🏞67)68)─1─シドッチ神父。朝鮮通信使問題。世界宗教における心臓崇拝。~No.279No.280No.281No.282No.283 ⑲ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 国際社会において、江戸時代のキリシタン問題に関して、弾圧した日本は100%の悪、理由がどうあれ、弁解一切許さない、問答無用の極悪非道の重犯罪者、非人道主義者とされている。
 日本人によって処刑された宣教師や日本人キリシタンは殉教者として祝福され天国に昇天し、処刑した日本人の魂は呪われ地獄に堕とされ永遠の劫火で焼かれ続ける。
 つまり、異教徒として死んだ日本人、それが親兄弟や祖父母でも血の繋がった祖先であっても救く、切り捨てられている。
 ご先祖様は大事にする、命の再生の生まれ変わり・黄泉がえりという、縄文時代以来の祖先神・氏神の人神崇拝は完全否定されている。
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 キリスト教的人種差別と奴隷制度。
 西洋キリスト教諸国による奴隷貿易
 西洋キリスト教諸国は、三角貿易で大金を稼いでいた。
 ヨーロッパから西アフリカに旧式の武器を運び、西アフリカからブラジルや西インド諸国に黒人奴隷を労働力として運び。西インド諸島やブラジルからヨーロッパに洪茶用の砂糖を運んだ。
 奴隷貿易で、1,000万人から2,000万人の黒人を奴隷として新大陸に運び、途中でさらに多くの黒人を死亡させて海に捨てた。
 非白人の黒人は、絶対神を信じない野蛮な動物である。
 それは日本人でも同様であった。
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 中欧には、狩猟民族ゲルマン人の名残として「心臓信仰」が存在していた。
 狩りをして殺した獲物をその場で解体すると心臓がまだ動いている事があった為に、狩猟民は心臓を命の源として神聖化した。
 ハプスブルク家では、当主が亡くなり埋葬するさい、内臓を取り出して、心臓を聖なるモノとして銀の容器に他の臓器を銅の容器に入れて別々の場所に分けて埋葬した。
 中欧などにあるキリスト教会では、定期的に墓地から人骨を掘り起こして、王侯貴族などの領主は特別に設えた納骨堂に安置し、裕福な一般人は共同の納骨堂に集め、ローマ教皇から聖人として祝福された聖職者は教会内に飾り信仰の対象とした。
 墓地は城郭都市の外にあったが、主要なキリスト教会は城壁の中にあった。
 農村には、小さな教会や修道院が建てられたが、教会に於ける序列は低かった。
 城郭都市とは、生きている市民と死んだ祖先が共に運命共同体を形成する場所であった。
 中部ヨーロッパなど石灰質の土壌の地域では、骨が溶けない為に、定期的に墓地の骨を掘り起こして処分する必要があった。
 日本は神道と仏教から火葬と土葬が併用されたが、欧米ではキリスト教から土葬が主流で火葬は普及しなかった。
 人は絶対神が自分に似せて創った以上、絶対神の創造物である人体を人間が火葬にしたり棄損する事は絶対神への冒?とされた。
 日本の死生観・宗教観では、生者と死者を明確に区別し、両者を完全に分離して、死を忌み嫌い、死体を穢れとして弔いを上げて村はずれの辺鄙な場所に埋めるか燃やした。
 キリスト教は、神の国という死後の世界と永遠の命を用意して、死に行く者の死への恐怖を取り除いていた。
 神道は、無始無終として創世も終末も考えず、瞬間瞬間の「時」という「今」を取り出して無限に過去と未来をつないだ。
 そして、人を突き放すかのように死後の世界も用意しなかった。
 キリスト教が砂漠に吹く風であるなら、神道は山野の中を流れる水である。
 キリスト教が形に拘る宗教なら、神道は形に拘らない宗教である。
 西欧が知的な「有の思想」なら、日本は情的な「無の思想」である。
 神道は、モノの本質を「無い」ものとするがゆえに、何時かは滅びて消え去る定めに「もののあわれ」を感じた。
 金銭や物質や欲得から離れて「永遠の無」を感じ、多忙で煩雑から離れて一瞬一瞬の「今」という「時」を観じる事よしといた。
 その無、ないを見定める心が、神道清明心である。
 そして、生きている「今」も死んでからの「後」でも、救いの無い覚悟を求められた。
 昨日は既に無く、明日は無いかも知れない。
 あるのは今この「時」の今だけである以上、今この時を精一杯、悔いなく、命のある限り楽しく「唯の今」を生き生きと活ききるだけである。
