🏞64)─1─大奥が幕府を支配していた。江島生島事件。猿楽師が大名となる。河合曾良~No.267No.268No.269  @ 

徳川「大奥」事典

徳川「大奥」事典

  • 発売日: 2015/01/28
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   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 次期将軍を決める決定権を持っていた大奥の女達。
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 月光院(貞享2年{1685年}- 宝暦2年9月19日{1752年10月25日})は、江戸幕府6代将軍徳川家宣の側室で、7代将軍徳川家継の生母。本名は勝田輝子(かつたてるこ)で、家宣が死去してから月光院と呼ばれる。側室としての名は喜世(きよ)が知られる。また局としての名に左京の局(さきょうのつぼね)がある。
 生涯
 父は元加賀藩士で浅草唯念寺の住職勝田玄哲、母は和田治左衛門の娘。
 初め京極氏、次に戸沢氏に出仕し、後に4代将軍徳川家綱の乳母の矢島局の養子であった矢島治太夫の養女に迎えられた。そして宝永元年(1704年)には徳川綱豊(後に家宣)の桜田御殿に出仕するようになった。
 やがて喜世は綱豊から寵愛を受ける。その年の13月には5代将軍徳川綱吉の養嗣に綱豊が迎えられ、江戸城の西の丸に入ることになり、正室近衛熙子や喜世らの側室も西の丸に同行した。
 宝永6年(1709年)には綱豊が家宣となり6代将軍に就任する。同年7月、喜世は男児(家宣の四男)を出産、鍋松と名付けられた。後の家継である。喜世も左京の局と呼ばれるようになった。この時、家宣には大五郎(家宣の三男)という側室の須免が産んだ子がいたが、宝永7年(1710年)に大五郎が3歳で急逝した。その2年後の正徳2年(1712年)10月に家宣が死去し、喜世は落飾して「月光院」となった。翌正徳3年(1713年)、家継に将軍宣下。月光院は従三位の位を賜った。
 男子禁制の大奥も、規律が乱れており、月光院と一緒にいるときの間部詮房のくつろいだ様子から、家継が「詮房はまるで将軍のようだ」と乳母に言ったという逸話があり、また、月光院と詮房は桜田御殿時代からの深い仲であったようだとか、家継の幼名鍋松から、家宣の生前に密通し家継は間部(間鍋)詮房との間に生まれたなどとも言われるが、いずれも俗説で信憑性は低い。
 正徳4年(1714年)、月光院の右腕とも言える大奥御年寄絵島が家宣墓参り代参の帰りに歌舞伎役者生島新五郎を宴会に招いて大奥門限に遅れた江島生島事件が発生した。
享保元年(1716年)、家継は風邪をこじらせて死去した。月光院が風邪を引いていた家継を無理に能楽鑑賞をさせたためとも言われる。その後の8代将軍には、家宣の遺言ということもあり、紀州徳川家から徳川吉宗が迎えられた。吉宗が延享2年(1745年)に引退の動きを見せると、9代将軍に田安宗武を推すなど、晩年にも影響力を行使しようとしたともいわれる。
 宝暦元年(1751年)に吉宗の死を見届けた翌年、宝暦2年(1752年)に68歳で没する。法名は月光院理誉清玉智天大禅定尼。
 埋葬された増上寺徳川将軍家の墓地が改葬された際に、遺骨の調査を担当した鈴木尚が中心となって編纂した『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』によれば、血液型はA型で、四肢骨から推定した身長は144.4センチメートルである。この鑑定によって、当時としては目元がかなりぱっちりとしていたこともわかっている。
 月光院は和歌にも優れており、歌集『車玉集』を著している。
 生家の勝田家は町医者から幕臣(旗本)に取り立てられ、3千石もの大身で旗本寄合席となった。
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 間部詮房は、江戸時代中期の大名。相模厚木藩主、上野高崎藩主、越後村上藩間部氏初代藩主。側用人老中格徳川家宣・家継の二代にわたり、将軍の側近として幕政を主導した。
 生涯
 寛文6年5月16日(1666年6月18日)、甲府藩主・徳川綱重の家臣・西田清貞の子として生まれる。母は阿部忠秋の家臣小河次郎右衛門の娘。はじめは猿楽師・喜多七太夫の弟子であったが、貞享元年(1684年)に綱豊の小姓に抜擢される。詮房は「間鍋」氏を称していたが、同じ年に綱豊の命によって「間部」と改めた。その後、綱豊の寵愛を受けて昇進を重ね、元禄12年(1699年)に甲府藩用人になり、俸禄も加増されて元禄16年(1703年)に1,500俵となった。
