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江戸時代の平均寿命は、20代後半から40歳だった。
女性の多くは結婚できたが、男性の多くは結婚できなかった。
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人間一人で食えなくても、結婚して二人になれば何とかなる。
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男やもめに蛆がわき、女やもめに花が咲く。
老後の、女性は一人でも生きていけるが、男性は一人では生きてはいけない。
子供は老いた親で、飯を作ってくれる母親を面倒を看るが、頑固で言う事を聞かない父親を嫌い煙たがる。
歳を取ると、男は見窄らしくなるが、女は華やかになる。
一人暮らしの老後において、女性は長生きするが、男性は長生きできない。
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2025年7月1日 MicrosoftStartニュース OTONA SALONE「「女性の結婚適齢期は16~18歳」江戸時代の結婚観。バツイチ女性がむしろモテた、そのオドロキの理由とは
© OTONA SALONE
*TOP画像/蔦重(横浜流星) てい(橋本愛) 大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」25話(6月29日放送)より(C)NHK
「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」ファンのみなさんが本作をより深く理解し、楽しめるように、40代50代働く女性の目線で毎話、作品の背景を深掘り解説していきます。今回は江戸時代における「結婚事情」について見ていきましょう。
女性の結婚適齢期は16~18歳。「生活」と「子孫繁栄」のための結婚
現代社会では結婚は本人の意思に基づいて行われるのが一般的です。好きな相手と結婚するのもよし、独身で自由を謳歌するのもよし。また、結婚願望がある人のほとんどが相手に対し、性格、相性、容姿、経済力、職業、身長、趣味、実家などさまざまな条件を設けています。
一方、江戸時代の人たちは「生活」と「子孫繁栄」のために、目上の者に言われるままに結婚していました。この時代の人たちも恋愛を楽しむことはあったものの、恋愛と結婚は別ものでした。恋心を抱く相手と結婚した人もいますが、恋愛結婚には「浮気者(=遊び人)」というイメージがつきものでした。このため、恋愛結婚をすると、悪口をコソコソ言われることも。
多くの男女は親、もしくは身近な年長者が決めた相手と結婚していましたが、結婚相手の希望条件を仲人に伝えることは基本的にありません。武家では藩内で父親同士が決めたり、上役や親類が家の格が釣り合う相手を紹介したりするのが一般的。庶民については、親、長屋の大家、職人の親方あたりが若い衆の結婚の世話をしていました。仲人はカップルの相性の良し悪しをほとんど考慮せず、家格が釣り合うかどうかを重視し、紹介相手を探していました。
現代においても30年ほど前までは親族や会社の上司が仲人となるのがごく普通のことでした。30歳前後で未婚の人が身近にいると、お節介なおじさんやおばさんが「こりゃあいかん」と結婚の取り持ちを行っていましたよね。このような背景から、1980年の50歳時における未婚率は女性は4.45%(2020年比:-13.36)、男性は2.60%(2020年比:-25.65)(※1)と低めです。
今であれば、会社の上司や遠い親戚に結婚相手を紹介されれば表面上はにこやかに応じても、「うわ、めんどくさい親戚/上司がいるもんだ」「この話はうまくスルーしてしまおう」と内心思う人が多いと思います。皆婚社会と令和の今の社会では結婚観だけでなく、上下関係などさまざまな部分で価値観や考え方が異なっています。
また、近年、若者の結婚離れの主な理由として経済苦が挙げられることは多くあります。一方、江戸時代には経済的に厳しい状況だからこそ結婚を選ぶ考え方が庶民の間に存在しました。住居費や照明費などの生活コストは人数が増えたからといって2倍、3倍になるわけではなく、複数人で生活することで一人当たりの負担が軽減されるため、経済的に有利であるためです。
※1 こども家庭庁「結婚に関する現状と課題について」参照
いつの時代も、モテるタイプの女に既婚歴や子どもの有無は関係ない!?
