恵も教養も常識もないない哀れな愚民と定義している。
 日本を真に再生するには、日本を貶める醜悪で嫌悪すべき日本否定の外圧史観を捨てなければならない。
 日本人残虐非道の極悪人史観とは、周辺諸国に配慮・忖度・譲歩・遠慮した近隣諸国条項に基ずく日本人重罪人史観である。
 だが、右翼・国粋的な日本国は特別な存在で素晴らしい日本人は賢く優秀であると言ったウソの、戦前の悪しきおぞましい神国思想に基ずく皇国史観を復活させるべきではない。
 反天皇反日的日本人は、キリスト教史観・マルクス主義史観・日本人残虐非道の極悪人史観の教育を受けた高学歴出身のグローバリストな知的エリート層に多く存在する。
 キリスト教史観・マルクス主義史観・日本人残虐非道の極悪人史観の最終目的は、日本国籍取得者日本人を新たな日本国民(市民)日本人として伝統・歴史を持った古き日本民族日本人を完全に抹殺する事である。



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