 日常の日々の中で、我という存在を忘れて「今」を見詰め、我をという思い込みを離れて「時」に身を任す。
 自然の中に自分を消し去り、自然の中に我を観じる。
 神道の無常観は、儒教の孔孟思想ではなく、道教老荘思想の影響を強く受けている。
 西田幾太郎「過去と感ずるのも現在の感情である」
 「時に於いては、形なきものが形あるものを限定するのである」
 「特殊性を失うという事は文化というものがなくなるという事である」
 日本人が死の恐怖に囚われた時、その迷い、絶望感を救ったのが日本的葬式仏教であった。
 日本の外から、世の終わりを示す末法思想が輸入された。
 日本仏教は、心弱く挫けそうな脆い日本人に、生きる意味、死ぬ意味、そして生前と死後の世界を授けた。
 日本仏教は、中国仏教や韓国・朝鮮仏教とは本質から異なり、原点のインド仏教を志向していた。
 日本の神道も仏教も、その根底にあるのか人力では防ぎきれない自然災害への絶望感があった。
 一年中、必ず、多発する自然災害。
 そして、甚大なる被害による夥しい犠牲者。
 大陸の城郭都市は、自然を組み伏せ、支配し、管理し、改造した。
 島のムラは、大自然に凶暴さに抗う事ができず、無力感に苛まれて諦めて従うしかなかった。
 日本の死生観や宗教観が、世界の常識からズレているのはその為である。
 そして、日本の死生観や宗教観を語るのは日本の自然風土で生まれた日本語のみであって、大陸の中国語や韓国語・朝鮮語及び西洋語では不可能である。
 日本文化の真髄を表現する重要な語彙の多くは、翻訳不能である。
 だが。政府も官庁も学界も財界も、国際的な経済競争に勝って豊かになる為には、民族言語である日本語を捨てて国際言語の英語を見ぬ付けるべきだと主張している。
 現代日本は、グローバル化を正義として、国内に於ける「脱日本化」を加速化させている。
 今や、神道的「形なきものに形を見出す」という伝統的特殊性は、数値至上主義の西洋礼賛派日本人が推し進めるグローバル化の波で消え失せようとしている。
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 狩猟遊牧民族は、家畜や獲物を解体して食べる。
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 動物を食料とする狩猟牧畜文明に於いて、生き物を殺して命を奪い、死体から流れ出た血で手を染める事は忌み嫌われ事なく、寧ろ神聖な儀式とされた。
 何故なら、動物は絶対神が人間の食料にする為に頂いた食糧であるからである。
 それ故に、絶対神への感謝として動物を殺して捧げた。
 肉体とは、人が背負っている原罪ゆえに魂を閉じ込める牢獄であり、絶対神に対して原罪を償う為の道具とされた。
 死とは、魂を肉体という牢獄から解放する事であり、原罪を償い永遠の命を得て生まれ変わる事である、と前向きに考えられていた。
 キリスト教会は、異端審問や魔女狩りの宗教裁判で猟奇的な拷問で肉体を傷付け、告白させる為に血を流す行為を「神の御名」において容認していた。
 聖人や福者の遺品はおろか肉体や骨の一部は聖遺物に指定され、聖遺物巡礼の対象として遠方の地から多くの信者を集めていた。
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 ジョン・ロック「あらゆる事について読書した人達は、同時にあらゆる事を理解していると考えられていなすが、必ずしもそうではありません。読書は心に知識の素材を提供するだけであり、思考こそが、私達が読んだものを自分のものにします。……全ての議論をその源泉にまで遡り、それがどのような基礎にどれほどしっかり基づいているかを看て取るのは、心にとって本来ゆっくりとしかできないつらい仕事です。しかし、そうであるからこそ、ある人が読書から大きな利益を得るのに、他の人は何の利益も得られないという事が起きるのです。厳しい規則によって、最初は困難であるこの課題に心を縛り付けなくてはなりませんが、やがて慣れると練習によって容易にこなせるようになります」(『知性の正しい導き方』)
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 宣教師は、徳川幕府が定め世界に公布していた、入国禁止・布教禁止の国法を破った犯罪者である。
 徳川幕府は、国法を破った犯罪者は重罪人として処刑にすると宣告していた。
 つまり、宣教師処刑は合法・合憲で犯罪行為ではない。