筆者は「私は一度も結婚したことがないのに、世の中には何度も結婚している人がいるものだ」とふと思うことがあります。また、シングルマザーは他人(=夫、子ども)との暮らしに適応する能力があるため、一人で気ままに生きている独身女性よりも家庭に順応しやすく、成婚しやすいと聞いたこともあります。一人で長く生活していると家族といえども自宅に誰かがいる暮らしに違和感を抱き、それが結婚の障壁になることも…。
江戸時代においてもシングルマザーは男性からの需要がそこそこ高く、子持ちの女性の中には未婚女性よりもモテた女性も珍しくなかったそうです。結婚・出産経験は子どもを産める健康さも家事育児能力も持ち合わせている証ですので、男性にとっての安心材料になったのです。
シングルマザーの再婚率が高かったのは離婚に対する考え方も関係しています。離婚率が10%といわれていた江戸時代(※2)、離婚歴のある女性は珍しくありませんでしたし、離婚に対して偏見的な見方はほとんどありませんでした。
なお、女性が夫と別れる理由は暴力、浮気、姑問題、賭け事などさまざまでした。農民や町人の女性は生業に従事していたため、離婚後も生活に困ることはさほどなかったよう。さらに、慰謝料や養育費のようなものは当時においてもすでに存在しました。
※2 堀江宏樹『女子のためのお江戸案内: 恋とおしゃれと生き方と』参照
本編では、江戸時代の結婚観とシングルマザーの再婚事情についてお伝えしました。
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では、偏見に挑み「日本橋進出」を決めた蔦重と、ていとの“ビジネス婚”に託した思いを深掘りします。
参考資料
歴史の謎を探る会『日本人なら知っておきたい 江戸の武士の朝から晩まで』河出書房新社 2007年
堀江宏樹『女子のためのお江戸案内: 恋とおしゃれと生き方と』廣済堂出版 2014年
こども家庭庁「結婚に関する現状と課題について」
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2020年6月15日 エコノミストOnline「「江戸時代の平均寿命は30歳」はなぜ「江戸時代の人は30代で死ぬ」ではないのか=松本健太郎(データサイエンティスト&マーケター)
葛飾北斎がこの場所から見た風景を描いたとされる「駿州片倉茶園ノ不二」の案内板と富士山=富士市中野の法蔵寺で2018年10月21日、高橋秀郎撮影
なぜ平均寿命は伸び続けているのか?
日本人の平均寿命が上昇し続けています。
サンデー毎日Online:ルポ「貧困老人と孤独死」 かつてのNO1アダルトカメラマンが生活保護ののち「行旅死亡人」として処理された顛末=鈴木隆祐(ジャーナリスト)【サンデー毎日】
昭和22年には50歳代でしたが、約70年が経過して、平成27年には男性80.75歳、女性86.99歳にまで伸びています。
図1
上記の図は、厚生労働省「平成29年簡易生命表の概況」から作成したものです。目盛りが40歳から始まっている点留意してください。
戦後すぐ、一気に平均寿命は伸びて、以降5年で1歳〜2歳ほど伸びています。このペースでいけば、もしかしたら2050年には平均寿命100歳も夢じゃないかもしれません。
ちなみに、この傾向は世界的に見ても同じです。同じ資料元にて、主要国の平均寿命の年次推移が発表されています。
図2
なぜ平均寿命が伸び続けているのでしょうか。
衛生面の改善? 医療の発展? 文明の進化・発展? その全てだとは思うのですが、ここは逆に発想を変えて違う点に着目したいと思います。
時間の経過と共に平均寿命が上がっているのであれば、逆に、もっと昔…例えば江戸時代は今より平均寿命は短かったと想定されますが、果たしてどの程度だったのでしょう。今より若い年齢で亡くなっていたのでしょうか。
明治以前は短命だったのか?
江戸時代以前の平均寿命を知るのに良い本があります。
『寿命図鑑』という可愛い本の中に、人間の有史以来における寿命の推移が掲載されています。本がめちゃ素敵なので、お母さんもぜひお子様にすすめて上げて下さい。
この本のデータによると、という前置きになりますが、以下のような推移を見せています。
図3
なんと昔は10代20代が平均寿命だった、という衝撃的な事実!江戸時代ですら30代でした。
みんな30代には亡くなってしまっていたのですかねぇ…。
昔の人は体が弱かったのでしょうか? それとも、人間は急に長寿へと進化し始めているのでしょうか?