 宝永元年(1704年)、家宣の江戸城西丸入りに伴い、甲府徳川家家臣団は幕臣編入され、詮房は従五位下・越前守に叙任し、西丸奥番頭(書院番頭格)になった。宝永2年(1705年)正月、西丸側衆になり1,500石加増され、蔵米を改めて3,000石知行となる。宝永3年(1706年)正月には若年寄格となり、相模国内で1万石の大名となった。同年12月には従四位下に叙され、老中次席に昇格する。領地はその後も累次加増され、宝永7年(1710年)に高崎5万石の領主となった。 日本の歴史上において、猿楽師であった者が大名になった例は他にない。また、家継時代の詮房を実質的な国政の最高責任者(執政、首相)と位置付けた場合、日本史上で芸能出身者がこの地位にのぼった唯一の例である。
 家宣が将軍に就任してからは新井白石と共に正徳の治を断行した。詮房は家宣の側用人として大きな権限を握り、正徳期の幕政を主導した。しかし、詮房・白石の政治は、その政治的権威が将軍家宣にのみ依拠するという不安定な基盤に拠っており、特に家宣死後、幼少の徳川家継が将軍職を継ぐにあたり、門閥層や反甲府派の幕閣の抵抗がいよいよ強まり、政治改革がなかなか進まなかったのが実情である。 そのため、享保元年(1716年)に家継が幼少のまま病死し、譜代大名や大奥などの推挙で徳川吉宗が8代将軍に就任すると、両人は一切の政治的基盤を喪失し失脚した。詮房は側用人を解任され、領地を関東枢要の地・高崎から遠方の越後国村上に転封された。
 享保5年7月16日(1720年8月19日)、暑気あたりで村上の地にて死去した。享年55(満54歳没)。家督は、実弟で養嗣子の詮言が継いだ。
 間部家は、上野国高崎藩5万石から越後国村上藩5万石を経て、越前国鯖江藩5万石で明治維新を迎え、華族令によって子爵を授けられた。
 人物・逸話
 真面目で信義に篤い人物だったとされ、他の幕臣は交代で勤務にあたったが、詮房は家宣に昼夜片時も離れず勤務したため、家宣も詮房のことは特に信頼していたという。
 白石は「身の暇がなく」「きわめて生質の美なるところありて、おおかた古の君子の人にも恥じまじき」と詮房を評した。また、白石は家宣の死後に政治に対して消極的になることも多かったが、そのような白石を励まして能力を引き出すことに尽力したという。
 家宣死後、大奥へ頻繁に出入りし月光院と密会を重ねていたとか、大奥で月光院と一緒にいるときの詮房のくつろいだ様子から、家継が「詮房はまるで将軍のようだ」と乳母に言ったなどという逸話がある。さらに月光院と詮房は桜田御殿時代から深い仲であったとか、また詮房の旧姓が間鍋であることと家継の幼名鍋松から、家継は詮房の子でないかという説がある。だが、これらはいずれも詮房を失脚させるための俗説に過ぎず、信憑性は低い。
 官歴 ※日付は旧暦
 貞享元年(1684年) - 甲府藩(藩主徳川綱豊)小姓切米150俵10人扶持
 貞享4年(1687年) - 同藩両番頭格
 元禄元年(1688年) - 同藩奏者役格700俵
 元禄2年(1689年) - 同藩用人並
 元禄12年(1699年) - 同藩用人1,200俵
 宝永元年(1704年)12月9日 - 従五位下・越前守、幕府書院番頭格西丸(将軍後継者徳川家宣)奥番頭
 宝永2年(1705年)1月7日 - 西丸側衆3,000石
 宝永3年(1706年)
 1月9日 - 序列が若年寄の次座。相模国内1万石領主。
 12月15日 - 序列が老中の次座。従四位下
 宝永6年(1709年)
 4月15日 - 側用人。侍従兼任。
 4月16日 - 老中格
 宝永7年(1710年)5月23日 - 上野国高崎5万石に転封。
 享保元年(1716年)5月16日 - 側用人御役御免、雁間詰となる。
 享保2年(1717年) - 越後国村上5万石に転封。
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 河合曾良(慶安2年(1649年)- 宝永7年5月22日(1710年6月18日)頃)は、江戸時代中期の俳諧師。没年月日については、巡見使随員の日誌に無いため、不正確なものとなっている。
 松尾芭蕉の『奥の細道』における奥州・北陸の旅に同行した弟子。蕉門十哲の一人とされる。
 経歴
 信濃国高島城下の下桑原村(現長野県諏訪市)の高野七兵衛の長男として生まれる。幼名は与左衛門。その後、両親が亡くなったため伯母の養子となり、岩波庄右衛門正字と名乗る。12歳の時、養父母が亡くなったため伊勢国長島の住職・深泉良成の元に引き取られる。
 寛文8年(1668年)頃より長島藩主松平康尚に仕え、河合惣五郎を名乗る。天和元年(1681年)頃に致仕。江戸の吉川惟足吉川神道を学ぶ。元禄2年(1689年)、松尾芭蕉の『奥の細道』の旅に同行し、「曾良旅日記」(天理大学附属天理図書館所蔵、重要文化財)を残した。
 宝永6年(1709年)に幕府の巡見使随員となり九州を廻るが、翌年、壱岐国可須村風本(現長崎県壱岐市勝本浦)で巡見の途上に病没した。享年62。戒名は賢翁宗臣居士。墓所壱岐島の能満寺。元文5年(1740年)、没後30年を経て故郷・諏訪の正願寺にも墓標が建てられた。
 平成6年(1994年)5月24日に旧勝本町諏訪市河合曾良の終焉の地と生誕の地としての縁で友好都市提携を結び、旧勝本町が旧壱岐郡3町と合併(平成の大合併)後も壱岐市に受け継がれた。
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