 宣教師は、絶対神の福音の為ならば人が作った如何なる法律や憲法を犯し治安を悪化させ秩序を崩壊させても構わないとして公然とそして平然と破っていた。
 つまり、絶対真理と隣人愛の信仰を広めて「迷える子羊・人」を救う、善意の為の当然の権利であると固く信じていた。
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 ソクラテスの名言
 「悪法もまた法なり」
 「法は、善人のために作られるものではない」
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 1708年 将軍の相談役であった新井白石は、シドッチ神父を取り調べたのち、殉教させればいまだに潜む隠れキリシタンに勇気を与えるのみであるとして、生きたまま本国に送り返す為にオランダ人商館に引き渡した。殉教できず送り返される事は、信仰に命を捧げた宣教師・修道士にとって最大の屈辱であった。彼等は、神の栄光の為に、異教徒に処刑される事のみを願っていたし、日本人キリシタンにそう命じていた。
 シドッチ「私は、キリシタン宗門の法を広める為に日本に渡海仕るよう、ローマのキリシタン宗門総司より申し渡されて参った者でござる」
 新井白石「彼国人来たりてその法をひろむる事は我国を奪う謀也と聞えてその法もと正しからずといえども、我が国を謀るというは実なるべからず。しかれども島原の変出来したれば申し開く事難かるべし」
 西川妙見は、舶来書物から世界の情報を得る事に飽き足らず、長崎に赴きオランダ人から直に聞いて『増補華夷通商考』という書物を書き上げた。
 さらに、1720年に『日本水土考』はを書いた。
 日本人は、西に関心があっても東に興味は無く、立ち寄る島のない世界一広々として太平洋の彼方にアメリカという土地があるり、地理風土は災厄な国であるという知識はあったがそれ以上は分からなかった。
 地球が丸いなら西の果てあるのが、アメリカであると考えた。
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 1708年〜11年 西プロシアで飢饉が発生して、人口の41%の25万人が餓死した。
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 1710年頃 日本の捕鯨の伝統は、江戸中期頃から本格的におこなわれるようになった。
 南紀熊野浦の太地に伝わる『鯨魚種品図目』。
 同じ頃。西洋でも、マッコウ鯨漁が本格化していた。
 日本の鯨漁は、食料や日常品に活用する為であった。
 西洋のマッコウ鯨漁は、ランプの油にする為で肉は生ゴミとして捨てた。
 日本の宗教価値観から、殺した鯨の霊魂を懇ろに弔い、漁村によっては鯨神として神社に祀った。
 キリスト教価値観の西洋では、全ての動物は殺して食料にするように絶対神から賜った物と考え、絶対神の恵みに感謝した。
 『白鯨』「この地球全体を照らすほとんど全ての灯心、ランプ、ろうそくは、あたかも多くの神殿の御前であるかのように、我々の栄光を照らしている」
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 1715年 新井白石は、朝鮮同様に清国と交易を続けても得るところは少ないとして、清国との交易を旧来の半分以下に制限した。
 日本国内で西洋の知識を伝える蘭学が徐々に広がり、知的好奇心がある若者は西洋の最新学問への憧れから長崎への遊学を希望した。
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 1715年 ローマ教皇クレメンス11世は、北京のイエズス会士に対して、如何なる理由があれ、中国人信者が祖先崇拝する事は背信行為に当たるとして禁止した。
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 ウィキペディア
 新井 白石は、江戸時代中期の旗本・政治家・朱子学者。一介の無役の旗本でありながら6代将軍・徳川家宣の侍講として御側御用人間部詮房とともに幕政を実質的に主導し、正徳の治と呼ばれる一時代をもたらす一翼を担った。家宣の死後も幼君の7代将軍・徳川家継を間部とともに守り立てたが、政権の蚊帳の外におかれた譜代大名と次第に軋轢を生じ、家継が夭折して8代将軍に徳川吉宗が就くと失脚し引退、晩年は著述活動に勤しんだ。