「平均寿命」の認識が違う説
実は、平均寿命の数え方にヒントが隠されています。そもそも論ですが、「平均寿命」の定義について認識を合わせておきましょう。
平均寿命とは「この年に亡くなった人の平均年齢」ではありません。「0歳児の平均余命」という意味です。(えぇっ!?という声が聞こえてきそう)
詳細はwikipediaを見て頂ければ、詳しい計算方法なども記載されています。なんでいつ死ぬか分からないのに平均余命がわかるのとかも、ここでわかるはず。
例として、厚生労働省「平成29年簡易生命表の概況」をあげます。各年代の平均余命は以下のように推移しています。
図4
60歳男性の平均余命は、23.72歳です。
ではおよそ83〜84歳で皆死ぬかと言えばそんなことはなく、85歳の平均余命は6.26歳、90歳の平均余命は4.25歳と続きます。
つまり、平均余命とは「この年まで生きられた人は、平均ここまで生きられる」みたいな捉え方をすればよいのです。その時代の人生の長さを伺い知れますね。
江戸時代の平均寿命と60代平均余命が乖離している理由
だとすると、江戸時代における大人の平均余命は何年なのでしょうか。残念ながら当時の完全な統計データは計測されておらず、これだという数字が存在しません。
そもそもこうした平均余命を正確に計測し始めたのは明治以降なのです。国外ですら、17世紀後半にジョン・グラントに発明された政治算術によって18世紀以降に広まっている最中です。
江戸時代当時において生命表とは「最新のデータサイエンス」のようなものと言えるかもしれません。
そんな中、立命館大学の長澤克重先生が当時のデータを元に書かれた「19世紀初期の庶民の生命表-狐禅寺村の人口・民政資料による-」は、かなりよく調べられています。
60歳の平均余命は、男性14.3歳、女性13.3歳だそうです。(表3「狐禅寺村の生命表データ」参照下さい)
ちなみに一般社団法人北奥多摩薬剤師会でも、「江戸時代の60歳の日本人の平均余命がほぼ14歳」と紹介されています(おそらく「江戸病草紙」からの引用でしょう)。
現在の半分ではあるものの、長生きしている人は現在くらいに長生きするんだなという印象です。
考えてみれば、画狂老人卍こと葛飾北斎はおそらく88歳、島津義弘85歳、毛利元就74歳、徳川家康73歳…良いもん食ってるし衛生環境もいいんでしょうけど…。
今も江戸時代も、長く生きる人は長く生きています。
ではなぜ、江戸時代の平均寿命が32歳〜44歳だと言われていたのでしょうか。理由は単純で、昔は乳幼児が若くして死んでいたからです。
1998年に発表された人口動態統計100年の年次推移からデータをグラフ化してみました。1899年以降の新生児・乳幼児死亡数の推移がわかります。また戦中・戦後の混乱で約3年分データが欠落していることもわかります。
ちなみに、産まれてすぐから28日間を新生児(※母子健康法で定義されている期間)、新生児期を含む1歳未満までは乳児と呼びます。
図5
死亡率(人口千対数)は以下のような推移です。こちらの方が人口増減の影響を受けないので分かりやすいでしょう。
図6
1918年に死亡率が上昇しているのはスペイン風邪によるものと考えられます。数字は200近くを占めています。乳幼児の約20%が亡くなるとか…無念すぎるし、残酷すぎる。
新生児は生後28日以内でありながら、生後1年以内の乳幼児の死亡数・死亡率の約半分を占めます。「赤ちゃんは生まれて直ぐ亡くなってしまう」時代だったとわかります。
こうしてみると、人類は「赤ちゃんは早くに亡くなってしまう」という現実と戦い、1920年以降にようやく勝ち始め、戦後は一貫して勝利したと言えるのです。
医療の勝利です。現場の皆さん、ありがとうございます。お疲れ様です。
ちょっと考えれば、あまりに早く亡くなってしまう人がいれば平均「寿命」を押し下げてしまうと分かりますし、実際の当時の死亡年齢平均とは大きくかけ離れているとも分かるはず…。長澤先生論文でも、1歳の平均余命は5歳より短かったですものね。
大奥なんて、当時は子供がばんばん死んじゃうから、そのための"数を稼ぐための制度"ですもんね…。
というわけで、江戸時代の平均寿命が30代〜40代なのは、新生児・乳児の死亡者数を含んでいるからです。例えば10歳の平均余命となると、長澤先生論文によれば男性52.4歳、女性50.6歳だそうです。
みんな30代で死んじゃう、というのは大いなる誤解でした。
「余命延長」こそ最大のフロンティア
第1回〜第22回完全生命表による男女別平均余命は以下の通りです。
図7
衛生、医療、福祉等の発達により、0歳代だけでなく、各年代の平均余命はこの100年で約2倍に伸びました。2015年現在は80歳が1つの寿命の山のようですね。
65歳の平均余命はこの50年で5年単位で0.6歳〜1歳程度伸びています。このペースで進めば、35年後の2050年には25歳程度にはなっていそうですね。
一方で90歳の平均余命をみると、余命の伸びが非常に鈍化しています。このペースなら35年後でも、せいぜい5歳か6歳程度なのでしょう。
どんどん長生きしている人は増えているけれど(だからこそ年代が若いほど平均余命が伸びている)、人体の寿命自体が大幅に伸びていっている感はなさそうです。
見方を変えると、人間の寿命自体を根本的に伸ばすようなバイオテクノロジーが絶好のチャンスなのではないでしょうか。
不老不死とまでは言わないものの、90歳の平均余命が30歳くらいになるようなバイオテクノロジーが生まれれば歴史が変わりそうです。
僕たちは無意識の間に「人間は長生きになっている」と考えていましたが、それは微妙に間違っていて「すぐに死ななくなった」というのが正解なのでしょう。
つまり、長生きになるための可能性は、実はまだまだ秘めているのではないでしょうか。
松本健太郎(まつもと・けんたろう)
1984年生まれ。データサイエンティスト。
龍谷大学法学部卒業後、データサイエンスの重要性を痛感し、多摩大学大学院で統計学・データサイエンスを〝学び直し〟。デジタルマーケティングや消費者インサイトの分析業務を中心にさまざまなデータ分析を担当するほか、日経ビジネスオンライン、ITmedia、週刊東洋経済など各種媒体にAI・データサイエンス・マーケティングに関する記事を執筆、テレビ番組の企画出演も多数。SNSを通じた情報発信には定評があり、noteで活躍しているオピニオンリーダーの知見をシェアする「日経COMEMO」メンバーとしても活躍中。
2020年7月に新刊『人は悪魔に熱狂する 悪と欲望の行動経済学』(毎日新聞出版)を刊行予定。
著書に『データサイエンス「超」入門』(毎日新聞出版)『誤解だらけの人工知能』『なぜ「つい買ってしまう」のか』(光文社新書) 『グラフをつくる前に読む本』(技術評論社)など多数。
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2019年2月21日 PRESIDENT Online「江戸時代に生涯未婚者が多い"悲しい事情"
「死なずに生き抜くこと」が難しい
江戸時代は今とは違う意味で「生涯未婚」の人が多かった。雇われ商人が独立できたのは早くても30歳頃だが、江戸時代の平均寿命は30歳代。結婚したり子供を作ったりする前に、この世を去る人は少なくなかった。「死なずに生き抜くこと」が何よりも難しかったのだ――。
※本稿は、森田健司『江戸ぐらしの内側 快適で平和に生きる知恵』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
「長男以外の男性」は10歳で奉公に出た
江戸の庶民を代表するのは、「商・工」階級の人々である。賑やかな巨大都市に住んでいた彼らは、一体どのような人生を送ったのだろうか。これを、「呉服屋に勤める商人の男性」を例にして考えてみたい。
江戸時代の呉服屋は、大店を除き、そのほとんどが家族経営だった。店と住居が同じ建物で、家族が従業員も兼ねるという形式である。しかし、それだけでは、労働力の不足する場合が多い。そこで、家族以外の従業員も雇い入れるのだが、彼らの多くは経営者家族と起居を共にする奉公人だった。
奉公人の多くは、同じ商家だけではなく、近隣の地域の農家などの「長男以外の男性」である。長男は家督を継ぎ、商家や農家の主となる。しかし、次男以降は、そうもいかない。そこで、ツテを辿って、商家などに奉公に出るのである。奉公に出ず、そのまま実家に住み続けた場合は、結婚も許されず、居候のような立場で隠れるように暮らすしかなかった。