 学問は朱子学歴史学、地理学、言語学、文学と多岐に亘る。また詩人で多くの漢詩が伝わる。白石は号で、諱は君美(きみよし、きんみ)。
 外交政策
 朝鮮通信使の待遇の簡素化
 朝鮮通信使接待は幕府の財政を圧迫するとし、朝鮮通信使の待遇を簡略化させた(この一件は順庵の同門だった対馬藩儒・雨森芳洲と対立を招いた)。また、対朝鮮文書の将軍家の称号を「日本国大君」から「日本国王」とした。
 シドッチ密航事件
 ローマ教皇からの命でキリスト教の布教復活のため日本へ密航して捕らえられ、長崎を経て江戸茗荷谷キリシタン屋敷に拘禁されていたシドッチを取り調べ、本国送還が上策と建言した。また、白石はこの事件により得た知識をもとに『西洋紀聞』『采覧異言』を著している。シドッチの世界知識には興味を示したが、キリスト教に関しては一貫してこき下ろしている。
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 日本史事典.com  
 江戸時代 た行
 【朝鮮通信使とは】簡単にわかりやすく解説!!鶏泥棒とは?目的や背景・その後など
 2018年10月15日 2019年2月2日
 ①朝鮮通信使待遇問題
 江戸時代の最初の頃は通信使は幕府の権威を示すために豪華な待遇で日本から迎えられていましたが、通信使にかかる費用は一回につきなんと100万両。
 これが幕府にとってはものすごい負担になっていました。いわゆる見栄を張っているというやつです。
 しかし、綱吉時代に生類憐みの令などで幕府の財政が悪化すると通信使の待遇を少し抑えようという意見が出始めました。
 これを推し進めたのが正徳の治を行なった新井白石です。
 新井白石朝鮮通信使の待遇を少しずつ簡略化して、さらに朝鮮の立場もものすごく偉そうな『朝鮮国大君』から普通の『朝鮮国王』に変えました。
 ②通信使の鶏泥棒
 日本と朝鮮の関係は今でも少し悪い状態ですが、今でも一部の人は朝鮮の人のことを鶏泥棒という人がいます。
 どうしてこうなったのかというと、実は1748年の通信使の様子が描かれた朝鮮聘礼使淀城着来図という絵の中に通信使の人が日本人が持っていた鶏を奪って喧嘩をしている様子が載っていたからです。
 本当にそれがあったのかは定かではありませんが、当時この絵の舞台となっている淀の人たちは通信使が来るともてなしのためにいろんな負担をしなければならなかったので、それが原因で朝鮮のイメージが悪くなったという説があります。
 ③天明の待遇改定
 いろんなトラブルがありましたが朝鮮通信使自体は続けられていました。
 しかし、徳川家斉の時代になると朝鮮通信使に陰りが見え始めました。
 この頃になると日本はロシアなどの欧米からの来航が増えて日本は蝦夷地を直轄化するなどその対応に明け暮れるようになります。
 つまり朝鮮に構ってられなかったのです。
 さらに通信使の中に当時警戒していたロシアのスパイがいるという噂が幕府の中で流れ、朝鮮通信使に対する警戒感を抱きはじめてしまいます。
 そのため朝鮮通信使は送ることはできないとして延期となりました。
 結局、朝鮮通信使が日本に行ける将軍就任から27年後のことでした。
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 ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ(シドッチ、シドティイタリア語: Giovanni Battista Sidotti(Sidoti)、寛文8年(1668年8月22日) - 正徳4年10月21日(1714年11月27日))は、イタリア人のカトリック司祭。江戸時代中期の日本へ潜入して捕らえられ、その死まで江戸で幽閉された。時の幕政の実力者、新井白石はシドッティとの対話をもとに『西洋紀聞』などを著した。

 生涯
 現在のイタリアのシチリア貴族の出身。特定の修道会に所属しない教区司祭で、ローマ教皇庁の法律顧問を務めていた。東アジアに派遣された宣教師らの報告によって日本における宣教師や現地の信徒(切支丹)の殉教を知り、日本への渡航を決意した。教皇クレメンス11世に願い出て宣教師となり、マニラに向けて出帆した。
 高祖敏明(前上智学院理事長)は教会史料の分析や、シドッティが布教省の命によりローマ時代に日本語学習を始めていたこと、典礼論争に関する清皇帝への特使に同行してアジアに来たことから、来日は個人的動機だけでなく、日本に開国を促す非公式な教皇使節であった可能性を指摘している。