奉公に出る年齢は、多くの場合、10歳前後である。寺子屋で「読み書き算盤」を学び、それがおおむね身に付いた頃だろう。まだまだ甘えたい盛りの子供にも思えるが、この時期から家を出て、「丁稚(でっち)」と呼ばれる住み込みの従業員となった。
脱落しても実家に居場所はない
丁稚である彼らに、いわゆる給料は出ない。寝食の保障が、給金代わりである。そもそも、丁稚はほとんど労働力として機能せず、研修を受けている段階である。できる仕事といえば、掃除や力仕事などの雑用に限られていた。こう考えれば、お金をもらえる方が不思議だろう。
ただし、盆と正月には、主に現物支給で「ボーナス」が出た。これは「仕着せ(しきせ)」と呼ばれた。現在も「上から一方的に与えられるもの」という意味の、「お仕着せ」という言葉が残っているが、由来はこの仕着せである。
容易に想像できるように、この丁稚の段階で脱落する子供たちも、たくさんいた。基本的に休みもなく、ひたすら見習いの仕事ばかりの日々は、10代前半の子たちには辛かったに違いない。しかし、多くの子たちには、実家に帰っても居場所はない。辞めて帰っても、違う奉公先を探して、また一からやり直しになるだけだった。
丁稚として真面目に勤めた者は、早ければ17~18歳ぐらいで元服を許され、「手代」に昇進する。この手代から、正式な従業員であり、立派な労働力となった。ただし、住み込みで働くという点においては、丁稚と同じである。
明治初期に撮影された呉服屋の様子(画像=『江戸暮らしの内側 快適で平和に生きる知恵』)
上に掲載した古写真は、明治時代初期の呉服屋を写したものである。江戸時代のそれと、ほぼ同じといってよいだろう。中央にいて、客の女性の顔色を窺っている男性が、この店の手代である。まだ随分若いように見える。
一体いつ「結婚」したのか
手代になった後、大体10年以上働き、従業員として優秀であると認められれば、「番頭(ばんとう)」に昇進する。これが、従業員として最高の職位だった。先ほどの写真でいうと、右側で耳に筆を挟み、そろばんを弾いている男性が、この店の番頭である。手代に比べると、顔つきにも随分と貫禄があるように思われる。
番頭になった後、さらに業務に励み、主人の信認を獲得した者は、のれん分けが許されることもあった。商人誰もが憧れた、独立開業である。しかし、ここまで彼の人生を眺めて、ある一つの疑問が出る。彼らは一体いつ頃、結婚をしたのだろうか。
手代に昇進すると、羽織の着用や、酒、煙草などが許された。しかし、先ほど述べた通り、住居は丁稚同様、店舗を兼ねた主人の家だった。ここから推測できるように、手代に結婚は許可されなかった。
ようやく一人前となり、自分の家を持つことが許されるのは、番頭になった後である。このとき、彼らの年齢は30歳ぐらいだろう。昇進の早かった優秀な者でこの年齢なので、余り能力が高くない場合、頑張っても番頭となれるのは30代後半だった。
結婚できたとしても30歳過ぎ
そのため、雇われ商人の多くは、無事に結婚できたとしても、その年齢は30歳を過ぎていたと考えてよい。歴史人口学者の鬼頭宏氏は、江戸時代の初婚年齢に関して、次のように述べている。
江戸時代の男女はかなり早婚だったと言われる。たしかに初婚年齢が女性で27歳に、男性が28歳に近づきつつある現在からみればそのとおりである。しかしそれは女子にはあてはまるけれど、男子の初婚年齢は一般に現代の水準に近かった。中央日本の農村では、18・19世紀における長期的な平均初婚年齢は、男25~28歳、女18~24歳の間にあった。夫婦の年齢開差はふつう5~7歳、男が年上で現在よりもかなり大きかった。しかし江戸時代の初婚年齢は地域や階層などによって、非常に大きな差があったことがわかっている。―『人口から読む日本の歴史』
この極めて整理された文章は、多くの人が江戸時代に対して持っているイメージを覆すに違いない。一般に、江戸時代、しかも農村においては、初婚年齢は相当低いものだったと思い込んでいる向きは多いはずである。ところが、実際のところ、男性は25~28歳ほどだったのである。しかもこれは、平均年齢であることに注意が必要だ。もっと上の年齢に至ってから、初めての結婚をした人も大勢いたということになる。