 マニラでは4年間宣教師として奉仕し、現地の宣教師仲間やバチカンからもその功績を認められるに至った。この間、江戸幕府の禁教政策により宣教師や信徒共同体への弾圧を聞き知っていたマニラ駐在の宣教師らは日本行きに反対したが、シドッティの決意は変わらなかった。1708年(宝永5年)8月、鎖国下の日本へ出発するシドッティのためだけに建造された船に乗り、日本に向けて出発した。10月、髪を月代に剃り、和服を着て帯刀し侍の姿に変装して屋久島に上陸した。島の百姓に見つかり言葉が通じないことで怪しまれ、ほどなく役人に捕らえられて長崎へと送られた。
 翌1709年(宝永6年)江戸に護送され、時の幕政の実力者で儒学者であった新井白石から直接尋問を受けた。白石はシドッティの人格と学識に感銘を受け、敬意を持って接した。シドッティも白石の学識を理解して信頼し、2人は多くの学問的対話を行った。特にシドッティは白石に対し、従来の日本人が持っていた「宣教師が西洋諸国の日本侵略の尖兵である」という認識(いわゆる「キリスト教奪国論」)が誤りであるということを説明した。白石はその点については理解したが、キリスト教の教義自体については「神が自ずと生まれたというなら、天地もまた自ずと発生することができないのはおかしい」などと反論し、「児戯にひとしい考え」と厳しい評価を下した。
 切支丹、特に伴天連({バテレン}宣教師という意味の単語であるパードレ"Padre"の音訳)は、見つけ次第拷問し転ばせる(キリスト教信仰を捨てさせる)ことという従来の幕府の規定を破り、新井白石は以下のような意味の意見上申を行った。
 上策:本国送還。これは難しく見えるが、一番易しい。
 中策:囚人として幽閉。これは簡単なようで実は難しい。
 下策:処刑。これは簡単なようで実際に簡単。
 白石が幕府に本国送還を上策として具申したのは異例のことであった。結局、用心した幕府は中策を採用し、シドッティを小石川(現・東京都文京区小日向1-24-8)にあった切支丹屋敷へ幽閉することに決定した。
 島原の乱の5年後、寛永20年(1643年)イタリアの宣教師ペトロ・マルクエズら10人が筑前国に漂着、すぐに捕らえられて江戸送りとなり伝馬町の牢に収容された。切支丹屋敷の起こりは、その後正保3年(1646年)に大目付兼宗門改役であった井上政重下屋敷内に牢や番所を建てて設けられたものである。
 小石川の切支丹屋敷では宣教をしてはならないという条件で、拷問を受けないことはもちろん、囚人としての扱いを受けることもなく、二十両五人扶持という破格の待遇で軟禁されていた。屋敷でシドッティの監視役で世話係であったのは長助・はるという老夫婦であった。彼らは切支丹の親を持ち、親が処刑されたため、子供のころから切支丹屋敷で働いて過ごしていた。ある日、2人は木の十字架をつけていることを役人により発見され、シドッティに感化されてシドッティより洗礼を受けたと告白した。そのためシドッティは2名とともに屋敷内の地下牢に移され、その10ヶ月後の1714年(正徳4年)10月21日に46歳で衰弱死し殉教した。

 死後
 新井白石はシドッティとの対話から得た知識をまとめ、『西洋紀聞』と『采覧異言』を著した。また、シドッティの所持品であったカルロ・ドルチ作の聖母の図像(通称「親指のマリア」)は東京国立博物館が所蔵し、重要文化財に指定されている(重要文化財長崎奉行所キリシタン関係資料」のうち)。
 2014年に切支丹屋敷跡地を発掘したところ3体の人骨が発掘され、国立科学博物館などの調査により、1体はシドッティ、残りの2体の人骨は、1人は日本人、もう1人はDNAが残っていなかったため分析不能という結果が2016年4月に公表された。調査報告書は2016年7月に刊行予定と報じられた。国立科学博物館では発掘された遺骨をもとにシドッティの頭部の復元像を制作し、2016年11月8日に公開された。

 列福調査
 2019年3月7日、イタリア・パレルモ教区でシドッティ神父と2名の信徒の列福調査に関する手続きが開始された。通常、殉教地の教区が列福申請の一番目の順位となるが、神父の出身地であるパレルモ教区がカトリック東京大司教区に権限の委譲を願い、列福調査の総責任を担うこととなった。3月19日には、殉教地のカトリック東京大司教区で調査や証言の聴取が開始される。調査を任命されたのはフランシスコ会マリオ・カンドゥッチ神父であり、列福申請の調査報告書は6月にヴァチカンに提出予定。
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