なお、2015年の厚生労働省統計情報部「人口動態統計」によると、平均初婚年齢は男性が31.1歳、女性が29.4歳となっている。江戸時代の平均初婚年齢は、現在より男性は3~6歳ほど、女性は5~11歳ほど若かったということになる。バラつきの大きい女性はともかく、やはり江戸時代といえども、男性はそれほど早くに結婚していなかったのである。
都市部に流入した人々が「どんどん死んでいた」
先ほどの「雇われ商人」の話に戻ろう。30歳を超えていても、最終的には結婚をして家庭を持てるのであれば、それはそれで結構な人生だという考え方もあるだろう。ところが、これもまた正確な事実の認識に基づいたものとはいえない。少なからぬ「雇われ商人」が、結婚をしたり子供を作ったりする前に、「死んでいた」からである。悲しいことだが、江戸時代に限定すればこれは間違いない。
森田健司『江戸ぐらしの内側 快適で平和に生きる知恵』(中公新書ラクレ)
既に紹介したデータだが、江戸時代の中・後期、濃尾地方の農村における女性の合計特殊出生率は5.81だった。女性たちは今とは比較にならないぐらい、たくさんの子供を生んでいたのである。
それにもかかわらず、江戸時代における日本の総人口は、ほとんど増加していない。19世紀半ばまで、日本の人口は約3000万人で安定していた。なぜ増えなかったのだろうか。これには、大きな理由が二つある。一つは、乳幼児の死亡率が非常に高かったこと。もう一つは、都市部に流入した人々が、「どんどん死んでいた」ことである。だから、子孫を残さずこの世を去る者も、決して少なくなかった。
都市で人々が「どんどん死んでいた」要因の第一は、流行病である。例えば、文久2年(1862)のはしか大流行では、江戸だけで24万もの人が亡くなったと伝えられる。百万都市江戸の、4~5人に1人が死んだということになる。
19世紀の終わり頃から、衛生状態の向上、医療の飛躍的発展によって都市は「地獄」ではなくなっていった。しかし、それ以前の時代においては、職場での出世競争以上に、「死なずに生き抜くこと」が、何より難しかったのである。今とは違った意味で、一生涯未婚の人々が多い時代だったといえるだろう。
「七つまでは神のうち」と言われていた
多くの歴史人口学者の研究によって、江戸時代の平均寿命は、265年間を通して30歳代だったとわかっている。「人生50年」という表現があるが、それにも全く及んでいない。しかし、これは江戸時代において、老年まで生きる人がほとんどいなかったということを意味しない。流行病で突然死んだ人、および物心つく前の乳幼児の段階で死んだ人の多さが、平均値を引き下げてしまっているのである。
江戸時代中期~後期において、一歳未満の乳幼児の死亡率は10パーセント台後半という結果が出ている(前掲書『人口から読む日本の歴史』)。他の調査でも似たような数字となっており、当時の農村においては、おおむね2歳になるまでに2割の子が死亡していた。
七つまでは神のうち――かつての日本には、このような悲しい言葉があった。簡単にいえば「7歳まではいつ死んでもおかしくない」という意味である。小さな子供が背負って面倒をみていた赤子は、いつ神様の元に帰ってしまうかわからない「脆い存在」だった。七五三という習慣は、「神様が子供を連れて行かなかったこと」を感謝するものなのである。最後が「七」というのも、7歳の体力があれば、簡単な病気では死なないからなのだろう。
森田健司(もりた・けんじ)
大阪学院大学経済学部 教授
1974年神戸市生まれ。京都大学経済学部卒業。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(人間・環境学)。専門は社会思想史。とくに江戸時代の庶民文化・思想の研究に注力している。著書に『石門心学と近代』(八千代出版)、『石田梅岩』(かもがわ出版)、『かわら版で読み解く江戸の大事件』、『外国人の見た幕末・明治の日本』(以上、彩図社)、『なぜ名経営者は石田梅岩に学ぶのか?』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『明治維新という幻想』、『現代語訳 墨夷応接録』(作品社)などがある。
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